18話:決戦のゆくえ(上)


 孵化した魔王を見て、カロンがまず思ったのは早すぎるという事だった。

 幾ら何でも呼び出して一時間での誕生は早すぎる。理由は恐らくアスフォデルスの賢者の石だろう。無限の魔力を引き出す赤石が、恐らくこの異常な速度の誕生の原因であるだろう。

 改めて考えてもとてつもない女である。口が利けたのなら素直に感嘆の声を彼女は上げてたであろう。


「……」


 生まれたばかりの魔王はと言えば、見えない鎖で降ろされる様にゆっくり地面に降り立つと一度周囲を右から左へ睥睨する。そして息も絶え絶えの鬼種の巫覡を見つけると、そちらに真直ぐ足を向けた。


 香りに残り香という物がある様に、魔力にも残り香という物がある。その残り香から察するにどうやら、それは先代の魔王に仕えた護衛団の一人であったらしい。


 自らにも傅く筈の巫覡は酷い有様であった。両手両足が捥げ散らかし、肌は丸焼きとなって一部は炭化している。惜しむらくは魔王召喚の代償として逆流した僅かな魔力が炎となって苛んだのだろう。それでも生きているのは鬼種としての生命力の強さ故か。


 彼は権能の一つを使う。途端、右手には両手でも握れる程の金色の柄が生まれ、徐々に鍔が生まれ、両刃の切っ先を持つ金色の刀身が生まれる。

 一瞬の内に魔王の右手には全長一五〇センチ程の剣が生まれた。

 魔王が柄を浅く握ると、鍔を中心にして柄の根元と刀身の根元にかけて円の飾りが生える。そして十字を描く剣を東西南北の方向に喩えれば、それ以外の方角全部に鋭い棘が生まれる。同時に刀身はまるで血の様に昏い赤に染まった。


 魔王はその場に片膝を突くと、その剣の切っ先をカロンの胸に浅く突き刺した。

 瞬間、魔王の中に入ってくるのはカロンの魂の表層である。これはその魔王特有の一つの御業でなければ、魔王が生来備えている五つの権能でもない。単なる自我形成現象の一端である。


 ――魔王様、御身との影向。まこと嬉しく存じます。

 ――今回の贄はあの街イシュバーンでございます。質はともかく量はあるかと、それこそ諸人の国の時に焼いた地と比べても上位に入るでしょう。

 ――それに貴方が相手するに相応しい勇士もおります。むしろ今回御呼びしたのはその勇士が理由で、必ずや貴方の元に辿り着く筈です。


 そこで魔王はその勇士の姿を見た。緑色のローブを羽織った二メートルの巨躯。銀の髪に、左側だけ覗くその琥珀色の瞳。

 彼が作り、配下の魔物共に下賜する武器より数段劣る剣で古老の鬼種の腕を切断せしめるという矛盾。魔技としか言えぬ幻惑の抜剣。……混沌の神バアクィルガをその身に降ろした当代の魔王は、先代達の記憶を薄っすらと憶えているが、この剣士は先代達の記憶と比較してもトイヘリオスの魔王を下した諸人の国の王やティリオボリアの魔王を下したエルフの大酋長と比べても些かの遜色もないだろう。

 その時、魔王に淡い感情の萌芽が生まれる。それは歓喜や恐怖と言った名前がつく前の、感情の揺らぎだ。


 ――お気に召した様で。


 その様を見て、カロンはそう言葉をかける。まだ顔が無事なら笑ってもいただろう。


 ――さて、最後に魔王様へお願い事が。

   私には年若い子飼いの鬼がおります。あれの父母からの恩で今まで育てておりましたが、後続に鬼の何たるかを教える為にもどうか……刃の誉を。


 カロンにとって、それは嘘偽りない心からの懇願であった。死など微塵も恐れない彼女にとって、魔王の刃にかかるのは紛れもない栄誉である。

 僅か数センチ。たった数グラム。その刃がカロンの命に届く。


 ――――。

 ――。


「カロン! カロン!」


 この地にいる魔物のほぼ全てをイシュバーンに誘ってぶつけた後、ククルは押っ取り刀で東の森に引き返した。空から見る異様に膨れて捻じれた森では、それまで四本足で歩いていた獣同然の者ですら今は二本足で立ち、木の根元からキノコの様に生えた槍や剣や弓矢を引き抜いていた。

 乗っていた赤い鱗の飛竜を適当な位置に降ろすと、地面を踏んだ瞬間直線にかけて神殿殻の頂上を目指す。


「おぉ、そこの赤髪の。もしや、お前さんは巫覡殿の子飼いか?」

「煩い、黙れ!」


 途中恐らくはこの騒動を聞きつけ、加わろうと馳せ参じた男の鬼が率いる数百人程の集団すらそう一喝し、赤髪を靡かせククルは懸命に駆けた。

 魔王への恐怖は今も走り、胸は動悸が止まらないがそれを何とか意志の力で捻じ伏せ、一段五メートルもある巨岩を跳ね――


「カロン!」


 そうして、息も絶え絶えになりながら彼女が見たのは黒鉄の鎧に身を包んだ魔王が焼け焦げ四肢の捥がれたカロンの胸に、赤い刃を埋めた直後の光景であった。

 刹那刃が引き抜かれ、赤い刃には更に深い色の血が滴っている。


「か、カロン……?」


 それは惨憺たる有様だった。

 先程まで言葉を交わしていたカロンが、何故焼け焦げ、何故四肢を失い、何故魔王の剣にかかっているのか。彼女にとって不条理とはまさにこの事である。

 あまりの惨状にククルは一瞬血の気と言葉を失った後、直に火が点いた様にカロンへと駆け寄りその身体を抱き締めた。


「カロン、どうして!? そんな、何で!」


 腕の中に収まったカロンの息は急速に弱々しく平坦な物になっていく。

 ククルの本能は自然と、これはもうもたないと察した。……一拍遅れて先程ククルと擦れ違った鬼の一団が頂上へと辿り着く。

 しかし、それを意にも介さずククルはただ衝動のままに叫んだ。


「なんで! なんで、カロンにこんな酷い事を! カロンは頑張ってお前を喚んだのに、どうして!?」


 その敬意も何もない剥き出しの怒りに、少し離れた所で見ていた集団は一度ざわつく。その中の一人、年若い黒髪の女の鬼が堪え切れず何かを言おうとした住んでんで、頭目に右手で遮られた。


「やめろ、これは魔王様の執り行うべき事だ」


 ククルに先程話しかけた頭目――髪の無い頭から爪先まで岩石がそのまま人の形を取ったかの様な筋骨隆々とした男の鬼は、自らが従うべき王の采配を固唾を呑んで見守る。

 そして鬼の一団は頭目のその言葉に粛々と従った。鬼が他の鬼に命令できる理由はただ一つ、誰よりも強くある事である。頭目の言葉に逆らいたくば、今この場で頭目を倒せばよい。

 それが出来ないのであれば、今は貝の様に口を塞いで黙っているしかない。


「……」


 当の魔王はと言えば、赤い瞳で睨み続けるククルを一瞥するとおもむろに左手を宙に――まるで見えない杯を掲げるかの様に――上げる。

 途端、彼の左手から緑色の霊薬がまるで泉の様に滔々と湧き出す。すると彼はそれを一度握り締めると、拳を下げてからカロン達へ歩みを進めた。


「や、やめろ! あっち行け!」


 赤髪の鬼がカロンを力強く抱き締め、僅かばかりに身を捩って距離を離そうとするのは、それは今恐怖が全身を毒の様に回っているからだ。

 その中で股座から尊厳を溢れ出させず、本来平伏する筈の魔王に啖呵を切り、身を捩るだけとは言え動けただけでもククルにとっては難事の連続である。

 しかしイシュバーンの魔王は淡々と歩みを進め、彼女等二人を覆うと。


「え?」


 左手の人差し指を出し、一滴。その緑色の霊薬の滴をカロンに垂らす。

 途端、滴の落ちた地点から深く刻まれていた火傷がみるみるうちに癒され、四肢が捥げたのと胸の刺突跡以外は元通りの見た目になった。目の前で起こった奇跡にククルが赤い瞳を大きく見開いてるのを後目に、カロンは絶えず噎せ返りながら笑う。


「お前も、ここまで来ると憐れなもんだね、ククル……」

「カロンッ!」


 赤髪の鬼が涙ながらに喜ぶのを一先ず置いて、カロンはその青い瞳を魔王に向ける。

 黒い鎧に身を包んだ魔王は、まるで巨岩の様に静かに佇んでいた。その双眸の穴からは一切の感情が覗けぬが、カロンにはこの奇跡の意図が解っていた。

 これは魔王の慈悲である。


「魔王様、感謝します。刃の誉だけでなく、子飼いへのお時間すら頂けるとは……」


 彼女は一度恭しく礼を言うと、自らを抱き締めるククルへと向き直った。


「ククル、アンタは本当に哀れだね。赤子の頃に先代の魔王様を見ちまったばっかりに、恐怖が髄の奥まで染み込んでる……これからは更に生き辛いだろう」

「でも、カロン。治ったから、もう大丈夫だよね? ね?」

「普通に考えろ、両手両足捥げて、臓腑は軒並み損壊して、更には胸に風穴開いてるんだぞ? 死ぬに決まってるだろ」

「そんなッ!」


 再び顔に悲しみに染まらせるククルに対し、カロンは再び笑った。


「死ぬのに後悔も恐れもない。……ただ、アンタをこのまま常世に残すと思うと些かの悔いはある。

 なぁ、ククル。アンタは不具だ。我ら鬼種の観念を一切理解出来ないのだろう?

 人の刃を誉と思えず、ただ痛いだけの物にしか見えないのだろう?」

「わからない、わからないよカロン……」

「それでいい、わからない物は仕方がない。けれどな、生きる上でこれだけは憶えておきな」


 僅かばかり常より深く息を吸い、カロンは次の言葉に満身の力を込めた。


「命には最初から価値はない。生で大切なのは、この手で何を遺すか。――人を如何に犯して殺すかだ」


 カロンの呼吸は死線期を迎え、徐々に緩やかに浅くなっていく。その腹の膨らみも、少しずつ抑えられていった。


「いいか、ククル。積み上げた死体と聞いてきた悲鳴の数だけアンタは強く賢くなっていく。アタイよりも、そこにいる鬼達よりも。……そうして他の何倍も人を取って喰らい続けて行けば、お前にもきっとアタイの言ってる事が解る筈さ」

「か、カロン……」


 自分の胸に顔を埋める赤髪の鬼から目を外し、カロンは少し離れた所にいた岩石の様な鬼に目を向ける。お互い面識はあった。カロンがククルを育てるより以前、まだ若かった彼を可愛がっていた時期がある。

 それが数千年前の事。永き時を生きる鬼達でも、大分前と感じる程の月日を経て、彼は独り立ちして今は鬼の集団を纏める長となっていた。

 彼女は一度目礼をすると、男の鬼も深く首肯した。……言葉は交わさぬ、ククルの事を任せる依頼と了承のやり取りであった。

 何故そうしたかと言えば、カロンの最後の時は赤髪の鬼に譲る。そんな慎みの表れである。


「ククル……」


 最後に名を呼んだそこで青髪の鬼の時が止まる。それが諸人の国の災と呼ばれた鬼の最後であった。

 そこで岩石の鬼は周囲に未だ鎮まる様に手で制すと、そよ風すら起こさぬ様に静かにククルの背に向かった。そうして、右肩に手を置く。


「見事な最後であったな。巫覡殿の生は、まさしく犯して殺し尽くす鬼の鑑である」

「……うん」

「嘆くなとは言わぬ、痛むなとも言わぬ。我がお前にかけるのは一つだけだ」


 そういうと、彼はその小さく細い肩に置いていた右手を西に指す。魔軍が犇めき一心不乱に歩みを進めるその先には、円を描く城郭都市。七〇万もの人族が棲むその土地の名は、イシュバーンという。


「あそこに街があるだろう。大きな街だ、魔王様や我らと一緒に焼かぬか?」

「……人は犯せる?」

「大いに犯すがよい」

「……殺すのは?」

「見事に殺すがよい」

「……四肢を捥いで生き地獄を見せるのは?」

「そなた冴えておるのう。流石はかの巫覡殿の子飼いである」


 そこでククルは顔を上げる。赤く腫らした目を擦り、カロンの亡骸を丁寧に床に横たえ後、――彼女はカロンの喉にかぶりついた。

 その肉も血も髪も骨も。何もかも一切合切、余す所なく取って喰らい続ける。頬が裂け、顎が外れかけるのも気にせず、ククルは本来胃の腑に入りきらない量のカロンを全て喰らった。

 ……鬼にとっても、それは奇異に映る光景であった。鬼に取って死者とは本来なら地に埋めるのが習わしである。さしもの頭領たる彼も、あまりの事に一瞬言葉を失うが、その後に直に笑った。


「見事な喰いっぷりである。巫覡殿も、きっとお喜びになられているだろう」

「カロンは、いつだってククルと一緒だった。これまでも、これからも……」


 すると彼女は膨れ上がった腹を摩り、まるで涙を堪える様な不格好さで笑い返す。


「ククルはこれから沢山の人族を犯して殺す。山ほどの死体の山を築いたその先に、解る物があるなら」

「歓迎しようとも」


 そこで彼は自分達を見定め続ける鬼達へ向き直ると、大声で叫んだ。


「――皆の者、見ての通りだ! 巫覡殿は見事魔王戴天の大役を果たし、更には我らにこの者を任せた!

 巫覡殿の残した言葉は、犯して殺せである!」


 誰もが歓声を上げて応じた。中には感涙の涙を零す者すらいる中、岩石の鬼は言葉を続ける。


「皆の者! 我は今からこの者と共に男を焼き、女を裂き、明日の種籾を踏みつけ、井戸に毒を投げ込む! 異論のある者はおるか!?」


 瞬間、湧き上がった言葉は否の一言であった。続く言葉は犯して殺す、犯して殺す。禍々しいその言葉を、誰もがまるで聖句の様に叫び続ける。

 今この時、誰しもの心は一つであった。

 人を一匹でも多く犯して殺す。彼方に栄えるあの土地を、一杯の血を湛えた杯に変える。


 背が低かろうが、顔が曲がっていようが、刃に恐怖しようが、不格好だろうが関係ない。そこに人がいるなら念入りに犯して殺すだけ、人は供物であるのだから。

 混沌の神の化身たる、彼等の王――イシュバーンの魔王の名の下に行われる殺戮は聖なる物である。


「……」


 ここに来てイシュバーンの魔王は猛り狂う彼等に応える様に、もう一度左手を上げる。

 すると、拳大程の二重円の中に七芒星が収まった紋章――シジルが淡い赤の光を放ちながらククルの足元に浮かび上がる。それは一度右回りにゆっくりと回転すると、途端解けて消えた。

 その様子を見ると、岩石の鬼は両手を叩く。


「おお! 魔王様がそなたを護衛団の将に任命されたぞ!」

「ご、護衛団?」

「本来の意味なら魔王様の傍に仕える栄誉だが、この場合は恐らくそなたへの心づけであろう。……より多くの人族を殺せ、欲望のままに暴れまわれというな」


 ククルは一度、魔王に目を向ける。

 未だに身体には浅くない恐怖が回っているし、カロンに刃を突き刺した怒りも少なからず残っている。しかしそれと同時に畏敬の念も少なからず彼女の中には芽生え始めていた。

 そういった相反する感情が綯い交ぜになった視線を向けられている魔王本人は、今は西の彼方にあるイシュバーンを沈黙を以って見定めている。

 それは、いずれ来るべき何かを心待ちにしているかの様に。



 ×    ×    ×



 東西南北。現在魔軍圏と交戦中の領軍が今から執り行う事の連絡が行き届いたのを指し示す、白い花火が四発上がるのを彼――メルドレリア・カルフラジアスは確かに見た。


 冒険者ギルドの大鐘楼塔の上、メルドレリア・カルフラジアスはそのミスリルで出来た弓に一本の矢を番える。

 それは彼等エルフが崇める地母神の使いである緑鷹の羽を矢羽に、金で出来た鏃は彼の氏族のみに伝わる言語の呪文が透かし彫りされている。その緑色の矢羽を指に絡ませ、彼は弦を引くとその鏃を天に向けた。


「これなるは散逸した神世の残滓、汝らが天命の導――十絶の宝物が一つ、天零の剣」


 風を切り裂き、高らかな音を立てて矢は天に達する。ある一点まで達すると、矢は光と化して溶けて消えた。

 ――そして、地に無限とも思える程の矢の雨が降り注ぐ。

 矢の雨はイシュバーンの四方にいる混沌の勢力にのみ突き刺さり、その進行を牽制。魔王の権能で鍛造され、分厚い板金と加護で守られた鎧や盾を貫通し、魔物の兵士達は赤い血を流しながら次々と地に伏していく。

 

 これが、一級冒険者メルドレリア・カルフラジアスの奥の手『天零の剣』である。

 一度空に放てば、無数の矢の雨が敵を一掃する神話時代より伝わる神造の武具。それを今この世でただ一人撃つ事が出来るのが彼だ。


「メルドレリア! ほら、乗ってくれ!」

「パルベッド、丁度よい所に来てくれましたね」


 そしてメルドレリアが幾億もの矢を撃ち尽くした後、手筈通りに彼――パルベッド・ロンカイネンがやって来る。

 パルベッドはフローレス。つまり俗に小人と呼ばれる種族の者である。

 身長は大体九〇センチと、人間で言えば二歳から三歳ぐらいの子供程の大きさである。髪の色は茶色、瞳は灰色をしており、顔つきは子供よりも幾分にも苦労から来る皺が刻まれている。

 身に纏うのは前が大きく開いている赤いローブで、その下には特殊な編み方と防御の魔術を仕込まれた青い布鎧を着ている。

 腰には四〇センチ程のハシバミで出来た飴色の杖を革のベルトに差しており、非常に使い込まれているからか持ち手の所は黒ずんでいた。


「――――」


 パルベッドのその言葉を促すかの様に一度入った嘶きは、彼が今跨っている仔馬から発せられた物だった。

 白い艶やかな毛並みを持つ仔馬であった。体高は一四〇センチぐらい、仔馬と言えども筋骨隆々としており、並みの駿馬よりも鍛え上げられている事が解る。しかし筋肉より目を引くのはその足の数である。

 足の数は八本、それがまるで地を踏み締める様に空に立っていた。

 冒険者アルトリウス一党が一人、魔術師パルベッド・ロンカイネンは極々平凡な男である。冒険者になる前はフローレスの村で魔術師という名の何でも屋が三、子供達の教師が七の割合で働いて暮らしていた程だ。

 ただ、この神馬に好かれている一点を除けば極平凡な男である。


「こら、かわい子ちゃん。ペロペロ、ペロペロやめなさい」


 メルドレリアがその背に跨った後、その桃色の舌を出し入れするのは気性のやんちゃさの表れだ。パルベッドの諫める言葉も何のその、一切気にする素振りを見せない。

 それでも駆足を指示されれば大人しく駆けた。……瞬間、大鐘楼塔の壁を足で蹴とばし砕いた事以外は。


「あぁ、また借金が増える!」

「緊急事態です、私は何も見ませんでした」


 パルベッドの嘆く声で笑い声の様な嘶きを上げ、神馬はイシュバーンの空を我が物顔で駆け抜ける。

 彼が呼んだかわい子ちゃんというのは愛称で、神馬本来の名は星流れという。その名の由来は勿論足の速さが故だ。

 星流れはその名の如く、赤く爛れた空を駆け抜ける。

 目指すのは東の神殿殻。彼等の軌跡を追うかの様に、白い線が東の彼方まで刻まれていった。


 ――――。

 ――。


 メルドレリアの『天零の剣』により魔軍圏が一掃された直後、堅く閉ざされたイシュバーンの東門が開門する。そこから出てくるのは騎馬や騎竜、そして平均七メートルもある岩や鉄で出来たゴーレムの軍勢だ。

 足の速い騎馬や騎竜はそのまま先行させ、ゴーレムは彼等を後方より援護する算段となっている。その証拠としてゴーレムの手には巨大な弩砲――国同士が相争っていた戦国時代に城攻めで使われるバリスタが握られている。

 騎馬もゴーレムもイシュバーンの底を搔っ攫い、アルトリウスが掻き集めた物だった。


 バリスタから発射される巨大な矢が前方に次々炸裂し着弾した箇所を爆ぜ飛ばすのに臆さず、彼等は死にもの狂いで東の神殿殻を目指した。これは全員が必ずしも理性で恐怖心を克己したのではなく、中には少なからず酒や興奮作用のある薬で狂奔している者もいる。

 中でもアルトリウスに続く騎手の一人、短槍を持った顎鬚を生やした男は歯の根を震わせながらも必死で手綱を取り、正気のまま馬を走らせていた。

 ジリ貧の末期を迎えた強行軍である。しかし、そんな悲壮感を吹き飛ばすかの様に胴間声が一つ。


「四方八方敵だらけ! 久方ぶりの戦場は何とも心躍るのう、そうは思わぬかアルトリウス!」

「興奮しすぎてぽっくり逝くなよ、アルヴリン!」


 黒い毛並みの馬を駆りながら穂先が十字の短槍を振るうアルトリウスと並行し、二頭の馬で牽かせた戦車の上でミスリル僧アルヴリンは左手に手綱、右手に白銀の斧槍を振るいながら戦場を駆け抜ける。

 彼がミスリル僧と呼ばれるのは、身に纏った戦道具一式に由来する。武器を始めとして頭の兜から爪先まで、全てが白銀のミスリルで固められているからだ。兜は目元まで覆われているが、そこから下は白髭が露となっている。

 ただでさえ希少なミスリルをふんだんに使った戦道具一式は、それだけで大都市の運営予算に匹敵する代物だ。

 斧槍を右手で振るう中、彼等の前に立ちはだかる軍勢から矢が十数射放たれる。混沌神の加護が乗った矢弾を、アルトリウスは十字の槍で弾き飛ばすが、背後に続く騎馬達は防ぎきれず命中する者が出る。


 当たった瞬間、板金を何枚も重ねた胴部が貫通。まるで矢の魔術に撃たれたかの様に腹には小岩程の風穴が空いた。頭に命中した者は頭が跡形もなく消し飛ぶ。それを放ったのは筋力に恵まれたオーク等ではなく、やせ細ったゴブリンの弓手であった。

 それが混沌神の加護を受けた武具の効果である。通常の弓矢が魔法以上の打撃を与えるのだ。

 勿論、矢はアルヴリンにも襲い掛かってくるが――


「それでは儂に届く事はないのう……」

 

 ――彼の顔に届く筈の矢は、目と鼻の先まで近づいた途端そこで静止する。否、静止というには僅かばかり足りず万分の一まで速度を希釈され、極めて鈍重になっているのだ。

 それは俗にスロウと呼ばれる、神官が操る奇跡の一つだ。

 アルヴリンは首を左に傾けると、右手で手繰っていたミスリルの斧槍の刃で叩き落とす。戦車の足場に転がった鏃は新品同様だったのに錆が浮き、矢柄は乾いて粉を吹いていた。


「刃とはな、こうして届かせる物じゃ!」


 次いで彼は右手の斧槍を一瞥すると、首の後ろに構えて進行上の十人程固まったコボルト兵の一団に向けて薙ぎ払う。

 瞬間、今度は逆にヘイストの奇跡が斧槍に降り、刃は時が加速された結果破壊力が増大しまるで爆破の呪文の様にそこら一帯を吹き飛ばした。斧槍を血振るいする頃にはコボルト兵はそこにおらず、彼等の物と思しき武器や防具の破片が散らばるのみ。

 視界に入った物の時を操り加速や減速させる、時の流れに不磨不変のミスリルの戦道具を身に纏ったドワーフの神官戦士。それがミスリル僧アルヴリンである。


「アルヴリン完全に血が昇ってやがる」


 神官戦士というより、狂戦士と化している仲間を見てそう漏らした後。アルトリウスはその青い目を細め、手綱を取って馬をその場に止める。後続も次々止まった。

 彼がそうしたのは、魔軍圏の奥に脅威を見たからだ。それは徐々に彩度を増し、地響きと共に彼の目に映り始めていく。

 それは三体の、体高二〇メートル程の巨人だった。頭から爪先まで全身を鎧で覆い、顔は判別出来ないが体格から察するにどうやら三体とも男であるらしい。

 右の一体は短槍、左の一体は両手剣、真ん中の一体は片手斧を持ち、地を鳴らしながらアルトリウス達目掛けてやって来る。同時に戦いに巻き込まれない様に、ゴブリン兵やコボルト兵は徐々に撤退していく。

 刹那、後方にいるゴーレムによるバリスタの一射が右の槍の巨人の肩に命中した。先程までゴブリン兵やコボルト兵を吹き飛ばし、魔術師によりエンチャント・ウェポンをかけられて威力を底上げした一八〇センチもある矢は装甲に浅いへこみを作るだけに留まる。


「次から次へと、死神に事欠かないな」


 アルトリウスがそれを見て、表情を崩さずそう呟いた時、背後から鈴の鳴る様な声がする。

 彼等の後ろで暴れまわる白髭の老ドワーフ同様黒い全身鎧を身に纏った少女である。身長は小柄で、一五〇センチ程。兜から覗く髪の色は緑、首元には三つ編みにした背中程ある髪を巻いている。兜の頭から生える二つの白い羽飾りは、まるで兎の耳の様にも見えた。

 背中には彼女の身の丈と同じぐらいある斧が背負われている。

 彼女もまたアルトリウスの徒党の一人で東の門を発った時より、彼の背にしがみ付いていたのである。


「アルトリウス、あいつ等は死んでいい奴等?」

「あぁ、気乗りはしないだろうが頼めるか? ヘカーテ」

「いいよ、アルトリウスは力を温存しといて。奴等は私がぶち殺して来るから」

「頼む。――アルヴリン、ヘカーテが出るぞ!」


 アルトリウスがそう叫ぶと、丁度斧槍を振るっていたドワーフの神官戦士は笑みを浮かべ、斧槍の腹を近くにいたゴブリン兵に当て膂力と時を加速させる事で前方に吹き飛ばす。

 それとほぼ同時に上げていた兜の面頬を降ろしアルトリウスの黒馬を飛び降りたヘカーテは、丁度飛んで来たゴブリンを足場に更に跳躍。

 滑空する中、彼女は右の奥歯に仕込んだ金具を強く噛む。


 刹那、彼女を中心にして地表がめくれ分厚い土煙が巻き起こった。濛々と立ち込める土煙は、地上の魔軍圏も冒険者達も、更には三体の巨人兵すらも一挙に飲み込む。

 さしもの巨人兵達も突如の煙に狼狽し、自らの持ってる得物を使って煙を晴らそうとする。しかし、それでも立ち込める土煙が晴れる事はない。

 今何が起こったのか? ……先程視界の端に映っていた小さな者の事等忘れ、巨人兵はただその一点だけに囚われていた。

 ――風が唸る。


「ぐぎゅッ」


 鈍く短い苦悶の声が漏れ、同時に土煙は彼女の一撃と共に晴れた。下段から振り上げられた斧の一撃は、剥き身の首元に命中し憤血を撒き散らし巨体が沈み込む。手にしていた両手剣は、刃から落ち地面に突き刺さった。

 土煙を晴らして現れたのは、四体目の巨人兵である。体高は少し低く、十八メートル程。残り二人と同じ様に全身を鎧で固め、手には体高と同じ程ある斧。兜には二つの羽飾りが付いており、それはまるで兎の耳の様にも見える。

 それが、巨人族の女戦士ヘカーテ・バルバトスの真の姿である。


「――残り二」


 先程と変わらない、鈴の鳴る様な声で短く呟くと彼女は両手で斧を握り直して駆けた。

 突如現れた彼女に、短槍と斧の巨人兵はそれぞれ構えを固くし、じりじりと間合いを取り始める。そこに生まれた大きな隙を突き、アルトリウスは黒馬を再び走らせた。


 ヘカーテはそれを補佐する為、じれて放たれた槍の一突きを左に肩を回し斧の柄で槍の柄を滑らせ、紙一重でいなしながら懐まで接近する。本来なら長柄の武器である彼女の斧が最大限に威力を発揮する距離を、自分から捨てる様な行いである。

 距離を詰める中、彼女は顔が隠れる程左の肘を上げ――左肘に仕込んでいた錐の様に鋭い刃を出し、それと同時に同じ左肩の付け根から生えた二本目の左腕で相手の頭を掴むと、引き寄せて両目が露になっている部分に刃を突き刺した。

 ヘカーテ・バルバトスは多腕の巨人族である。生えそろった腕は四本であり、この四本を駆使して戦うのが彼女の戦闘方法だ。


「――残り一」


 槍の巨人から血の滴る刃を引き抜き収めた後、彼女は短くそう呟く。

 最後に残った斧の巨人に対し、彼女は前の両腕で斧を横にし顔の前で構えた後。先程の後ろの左腕を元背中に戻す。

 彼女の見立てでは、魔軍圏の兵士は誰しもが鎧を地肌の上から来ており、鎧は確かに硬いが鎖帷子の様な物は着用していない為、関節部や首等の守りは弱い。

 それに目の前の敵は歯に衣着せぬ言い方をすれば愚かだ。巨人族も人族と同じ様に育つ環境によって変化する。秩序の勢力に属していればヘカーテの様に知性を持ち、混沌の勢力に属していれば目の前の様に武器に触れる事すらない蛮人と化す。

 目の前の相手は体格さがあれども大した敵ではない。ただ彼女より僅かばかり大きく、鋭い刃と堅い鎧を持っているだけに過ぎない。……そういう相手を倒す方法を心得ているのが、戦士なのである。


「――――ッ」


 わざと右足を踏み締め、顔の前に構えた斧を左から振りかぶって後頭部まで持って行く。恐らく彼女が斧を振りかぶって間合いまで攻め入ると思ったのだろう、斧の巨人は一瞬怯みを見せた。

 それは、つまり彼女の策にまんまと引っかかった事を意味する。彼女は二本目の右腕を腰に滑らせると、ある物を手に取って背後の両手で広げた後それを投げつける。

 黒い円盤だった。円盤の内外には刃が付いている。また丈夫そうな縄が取り付けられており、彼女が少し手を引けば戻る仕組みとなっている。

 円盤は巨人兵の頭の上に辿り着くと、仕込んでいた覆いが頭をすっぽりと包み、覆いの中で刃が返しの様に広がる。

 ヘカーテは紐を握った二本目の右手を深く引くと、円盤は高速回転し巨人兵の頭を切断した。


「私は冒険者です、貴方達の様につよつよな魔物と正面切って戦うと思いましたか? まぁ、卑怯だと思う頭もないでしょうが」


 空気を切り裂く独特な甲高い音を立てて戻って来た円盤を、二本目の右手で受け取ると、中に収まった頭部を捨てて得物を仕舞い込む。

 まるで空飛ぶギロチンとでも言う様なそれは、彼女が生まれた部族の伝来の武器である。


 誰しもが懸命に戦っていた。地面には夥しい量の血が染みわたり、魔物の物とも人の物ともつかない肉片や骨片、武器や防具の破片が至る所に散らばっている。

 その中で、この場にいる生きとし生ける者全てがその声を聞いた。


「“我は秩序の皇帝にして、混沌の王者”」


 それは、男とも女とも付かない感情の籠らぬ平坦な声で行われる古代語の詠唱だった。


「“循環せし神代の残り香を此処に。我が口は神話を語り、我が手は遠き神々の火を掴む”」


 空気が変わる。重たく、冷たく、何より致命的な物へと。

 赤く爛れた空には無数の煌めきが浮かび上がり、それは徐々に眩さを増していく。その呪文が一体何であるのか、解る者は不幸な事に全員死んでいた。

 しかし、この場にいる誰もが察した。何か恐ろしい物がやって来るのだと。


「“星々は番えられた燃え盛る矢なり。秘蹟を此処に、出でよ神の鉄槌”」


 焔が吼え、そして唸る。

 天から降る灼熱の隕石弾は轟音を上げて、魔軍・冒険者問わずに炸裂し、砕け散った破片や焔が更に斃れる者を生む。

 魔術の到達点の一つである『メテオ・スウォーム』の呪文。宙に浮かぶ隕石を喚び寄せ、軍隊や城壁にぶつける太古の時代に猛威を奮った遺失魔法の一つである。

 

 詠唱を終えたイシュバーンの魔王は、神殿殻の上で隕石が降り注ぎ東の地を消し飛ばしてく様をただただ冷たく睥睨していた。

 その様子は、まさに秩序の皇帝であり混沌の王者と言って差し支えないだろう。

 

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