18話:決戦のゆくえ(下)
「皆の者、一気呵成に叩く! 今が好機ぞ!」
岩石の鬼がそう叫ぶと、彼が率いる鬼の集団は歓声を以って応えた。この騒ぎを聞きつけた他の集落の鬼も次々に馳せ参じ、現在は鬼だけで千人近くに膨れ上がっていた。
年老いた者も、年幼い者も、男も女も、ここ等にいる鬼は全て結集したと言って良いだろう。誰しもが通常の三倍程膨れ上がり巨岩程の大きさになった猪や、猩々や大蜥蜴等の魔獣に跨って骨で出来た武器や防具を身に着けていた。
「そなたには一番槍を譲ろう! あれだけの威力を持つ魔王様の御業を生き残った者がおれば、さぞかし殺し難いだろう! 心が躍るだろう?」
「何でもいい、相手が何であろうがククルは犯して殺すだけだ」
岩石の鬼は、自らが跨る角の生え七色の毛並みを持つ大鹿の上で傍らにいたククルにそう話しかける。
ククルはと言えば、先程スタンピードを起こす時に乗っていた赤い飛竜に跨っていた。不意に、彼女の飛竜が首を左右させ鼻腔を広げて不安そうな素振りを見せる。
これ程の大きさの飛竜と言えば、本来であれば強靭であるが故に慢心し意気軒高である事が多いのだが、……少し妙に思って岩石の鬼はククルに尋ねた。
「どうした、その竜。調子が悪いのか?」
「解らぬ、元々少し前に怪我をしてる所を拾ったのだが……何か手酷い目にあったらしく、怯え癖が付いているのだ」
ククルの言う通り、左右の前足には切り傷の手当跡がある。薬草を磨り潰し、傷跡を埋めているがその量から察するに相当深い傷を負っているらしい。
「なるほど、どうする? 魔獣を変えるなら待つが?」
「皆を待たせるのが悪いからよい、ククルはこいつで行く」
そう応えた後にククルは首元を両腕で軽く締める鬼流の御し方で、怯える飛竜を宥める。それで何とか言う事をきかせた後、ククルは皆と共に戦場を駆け始めた。
彼等が神殿殻を離れた直後、少し離れた地点から対向線上から馬を走らせる十数名程の一団を目にする。一番前には金髪を風に晒した冒険者がいる。鬼の数名がその名を呟いた。
アルトリウスだ、双剣遣いのアルトリウスだ、と。
「急いでる様だ、通してやれ」
岩石の鬼がそう言うと、彼に付き従う鬼達は皆魔獣を手繰って左右に分かれ道を空ける。直前まで険しい顔を浮かべ十字槍を構えていたアルトリウスは、突如空けられた道に一瞬虚を突かれるも、直に真顔になった。
悪態は吐かず、そのまま後続に手振りで続く様に示し、そのまま神殿殻の門へと駆け抜けていく。
「ふむ、アレが双剣遣いか。評判通りの男だのう」
「い、いいんですか通してしまって?」
冒険者の一団が通り抜け、再び道の真ん中に戻った後。集団の中の年若い鬼の一人が岩石の鬼に恐る恐るそう尋ねる。
「魔王様にも無聊の慰めが必要だ、通してやらねばそれこそ不忠だ」
「でも、相手はアルトリウスですよ?」
「相手にとって不足なしではないか。あの者ならもしやもあるかもしれん――本気にならねば無聊の慰めにならぬ、それは我らも同じ事よ」
もう既に岩石の鬼は後方を見ていない。彼の目に映るのは、数キロ先の戦場、そして更にその先にある迷宮都市イシュバーンである。
……そうして、鬼達が戦場に混じり始めた。
――――。
――。
戦場に加わった鬼共は欣喜雀躍するかの様に暴虐の限りを尽くした。
隕石群の猛襲により全滅一歩手前まで追い込まれ、それでも生き残った冒険者や領軍をここぞとばかりに苛み続ける。
その場にいる適当なゴブリン兵やコボルト兵の首を適当に引き千切り、人間で的当て遊戯を行う者。巨人の骨で出来た大刀を振り回して只管屍山血河を築く者。執拗に右耳だけを狙って殺す事もなく集め続ける者。
岩石の鬼と言えば、魔獣から降りるとその膂力を生かしその場に転がって未だ赤く燻り続ける巨大な隕石を両手で抱えると、満身の力で放り投げて遥か遠くイシュバーンの城壁近くで、ほぼ唯一生き残ったバリスタのゴーレムに直撃させ粉砕する。
まさに犯して殺せというカロンの言葉の通りの光景であった。
更に冒険者や領軍にとって厄介だったのは、鬼以外の増援である。先程ヘカーテが相手にしていた巨人兵が六体。それが更に戦場を地獄に染め上げる。
その中で勿論ククルもまた、飛竜から降り地表で暴れ尽くす。
彼女の赤い目に映っていたのは、隕石群の墜落を経て尚健在のヘカーテ・バルバトスである。懸命に斧を振り下ろし、複数を相手取り何とか巨人兵を減らそうとしているその姿を見て、彼女はにたりと笑う。
「うん、アレがいい。あいつは派手だ」
そう呟くと、彼女は丁度足元に転がっていた適当な冒険者の死体を拾い上げると――
「おい、そこのデカいの!」
そう叫び、脊髄反射で首を振り向いたヘカーテの顔に向けてそれを思いっきり投げ付けた。咄嗟の事で防ぐ事も適わず、死体弾の直撃を喰らいそのあまりの衝撃と威力に彼女の兜が一部爆ぜる。
砕け散った箇所からヘカーテの右の顔半分が覗いていた。
ククルはその隙に巨人兵の足元まで搔い潜り、その右足の脛を助走をつけ全身で弾丸の様に蹴り飛ばした。護衛団の加護を掛けられた彼女の身体能力は常以上の力を発揮し、本来なら同じ事をしても弾かれる筈であるが、今この度は脛の骨を砕くに至る。
途端、巨人族の女戦士は姿勢を崩しその場に倒れ込む。
「ヘカーテ!」
同じく、巨人達から比べれば木端程の身でありながら跳躍力を生かし、巨人と戦っていたメルドレリアが肩の上から思わずそう叫ぶ。彼もまた大鐘楼塔から駆け付け戦場に加わっていた。
「美事! 美事であるぞ、ククル!」
たった今彼女が起こした偉業に、各々残虐に酔いしれていた鬼達も我に返り歓声を上げた。
ヘカーテはそこで集中力が途切れ、元の矮躯へ収縮し始めていく。彼女の様な巨人族は身長の伸び縮みが切り替えられる代わりに、一度集中力が途切れると自らの意に関係なく強制的に元に戻る性質を持つ。
まさしく、今のこの通りに。
「なんだ、お前縮む感じの巨人だったのか……殺し甲斐がないなぁ」
元に戻ったヘカーテに対し、気が抜けた様にそうは言うものの、赤髪の鬼は巨人兵達を左手で制しその場に転がっていた槍を右手に取って止めを刺そうとする。
ヘカーテはと言えば顔に苦悶の表情を浮かべながらも後ろの両腕で即座に上半身を起こし、前の両腕で斧を構えて立ち上がろうとする。先程使っていた空飛ぶギロチンは、生憎明後日の方向に転がっていた。
「ヘカーテ!」
肩の上からそれを見ていたメルドレリアは、ミスリルの弓に矢を番えるもそれは、乗っていた巨人が身を震わせ払い落そうとする事で適わなかった。
少し離れた所ではメルドレリアと同じく大鐘楼塔から来たパルベッドが神馬で駆けながら矢の魔術で応戦してるが、次々にやって来る敵に射線を塞がれる。アルヴリンはそこから更に離れた所で、複数の鬼を相手取っており、時を早めて駆けても間に合いそうにない。救援は望めなかった。
ククルが槍を振り上げたその時である。
「そうか。なら、今度はウチが相手や」
瞬間、彼女の背後に差す影から細い――まるで髪の様な――針が三本投射される。
その思わぬ強襲は流石に躱せず、背中に三射針が撃たれククルは思わず身を縮ませる。それと同時に赤髪の鬼の背後の影は途端その身を厚くし、止めの一撃を刺そうとする。
しかし、流石にそれはククルも許す事は出来なかった。獣を彷彿とさせる死に物狂いの敏捷を発揮し、向かって左の方向に逃れる。そのまま独楽の様に二度程回り、丁度ヘカーテと現れた影を一度に見れる位置まで。
彼我の距離は四メートルまで開いた。
「どうした? さっきまでの威勢の良さはどこに行ったんかなぁ?」
そこにいたのは白髪を腰まで伸ばした少女だった。背丈はヘカーテと同じ程の、一五〇センチ。顔以外の全身を黒い革鎧で包み、右腕を前にし両腕を互い違いに組んで佇んでいる。
両手には先程ククルに刺したのと同じ髪の様に細い針が一本ずつ握られている。
そう、それはつい数時間前に相手にしたあの女盗賊の様に。
「お前……何者だ?」
「〈紫鳶の座〉より参った。我が名はバルレーン・キュバラム」
動かぬ右腕を左手で抑え、尋ねて返って来たのはその言葉。
冒険者アルトリウス一党、最後の一人――バルレーン・キュバラムがそこにいる。
「……ありがとうございます、バルレーン。助かりました」
「すまんな、ヘカーテ。神殿殻の偵察やらアルトリウスの送り届けやらで、えらく時間がかかってしもうた。ここはウチに任し、ヘカーテは外れな」
そう言いながら、白髪のバルレーンはククルからは目を外さず背後から自分とヘカーテに襲い掛かろうとしたゴブリン兵に針を投擲し仕留める。
ヘカーテはとバルレーンにそう言われると、斧を杖にしてその場から離脱する。十数歩歩いた所で、釘付けにされていた敵を片付け自らにヘイストを駆けて辿り着いたアルヴリンが回復魔法をかけ、その間襲い掛かる敵はメルドレリアが何とか放った矢で次々に斃れていった。
「バルレーン・キュバラム? お前、本当にバルレーンか?」
「疑うなら、試してみるか?」
訝しむ声にそう応えると、刹那ククルの前からバルレーンが消えた。
それと同時に右が死ぬ感覚が走る。勘の働くままに闇雲に跳躍すると、一拍遅れて音もなくバルレーンがそれまでククルの首筋があった所に針を刺す。
「外した」
そう呟くと同時に、再びバルレーンが姿を消したかと思うと再び勘が働く。今度は駆けているククルの右側に併走し、真横から針を投擲する。
流石にこれは避けられず、ククルは咄嗟に利かぬ右腕を無理矢理振り上げ顔を守る盾にした。バルレーンは更にそこから、右に突き刺さっていた巨大な両手剣の刃目掛け跳躍すると、それを足場にし左へ更に跳躍。ククルの前に回り込む形で、彼女の首を狙う。
しかし、赤髪の鬼は間一髪わざと体勢を崩し、尻から転げてバルレーンの右脇の下を滑り込む様に躱す。
「ちょこまかと、鬱陶しい!」
苛立つ様に吐き捨てるバルレーンに対し、そこでククルは少しの違和感を覚えた。
このバルレーンは先程のバルレーンじゃない。
一瞬目の前のそれは先程のバルレーンで、この戦いは自分をわざと生かし、遊びがてらに殺すのではないかと思った。しかし、言動から察するにこのバルレーンは本気で殺しにかかっているらしい。
先程のバルレーンなら、この様な事を言う前に殺しにかかっている筈だ。隙の取り方と良い、明らかに雲泥の差がある。
しかし、一方で――
右腕に突き刺さった一本を抜く。髪の様に細く軽い針。常人には到底扱えぬそれは、間違いなくバルレーン・キュバラムの得物である。
否、とそこでククルはかぶりを振って雑念を払う。これらは全て余計な事である。相手がどの様な者でも関係ない、自分が行う事はただ一つ。こいつを確実に殺す事だ。
「来い!」
ククルは虚空に向け、一度そう叫ぶ。それに対しバルレーンは一瞬疑念の顔を浮かべるが、直にその意味を理解した。
上空を這い回る様に飛んでいた赤い飛竜が、ククルとバルレーン目掛け急速に滑空してくる。徐々に接近してくる飛竜の乱杭歯からは、赤い焔が僅かに漏れ出している。
そして、全てを焼く焔が奔る。
上空から浴びせられる竜の吐息は、バルレーンがいる一帯全てを焼いた。混沌神の加護により通常は木や獣を焦がすだけの飛竜の吐息も、現在は鉄すら容易に溶かす程である。ゴブリン兵も残っていた冒険者も一度焔に呑まれれば、灰も残らず消え去っていく。分厚い鎧を身に纏った巨人ですら、その焔に思わず慄いた。
ククルは、白髪のバルレーンが気を取られた一瞬の隙を突いて跳躍し、滑空して近づいてきた飛竜の背に乗る。
「よし、偉いぞ」
そして再び宙高く上昇する中、自らの窮地を救った飛竜を労う為に撫で、優しげな声音を取ってそう言った。
飛竜の放った焔は轟々と勢い良く燃え盛り、地表を赤く染め上げている。ついさっきまで戦っていた白髪のバルレーンの姿は見えない。
やった、という思いが一瞬彼女の中に浮かんだ。
しかし、その考えは首を左右に振り突如怯え出した飛竜によって掻き消された。
――地表に、何かいる。
× × ×
飛竜が地表を焼く少し前――
男はアルトリウスに集められた冒険者の一人であった。本来であれば、冒険者としての誓約が無ければ速攻で逃げ出したかった。それでもこの場に来て短槍の柄を最後まで離さなかったのは、最早意地であった。
ただただ惨たらしく殺される位なら、一矢報いてやる。その覚悟の結果が乗っていた馬の頭が吹き飛ばされ、死体に右足が挟まれ身動きの取れない状況である。しかも十数メートル先では飛竜が口に焔を湛えている。
時ここに至り、恐怖から思わず目蓋を閉じた。自分はこのまま焼け死ぬ、そう思えば目の一つでも閉じたくなったからだ。
だが。
「で、実際の所偏見は身を守ってくれた? おっちゃん?」
聞き覚えのある声が響いたと同時、ありえない程強い力で馬の死骸から無理矢理引っ張り出された後、明後日の方向に放り投げられる。
身体は百メートル先まで飛ばされ、最後には地面を転がり背中と後頭部を岩に叩きつけられた所でようやく止まる。
――意識を失う前の一瞬間、霞んだ目でありえない者を見た。
× × ×
「う、嘘だ」
ククルの目にも、ありえない者が二つ映っていた。
一つは白髪のバルレーン・キュバラムが健在な姿である。彼女の頬は煤けてはいるものの、未だ意識すら手放す事なく生きてそこにいる。
もう一つは赤い髪のバルレーン・キュバラムが健在な姿であった。焔の中で、殺した筈の彼女は焔と同じ色の髪を晒しながら白髪のバルレーンを両手で抱きかかえていた。
「ね、姉さん……アンタ一体」
白髪のバルレーンが目を丸くし、上ずった声でそう言いかけるも、あまりに突然の事で言葉が続かない。
「何故だ、お前はあの時死んだ筈だろう! 何で生きてるんだよ!」
「安い台詞だね、まさに三下丸出しの台詞だ。また青髪の鬼に怒られちゃうぞ? でもそれに答えちゃうのがボクちゃん」
そこで一息置いて。
「――我が名はバルレーン・キュバラム。この身体は理念で出来ている、瓦礫も赫炎も効かぬよ……」
それこそ、まるで舞台役者の様に彼女はそう答えた。白髪のバルレーンは知っている、今鬼に放たれたその言葉は間違いなく彼女がいた〈紫鳶の座〉でのみ使われる符牒である。
間違いない、この女も正しくバルレーン・キュバラムなのだ。
「何をしてる! やれ、巨人共!」
ククルの取り乱したその声に呼応する様に、巨人兵の二人がメルドレリアが惹いていた注意を振り払って赤髪のバルレーン目掛け剣と斧を振りかぶりながら駆け寄る。
しかし、その寸前彼女は右手を素早く走らせると向かってくる巨影に向かってある物を投擲する。
大きさは十センチ程。それは真鍮で出来た鎧騎士の人形だった。右手にメイスを、左手に盾を持ち。全身には古代語による呪文と魔法陣等が細かく刻まれている。
「“騙るが故は、この身に流れる清き血が由縁なり。我、神の名においてこれを鋳造する。目覚めよ、汝の名はアンオブタニウ・ゴーレム”」
そこで大地が隆起する。まるでその場で仰向けで眠っていた者が起き上がるかの様に、腕や足や顔や胴が轟音を上げて構築されていく。
現れたのは巨人達と同じく二〇メートル程の、巨大な黒鉄の騎士像であった。右手にはメイス、左手には薔薇の刻印が施されたカイトシールドを構えている。
突如現れた巨大な黒鉄の騎士に、一瞬巨兵達は呆気に取られるものの、駆足を緩ませず突貫した。
振り下ろされる剣の刃を左の盾で受け、斧を振りかぶった巨人の顔に右手のメイスを叩き込む。先程ヘカーテが鎧の隙間を縫い生身の部分を狙う事で斃したが、疑似的とは言えオリハルコンを再現したアンオブタニウムは混沌神の加護を突破し顔面にめり込む。
返す手で、剣の巨人の兜目掛け槌頭を振るう。槌頭に付けられた刃は板金を突破し、兜ごと頭蓋を叩き潰す。……元来、メイスとは鎧騎士を相手にする為作られた武器である。振るえば肉も骨も砕かれて当然だ。
「そりゃ、魔力は無限とは言え。本当何でも有りだね、賢者の石って」
賢者の石より莫大な魔力を引いて作られた、巨大なアンオブタニウム・ゴーレムはそのまま残った四体の巨兵にメイスと盾を向けて歩みを進める。
一度その周囲を巨鳥のゴーレムがぐるりと回る。そこにはユーリーフが乗っており、手振りで短く奴等を相手するとバルレーンに伝えた。事前に取り決めた手筈通りである。
赤髪のバルレーンはそこで目線を再度空を飛ぶククルに向けた。
「あ、そうそう。今君飛竜に乗ってるけど、降りた方がいいよ?」
「何だと?」
「それ吹き飛ぶから」
彼女がそれを伝えた理由。それは、ククルが丁度彼の進行方向にいるからだ。
ククルがその赤眼を彼方へ向けると、一騎の影が彼女に向かってやって来るのが見えた。影は直に晴れる。
現れたのは白銀の髪に、白銀の剣。そして魔力が満ち溢れる事により蔓草の紋様が白く輝く深緑のローブ。
「うー」
カロンが待ち望んでいた剣士であった。乗っているのは天然の馬ではなく、騎士像と同じ黒い光沢を放つゴーレムの馬だ。
左から覗く琥珀の瞳に冷たい光を湛え、彼は腰に差した数打のブロードソードを右手で引き抜くと、それを顔の横に構えククルに付き出す。
あの時、赤髪のバルレーンと同じく瓦礫の底に埋もれた筈の剣士は何一つ傷つく事なくそこにいた。
「お、お前傷一つ無いのか!」
カロンが剣士を生きていると断言した事は疑ってはいなかった。しかし、建物半分もの瓦礫に埋めたのだ。最高でも片手一本は駄目に、最低でも何らかの傷は負っているだろうと思っていた。……幾ら何でも無傷などあり得ない。
ククルの内心の焦りを感じ取ったかの様に彼女達が乗る飛竜が恐怖の叫びを上げ、激しく身じろぎをする。
飛竜も知っていた、この剣士に会ってもいた。今から幾度も前の月夜の昼、人間の娘を襲った時に。両前足に深い切り傷を恐怖と共に刻んだ事を覚えていたのだ。
【――――ッ、――――――!】
「や、やめろ! ククルの言う事を聞け!」
ククルが止める声も聞かず、恐怖に駆られた飛竜は焔を吐き出す。しかし、ファングインはゴーレム馬を止める所か更に加速。右手の剣を閃かせると、たった一閃で鉄すら優に溶かす竜の吐息を打ち消した。
そして彼は左に握った手綱を手繰ると、先程ユーリーフが倒し地面に倒れた巨人を足場にゴーレム馬を跳躍。さらにゴーレム馬すら足場に、更に跳躍。空を飛ぶ飛竜の腹ぐらいの位置まで単身辿り着く。
その瞬間、彼は剣の柄を両手で握り、右胸の横に構えて放った。
両刃の剣身は本来あり得ない程の鋭さを以って、刀身の半分まで竜の胴に滑り込む。
――刹那、飛竜は破裂した。
「ファンが両手で剣を握った時には注意だよ。竜だろうが、城だろうが、神鉄の巨兵ですら打ち破る」
四散し次々落ちてくる飛竜の血と肉と骨、そしてその上に墜ち身体を転がって来たククルに対しバルレーンは笑ってそう言う。
一拍遅れてファングインが再びゴーレム馬の上に跨った。先程まで握っていた剣は既に腰の鞘の中、緑色のローブには血や肉片どころか土埃すら付いていない。
その不条理さに白髪のバルレーンは腕の中、ククルは飛竜の臓腑に塗れ痛みに喘ぐ中で瞠目したまま、東に向かって駆け去る彼を見送った。
「だから言ったしょ? って聞こえてる?」
「――、――ッ」
「さしもの護衛軍の加護を受けても、あの高さから墜ちればちょっとキツいか。うん、解った――それじゃちょっと時間潰してるね」
そう言うと、赤髪のバルレーンの姿がそこで消える。腕の中に収まっていた白髪のバルレーンは、放り出されその場で尻もちをついた。
次の瞬間、ひゅぱっという音が聞こえたと思うと十メートル程の年若い男の鬼の身体が地面に落ちる。白髪のバルレーンが何が起きたかを推測する前に、次は年老いた女の鬼が地面へと。……意識より早い速度で次々と――あれだけ猛威を奮っていた――鬼が倒れてゆく。
やがて、音すら途絶え始めた。最初甲高かった音は徐々に低くなっていき、やがては零となった。
「何だ! 何が起きている!」
そう叫んだ中年の男の鬼が、次の瞬間地面に伏した。首に何かの感触が走ったかと思うと、瞬間力が抜けて最後にはぷっつりと意識が途切れる。それを知覚した時には既に死んでいるという不可解さ。
その時、白髪のバルレーンはたった一刹那。偶然天の理と地の理と人の理が嚙み合った、一瞬間だけ知覚し得ない筈の影を垣間見る。
つまりは、先程まで自分を腕の中に収めてた赤髪のバルレーンが鬼の首から髪より細い針を抜く刹那を。
そして、彼女の姿が再び掻き消える。
「やりおるのう! まさかこれ程の者がいるとは読めなかった!」
次々音もなく同胞が死んでいく光景に、岩石の鬼は歯茎が覗く程の笑みを浮かべる。そして目を瞑った。
集中し辿るのは目でもなく、耳でもなく、鼻でもなく、舌でもない。万年の時をかけ築き上げた自らの肌だ。
僅か一刹那、万分の万分の一にも満たないその時の後ろ――
「狙う時は必ず背後から首に、というのは幾ら何でも戯れ過ぎだったな」
「……やるね、君」
閉じていた目蓋を空け、背後に立つ死神に向けて岩石の鬼はそう言う。しかし後ろ首に回した右手には針が突き刺さり、それは手の平を貫通して首元に深々と達していた。
バルレーンは音もなく引き抜くと、岩石の鬼の身体はその場で崩れ落ち、そこで事切れていた。
「我らバルレーン・キュバラムの秘奥の一つ、〈時霞〉を見破り、あまつさえこの身と言葉を交わすとは。さぞかし名のある鬼と見た、――ボクは敬意を表するよ」
何時もの陽気さを、先程まですら出していたそれを一度押し込め、バルレーンは厳かにそう言う。けして破れない筈の技を破った鬼に対する紛れもない敬意の表れであった。
不意に彼女の耳が同時に二つの声を拾う。一つは白髪のバルレーンの「いや、まさか」という声。もう一つは――
「お、お前! 今何をしたッ……!」
声を目で追うと、そこには今も痛みに悶えながらも赤髪の鬼が血溜まりの中からよろけながら立ち上がっていた。それまで頭に乗っていた飛竜の肝臓の破片を力の入らぬ右手で払い落し、肩で息をする様は少し弱々しく感じる。
バルレーンはククルを優先し、言葉に陽気さを戻して答える。
「何って時間潰しだけど? ユーがあんなに働いてるのに、ボクだけこのままっていうのは流石にね」
バルレーンが右手でククルの後ろを指差すと、そこには二体の巨人兵を相手取るアンオブタニウム・ゴーレムの姿があった。
六体いた巨人兵達は、既に四体地面に沈んでいる。
「そうじゃない!」
否定の言葉が入ると、今度こそ合点が行ったというわざとらしい素振りを見せ彼女は答えた。
「生き物の身体って言うのは、常に三割程度の力で動いている。頭は一秒で約一千万の物事を本来なら切り分けてるが、実際は七つぐらいしか知覚していない。
バルレーン・キュバラムって言うのはね、そうした枷を自由自在に外して肉体を操る事が出来るのさ。
頭の機能を上げ、身体に魔力を通す事で知覚できない筈の時の隙間をこじ開け自由に動く。身体に魔力を通し、顔や体型や体構造を自在に変える。――肉の身体を持つ以上発生する急所を突いて、的確に標的の身体を破壊するなんて事もね」
「化物がッ……」
「化物同士仲良くしようぜー? だって、ここにいる人間以外はもう君とボクしかいないんだからさ」
笑ってそう返されると、ククルは思わず言葉に詰まる。ふと気付くとアレだけいた鬼達も、巨人も、ゴブリンやコボルト達ですら皆屍に変わっていた。
全員、斃されたのだ。今目の前にいるこの怪物に。
その事実を認識した時、赤髪の鬼は思わず声を引き攣らせた。
「ボクとユーの役目は、つまり余計な敵を減らす事でね。大盤振る舞いで技を見せたのも、あまつさえペラペラ話しているのも――君は殺すと決めているからだよ」
「くッ……」
「あの青髪の鬼や、さっきの鬼は苦境を楽しめる度量があった。あれこそ鬼の鑑と言って良いだろう。君はどうだい、楽しんでる?」
本当はここで逃げ出してしまいたかった。ククルとて鬼の端くれである、自分と目の前の怪物との実力差は解っている。更には飛竜を四散させたあの剣士までいるのだ。
しかし、ここで逃げてしまえばカロンの残した言葉に背いてしまう。……顔が歪む程の渋面と、自らの奥歯を噛み砕く程の葛藤の果て。彼女は力の入らぬ右手を前に、残った左を腰の横に置いて構える。
「喰らってやる。お前もそいつも、ククルは誰も彼も喰らってやるんだ!」
「ならば、その意気に免じてだ。君に先手譲って上げるよ」
そう答えると、赤髪のバルレーンもまた構えを取る。針を持った右の腕を鎌首をもたげた蛇の様に軽く折り曲げて前に、左腕はあばらに付ける様に折り曲げていた。針の持ち方は人差し指と中指の間に、力を込めず柔らかく挟み込む様に。
足は右足を前に出し、何時でも疾駆出来る様に少しだけ力を込めている様に見えた。
「何を考えている!?」
「何も考えてないさ。もし考えてたとしても、君に答える必要ある?」
バルレーンが余裕を崩さずあっけらかんとそう言うと、ククルはもう考えるのを止めた。こうなれば腹をくくり、真正面から打ち破るしかない。
恐らく対敵の事だ、何かをまだ隠し持っていてもおかしくはないだろう。しかし、それがどうした。それを含めて叩き潰せばいいだけの事。
ククルはその場で数度土を蹴ると、淡い土煙が湧き起こった。
――戦いの合図は、その土煙を掻き消す程強い一迅の風である。
「シィッ!」
最初に動いたのは、ククルであった。バルレーンの言葉に乗り、先手で仕掛ける。
その場の地面を引っ繰り返し、バルレーンの身体を優に飲み込む三メートル程の土塊の壁として相手にぶつける。そしてその上でククルは駆け、土塊のすぐ裏で左に満身の力を込めた拳を作る。
これを叩き込んで終わらせる、今ククルが放てる最大の一撃であった。
バルレーンはめくれ上がった地面が目と鼻の先まで近づこうとも構えを一向に解かなかった。余裕すら崩していない。
「アイツに右腕を取られてるのに、相変わらず凄い馬鹿力だ」
右手の針を、影の落ちない速度で走らせる。針の切っ先が土塊と衝突すると、全ての運動力がそこで止まる。まるで砂糖の塊の様に針が触れた先から土塊は崩れ、細かく撹拌され粒子となっていく。
土塊のその先から放たれた左の一撃とも正面からぶつかり合う。そこでも全ての運動量の均衡が釣り合った様に、針の先。ククルの拳はそこで止まる。
鬼は固唾を呑んだ。針の先が合った瞬間、拳も足すらも進まない。戦慄が走る程、何も出来なくなっている。
「こ、これはッ……」
「いやぁ、馬鹿げた技だよねこれ。ボクちゃんでも半分しか真似できないんだよ、ファンのこの技はさ。君、針の先から一歩も動けないだろう?」
夥しい程の土の破片が降りしきる中、全く静止した状態で彼女達は言葉を交わす。
ククルは冷や汗を流し、技を放った当の本人たるバルレーンすらも笑ってはいるものの目は鋭い。
そう、赤髪の女盗賊が語った様にこれはファングインが常日頃から使っている技である。その仕組みは――
「この技は三つの工程から成っているんだ。最初は影すら落ちない速度で振るわれるが故に発生する真空の刃。これにより切れ味や貫通力が増し、あんななまくらですら名剣並みの切れ味になる。
次が防御の会心を狙う事。攻撃に会心の一撃という物がある様に、防御にも会心の一撃というのが有るんだ。速度と込められた力。全て釣り合う所を狙えば、放たれた刃同士は噛み合って少しも進まなくなる。
最後が最初に言った真空の刃を触媒にして魔力を通し、一刹那だけ君の拳の重量を増した。
結果はほら、ご覧の通りさ」
「こ、これはッ!」
「ボクが勝手に付けた名前は花の剣。どんな威力を持つ武器や技も、魔法ですら蕾が花開くが如く霧消するぶっちぎりに狂ってる魔技さ」
誰かが言った。魔剣とは理論的に作成され、論理的に行使されなくてはならないと。
ならば、それは確かに魔剣である。
「先手は確かに譲ったぜ? 次はこっちの番さ」
ククルは獣の本能で自ずと察した。バルレーンが攻撃に転じるのだと。
たった一瞬の機を外し、バルレーンは紙一重で運動量を加速度的に戻したククルの左拳を右に避けて躱すと、伸びきった鬼の左腕にその針を突き刺す。
大陸に伝わる風聞の中で、バルレーン・キュバラムという名は様々な側面を持つ。
かつて大陸が動乱の時代を迎え、現在全土を統べる王国が興った時、既に彼ないし彼女は伝説の暗殺者としてその存在をまことしやかに伝えられていた。
曰く、怪力の持ち主。
曰く、手を翳すだけで命を奪える。
曰く、時の鎖から抜け出す術を知っている。
曰く、男でも女でもない者。
曰く、エスカオズに降り立った稀人。
曰く、薄暗がりに潜む怪。
曰く、血を好む化生。
曰く、脳の見せる幻影花。
曰く、〈紫鳶の座〉なる暗殺者集団の頭領。
曰く、万年を生きる不老不死の者。
そのどれもが胡散臭さに彩られ、歴史の闇の中へかの存在を埋没させている。
しかし、真実と虚構は常に紙一重。
いずれもが真実であり、そして虚実である。
――そしてこれも同じく真実であり虚実であった。
曰く、暗命剣なる秘奥を振るう悪鬼。
「これが世に名高い〈紫鳶の座〉のバルレーン・キュバラムの秘奥、命を刈り取る闇世の剣――〈暗命剣〉だよ」
その技は、人体の専門家たるバルレーン・キュバラムならではの技だ。人体に存在する急所と、それを経由して繋ぐ生命力の流れ道たる経絡を利用。
人体の何れかの箇所に針を突き刺した後、魔力を流し込み一瞬の内に経絡の全てを流し込んだ後、魔力を実体化させる事で急所全てを刺激させ絶命に至らせる絶技。それが〈暗命剣〉である。
鬼と言えども五体を――人の形を持つ以上、その体構造は人間に準拠する。ならば、急所の位置も経絡の位置もまた同じだ。彼女の魔力は瞬く間にククルの身体を巡る。
命に触れられる怖気が走る。それが、彼女のなけなしの意地を完全に砕いた。
「やだ、怖い。助けて、カロン……」
その一言の後、彼女はククルの時を止めた。先程までの鬼達とは違い、出血どころか掠り傷一つなく赤髪の鬼の亡骸は地面に斃れる。
引き抜かれた針にも一滴の血すら付いていない。
あれ程まで喧噪に満ちていた周囲は今は凪の様に静まり返っていた。鬼や魔物兵はいつの間にか姿を消し、代わりに物言わぬ死骸がそこら中に転がっている。残っているのは冒険者や領軍の兵士だけだが、それも雀の涙程。
不意に、つむじ風がそこに生まれる。不気味な程の静寂の中で生まれたつむじ風はそれなりの勢いとなり、土埃を巻き上げて赤髪のバルレーンの頬を一度撫でると、まるで紐が解ける様につむじ風は消えていく。
そこで、彼女は一度目を瞑りぽつりと呟く。
「何もかもが若過ぎた。それが君の敗因さ」
血払いの様に一度右手の針を振るうと、赤髪のバルレーンはその針を右手の手の平の中に仕舞い込む。筋肉と筋肉の間に得物を仕込むのも、肉体操作を旨とするバルレーン・キュバラムならではの技だ。
一連のその光景を見て、白髪のバルレーンは目を大きくし上ずった声を上げた。
「姉さん、アンタ……いや、貴方は間違いなく……」
「ようやく気付いたみたいだね、いやー何時言おうか迷ってたとこだったよ」
人の形を取っていた為、最初は気付かなかった。白髪のバルレーンが見ていた時は、不定形の影の様な存在であり、言葉もこの様に明るく陽気では無かった。
何もかも様変わりしている。しかし、筋肉と筋肉の間に針を仕舞い込むその仕草。人間の知覚外の世界を走る事の出来る〈時霞〉の外法。何より〈紫鳶の座〉が起こり、潰れるまでの間一握りのバルレーンにしか――当世ではたった一人しか――振るう事が許されなかった絶技の〈暗命剣〉。
間違いない、彼女は。
「姉さま」
答える代わりに笑みを浮かべると、赤髪のバルレーンはそこで姿を消す。それこそさながら、脳が見せた幻影の花の如くに。
姉さまというのは実の姉、という意味合いではない。人に喩えれば先祖は同じで遠縁ぐらいの血は繋がっているが、少なくとも生まれた胎は別だ。
――世には暗殺者集団〈紫鳶の座〉の頭領がバルレーン・キュバラムという噂が広がっているが、実際の所それは半分正解だ。正確には〈紫鳶の座〉にはバルレーン・キュバラムしかいない。
故に彼女もまたバルレーンなのである。
ただ、あの赤髪のバルレーンはその中でも選りすぐりの者であった。遥か昔、異なる天より墜ちて来た開祖に勝るとも劣らない、真なるバルレーン・キュバラムと呼ばれた程の存在である。
当の〈紫鳶の座〉が潰れるまでは。
何故組織が潰れたのか、その時には既に契約に従いアルトリウスと同行していたから彼女は知らない。ただゴーレム教団の本拠地パルトニル陥落から始まった、黒華姫――ユーファウナを追う仕事を赤髪のバルレーンが請け負った際、敵に回した一人の剣士に潰されたと風聞には聞いている。
そして、自らを可愛がってくれていた当世一のバルレーンはたった一人で剣士に挑み、その消息を断ったとも。
「なら、さっきのあの緑のローブの男が。まさか……」
× × ×
アルトリウスは間違いなく、イシュバーン一の冒険者であった。いい所の若僧と詰る者もいたが、少なくとも今この場では誰もいなくなっていた。
神殿殻のその頂上、彼の前にはまるで闇を凝縮したかの様な色合いの鎧を纏った三メートルの巨体を誇る魔王がいる。右手には赤い剣身に、金色の鍔と柄を持つ両刃の剣を軽く握っている。
その周囲には、剣や槍、弓矢に斧。槌やハルバード、短剣に杖の破片が至る所に散らばっている。それは、アルトリウスが集めた神代の武具だ。
「こんなのと戦って勝つか、改めてよく考えなくても正気じゃないな」
アルトリウスはと言えば、白銀の鎧も金色の髪も泥と煤で汚し、肩で息をしながら魔王にぽつりと呟いた。
彼以外はもう全員この世にいない。皆、床の上で冷たく横たわっている。彼以外は全員魔王の右手の剣の錆びとなった。彼が一重に生き残っているのは、実力と経験とこれまで溜め込んでいた魔法具や神代の武具を有りっ丈注ぎ込んだが故だ。
そう、今のこの様に。
「――――」
イシュバーンの魔王が彼我の距離を一気に詰め、浴びせて来た斬撃を右に転がって紙一重で躱した後。彼は右の臀部の位置に吊り下げていた物を取り出す。
それは赤革に金の装丁が施された、二〇センチ程の大きさの本だった。表裏の四隅には金の金具が取り付けられ、表表紙には細く流れる様に流麗な筆記体の古代語で、“ケルズの宝物庫”とだけ書かれている。
彼はそれを捲らず、本の上に差していた銀で出来た栞を一度引き抜くと、それを別の箇所に入れて再度臀部に吊り下げた革ベルトのホルダーに戻す。
それと同時に、丁度横に転がっていた仲間の死体を左手で掴むと、魔王目掛けて投げ付けた。
死体は、放物線を描き魔王に直撃する前に右手の剣で両断される。甲高い音を立て、一度赤い剣身が細かく震えたかと思うと、それは仮にも鋼の鎧の胴を両断する。
アルトリウスとて初めから効くと思って投げた訳ではない。目的は時間稼ぎだ。
一拍遅れ、アルトリウスの両手には六メートル程の金色の鎖分銅が握られていた。鎖の先には同じく金色に輝く、四角推の様に先の尖った分銅が取り付けられている。四面にはそれぞれ読み方が失伝された楔の様な文字が緑で刻まれている。
彼がその先端を投げると、瞬間鎖はまるで蛇の様な軌道を描いて魔王に殺到。六メートルを超えて伸びた鎖は、魔王を一瞬の内に雁字搦めに束縛した。鎖は既に彼の手を離れており、アルトリウスは左右に吊り下げた白黒の双剣を引き抜く。
右に白、左に黒だ。
「その鎖はティードリエンと言ってな、この前『金榮殿の迷宮』で回収した神世の代物さ。一度引き抜けば、自ら相手を拘束。強度は既にこの世から消えた金属を使用してるから、ちょっとやそっとじゃ外せない」
そして、彼は右手の白い切っ先を魔王に向けたまま、左手の黒い刃を背後へ横に回し、左右入れ違いに――まるで正拳突きを放つかの様に――突いた。
刹那、黒い剣は数百本に分裂して魔王目掛け殺到する。代わりに左に握っている黒い剣からは、刃が消失していた。
講談にも謳われるアルトリウスの左の魔剣〈黒鏡〉である。一度放てば数百本に分裂し敵を討つ神世の宝物の一つ。魔王は鎖に拘束されたまま、為す術なく受け続けるしかない。
これが、冒険者アルトリウスである。
魔導書の中に山程の魔法具や神世の道具を収め、状況に応じ代わる代わるそれを使っていく。それが無尽蔵の矢を放つエルフの弓手、神馬に乗るフローレスの魔術師、時の加速と遅延を操るドワーフの神官戦士、多腕を繰る手練れの巨人族の女戦士、伝説の暗殺者の一人が集まる徒党の頭の戦い方だ。
「――――」
魔王は、〈黒鏡〉の無尽雨の投擲が続く中。金の鎖――ティードリエンの中で身じろぎし始める。アルトリウスは察していた。〈黒鏡〉は確かに優れた武具であり、彼が魔導書に収めるのではなく、直に手元に携え愛用する程だが、これで勝負は着かないだろうと。
現に魔王の鎧はこれだけ絶えず攻撃を重ねているのに、その鎧には一切傷が付いていない。
彼は拘束された魔王に向け駆けた。直後、〈黒鏡〉の分裂を解除。間合いの中に入った瞬間、ティードリエンは限界を迎え金の鎖は膂力だけで引き千切られた。
刹那魔王は右手に握った赤い刃を彼の頭目掛け振り下ろす。アルトリウスはそれを元に戻りつつある左の〈黒鏡〉の刃で受けて逸らし、魔王の首めがけ右の白剣で突きを放つ。
白剣の長さは柄も合わせて約一メートル。魔王の首を狙うには僅かばかり長さが届かない。
その時、彼は白剣の機能を解き放つ。
「もらった!」
白剣の刃が一瞬白く輝いたかと思うと、剣身は光その物と化し、それは伸びて魔王の首に奔る。
これがアルトリウスの右の神剣、東雲の哮である。傍から見ればただの白い剣に見えるかもしれないが、その実この剣を形作っているのは鉄ではなく、実体を持ち凝縮された光そのもの。故に所有者の意志に呼応し、今の様に伸ばす事も出来れば、周囲の光を束ね切れ味を増す事も出来る。
それが彼が最も頼りにする二振りのもう一つであった。
必勝の間合い、必殺の機会で放たれた一撃だった。
躱す隙はない。後方ならばそのまま突き刺し、左右ならば持ち手を振るだけで刃は光故にしなる。もし魔王がアルトリウスを倒すならば、先程浴びせた頭蓋への一撃に対し剣身への重量を増して放つべきであったのだ。
この時、彼は勝利を確信する。
だが――
「――――」
そこで魔王は一つの賭けに出た。あえて足を踏み出し、前へと出たのだ。そこで必勝の間合いは僅かに狂う。
神剣の一手は間合いが狂った事により、首の中央から軌道が逸れて左横の頸を斬った。魔王の負った傷は深さはそれなりだが、命に届く程の物ではない。
アルトリウスはそのまま真正面から魔王の身体が直撃し、その場から十数メートルも吹き飛ばされ、冒険者の亡骸の山に直撃しそれでようやく止まる。
激突の衝撃で彼の息が一瞬止まりかけた。感覚で分かるが骨も最低十本は折れている。
本来ならば、あの一撃で彼の勝ちであった。しかしメルドレリアがかつて語った、敵の小足の蹴りを見た瞬間に首を刎ねる程の動体視力と敏捷さを、重さに喩えれば僅か一ミリグラム程甘く見積もっていたのが彼の敗因である。
魔王は大きく突き放したアルトリウスに足を向ける。先程の様に駆ける事なく、ゆっくりと歩んで。
彼は衝撃の酩酊に酔いながら、何とか左の黒剣を向けるが機能は使えず、切っ先も左右に揺れる。右の白剣は吹き飛ばされた時に、思わず手放してしまっていた。
「畜……生」
アルトリウスが苦悶の声を漏らすと同時、イシュバーンの魔王は一挙に距離を詰める。そして両手でその赤き剣を大上段から振り降ろした時だ。
「うー」
その刃がアルトリウスに届く事は無かった。金髪の冒険者の前には、白銀の蔓草模様を輝かせる緑ローブの男が両手に握った両刃の剣の腹でそれを受けきっていた。
瞬間、刃と刃が爆ぜ魔王の刃が弾かれ、彼我に三メートル程の距離が空く。
二メートルの巨躯だった。被ったフードから覗く髪の色は銀、左からは琥珀色の瞳が冷たい光を放ち、右の瞳は髪に隠れて一切見えない。
そこに、命を捧げた鬼の巫覡が言っていた勇士がいた。
魔王は知っていた。その名をファングインという。
「お、お前は……」
アルトリウスが絶え絶えの息でかけた問いに答える事なく、右手で握った剣を横にし右頬のあたりに置き、左手を人差し指と中指を遊ばせ後は軽く握って突き出す構えを取った。
対し、魔王は再び離れていた距離を一気に詰め、今度は左上から右下へ剣を振り下ろす。
ファングインは呼応。真空の刃で防御の会心を狙う魔剣――花の剣を使い、振り下ろしの斬撃が来た際上に剣を合わせその赤い刃を高く弾く。それと同時に一瞬の内に自分の剣の柄に左手を絡ませ、両手で握った後に後方に逸れていた刃の軌道を戻し、右からがら空きになった魔王の胴へ薙ぐ様に刃を叩き込む。
その銀の切っ先――それを包む真空の刃が――魔王の鎧に触れた瞬間、その箇所は一気に爆ぜた。
「――――」
自らに奔った衝撃に思わず魔王は少し前に屈む。そしてアルトリウスは思わず瞠目した。
アレだけ神具を叩き付け、それでも無傷だった魔王の鎧。そこに深い罅が入っているのだ。
――それも魔剣であった。
花の剣が防御を主体とした魔剣であるなら、それは差し詰め攻撃を主体とした魔剣である。原理は花の剣ほど難しくはない。影より速い速度故に発生する真空の刃が対敵に当たった瞬間、魔力を流し込んでそれを一気に破裂させる。ただそれだけの簡単な技である。
しかして、その威力は花の剣を優に凌ぐ。
飛竜に当てれば四散し、神鉄の巨兵に当てれば超硬度のオリハルコンを砕き、魔王に当てれば混沌神の加護により守られた鎧にすら罅を入れる。
バルレーンが名付けたその名は、歓喜の剣という。
しかし。
「――」
歓喜の剣で攻撃を与え、その鎧に罅を入れたのは確かにファングインである。だが、その瞬間彼の口から血が溢れた。
床に落ちた血の色は鮮やかで、それは内臓の損傷を意味している。
「お、おい! どうした!」
「うー」
思わずアルトリウスが叫び声を上げ、痛みから悶絶したのと同時に彼はローブの右袖で口に付いた血を拭う。
魔王から攻撃を受けた訳ではない。歓喜の剣が打てば臓器に損傷を与える反動の有る技という訳でもない。これは誓約に反した時に負った損傷だ。
そこで、ファングインは確信した。
アスフォデルスを追ってここまで来て、誓約履行を促す疼痛がここに足を踏み入れた瞬間零になった。そして魔王に歓喜の剣を撃った時、誓約の損傷を受ける。
間違いない、アスフォデルスは魔王の中にいるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます