第73話 繋がる想い
治療室前のベンチに座って、唯奈と
「お兄ちゃん、大丈夫だよね……」
「きっと大丈夫だよ。勇人君が簡単にやられるはず無いもん」
か細い声で呟く唯奈の手を握り、双笑は優しく微笑みかける。いつも兄に対して当たりの強い唯奈だが、別に彼の事が嫌いな訳ではない。どこのきょうだいにもある、あるいは親子間にも発生するような、気恥ずかしさから来るありふれた反抗期のようなもの。
だから、彼が大怪我を負ったとなれば唯奈だって心配する。少なくとも、既に日付が変わった頃だというのに、全く眠る気配が無い程度には。
そんな唯奈に寄り添うように、双笑はずっと傍にいた。彼女は勇人の容体と同じくらいか、あるいはそれ以上に、唯奈の心を心配していた。
医療班の大人たちの話では、勇人の怪我は相当なものだという。左肘の下辺りが強く噛み砕かれており、肉も骨もボロボロで、くっついているのが不思議なほど。出血量も決して無事とは言えないものだった。
さらに左足の膝蓋骨が粉々に砕け、その下の骨や筋線維もダメージを負っている。他にも全身に細かな傷がたくさんあり、何より限界まで異能力を使ったからか、ひどく衰弱しているらしい。
一言で表すならば、満身創痍。
どうにか一命を取り留めたとしても、今までのように自分の足で立って歩けるのかどうか分からない。そもそもゾンビに噛まれたのだから、このままいけば死は免れない。あまり考えたくはないが、絶望的な状況だ。
「……お兄ちゃんはいつも、重荷を背負ってくれてました。私の分まで全部」
ぽつりと唯奈は呟く。優しく添えられる双笑の手を、強く握り返した。
「私は一度も、お兄ちゃんに優しくした覚えがありません。突っぱねた態度を取って、一人で部屋に籠って、現実逃避のようにゲームばかりやって……なんて事のない日常が続いているのは、全部お兄ちゃんのおかげなのに。そんな事にも気付かずに、私は……」
彼女の手を握って、双笑は静かに話を聞いていた。小さく相づちを打ちながら、唯奈が満足するまで溢れ出る感情を受け止めた。
「一度も、恩返しをしていない。面と向かって笑い合って、ありがとうって言ってない……! 恥ずかしがって、意地を張って、素直になれなくて。いつか言えばいいと思って先延ばしにして、世界がこんな事になっても『いつか』が来ると思ってた。お父さんとお母さんが死んだっていきなり知らされたあの日に、身近にいる人もいつかは容赦なく消えていくって事は、思い知ったはずなのに! お兄ちゃんはいなくならないって勝手に決めつけて、そんな甘い考えでずっと過ごして……だから私は、何も返せていない。何も……私は……」
小さく背を丸めて呟き、声を荒げたかと思えば、また途切れる。突然訪れた兄の命の危険に、締め付けられた唯奈の心は不安定になっていた。
勇人はゾンビに噛まれた。とてつもない外傷よりも、それが一番重要な事だ。
ゾンビに噛まれた者はゾンビになる。この世界の常識であり、現状においてそれを逃れる術はない。
遅かれ早かれ、勇人の命は尽きる。
「……まだ、お兄ちゃんと離れたくない……」
か細い声と共に、唯奈の頬に涙が伝った。スターゲート本部の不気味なまでに白く清潔な廊下に、少女一人分の嗚咽が響いた。
思っていた事を全て吐き出したせいで、隣に双笑がいるのに、涙が止まらない。あるいは、双笑が傍にいてくれているからこそ、止まらないのかもしれない。
双笑は何も言わずに、頬を濡らす唯奈をそっと抱き寄せた。背中をさすって、唯奈の気が済むまで胸を貸した。彼女の寂しさを少しでも埋めるように。彼女の悲しみを包み込むように。
双笑は優しく微笑んだまま、自分の分まで不安を吐き出してくれた少女を抱きしめた。
そうして、どれほどの時間が経っただろうか。それほど経ってもいないのかもしれない。嗚咽が言葉になるくらいには落ち着いた唯奈は、それでも双笑の手をぎゅっと握りしめながら呟いた。
「
「……うん、言ってたね」
今まで判明していたゾンビウイルスの感染経路は、血液感染、経皮感染、ベクター感染の三つ。さらに空気感染能力も持っている事が判明した今、もはや地球上に安全地帯など存在しない。
今まで散々呼吸していた以上、いまさら感染を防ぐ対策をしても遅いだろう。今は一刻も早くワクチンを完成させる事が大事だと判断し、開発部門はいつ死ぬかも分からないこの環境で、文字通り死力を尽くしているのだとか。
「いつ誰がゾンビになるかも分からないって聞かされて、私は怖かった。自分が死ぬかもしれないって事より、他の誰かがゾンビになるかもしれないって事が。お兄ちゃんも噛まれて、それでもまだこの悪夢が終わりじゃないなんて、怖いです」
「唯奈ちゃん……」
「双笑さん、
涙で目元を腫らしたまま、唯奈は強く奥歯を噛みしめた。
「私は、許せないかもしれません。全ての始まり――スターゲートを」
涙の止まった目の奥からは、暗い感情の色が見え隠れしていた。その色に、双笑は見覚えがあった。虹枝がスターゲートへ怒りを向ける時の瞳と同じだ。
「ダメだよ、唯奈ちゃん。人に暴力を向けるのはダメ」
虹枝がいつも言っていた「スターゲートを潰す」「研究員を皆殺しにする」などといった危険な思想の数々がフラッシュバックした双笑は、唯奈を捕まえるように両手を強く握った。しかし、唯奈は小さく笑って被りを振る。
「大丈夫ですよ。さすがに虹枝さんほど野蛮な事はしません」
「本当? 絶対ダメだからね」
「分かってますってば。生きた人間に手をかける勇気は、私にはありません」
涙と共に感情を全部吐き出してしまった後には、冗談めかして笑みを作れるほどには落ち着いたらしい。唯奈はスターゲートへの仄暗い憤りを押し留めるように目を伏せた。
「スターゲートは許せない。でも、嫌な出来事を全て
確かに、世界中に蔓延しているゾンビウイルスの元となった物は、スターゲートが開発した『
誰にも向けるべきではない怒りの向ける先を探してしまう。唯奈は、そんな自分に嫌気が差していたのだ。
「その憎悪は、間違っちゃいないわ」
そんな時。ふと、二人のものではない声が廊下に響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます