最終話:Heaven`s falling down(下)


 冒険者アルトリウスはその戦いをただ一人今も見続ける生き証人であった。

 剣風が時折彼の金の髪を泳がせるが、それを気にする余裕は彼には無かった。

 なんだ、この戦いは。

 突如現れた見知らぬ蔦模様から銀光を散らす緑ローブの剣士が、何の変哲もない両刃のブロードソードで輪舞する。一拍遅れて彼は更に気付く。

 この戦いが始まって、かの剣士のフードが一回もめくり上げられていない事に……。


 イシュバーンの魔王がその金の柄を両手で握り締め、赤い刃に魔力を通して高速で震わせる。薙ぎ払う様な横一直線で、その速さはさながら流星であった。

 かの剣士はそれを右後方に大きく跳躍し回避。同時に両手で柄を握り締め、三メートル程の着地点に突き刺す。

 途端魔王の立ってる足元が円形を描いて砂粒の様に粉砕され、一瞬だが機動力が殺される。

 歓喜の剣の応用である。


 彼にとって今のこの勝負は死力を尽くしどうやって生き残るかになっていた。アスフォデルスの誓約がイシュバーンの魔王にも働いている以上、敵を討ち滅ぼしてはい終わりとはいかないのが辛い所である。



「――」


 右に生じた視線を、左に半歩ずらす。

 瞬間、ローブの肩を真空の刃が掠め浅く裂いた。左の手の甲に血が一筋垂れるまで僅か一拍。

 肩の血を啜った刃は、丁度背後の軌道上に有った鳥籠の帯の一つに激突。鈍い衝撃音と浅い亀裂を残して消えた。


 どうやら、既にここまで覚えたらしい。……筋肉の軋む音から察するに、一発目はまだコツを掴んでいないらしく無駄な力が込められてる割に威力が低い。切断する前に風の刃が解けて殆ど衝撃だけしか与えていない。

 が、それも時間の問題だろう。数分もすれば慣れてくる筈だ。

 こいつは覚えがいい。


 そこで、ファングインの剣を握る手が僅かに強まった。

 あえて一定しない足運びで一挙に間合いを再度詰め、崩れた足場にいる内に数度剣を再び重ねる。遠距離への攻撃手段を得た以上、下手に周囲を飛び回っても時間の無駄でしかない。

 ――一瞬の内に重なり合った剣の数は、都合十七合。

 戦闘が始まってからと今とでは、イシュバーンの魔王の実力はほぼ別物だと言って良いだろう。剣の速さも徐々に増している。

 その柄を握る力が少しばかり強まる。


 君は少しだけ間違っているよ、ユーリーフ。

 剣の道に愛着なんてないだろうと君は言うが、実は愛着はそれなりに持ち合わせているんだ。

 こうして強敵を見たら、滾る程には。

 ただ――


「……あ、アレは」


 その右に握った剣を捻じり、螺旋を描く様に魔王の剛剣をいなす。そのまま身体を右に回し、まるで輪舞の様に一回転。

 たった一刹那。その左の手に溜まったそれを、アルトリウスは見たのである。

 遠心力を生かし、ファングインはそれをイシュバーンの魔王の刃に向けて放つ。

 自らの血を。


 ――ただ、剣が生きる事の全てじゃないのさ。


 イシュバーンの魔王は自分の血を吸った瞬間、僅かに剣が鈍る。ならば吸わせてやればいい。

 それは普通の剣士が目潰しをするのと同じ理屈である。

 ファングインは剣に愛着は有る、美学や誇りは理解出来るし、戦いを楽しむ感性も持ち合わせている。だが彼は目的を持って戦う者であり、剣とはその道具に過ぎない。

 目的を遂げる為に良い答えがあるなら、それを取れるのである。


 そして彼の今の目的は、アスフォデルスを救う事である。


「――」


 そうして、撃剣の合間に血を強制的に啜らされるイシュバーンの魔王はファングインの過去を次々垣間見る。

 水晶で覆われた巨大な、余りにも巨大な洞窟の中。青い鱗を持ち、所々を水晶に覆われたおよそ三十メートルもある程巨大な龍がいた。


 この大陸で最強の生物を上げろと言われれば、まず一番に名が挙がる生物である。山岳地帯に棲む空飛ぶトカゲ達とは一線を画し、その寿命は億年を超えると言われ、吐息はあらゆる物を焼き尽くすという。

 ――北にある死に山と呼ばれるそこに棲んでいたという、水晶龍はまさしく龍であった。

 幾年月を経て尚途絶える事のない強靭な生命、周囲一帯を水晶に変える異能、果てにはあろう事か人語すら交わす事が出来るというのだ。もしこれを討ち果たす事が出来たなら、その者は戦士として果てしない栄誉を手にする事となるだろう。

 

 更にその骨や角や鱗や牙を使って武具を拵えれば、栄誉の証だけでなく武人なら誰もが羨む程の力を持つ物となるだろうし、臓腑――特に心臓には死にかけた者すら救える程の薬が作れる。

 しかして、倒すのは至難の業と言って良いだろう。数十年程前に東のエルフ達が狂える龍の討伐を行ったが、数千の軍勢で生き残ったのは百にも満たなかったという。


 そんな世界の果ての様な洞窟の中、甲高い音が一つ響く。

 次いで、その天井に何かが深く突き刺さる。……カイトシールドの様な水晶片が付着したそれは、龍種の鱗であった。


「この身の鱗を、ただの鉄の剣で剥ぐとはな――」


 その喉が震える。

 何重にも深く低い男の声、それが水晶龍の声であった。

 それを聞く者は少ない。僅か数人の、肩で息をするエルフ達四人。そして、ただ一人この場にいる人間――ファングインだけだ。

 彼は今この場で身に纏っている緑のローブではなく、黒く金糸で装飾が施されたローブだ。剣の柄を両手で握り、まるで右肩に担ぐ様に。足は左足を前に、右足を後ろにした構えを取っている。

 歓喜の剣の威力を更に高める構えである。


「そなたの剣、それは神にも悪魔にもなれる剣だ。人族の剣士よ、その剣で屠龍の功を果たしてそなたは何を望む?」

「……」


 そこで再びの闇。しかし、それは直に明ける。

 天井に巨木が走る部屋の中だった。部屋の中央には緑地に簡素ながらも蔓草の装飾を施された天蓋の付いたベッドがある。部屋を漂う香は、痛みを和らげる薬草が微かに入り混じっていた。

 彼の前には、茶色い髪を腰まで流した笹の葉の耳を持つ女がいる。身に纏うのは緑色の革鎧で、腰には浅く波打つ様に湾曲した片刃剣が、白色の鞘に収められており、それは彼女が北の地のエルフの戦士階級である事が分かった。

 右手首には銀細工で木の葉のあしらわれた腕輪が嵌っている。

 

 彼女が一度顔を右半分向けると、その青い瞳で背後に立つファングインを見た。目蓋は腫れ、憔悴した顔が彼の目に焼き付く。


「……ファングイン、大切な……話がある」

「……」

「先程、大術師殿が来られてな。身体を診てもらったんだ……そしたら、もう持たないと言われたよ。

 心臓に蝕んだ呪詛が全身に回り切っててな、もう手の施しようがないらしい」


 大術師というのは、北方のエルフの中で薬学と治療術の頂点に立つ者である。どの様な者であれ大術師が一度余命幾許もないと言えば、それが覆る事はけして無い。

 目の前にいる彼女との付き合いは十九年。赤子の頃から傍にいた者が、初めて見せる憔悴した姿だった。

 ただ、そんな彼女にかけられる言葉を持ち合わせていなかった彼に出来る事と言えば、その今にも消えてしまいそうな後ろ姿を抱き締めるだけである。


 どれだけ成長しようとも、どれだけ強くなろうとも。

 ……女の涙一つ止められない、その身のなんと無力な事だろう。


「ファングイン……」

「……」

「……お前が、永遠に生きられないのは解っている。我らと違って百年も経てば、花の枯れる様に去っていくのだろう。

 それを承知で頼む、お前は……お前だけは……もう何処にも行かないでくれ。一生……」


 力のない、まるで年端のいかない少女が縋る様な声だった。

 自分は彼女の涙を止める為なら、何でもするだろう。例え、それが如何なる難業だったとしても。

 赤子の頃。彼女達に拾われて始まった人生ならば、彼女達の為に投げ捨てるのも人生である筈だ。

 ――それが、彼が剣を執って水晶龍に挑んだ理由であった。


「お姉、ちゃん……ファン、グイン」 


 不意に声がする。病で細くなった喉から振り絞る様な、弱々しい声音だった。

 世間一般でエルフは老いる事がない種族と言われている。しかし、現実には違う。

 まず筋力が落ちる。次に目と耳が重く垂れ下がり、髪の色が徐々に色褪せていく。そう丁度、人間の子供の様に。

 ……本来なら百七十はある筈の背が、今は百三十まで落ちていた。

 ……耳と目は垂れ下がり、姉と同じ色合いだった茶色い髪も今はくすんでいた。

 ……かつて子供の自分を抱いてくれた腕は枯れ木の様に細くなり、肋骨が浮き上がり、この近辺一帯で一番と言われた剣士の面影はもう無い。


 それが彼の、病に侵されたもう一人の家族である。

 あぁ、その顔は――



 ×    ×    ×



「贖わせなくてはならない」

「……」

「もう一度言う、お前は贖わせなくてはならない」


 闇の中、混沌の神がアスフォデルスを糺す様に二度告げる。

 そうしてバアクィルガはその場にしゃがみ込むと、黄と青と橙の入り混じった淡褐色の瞳でアスフォデルスの青い瞳と目を合わせた。


「私の言葉が信じられないか?」


 そう言うとしばし考え込む振りをし。


「ならば、よかろう。お前がもし手を取ったなら、どう地獄が作られるのかを見せといてやろう」


 そう言われてから一拍、アスフォデルスの右耳に囁く様に女の声が一つ。


「あ、足が……足が腐って……」


 次いで男の声が左耳に入ってくる。


「目が、目が見えない……」


 怨嗟が闇を浸していく。

 痛みに泣く幼い子供の声が聞こえた。息もまともに出来ず獣の様に呻く声が聞こえた。

 老若男女問わず、声は徐々に積み重なっていき恰もそれは合唱の様に。


 やがて、水が泡立つかの様に周囲の影がぼんやりと人の輪郭を模っていく。それらは皆苦しむ素振りを見せた。


「心の痛みを感じるか、アスフォデルス?」

「……」

「答えられぬ時点で、それはもう答えているのと同じだ」


 混沌の神はにたりと笑う。バアクィルガにはアスフォデルスの心が手に取る様に分かった。

 今この女は理性と狂気の境界線にいる。ここまで来れば後は簡単だ。

 この女を縛り付けている情、人間としての一線をこいつ自身で捨てさせればよい。


 そこでバアクィルガは闇の中から二つの物を用意した。

 一つは長さ九十センチもの両刃のショートソードだ。鍔は簡素な金、柄は青い革が巻かれている。

 そして、もう一つは――


「……ファン、グイン?」

「否、それはお前の人としての分水嶺だ」


 緑のローブに銀の髪をした巨躯の剣士、ファングイン。

 無論、本人ではない。バアクィルガがこのアスフォデルスの心中で造った意思なき幻影である。ただそれは造形という点では非常に精巧に造られている。感触も体温も存在し、呼吸すらも自発的に行う様にしていた。

 アスフォデルスが一瞬間違うのも無理からぬ話だろう。


「この知覚の外、この男が魔王相手に酷く粘っていてな。どうも身動きが取れぬ。アスフォデルス――手始めにこの男を殺せ」


 幾許かの間が横たわる。余りにも突拍子の無い事から理解が追い付かず、アスフォデルスがようやく発する事が出来たのは。


「……え?」


 気の抜けた様な、その一言だけだった。


「この剣で、たった一刺しすればよい。それで何もかも終わる」


 再度、理解を促す様にバアクィルガはそう言った。


「刺したら、どうなるんだ?」

「お前の何もかも、一切合切がイシュバーンの魔王に溶けきる。どうやらこの身体は強大な魔力を吸い、通常より膨れ上がったが常世を焼き尽くす業は背負わなかったらしい。

 土塊で造った無地の身体が故か。

 だからこそ、お前の憎しみをイシュバーンの魔王に混ぜるのだ。そうして、手始めにこの男を殺すのだ」


 意思なきファングインが彼女の前に跪くと、丁度それはアスフォデルスが握った刃が心の臓に収まる位置となる。

 その金の瞳は、まるで飼い主の命令を待つ犬の様に思えた。


「なんだ、迷っているのか?」

「こ、こいつは……こいつは私を助けてくれたんだ……」


 震えながらそう言うアスフォデルスの――かつては■■■■■と呼ばれた女の――指に、混沌の神は両手を蛇の様に這わせ絡め、取りこぼしそうになった剣の柄を握り締めさせる。

 切っ先は真直ぐ、彼の胸に合わせて。


「所詮はゆきずりの慈悲をくれただけの男だ。お前の過去に比べたら塵にも等しい」

「で、でも……ファングインなんだぞ?」

「よしんば此処で止めたとしてどうなる? お前の身体は既に一片の肉も残らず、魔王に溶けたのだぞ? ここで話してるお前は私の縁という葉に乗った残滓だ。

 いいか、お前にはもう一つしか道がないのだ。為すべき事を為さねば、いずれ外のこの男は魔王になぶり殺しにされるだろう」

「……どういう事?」

「お前の肉体を取り込んだが故、イシュバーンの魔王にも誓約が溶け込んでいる。先程からこの男は逃げ回るだけで、一切攻撃を当てていないのだ。何とも憐れな事にな」


 一瞬言葉を失ったアスフォデルスの隙を突き、バアクィルガは嫣然と笑って答えた。

 最早寄る辺などないのだ、そういう暗喩を密かに込めて。


「どうして顕現してから一時間足らずでイシュバーンの魔王が誕生出来たと思う? 何故外でお前しか使えないメテオ・スウォームを撃てたと思う?

 それはな、お前の肉体を我が巫覡が髪一本まで鋳て溶かし込んだからさ。こうなってはもうお前は元の五体には戻れまいよ」


 アスフォデルスの身体はもう髪一本たりとも残さずイシュバーンの魔王に溶けきっている。例えるなら状況はスープの中に入れた塩を、再び取り出し元の粒とする様な物だ。

 それを為すのは不可逆である。例え稀代の魔術師アスフォデルスだとしても、この状況から魔王の身体と自分を分離するのは不可能だ。


「イシュバーンの魔王の剣技は加速度的に上がっていく、どれ程の腕だろうがいずれはこの男を凌駕するであろう。

 ならば、いっそお前が手を下してやるのが慈悲という物だ。情け深さとは、大切な時に使うのだよ」

「でも、だって……」

「それとも、この男の惨たらしい死体を見たいのか?」


 そこでとうとうアスフォデルスは言葉に詰まる。後に残るのはまるで崩れてゆく積み木の様に荒れる呼吸のみ。

 仕掛け時だと、バアクィルガは思った。


「罪には裁きを、痛みには贖いを、――お前は正義だ。何をやっても正義なんだ、だからこれからお前が行う事は天の理すら文句を付けぬだろう」


 最初は甘く、口当たりのよい道理を耳に流し込む。それで情や観念を外堀から柔らかく煮込んでいく。


「大丈夫だ、この男もきっと恨みはしないさ。誰も恨みはしない。お前の刃ならそれも甘しと思うに違いない」


 次は親しき者の心を語る。九割は嘘でいい、しかし一割だけは恐らく本当の事を含む。そうすれば言葉は疑いを避けて、滑らかに心に入り込む。

 そこで、彼女は自分を正しいと信じ込むのだ。理性が幾度も反証するが、一度入り込んだ言葉は徐々に理性を削っていき、やがてはそれが正しいと決めつける。

 見たい物を見て、信じたい物を信じる人の習性を逆手に取るのである。


「もう苦しむ必要はないのだ。情深いお前の事だ、会話した者の顔がチラつくのだろう。

 逆にこう考えるのだ、ここで苦しむお前が消えてなくなるのなら、その様な縁は最初からなかったのと同じなのだとな」


 最後は都合の良い言葉で解決させる。全て消えてなくなる事で、悩まなくてよいという甘い答えを前に出す事で、難しい理性を取り払わせる。

 そして駄目押しにこの男との出会いの理由を付ける。


「さぁ、この世は全てお前の贄。これが最初の供物だ。

 ――全てが因果の綾模様なれば、この男とお前が出会ったのはこれに至る為だったのだろうさ」


 完璧な甘言であった。

 言葉一つで人を繰る、混沌の神の面目躍如というべき見事な言葉の冴えである。

 ただ、最後の一言を除けば本当に完璧な甘言であっただろう。


 ……その時脊髄反射的に“そうだろうか”という疑問を抱いたのは、一重に彼女の探究者としての性であろう。


 生物界において、ある生物の毒が他の生物の毒に対する抗体となる事がある。

 これもまたその一例と言えよう。

 毒の名は、好奇。

 其は速やかに不凋花の根から走り、その花芯を満たす。


「何故だ、何故剣を取りこぼす?」


 両手の指が緩み、その剣の柄が滑り落ちた後。混沌の神は目を見開いてそう尋ねた。


「……」


 答えはない。

 ただ一筋の涙が零れる。そして彼女は下唇を強く噛んだ。

 それは堪えられぬ物を堪えるかの様に。


「まさか、憎しみより愛が大事とは言うまいな。どこの馬とも知れぬ男だぞ?

 情になど流されるな、憎しみを測り直せ、お前の過去は忘れられる程軽い物なのか?」

「忘れられは、しないだろうさ」


 ぽつり、と呟く言葉は振り絞る様な響きを持っていた。


「夜毎、これからも苦しむだろう。痛みは永遠に続くだろう」

「なら、何故殺さない! この男を好いたからとは言わせんぞ!

 どれ程の美しさを積み上げ、どれ程の魔力を重ね上げても、その齢になるまで一人で歩いてきた女が!」

「……愛とか恋とか、そんな綺麗な理由じゃない」

「なら、何だというのだ!」


 ただ一度、その問いに無理矢理作った笑みで答えたのは――己が業の深さを自嘲したからだろう。


「だって、私は……まだこいつに救われた理由を知らないんだもの」


 波動が収束する様に、徐々に息の乱れは収まっていく。


「どんな理由だって構わない。でも、だろうさじゃ殺せない。

 物事には必ず理由があるなら、私はそれを確かめなくちゃならない。

 だって、私は魔術師アスフォデルスだもの……」


 理由という病。

 そも人間は無意味である事に耐えられない物である。それもこの世の原理を究める学徒であるなら、その智慧の業は人一倍深い物である筈だ。

 バアクィルガはたった一つ、アスフォデルスという女の業を見誤ったが故に全てを失う羽目になる。


 その意思に答える者が一つ。

 否、二つだ。



 ×    ×    ×



 ――そうだ、自分は知らなくてはならない。

 無意識の中、まるで地下水脈の水が土壌に染みこむ様にアスフォデルスのその意思が、イシュバーンの魔王に呼応する。

 イシュバーンの魔王は、言わばもう一人のアスフォデルスと言っていいだろう。アスフォデルスの探究心に駆られ、魔王はファングインの闘争理由を求める。


 それは常世の国――現世を焼くという混沌の神の本能に背きつつあるとしても。

 今はただ一人の剣士、一つの存在として、目の前の強大な敵を超えねばならなかったのである。


 グレイマウザーの醜聞、パルトニルの神鉄の巨兵、バルレーン・キュバラムとの死闘、水晶龍との対決。これだけの歴戦を超えた男の戦う理由を知らずにいようとするのは、同じく剣を持った者として彼=イシュバーンの魔王には考えられなかった。

 これもまた、ファングインの毒の発露と言えよう。


「まだ、折れぬか」


 ぽつり、と呟く。まるで自らに言い聞かせるかの様に。

 

「――」


 対して、緑ローブの剣士は彼が幾度目かの必殺の意思を込めた振り下ろしを難なく逸らす。しかし、それで終わりだ。

 ……最初は有難かった誓約の守護も、今となっては邪魔以外の何物でもない。

 しかし、それでも彼がその誓約を外そうとも試みなかったのは二つ。


 一つは、剣を振るのに僅かな隙も見せられない事。アスフォデルスの知識を引きずり出そうとすれば、〇.一秒の隙を見せる。

 これまでの戦闘で解る、こいつはその隙を突いてどんな魔術の起こりでも花の剣で散らす筈だ。

 もう一つは、バルレーン・キュバラムとの記憶だ。

 この男と相対して寿命を削る技を使って、尚も生きているバルレーン・キュバラム。通常の手当ではけして助からなかった筈だ。何らかの不条理が働かねば、あの女は今生きていない。


 何より、この男の目には絶望の陰りがない。

 彼の勘が告げている、この男は今待っているのである。途方もない何か、この状況を打開できるだけの何かを。

 ならば、一体どのような不条理が待ち受けようとも――自分はそれをも超えなくてはならない。

 そんな魔王というには余りにも人間臭い意思に呼応し、一つの奇跡が起こる。


「ファングイン、言葉を持たぬ異形の剣士よ――」


 撃剣の隙間の中、けして一瞬の隙も見せずに魔王は語る。


「――まずはこの魔剣、確かにいたただいた」


 刹那、赤と銀の刃が重なった時だった。

 銀の刃に僅か一ミリグラムにも満たない奇妙な重さが加わ――ると認識した瞬間、炉要らずの鍛造で鍛えられた刃が走る。

 花の剣の発露である。


「――」


 赤い刃は瞬間滑り、ファングインの胴。向かって左脇腹から右肩にかけ、流星の如く通り抜ける。

 一拍遅れて血の線が彼に刻まれた。

 たった一瞬大きく噴血した後、彼のローブを伝い血だまりが影の上に広がる。

 そして、その刃が彼の血を吸う。



 ――記憶の終着点は夜。時折雲に陰る、冴えた満月の夜だった。

 空気は冷えていた。草木の生い茂る開けた小高い丘の上、時すらも蒼褪めた様なそこに彼女はいた。


「ファングイン、どうしたの? そんな青い顔をして」


 振り返らずに発した言葉は、病の苦しみのない平坦な声音だ。

 風に、そのくすんだ茶色い髪がふわりと攫われる。……そして右手に握った両刃の剣の鮮血も数滴攫われた。

 身に纏った白い服には赤い染みがまだらの様に着いており、それは東から風が届けてくる里の怒号と混乱の原因である。


 何故、こんな事になってしまったのだろう。

 自分は、ただこの人を病から救いたかっただけなのに。


「身体の調子がね、すごくいいの。まるで生まれ変わったみたい……」


 だからこそ、死に山に潜り水晶龍に挑んだのだ。里に戻った時、獲得品を心臓にした時仲間達も快く了承してくれた。

 全て、上手く行っていたのだ。

 だから、水晶龍の心臓を薬にして飲ませたのだ。

 全て、全て上手く行っていたのだ。

 ……水音がする。

 ……咀嚼音も。


「でも、どうしてかしらお腹が凄い……凄く減ってるの。お肉が美味しい」


 ぽとり、と落ちたのは細い女の右腕だ。手首には木の葉があしらわれた銀の腕輪が嵌っている。

 ……本当に、どうしてこんな事になってしまったのか。それはもう分からない、だが今自分に出来るのは彼女を止める事だけだ。

 空に浮かんだ満月が、雲間の中に消える。

 光の亡い夜が来る。


「……あれ、このお肉……」

「――」


 血肉を喰らう怪物になったのは家族であり、育ての親であり、剣の師匠であった。

 自分をこの世に生み出した者を親と呼ぶつもりはないが、捨てられた赤ん坊の自分を育ててくれたのは間違いなく彼女なのだ。

 そうして、何も救われる事のなかった戦いの幕が開ける。


「わ、私……お腹が空いたの。お腹が減って、お腹が減って……どうしても、だから」


 その剣が重なり合った瞬間、少女の手繰る刃が走る。

 それはバルレーン・キュバラムが花の剣と名付けた技であった。

 ――この技の真の名は、科祓いという。

 北のエルフが使う片手剣術の一つで、それ自体は相手の剣に合わせて攻撃の威力を減殺し、刃や矢や魔法をあらぬ方向に逸らすという防御の技であり、里で剣を持つ者なら誰もが使えるありふれた技である。

 しかし、彼女が使う物だけは違う。

 並々ならぬ才覚により攻撃を逸らさず、剣が合わさった時点で威力を零にする事で相手の攻撃を上書きし消す、因果を捻じ曲げる魔剣と化したのだ。

 これが、彼の育ての親である。


「――」


 命を散らす剣技を通し、血の記憶はまるで供物を捧げる臣下の様に寡黙なファングインの感情を告げる。

 その剣に宿るのは悲しみと後悔、痛みと慚愧。

 ……月のない夜の闇、刃鳴の音と相手の息使いが木霊する。

 そして血の匂いは深く、刻一刻と溜まっていく。


「わ、私が食べたのはお肉。私が食べたのはお肉、私が食べたのはお肉、私が食べたのはお肉」


 水晶龍、グレイマウザーの乱、神鉄の巨兵、バルレーン・キュバラム。今まで見て来た記憶の中で、泰然としていた剣士が苦渋の顔を浮かべながらなます斬りにされていた。

 両手に握った剣を振り下ろし、歓喜の剣で土煙を立てる。しかしそれは、科祓いの剣によって一瞬の内に霧散する。

 歓喜の剣と科祓いの相性は恐ろしく悪い。どれ程の高威力であろうとも、彼女と剣が合わさった瞬間無力化される。


 ――人間には一点、自らの生命の危機が訪れた時、自らの生命を防衛する本能が存在する。

 愛情と本能の分水嶺。どれ程愛情が深くとも、屈する者は必ずいる。しかし、彼が屈したのは本能の発露では無かった。


「……私が食べたのは、何のお肉?」


 ただ一度、何かを自分に言い聞かせる様な声が響いた時、ファングインは傷みを堪える様に目を瞑った。

 自らの行った事、そこから目を背け――血の滲んだ目蓋を閉じて闇。そのまま構えを取る。

 体感で空いた彼我の距離は五メートル。左足を前に、右足を後ろに。両手に握った剣を顔の右横に置く。


 それが決別の刃であった。


「……ファングイン」


 柄に走った生温い感触に目を開ける。

 その白い衣の胸、正中線の中央を穿ち、刃は正確に心の臓腑を貫いていた。

 彼女の手にしていた剣が、右手から零れ落ちる。


「……ねぇ、寒い。寒いの」


 もう一度その名を呼び、暗闇の中から両手を伸ばす。しかし、それは刃が心臓に置かれた以上爪の先すら届く事は無かった。

 そこで雲間に隠されていた月が再び顔を覗かせる。

 あぁ、その顔は――


「どうして?」


 アスフォデルスの顔と瓜二つだったのである。

 ただ一度、彼女は不可解そうに呟いた直後に事切れる。永く重たい停滞が数分続き、その後ようやく彼が出来たのは。


「……シャ、マナ……」 


 自らが殺めた女の名を呼ぶ事だけだった。

 ……取って喰らった者の魂がひっそりと囁く。

 これは北の地のエルフ達の醜聞。龍の心臓を喰らった者が同族を喰らう化物になったという物だ。

 その顛末は化物は討伐され、それを討った剣士は森を追放。残された遺族の戦士は利き腕を失ってひっそりと暮らしているらしい。


 そして最後の追憶が醒めた。



 魔王の科祓い/花の剣がファングインを両断出来なかったのは、偏に魔剣の使い手としての技量の差であろう。

 流石に覚えたての者と、今まで使って来た者の差は埋められる事は無かったらしい。ファングインの胴は未だ繋がっており、斬られた直後後方に跳躍。距離を五メートル程開けて着地する。

 両足を地面に着けた時、血が何滴か滴った。


「なるほど、自らが殺した女の技を使っていたのか……」

「……」

「しかして因果は折り重なる綾模様とは言え、まさかあの様な事があろうとはな……」


 これを知るのはファングイン本人と、たった今記憶を垣間見たイシュバーンの魔王しかいない。

 育ての親であるエルフのシャマナと、アスフォデルスの容姿が瓜二つであった事。それが単なる偶然であろうが、それとも計り知れない程大いなる者の作為であろうかは分からない。

 だが、大事なのはそこに何を求めているかである。


「貴様がアスフォデルスに求めるのはシャマナへの贖罪なのか?」


 イシュバーンの魔王が赤い剣を下げ、ファングインにそう問う。


「い、一体何の話だ……?」


 少し離れた所でアルトリウスは突如始まったこのやり取りに、困惑から思わずこう言葉を漏らした。

 当のファングインと言えば、一瞬イシュバーンの魔王からシャマナの名が出た事に瞠目するも、少しの間を開けた後に首を振る。


「それとも面影を追っていたのか?」


 その問いにも彼は首を振った。

 対敵が好奇心に駆られて質問を続ける間、ファングインは同時に呼吸を整え、痛みを抑えて気力を回復する。

 恐らく、後数手で目前の敵の実力は自分を凌駕するだろう。

 純粋な剣技で決着を付けるなら、ここが限界点と言える。科祓い/花の剣まで習得された以上、残された手は少ない。イシュバーンの魔王を剣技で倒すには、もう今この時しかない。

 しかし。


「ならば、貴様は何を求めて戦っているのだ」


 しかし痛みに堪え、彼が取る型は右手を顔の前に。左手は四指を揃え、親指の股に刃を置く。両足を肩幅に開いて腰を深く落とし、足を地面にべったりと付けた。

 そうして口にするのは――


「……あ、すふぉ……でる、す」


 喉を震わせたのは何時もの唸り声ではなく、エルフの言葉であった。訛りや響きは、北の地の者達特有の物である。

 ただ一度、求める物をそう答えた。

 ……面影を追わなかった訳ではない。瓜二つだった見た目が失われた時、何も思わなかった訳でもない。あの髪飾りを与えた事に完全に未練が無かったかと言えば嘘になる。

 それでも自分が今求めるのはシャマナではなくアスフォデルスである。

 あの月夜の晩で苦悩に触れ、あの迷宮の洛陽で喜びを分かち合ったのだ。助ける理由は、今取る型が歓喜の剣ではなく花の剣であるのは、それだけで十分であろう。

 何より幾度剣を払い、死線を掻い潜っても未だ兆しが見えていない。ならば、まだ魔王は打ち倒すべきではない。

 ……女が死ぬのを見るのはもう沢山だ。


「いいだろう、ならばその真意は刃で確かめる。抗うなら好きにしろ――奥の手を出し惜しみしてるなら死ぬぞ」

 

 そしてイシュバーンの魔王と再び交錯する。科祓い/花の剣同士がかち合い、今まで防がれていた剣がファングインに次々当たる。

 魔王の刃の鋭さは徐々に増して行き、既にローブの下に纏った黒革の防具は耐久力の限界を超えていた。血による幻惑も既に効果がない。


 一見すればイシュバーンの魔王がファングインを追い詰めている様に見えるだろう。実際の所、この戦いを見続けるアルトリウスにはそうとしか見えていなかった。

 しかし、風に紛れて呟かれる言葉をファングインは確かに聞いた。


「哀絶が剣を早くするというのか?」


 まるで自らに言い聞かせる様な響きだった。


「悔恨が刃を鋭くするというのか?」


 それは未だ奥の手を切らせぬ、ましてや刃を繰る者として目前の男の命に届かぬ事への焦りであった。

 これ程剣戟を繰り広げても、ようやく攻撃が当たる様になったとしてもイシュバーンの魔王は未だにこの男に勝ってるという感覚がない。


「……術理を以って事に当たれば、必ず倒せる。そうでなくてはならぬ、そうでなくてはならぬのだ」


 その時である。

 イシュバーンの魔王がそう言葉を吐いた時、僅か一呼吸。一刹那のそれがアスフォデルスの呼吸に確かに変わった。

 ――それがアスフォデルスの意志に呼応した物の一つであった。

 元来、女の呼吸を確かめねば眠れぬ性分であるファングインにとって、それは間違い様の無い隙である。

 そしてもう一つ、その呼吸が彼が待ち望んでいた兆しである。


 ……彼の右目、名を碑の目という。

 普段は視力が一切失われている。しかし彼が死ぬ様な状況になった時のみ、右目は視力を取り戻す。

 その時見通すのは今の風景ではない、彼が右目で見ているのは様々な世界の波紋だ。

 自分が花の剣を手繰り間違えて赤い刃が首元に届き殺められる世界、イシュバーンの魔王に歓喜の剣を放ち諸共殺めてしまう世界。そう言った数々の世界が彼の右目に幻の様に映っては消え、彼にはどうすればその因果に辿り着くか理解出来る。

 まさに運命を見通す魔眼だ。……そしてこれがただの人の身でありながら、バルレーン・キュバラムの〈時霞〉の外法に対応出来た理由でもある。


 その多元宇宙を垣間見る魔眼ですらも、今までアスフォデルスが死ぬ運命しか見えていなかった。

 しかし、たった今その生きようとする意志の僅かな発露により――アスフォデルスを救う因果の波紋を碑の目は確かに掴んだのである。


「――」


 僅か一呼吸の隙を突き、赤い刃を大きく逸らした後。後方五メートルへ跳躍、間合いを取って着地と同時に彼はその構えを取る。


 左足を前に、右足を後ろに。両手に握った剣を顔の右横に置く。

 決別の刃の型だ。……構えは人界の剣術で言えば、鍵の構えという。攻防に優れ、どの様な手にも対処できる構えだ。

 それに対し、イシュバーンの魔王は僅かに固唾を呑んだ。

 ファングインが構えを取った瞬間、周囲一帯の魔力が比重を増す。啜った輝影のバルレーン・キュバラムとの記憶が囁いた、あれは今まで隠されていた技の発露である。


「ようやく開帳か」


 型と、何よりわざと距離を離した事から自分が仕掛けねばなるまいとイシュバーンの魔王は思った。……その型は焦れた心をくすぐり、魔王にあえて先手を取らせる。

 魔王は剣を顔の右へ縦に構え、そのまま疾駆する。駆けてから上からの振り下ろしを狙う。

 駆ける中、剣身に魔力を通し赤熱化する事を忘れない。溶断は花の剣相手ならば虚しく散らされるが、あれは片手のみで出す技だ。ならば両手で構えた時点で使用は出来ない。

 その刃圏に入った時、魔王は赤熱の一撃を振り下ろす。それと同時にファングインの耳が動き、石板の瞳は回転を止めた。

 

 ――その技は何時でも使える技ではない。然るべき時と然るべき場所が合わさり、極限までの生命の危機に陥った時に初めて使える物なのだ。


 魔剣とは論理的に作成され、論理的に行使されなくてはならない。ならば、それは魔剣ですらない。


 混沌の理論に曰く、蝶の羽ばたきが遠い異国では竜巻になるとされている。ならば、その蝶を斬れば竜巻が生じる運命は消失する筈だ。この技はつまりそう言う論理で成り立っている。

 名を、是無の剣という。

 花の剣が導くのは、一撃必中の結果。

 歓喜の剣が導くのは、一撃必壊の摂理。

 そして是無の剣が導くのは、一撃必変の因果。その刃が切断した物は生きざる者を生かし、死せざる者を死させる。


 右から左にかけて一直線に生まれた白い流星が、イシュバーンの魔王が振り下ろす剣より速く胴をすり抜け運命にまで達する。

 刃が断つのはウロボロス。循環性、永続性、始原性、無限性、完全性。

 ――宙のタンホイザーゲートに淀む闇の中、一刹那だけ輝く光が如く刃は駆け抜けあらゆる因果を断ち切った。


 それが彼女の意志に呼応したもう一つである。


「……それが、貴様の奥の手か」


 その奇妙な感慨の様な声に返すのは、いつもの唸りではなく血振るいした剣を革の鞘に納める動作。


「到底、人とは思えぬ……」


 それが終わりの始まりである。

 イシュバーンの魔王の黒い鎧、その胸が突如罅割れ始める。一筋の罅は瞬く間に蜘蛛の巣の様な亀裂となり、そこから瘴気の様に黒い粉塵が辺り一面を覆う。

 そうして、煙を裂いて宙に放り投げられる様に中から裸身のアスフォデルスが現れ、彼はそれを両手で受け止めた。


 あらゆる因果を断ち切る是無の剣は、見事イシュバーンの魔王とアスフォデルスを分かち切ったのである。

 これが神鉄の巨兵に取り込まれたユーリーフを、覚者の極を打ち死に瀕したバルレーンを救い、人を喰らう怪物となったシャマナを殺めた剣であった。

 両腕に収まったアスフォデルスの目蓋は閉じられ、意識はないが腹は浅く上下している。


「……ま、待て」


 煙の中から声が響く。やがて、重たい何かが零れる音と共にその主が現れた。

 黒い鎧を大きく爆ぜさせ、赤い刃を杖代わりにしながらイシュバーンの魔王がそこにいた。大きく抉れた胸の空洞を抱え、兜からは黒いタールの様な物を止めどなく吐きながら、尚も彼はファングインに向かおうとする。


 歩く度、鎧の破片が周囲に散らばった。


「まだだ、まだ終わっていない……」


 これぞ妄執の発露と言って良いだろう。今はただ、ファングインの毒だけが彼を突き動かす全てだった。


「これほどの、技を受けたままでは死ねぬ。運命に触れる……だと、その技貰い受けねば気が済まぬ……。

 いや、そうじゃない我は……私は……俺は……」


 一息置いて。


「この身は、燎原の火。燃やさねばならぬ、討ち果たさねばならぬ……常世全て」


 アスフォデルスを抜かれ、既に自分が何者なのかも分からなくなり始めているのだろう。言葉には混沌の神バアクィルガの意思が混じっている様に見受けられた。

 それに対しファングインは、左腕にアスフォデルスを避けると自由になった右腕で腰の剣帯にくくった袋に手を伸ばす。ユーリーフが渡したそれから取り出したのは、握り拳大の黒い鉄の球である。

 上には十字の装飾が付いており、使い方は既に知っている。


「……ファン、グイン」


 それを指にかけた時、呼び止めたのはアスフォデルスであった。フードの中で驚く表情を見せるファングインを後目に、彼女は両手を伸ばす。


「……頼む、私にやらせてくれ。あれは、私が決着を付けなきゃならないんだ」

「――」

「頼む、頼むよ」


 しばしの後、彼は右手に握ったそれを彼女に渡した。そうしてアスフォデルスは、目の前のそれに目を向ける。

 その時、魔王の言葉が変わったのを彼等は確かに感じた。


「痛みを、痛みを知れ、憎しみを知れ、この身に受けた恥辱に代価を……」

「……解っているさ、痛い程にな」

 

 アスフォデルスがぽつりと呟く言葉は、まるで悲しみを噛み締める様な響きを持っていた。

 それに対しファングインは両の目を一度閉じる。それはあたかも悼むかの様に。


「これは手向けだ」


 まるで弔辞の様にそう言うと、アスフォデルスは十字を――聖なるピンを――引き抜き、三つ数えた後に魔王に向かって放り投げる。鉄球は丁度魔王の胸の空洞に収まった。

 そうして起こったのは鼓膜を破りそうな程の轟音と爆発である。

 肉、魚、オートミール、野菜、香辛料、果物。これを適切な手法で加工し、儀礼に則り定められた入物に収めると大爆発を起こす物となる。

 とある神の教派の秘伝とされるこの武器の名は、“聖なる鉄炮”という。この“聖なる鉄炮”の厄介なのは、爆発の威力もさることながらその火は神に祝福された聖火である為に魔力を祓い清める効果を持つ。


 聖なる焔は何もかも全て飲み込み、跡形もなく消し去っていく。

 それを彼女はけして目を逸らさず、その青い瞳で見続けていた。



 ×    ×    ×



 毒という物の一番恐ろしい点は、触れた物を蝕む点ではなく、それが周囲に広がり続ける点である。

 ならば、これは当然の結果と言えよう。



 ×    ×    ×



 灰も残さずイシュバーンの魔王が消え、焔すらも風の前に消えた後。


「な、なんなんだ一体……」


 その奇妙な空気を破ったのはアルトリウスであった。彼はただこの場に起きた事を飲み込めず取り残された、ただ一人の人間である。

 困惑と憤り。それは当然ファングインとアスフォデルスに向かう。

 彼の目が向くと一瞬、アスフォデルスは裸身を隠す様に身を竦ませ、ファングインはアルトリウスに背を向ける。


「……今、一体何をしたんだ?」


 一度は呟く様に。そして二度目は急速に感情が込もり――


「あ、あれは一体何だ! 魔王だぞ、これだけの冒険者がいて何故! どうして!

 ――なんで、ただの鉄の剣でアレが斬れる!」


 恐らく様々な想いが交錯し、絡み合った挙句ようやく言葉に出来たのはそれであったのだろう。

 彼から見れば不条理極まりない光景に違いなかった。

 自分の遥か上を行く技量、いや最早これは人の技術体系にある物ではない。これはそれこそ御業というべき物なのだ。ただの人間が行って良い物ではない。

 そして、何故これ程の事を行える者を自分は今まで知り得なかったのか。


 名とは存在の質量だ。その比重が重ければ重い程、この世における存在の価値が高まる。……それがアルトリウスの人生哲学である。

 だからこそ、彼には彼等の存在が理解出来ない。


「何故だ! これ程の技を以って、何故お前は今の今まで身を隠していた!

 何故、私がお前なら! その力、それ程の技――」


 羨望と憧憬と嫉妬、困惑と狂乱、理解出来ない物を必死に理解する様にアルトリウスは叫ぶ。

 しかし。


「――」


 それを答える術を、彼は持っていなかった。

 彼はその問いに何も答える事なく、一歩ずつこの台座の縁まで歩く。緑色のローブに刻まれた銀の刺繍は、徐々に光を失い元の無地に戻って行った。


「ま、待て何処に行く!」


 アルトリウスはそんな彼を追おうとするも、身体を動かした途端激痛が走りその場に取り残された。


「ファングイン……」

「うー」


 一度アスフォデルスがその名を呼び、彼のローブに縋りつくと彼は笑いながら唸って応えた。

 東から風をかき乱す音が聞こえたと思うと、ファングインはアスフォデルスを抱き締めその場から身を投じた。


 アルトリウスの青い目が一度大きく見開かれるも、その目には直に巨鳥のゴーレムが西に向かって飛び去って行くのが映る。

 言葉が絶えたのは五拍。その後、震えながら彼は喉を響かせた。


「……相手にされなかったのか、この私が。目に入れられる事すら無かったのか……」


 風がアルトリウスの心を虚しく撫でる。その傷んだ胸を彼は右手で抑えた。

 そこにぽっかりと空いた穴から、何かが零れ落ちてしまわない様に。


 もし今の自分がアレと戦えば勝てるだろうか。否、勝てる訳がないと剣士の本能が囁く。

 あの男は、あれ程の激戦を経たというのに。終ぞ頭に被ったフードを剥がされる事もなかったのだから。


「畜生……」


 そして、その毒が彼にも廻り始める。

 冒険者として、戦士として、剣士として、アルトリウスのその心は急速に嫉妬と好奇の毒に蝕まれていった。

 其は冷たく、重たく心に淀む。


「ファングイン……」


 その名を呼ぶ様は、まるで今さっき果てたイシュバーンの魔王の様だった。


 ――後に生還したアルトリウスの伝説にイシュバーンの魔王殺しの逸話が加わるも、当のアルトリウス本人は公の場でこれを語る事は無かった。

 彼の報告を編纂した冒険者ギルドからの公式発表はただ一つ、『多くの犠牲を払ってイシュバーンの魔王は討伐された』という物だけである。

 これに困ったのが彼の偉業を語る吟遊詩人や戯曲家達だ。

 どれ程の光景をアルトリウスは見たのか、彼等はは幾つもの戯曲を想像力のままに書き記すも、その真実に触れた物は一つとして存在しない。


 真実は歴史の闇の中に消えていく。

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