最終話:Heaven`s falling down(中)


「お前は何処にでもある田舎の、よくある農家の六人目の娘として生を受けたなアスフォデルス」


 そう言うと、自分の美しさの全てを詰めた顔を借りて混沌の神たるバアクィルガは語る。


「少女時代は父母や兄弟姉妹に囲まれて育ち、長じてからはその資質を見出され病床の母を救う為に魔術師を目指した。

 この魔術師ってのが曲者だったな、お前の人生にとって」


 右手で髪を一房梳くい。


「髪を切られ、顔を焼かれ……たのは序の口。人間ってのは時折その発想においてゴブリンより悪辣さを見せるな。性愛の神は別に黒き神ではないというのに。

 なぁ、これは本当なのか? 胎でホムンクルスを育てろと言われたのは?」

「……本当だよ、全て」

「答えたくないなら別にいいが、そのホムンクルスは?」

「育成状態が悪いという事で、師が見分した後に私に引き渡されたよ。息絶えたそれを私も腑分けにした後、学院の森の中に埋めた。今は鐘楼塔が立っている辺りにさ、……骨も土に溶けきってるだろう」


 それが。

 今も彼女の心を痛ませる大きな傷の一つであった。

 大昔において、平民の魔術師の弟子というのは人間以下の扱いであった。そも研究者の道は狂気が渦巻くものであるが故、この様な事は往々にして起こりえるのである。


 胎に入れたホムンクルスを育てる中で体調を崩し、三日三晩父や母。家族の名を呼んだ事。

 心霊手術により摘出される様に生まれたホムンクルスを始めて見た時の感情。

 その遺体を自ら腑分けした時の感触。

 零れた涙。

 ……それは歴史書には残らない、残さなかった出来事である。


「狂う程、壊れる程にお前を苛む記憶。その癒えぬ心の傷がお前の力への執着の正体と見た」

「憎かった」


 ――がちり、という音が何処かで響いた気がする。

 それは歯車の狂う音、境界線を超える警戒音、何よりタガの外れる音だ。


「どれだけ仕返ししても、心の傷は癒えない。あの日あの時、あの瞬間にお前の心は傷んだまま凍ってしまった」

「辛かった」

「お前を傷つけた者はお前の辛さの万分の一も知らぬまま天寿を全うしたというのに、お前は今もこうして呪いの様に生きている」

「悲しかった、助けて欲しかった、解って欲しかった……私。私私私は……」

「だが、お前はこうも思ったよな。泥だらけの手で心に触れられるくらいなら、いっそ心など理解されたくないと」


 そこで。

 彼女の青い瞳が猫の様に大きく見開かれる。それを見て、バアクィルガは滔々と言葉を続けた。


「兎角、お前は人相が悪い。故に思ってもない事をそう思っていると言われ続けた。そうして、さかしら顔でお前の心を分かったつもりの奴等の解釈で、何回も何回も心を泥だらけにされ続けた。 だからこそ、お前は父母から与えられた名前を捨てて、枯れ得ぬ花の名をつけたのだな?」

「だって、もう誰にも傷つけられたくないから……」

「ならば、お前の業は深いな。お前にとっての救いがお前の苦しみを理解する事である一方、お前は本質的には誰にも理解されたくないと思っているのだから。

 そんな我儘を聞く人間など、この世にはおるまいよ――この私以外はな」


 自らが求めた全てのその顔で、混沌の神たるバアクィルガはにたりと笑う。

 対して、一言口にする度俯いていた彼女が面を上げた。


「お前の苦しみを他ならぬこの私が労ってやろう。混沌の神とて道理は弁えている、お前の悲しみをこの私だけが贖ってやろう。

 この世がお前の痛みを無視して築き上げられたのなら、それを全て無に帰した時。お前の涙は止まり、傷はようやく癒えるのだ。

 憎い相手がもういないなら、憎い相手の子を病にしろ。憎い相手の孫を不具にしろ」

「で、でも……その子達に私は何もされていない……」


 その言葉に、アスフォデルスという女の全てが詰まっているだろう。

 しかし、それを混沌の神はあえて手折る。


「何を遠慮する必要がある、これは正当な行為だ。親の罪を奴等が慈しみ綺麗な気持ちを託した相手に請求して、一体何が悪いというのだ。

 お前は正しい事をするのだ。病にした者が呻き、不具にした者が泣いた所で、一体何を心痛める必要がある」

「でも、私……」

「そうしなくては、痛みは何時までも消えぬぞ?」


 そっとバアクィルガは右手を差し出す。


「アスフォデルス、ただ一度この手を取れ。この手はお前の業を清算する裁定の剣だ。

 手に取れば、イシュバーンの魔王はこの世を焼き払う。

 ――お前にこの世を滅ぼす権利をくれてやろう、まことの名さえ捨てた憐れで愚かな少女よ」



 ×    ×    ×



 刻一刻と、イシュバーンの魔王の剣は鋭さを増していく。最初はただ力任せに締めるだけだった柄の握りも、各指の力の込め方や緩急が付き始めて来た。

 呼吸も荒々しく肩を上下する物から、徐々に細やかで繊細な物へ変わっていくのをファングインの右耳が動いて拾う。

 彼はその一突きを剣先を逆に――地面に向け――刃に左手を添えながら、後方に回避。

 しかし、その赤い刃が上に跳ね上がる。ファングインの後方への回避に生じる僅かな隙を突き、イシュバーンの魔王はたった数ミリながらも二撃目を入れた。


 瞬間、やったという感情が魔王の内に。まるで地下の伏流水が泡立つ様に湧き上がる。

 そして、流れ込むのは新たな記憶だ。


 ――ひとときは、エスカオズの夜である。

 暗殺と謀略を司る白貌の伝道師、バルレーン・キュバラムのふるさと〈隠し城〉。

 常人が足を踏み入れる事はない、彼らだけの聖域であるそこに彼はたった一本の剣で踏み込み、今はその中枢に辿り着いていた。

 枯れた荒野の地下に存在する、巨大な。あまりに巨大な黒曜石で出来た尖塔の数々。

 このエスカオズの土地一帯に眠るそれの名は岩舟という。遥か昔、バルレーン・キュバラムが異なる天より降り立った時に使われたのがこれである。


 この場に辿り着いた事は、どの様な理由であれバルレーン・キュバラムの敗北を意味する。〈紫鳶の座〉が闇の世界の栄光を手にする事は二度とないだろう。

 これは、〈紫鳶の座〉の落日を意味する。


 億年もの闇の中。鈴鳴りの音が木霊する。

 否、それは鈴の音ではない。

 剣と針がありえざる速度で撹拌する音である。


「やるね、剣士様。今のを防ぐとは」


 必殺の三射。

 首と胸と肝を正確に狙ったそれらを叩き落とした後、赤髪を左でまとめたバルレーン・キュバラムはそう言った。


「そんなに怖い顔するなよ、ユーファウナは無事さ。ボク、出来る暗殺者だよ。依頼主からも黒華姫は無傷で手に入れろって言われてるんだ」


 数ヵ月前、北の一大交易都市であるパルトニルを拠点にしていたゴーレム教団は壊滅した。

 劇的なるものが輝き、その壊滅に関わった彼を恨んだ教団の残党が復権の為、連れ去られたユーファウナの奪還と彼の暗殺を依頼したのが〈紫鳶の座〉のバルレーン・キュバラムである。

 そして、その中でも真なるバルレーンとも言われたのが彼女だ。


「遊びは何時だって簡単なのが奥深くて面白い。ユーファウナの身柄はある所に繋いである。さて、今から右手に取り出したのはそれが記された地図さ。手に入れたいのなら――」


 赤髪のバルレーンは右手に取り出した手の平に収まる程の羊皮紙を口に入れると、それを一気に飲み込んだ。そして空いた右手で腹部をさすり。


「ボクを殺して、お腹を裂いて取り出さなくちゃいけない。それ以外の術は認めない。ボクを生かした以上、ボクは君もユーファウナも必ず殺す。

 どう、楽しくて卑しくて刺激て――」


 そう言いかけた所で、彼女は自分の右頬めがけて飛んで来た真空の一斬を半足で見切って避ける。

 刃は頬を浅く掠め、一筋の血を流すだけで終わった。

 バルレーンはその血を左の人差し指ですくい、舌の上に乗せ味わう様に吟味する。数拍後、先程言葉に籠っていた興奮の熱はどこへやら。冷めた平坦な声音で彼女は淡々と所感を口にする。


「切れ味は十分、しかし影より遅い。わざと読ませて躱させた。……今の、明らかに手を抜いたね剣士様」


 彼はたった今誇りに触れたのだ。彼女の暗殺者としての誇り、白貌の伝道師としての誇り、人体専門家としての誇り、戦闘職業者としての誇り、人外としての誇り。……その全てに触れてしまったのである。

 なぜ彼が手を抜いたのか、それはバルレーンに分からない。単なる挑発か、それとも他に理由があるのか。だがファングインはこの時、決定的にバルレーン・キュバラムを敵に回したのだ。

 しかし、それは怒りではない事をファングインは匂いと鼓動で理解した。彼女の身に起こったのは興奮が明るく上へ昇るものから、暗く下へ落ちるものに変わったのである。


「理由は話さなくていいよ、別に。身体に聞くから」

 

 そして、血と肉が花の如く散る。

 時の制止した赤方偏移世界をバルレーン・キュバラムが駆けて針の一撃ちを狙うも、それをファングインが回転する石板の瞳が捉えた後、影が落ちるより速いという矛盾の剣により相殺される。

 これが都合三十四度目の事である。


「……」

「ねぇ、剣士様。君はどうしてユーファウナを助けようとする訳? アレを利用して立身出世でも目指す? 実は理想の正義に燃えてるの? 武人としての誇り? それとも――」


 くるりと右に一回りすると、赤髪のバルレーンの姿は黒いローブを羽織ったゴーレム教団の遺児ユーファウナ・ルアルフォス・アルンプトラその人の姿となっていた。

 黒い長髪に紫の瞳を揺らし、模られたユーファウナは一度その場に跪く。


「……剣士様は何故わたしを助けたんでしょうか? 慈悲なのですか、愛なのですか、それとも旅の合間に情でも交わしたのでしょうか? どうか貴方の戦う理由を教えてください、剣士様」


 ファングインはその幻影を斬り祓う。

 何度目かの交錯の中。破邪の加護がかかった剣の様に、何の変哲もない鉄のブロードソードを左下から右上にかけて走らせるとユーファウナの姿は、まるで糸玉が解ける様に消えて元のバルレーン・キュバラムに戻った。

 彼に言葉はなく、血に濡れていない刃を振り返り様に向けたのは――戦う理由を問うならばまずお前が話せという意思の表示であった。


「あー、ボク? ボクはね、バルレーン・キュバラムとして生まれたからだよ?」

「……」

「〈紫鳶の座〉のバルレーン・キュバラムとして生まれたから、組織の律と法に則って生きて戦って死ぬの。それ以外特に理由はないかな?」


 あっけらかんとそう語った自分の言葉を受け、僅かばかり瞠目する目の前の剣士を見ると彼女はにこやかに笑った。


「狂ってると思う? でも、大丈夫正気は無くても生きる意味はここに有るから。それにボクちゃん、割と戦うのって好きなんだよね――相手が殺し難い程燃えてくるよ」


 そこで彼女はあえて、攻撃を喰らってみる事にする。確かめたい事があったからだ。

 半歩、時間にしてほんの一瞬だけその場から動かなかった。瞬間、音もなく彼女の腹部に真一文字の線が刻まれる。

 その身体に刻まれた血の線が、命に届かない程浅いのは赤髪の暗殺者が躱した訳ではない。……その右手で傷を摩って止めた後、赤髪の暗殺者は先程と同じ声音で淡々と所感を口にした。


「もしかしてさ、ひょっとしたらとは思ったけど。……君、まさかボクまで救おうとしてない?」


 答えは帰って来なかった。ただ、それが肯定の沈黙である事は直感でバルレーンは理解した。

 ――とある者を示す言葉を借りるとするなら。

 ヤツは欲しない。ヤツは示さない。ヤツは語らない。たとえ、それが愛であっても。


「あー、マジ。割と卑しめなボクにも慈悲をかける訳? いや、別に戦う理由としては問題じゃないんだ。でもさ、こっちが殺す気で来てるのに、興奮する程楽しい戦いなのに、折角二人巡り合えたのに……君そういう事しちゃう訳?

 いいよ、そっちがその気なら先にこっちが本気になってやるんだ」


 彼女はそう言うと、睨み合い硬直する様に対峙する中で右手に一本の針を取り出す。そして光を放つ事のないそれを、自らの胸に深く突き刺した。

 後から知ったその行為の名は、『覚者の極』という。自らの寿命を代償に身体能力を増大させるバルレーン・キュバラムの破滅必至の奥の手である。一度打てば彼女とて例外なく死に至るに違いない。

 そこで、彼女は左に纏めた三つ編みの紐を解く。背中まで届くその髪は、まるで滑る様に後ろに流れた。


「改めて名乗るよ。〈紫鳶の座〉より参った、我が名は輝影のバルレーン・キュバラム。我が血族の掟に従い輝影の真名、告げた以上敗北は死を意味する」


 そこでファングインは気付く。赤髪の――輝影のバルレーン・キュバラムのその髪が、毛先から途端白に染まっていき、代わりに全身からは赤黒い血が絞られた果汁の様に滴り始めた事に。

 その異様な光景に、彼は剣を両手に握る。柄は右頬の横、半身を開き左足は前に。右足は後にして、目線は凝らして彼方の敵に。


「さぁ、交合う様に殺し合おうぜ?」

 

 それが再びの火蓋であった。ファングインが両手の剣で突きを放つ。しかし間一髪、輝影のバルレーンはそれを後方に回避し闇の中へ姿を消した。

 瞬間、一拍遅れて響くのは何重もの針が何かを穿つ音。


「剣士様、頭上注意!」


 そして落ちてくるのは、天井を支える岩の数々。驚きより早くファングインは緑のローブの裾を翻しながら、歩法で最小の回避を取る。

 しかし、そこでイシュバーンの魔王にファングインの感情が僅かに流れ込んだ。


 おかしい。この一刹那に攻撃する隙を三手作ったのに、それにかからない。

 これではこの瓦礫に何の意味もない。

 あのバルレーン・キュバラムが、この隙を見逃す等あり得る訳がない。……それは、たった短い間でお互いの手の内を見抜いたが故に生じた当然の疑問である。


「最小限の回避の中、三手わざと隙を作ったね」

「……」

「見え透いた手だ。意表を突くというのはね、――こうやるのさ!」


 瓦礫の雨の中、頭上から一際大きな音が鳴る。

 そこでファングインが目にしたのは、黒曜石の尖塔――目算でおよそ二〇メートル程の物が――根元に穿たれた一打の針から深い亀裂が走って折れ、自らに迫り来る光景である。

 万物万象に必ず綻びがあるのなら、それはかつて異なる天より降り立った岩舟ですら例外ではない。

 ただ一点、そこを突けば万物は崩れ落ちる。


「岩舟だッ!」


 なんという馬鹿げた戦いだとイシュバーンの魔王は思う。

 これが、これが人界の戦いだと言うのか。

 この先はどうなるのだ、と胸を高鳴らせた所で過去の記憶は途切れ始める。血の量が尽きかけているのだ。


 イシュバーンの魔王が最後に垣間見たのは、輝影のバルレーンが致死量を遥かに超える血の雨を降らせた後、土壇場で開眼したファングインの技を使い紙一重の、ほんの一瞬の得物同士の交錯を果たす姿だった。


「この技を……名づけるなら花の剣。ボクを前にして見せすぎたのが命取りだ!」


 あらゆる運動量を零にする魔技。そして彼女は一刹那の中で刃から針を走らせ、対敵の腕を目掛け針を放つ。

 狙うは絶技・暗命剣。針を刺した箇所から経絡を通じて全身に魔力を流し、あらゆる点穴を突いて絶命させる〈紫鳶の座〉の秘奥だ。

 対するファングインは両手に握った剣を左側に靡かせ、向かい合った輝影のバルレーンに対し疾駆する。


 何を狙っているのだこの剣士は――魔王がそう思った所で記憶の光景は途切れて闇。

 その中で、声だけが木霊する。

 ありえざる物を見たのだろう、生温い幾許の間の後。瞠目の声が上がった。


「ねぇ、今何をやったの……」


 冷たい戦慄が走る声だった。


「ねぇ、どうやってやったの今の!? お、教えてよ! 君は今何を斬ったんだ! ま、待って! 待ってよぅ!」


 それは遊びに置いて行かれる子供の様な声だった。そこで記憶は醒める。

 一瞬の追憶が醒めて修羅。向かい合ったその先には、記憶と同じ姿の剣士がそこにいる。

 あの瞳、あの転輪する石板の魔眼。先程の記憶を見た時には気にも留めなかったが、今となっては解る。

 あれは、何かを見定める為の目だ。それが何かは知らぬ、だがこの男はこの状況でも何かを隠し持っているに違いない。

 

「面白い……」


 この先、何が出ようが既に賽は振られたのだ。

 如何なる出鱈目があろうとも、常軌を逸し、人知を超えた物が出てこようとも最早何も驚くまい。今はただ逸る気持ちを抑え、一介の剣士として一撃ちを狙うだけである。



 ×    ×    ×



 全ての事を終わらせた後、赤髪を風に晒しながらバルレーン・キュバラムは魔王城の上で行われる奇妙な戦いを遠く離れた巨岩の上で見ていた。

 その背後に気配が一つ。誰が来たのかは自ずと解る。


「早かったね、赫燕」

「――禁呪指定禁令測覚、普賢則観施求」

「ここでは諸人の言葉で話せ」


 振り返りもせずそう言うと、赤髪のバルレーンは背後に立った白髪のバルレーン――赫燕のバルレーン・キュバラムに対しそう言った。

 バルレーン・キュバラム達にはもう一つ名前がある。バルレーン・キュバラムが姓であるとするなら、輝影や赫燕というのが個人を示す名である。

 この真名をみだりに明かす事は禁じられており、〈紫鳶の座〉でもごく親しい者しか知らない。……白髪のバルレーンの真名を告げたのは、即ちそれが輝影のバルレーン・キュバラムその人である事の証左となる。

 対したった今白髪のバルレーン・キュバラムが話したのは、高位の者に話す際に用いられる典礼言語だ。しかし、今は〈隠し城〉は落ちて〈紫鳶の座〉は壊滅した。諸人の言葉で話せと輝影のバルレーンが止めたのは、野に放たれたバルレーン・キュバラム同士で何を気遣う……という考えからである。


「……姉様、お久しぶりです」

「元気そうだね」


 普段の世俗の言葉が一切抜け落ち、赫燕のバルレーン・キュバラムはおずおずとした調子で話し始めた。

 〈紫鳶の座〉のバルレーン・キュバラムには、その実階級がある。それは大きく分けて三つ、兵士と戦士と女王である。

 幾ら可愛がってくれていたとは言え、最下級の兵士階級である彼女は高位の女王階級――開祖に比肩するとされる真なるバルレーン――を前にすれば萎縮の一つもする。


「そこまで緊張するなよ、折角身に着けた言葉も抜け落ちているよ」

「し、しかし……」

「案ずるな、もう〈紫鳶の座〉は亡い。ここにいるのは血統書付きの飼い犬と、野に放たれた野良犬の二匹だけさ。兵士も戦士も女王もないのだ、気負う必要はあるまいて」


 笑いを浮かべてざっくばらんに話す輝影のバルレーンを見て、赫燕のバルレーン・キュバラムは一度息を大きく吸うと再び話始めた。


「……正直、生きていらっしゃるとは思いませんでした。エスカオズを離れて数年が経ちますが、風の噂では異邦の剣士に敗れ果てたと」


 赫燕のバルレーンが何故アルトリウスの一党に加わり、冒険者として働いているのか。それはアルトリウスの数代前の祖先と〈紫鳶の座〉が結んだ約定からである。

 その約定に基づいて、彼女はエスカオズを離れたのだ。彼女の置かれた状況はほぼ隔離と同じであり、〈紫鳶の座〉や輝影のバルレーン・キュバラムに何があったのか知ったのはつい最近の事であった。


「それ信じたの?」

「はい、姉様の仕事の話があの一件以降ぱったりと途絶えましたが故」 

「まぁ、生きてるって事以外は全部当たってるね。暗殺稼業は廃業、〈紫鳶の座〉は壊滅、岩舟は完全粉砕し、……ついでに弟との結婚話もパーに」

「え、ど……どういう意味ですか?」

「あれ、言ってなかったっけ? ボクちゃん、あのまま行ったら長老達の命令でボクの血統を保つ為、弟と結婚させられる事になってたんだよ。

 で、子供も多分五人くらいは作らされる事になってたね」


 明るい笑い話の様に明かされた事実に思わず絶句する赫燕のバルレーンを見て、輝影のバルレーンは赤い髪を弄りながら我が妹分は随分世俗に染まったなと思う。

 バルレーン・キュバラムに正気という物はない。常に人の世の理解を超えた所にいるのが、暗殺者バルレーン・キュバラムなのだ。

 こうして血統配合の話で衝撃を受ける辺り、アルトリウスの一党は暗殺者としては赫燕を鈍くしているが、一人の人間としては大分――自分よりも遥かに真っ当にしているのではないだろうか。


「いやー、呪われた一族ここに極まれりだよね。でも亡くなって良かったと思うよ、我が弟も「姉貴の事は好きだけど、ツガイ相手としては嫌よ」って言ってたしね」

「……変わられましたね、姉様」

「そう? どこら辺が?」

「昔の姉様でしたら、バルレーン・キュバラムの生き方に何の疑いもなく忠を尽くしておりました。殺す事も、生きる事も、死ぬ事すらも……姉様と〈紫鳶の座〉は不可分でしたから」


 赫燕のバルレーンが知る輝影のバルレーンからは、〈紫鳶の座〉が亡くなって良かったという言葉は出て来なかった。

 果たして彼女に何が起こったのか、赫燕の知る手がかりはただ一つである。


「姉様、あの剣士と何があったのですか?」


 ――その時、輝影のバルレーン・キュバラムがその技の気配を感じたのは一度彼に斬られていたが故である。虫の知らせの様に彼女にはそれが解った。


「……大きく、動き始めたな。存外手間取ってると見た」

「何が、ですか?」


 赫燕には何も感じていない。空気の一粒すら先程と変わらないというのに、突如何かが起きた風に装う姉貴分に彼女は戸惑った。そんな赫燕に対し輝影のバルレーン・キュバラムは一度嫣然と笑う。


「さっき、良い質問をしたね。あの剣士と何があったかってさ。実に良い質問だ、特別に見せてあげるよ」


 そうして身を竦ませる白髪の妹分との距離を一瞬で詰めると、輝影のバルレーンは両腕で彼女を抱き、自らの胸元に顔を埋めさせた。

 そこに刻まれた、とある物に触れさせる為に。


「な、何をするんですか?」

「ボクと呼吸を合わせろ、胸の鼓動も。全知覚を集中してそれを掴み取れ。……大丈夫、一瞬とは言え時の門を垣間見たお前なら出来る。

 ここまで大きな動きの中なら、ボクならばお前に見せる事が出来る」


 有無を言わさぬその言葉に、赫燕のバルレーンは言われるがままにする。呼吸を合わせ、肉体の鼓動を彼女に合わせ、目蓋を閉じて全知覚を集中する。

 やがて、不思議と瞑った目蓋の裏に光を感じた。そして赫燕はその色、その音、その温度、その手触りで感じる。

 輝影のバルレーンに刻まれた、厚さは既に概念の域に達している僅かな存在のズレ。例え輝影のバルレーンでも再現する事は不可能である業の後。それは確かに■■■であった事を彼女は知覚する。


「いいよ、ゆっくりと目を開けろ」


 声と共に目蓋を開くと、赫燕の目に飛び込んできたのは――


 光があった。月があり、太陽があった。

 一瞬、たった一瞬の内に全てが移り変わる。

 全ては絶えず変移する。

 一またたきの内にその場に赤い花の蕾が生まれ、木には蝶の蛹が付いていた。もう一またたきすると、蕾は花開き、蛹は羽化し周囲に青い羽の蝶が羽ばたく。


「こ、これは……?」

「森羅万象の組み換え、特異点の証、弾き出される自然の綾模様、あらゆる物事はこの上を生きている……今お前が見ているのは時よりも細かい粒の世界が明滅する様さ」


 ――ファングインがその技を放つ時には一定の予兆がある。空気は底冷えし、魔力は冴え、周囲の動植物がざわめき始める。

 それまで蕾だった筈の赤い花が一瞬きの後に花開き、木で羽化を待っていた蛹がいつの間にか空になり蝶として羽ばたいていた。

 ユーリーフとバルレーン。そして赫燕以外には最初から花は枯れており、蝶が羽ばたいていたのである。それは因果を斬られた彼女達にしか解らない特異点の兆しだ。

 本来は人が認識できない光景である。


「な、何なのですか! 教えてください、姉様!」

「これの名はね、運命というのさ」


 そして運命の環が流転する――

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