第89話 この恐怖を忘れてはいない

 武器庫を目指して、黒音くおんは全力で走っていた。

 異能力発現と共に身体能力が向上したのは黒音も同じだが、元々運動が苦手な中学一年生。勇人ゆうとあおいと比べたら、スタミナ切れが速いのも当然だ。


「はぁ……はぁ……」


 長い黒髪をなびかせてひたすらに走る。体育の持久走ならここで音を上げていたほどには、もう息が上がっている。けれど、足は止めない。

 どこからゾンビが飛び出してくるか分からないという恐怖も、疲労と一緒になって黒音の足を止めようとしていた。だが、なけなしの勇気を振り絞って走る。


 食堂のゾンビは蒼が一人で足止めをしている。すぐに武器庫からプラズマガンを持ってきて、一秒でも早く戻るんだ。黒音の思考はそれで一杯だった。


 以前、空いた時間を使って蒼と黒音はスターゲート本部内を歩き回っていた。非常口へのルートや使う事がありそうな部屋の位置は把握しておいた方がいい、という蒼の提案だ。その時に武器庫の位置も記憶している。まさかこんな形で利用する事になるとは思わなかったが、これも蒼の用心深さの賜物である。


「……っ!」


 食堂から武器庫までの道のりの、およそ半ばほど。廊下の曲がり角から飛び出した黒音は、ほぼ反射的にブレーキをかけて後ずさった。壁に背を付けて、曲がり角から顔だけを出す。


 黒音が隠れている壁はT字になっている廊下の下部分。その向かって右側の廊下に三体ほどのゾンビが集まっていたのだ。ちょうどそこは、武器庫への最短ルートだった。


(扉の前に、あつまってる……?)


 この廊下には小さな研究室や資料室が並んでおり、そのうちのひとつの部屋の前にゾンビは集まっていた。

 踏み締める床やもたれ掛かる壁の一部が剥がれるように崩れているのを見るに、食堂に現れた新種の変異種で間違いないだろう。彼らはまるで、扉の向こうにいる誰かに群がっているようにも見えた。


「あ……」


『エンダー』の分子分解能力によって資料室の電子錠が破壊されてしまったようだ。ゾンビの侵入を防いでいた扉は無慈悲にも開き、中から男性一人分の悲鳴が聞こえて来た。


 悲鳴を聞いた黒音の足が無意識に前へ出ようとする。が、すぐに理性が押し留めた。

 出入口が一つしかない狭い資料室の中だ。悲鳴の主は三体のゾンビに襲われて死ぬだろう。だからといって、自分が行けば助かるのか? いいや、戦える能力も度胸も無い丸腰の少女が助けに入っても、ゾンビが一体増えるという結果に終わるだけだ。


(けど、ここで見捨てるなんて……)


 彼女が逡巡する間にも状況は変わった。入口から一斉になだれ込んだゾンビの一体が、内側から突き飛ばされた。隠れていた男性が飛び出したのだ。

 ゾンビを突き飛ばした腕には白衣をグルグル巻きにしており、分子分解が体へ到達するのを防いでいた。どうやら黒音がどうこうする必要も無く、男性は無事だったようだ。


「君、早くここから離れ――」


 資料室から抜け出した男性は、曲がり角に身を隠していた黒音に気が付いたようだ。必死な表情で警告するも、男性はその場で転び、声は途中で途切れた。

 その光景を見て、黒音は声も出せずに息を呑む。


 突き飛ばされて床を這っていたゾンビが、男性の足を掴んでいた。彼を床に倒すと、足を引っ張って獲物を引き寄せ始めた。他二体も倒れた男性へ覆いかぶさるように襲い掛かる。


「ひっ」

「た、助けてくれ!!」


 男性の叫びが、黒音の喉から零れる小さな悲鳴に重なる。三体の『エンダー』に掴まれて服が破れだした男性は、目の前で立ちすくむ黒音に助けを求めていた。


「君は外から来た異能者の子供だろう!? コイツらを殺してくれ! 助けてくれええぇ!!」


 うつ伏せに倒れる男性は、黒音にゾンビを倒せる能力があると思っているようだ。

 上にのしかかるゾンビの重みで身動きが取れなくなっても、まだ一縷の望みを持った目で黒音に訴えかけている。


「えっ、あ……わた、私は……」


 まともな言葉が出なかった。自分にそんな能力は無いと首を振る事すら出来なかった。

 それはゾンビが怖いだけじゃない。自分には何もできないと知った相手に失望される事が怖かった。


「ぐああああぁぁ!!」


 男性はゾンビに噛まれた。彼の恐怖に満ちた絶叫が廊下に響く。

 しかし、両手で首を掴まれ喉が壊れたのか、すぐに絶叫が消える。最後まで抵抗するようにジタバタと手足で床を叩く音だけが、黒音の耳に届いた。


「ご……ごめん、なさい……ごめんなさい……」


 誰にも聞こえない声で謝る黒音そっちのけで、ゾンビたちは男性に食らいつく。

 男性から出る悲痛な音に耐えられず、黒音は耳を塞いでその場で俯いてしまった。

 泣いてる場合では無いのに、涙が零れる。膝を曲げてうずくまる事すら出来ずに、ただ立ち止まっていた。


 先ほどは見捨てるわけにはいけないと悩んでいたはずなのに、実際に命の危機を目の当たりにしたら、一歩も踏み出す事が出来なかった。異能力なんて持っていても、目の前で助けを求める人ひとり救えないのだ。こんな自分が、蒼を助けに行けるはずがない。


「やっぱり、私には……」


 蒼に励まされ、食堂を出た時に絞り出した勇気は既に無くなっていた。

 見慣れたと思っていたゾンビも、隣に誰もいないというだけでこんなにも怖い。男性を助けられなかったという無力感すら飲み込むほどに、黒音の中で恐怖が大きく育っていた。


 床を叩く音が消えた。あの男性は事切れてしまったようだ。そっと顔を上げると、同じように男性から目を離したゾンビと目が合った。

 涙を拭く暇もないまま数歩後ずさる。やがてゾンビたちは立ち上がり、次の獲物へ腐った顔を向けた。


「あっ」


 体が言う事を聞かない。震える事しか出来なくなったかのように、足がすくんで動けない。

 蒼や唯奈ゆいなと一緒に作戦に参加していた時は上手くやっていたはずなのに、一人になると何もできない。誰かを助けるどころか、ゾンビに立ち向かう事すら出来ない。


「いやだ、怖い、逃げなきゃ……」


 心臓が跳ねる。

 彼女の怯える心が反応したのか、彼女は無意識に異能力を使っていた。


 現在から分岐した数秒先の未来を複数同時に見る異能力。普段ならば多くても五通りの未来が見えるのだが、今回は違った。

 黒音の恐怖心が能力をも混乱させたのか、あるいは助かるための防衛本能がより多くの『可能性』を見ようと限界まで覚醒したのか。見える未来が一気に増加した。


 一体のゾンビを取っても、最初の一歩は右足か左足か、黒音へ真っ直ぐ向かって来るかよろめきながら向かって来るか、途中で転ぶか転ばないか、どの角度から襲って来るか。たった数秒の未来でも、数多の可能性が存在する。それが三体分だ。


 今や彼女の視界には、ゆうに三十を超える未来の可能性が見えていた。それはもう、何も見えないのと変わらない。何も見えない方がマシかもしれない。


 後ずさるほど、ゾンビと距離が離れる程に可能性は広がり、未来は細かく分岐していく。無数の死が目の前に迫るような感覚だった。

 何も考えられず、思考も心も真っ黒な恐怖に染まる。今から回り道をして武器庫に向かうという発想すら浮かんでこない。


「私には、無理ですよ……」


 ゾンビのうめき声にかき消されるほどに小さな声で独り言ちる。

 震える口からは、そんな弱音しか出てこなかった。涙が零れ続ける目に蓋をするように、そっと瞼を閉じる。もういっそ、このまま消えてしまいたいと願った、その時だった。


 心の奥に、小さな光が見えた。

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