幕間:nowhere
視線の先、東の山の彼方には魔王の権能によって築き上げられた神殿殻が映っている。山の土と岩を魔力により加工したそれは、まず地盤をせり上げて堀と塀が作られ、堀には淡く緑色に光る霊薬が流れていた。
時折、足を踏み外した魔物が堀に転げ落ちるが、落ちた者は霊薬に身を浸した途端に白煙と絶叫を上げながら肉を崩し溶けて消えていく。
この霊薬の堀を超えて中に入る為には、東の正面に存在する跳ね橋を渡るしかない。
一応冒険者や領軍や魔術師ギルドの中には飛竜を手なずけたり、風の魔術に長けたりした者がおるので、それらを鑑みれば当然空からの侵入という選択肢も考えられるだろう。
もしくは長射程距離からの魔法や弓での狙撃という手段も。
しかし、それらの手段は神殿を取り囲む四本の巨大な鋼の帯が阻む。これは一度神殿殻に何かが接近すると高速回転し、魔法も鉄も関係なく切断し削り消す。
その二つに守られた内側にあるのは、前方に二つの三〇メートル程の顔を布で隠された騎士像が並び立つ、六段のまるで巨大な階段の様な建物だった。階段の上にはまるで劇場の舞台の様に何もない場所があり、そこに魔王が一人で立っている。
東に形成された魔王の神殿殻までの道も混然とした物である。魔王の業により、異様に肥大化し捻じれて尖った黒い木々が周囲に生え、その木々からは至る所に剣や槍や鎧等の武具が生え散らかしている。
その武具を纏った魔物達に領軍は押されつつあった。
「……」
その様をファングインはイシュバーンで最も高い建物。中央にある白亜のイシュバーン領の市庁舎。その五〇メートルもある大鐘楼塔の三角屋根の上で見ていた。
手にはアスフォデルスが使っていた魔法銃から取り外した真鍮で出来た金の望遠鏡。風に緑のローブをはためかせ、左の琥珀の瞳は鋭さを帯びている。
身に纏ったローブの隠し刺繍が時折光り、そのミスリルで施された文様が露となるのは、魔王の現出により活性化した周囲の魔力が溢れ、そのあふれ出た魔力が風に乗ってここまで届くのでミスリルが反応するのである。
本来なら持ち主の意志に応じて発光する刺繍が、彼の意思と無関係に輝くのは、この状況の異常さを示す良い例だろう。
その時、彼の耳がぴくりと動く。風の僅かな変化を耳聡く察したからだ。
途端、風が唸る。上から下に、その圧倒的な本流を無理矢理押し付けるかの様に。
「――」
現れたのは全幅十メートル程の黒く輝く巨鳥のゴーレムだった。巨翼を羽ばたかせるその背には、黒髪の女魔術師が乗っている。
彼女が直立して腰程埋まる程の穴と、身体の前には掴む為の一本の手すりが鍛造されてる様はさながらチャリオットの様。
足には杯の騎士と同じく、薔薇の紋章が刻まれていた。
「“ルフよ、風を用いて命ずる。その場に留まれ”」
彼女がそう古代語で命令すると、巨鳥のゴーレムは羽をゆるく羽ばたかせ、身体を浅く上下させながらその場で滞空する。
両翼の先。羽の内側には風を発生させる六芒星の魔法陣が刻まれており、巨鳥が羽ばたくのと同時に淡く緑色に光ると風を発生させる仕組みになっている。
……その巨鳥のゴーレムを一分一秒でも滞空させるには途方もない量の魔力が必要となるが、それは彼女が腰に括り付けた金のランプの中で赤く輝く賢者の石が可能にしていた。
彼女が右手を手招きする様に動かすと、巨鳥はその場で旋回する。
「うー」
彼が歩み寄って手を伸ばすと、ユーリーフは迷わず取り、ファングインに支えられて屋根に移った。肩には茶色の荒い袋がかかっている。何らかの中身が入っいるからか、袋は丸い膨らみを見せていた。
「……何か様子は変わった?」
「うー」
ユーリーフが黒いローブの胸元を浅く抑えながらそう言うと、唸りながら彼は首を横に振る。
アスフォデルスが最初に連れ去られてからというもの、彼等は彼女との誓約の効果により、履行を促す痛みに苛まれていた。
それでも身体を東側に向けると痛みが和らぐのと、そもそも何故今も生きているかと言えば、それはアスフォデルスが未だ生きて東の地に有るからに他ならない。
故にファングインは敵の様子の見張りでこの場に、そしてユーリーフは――
「……こっちは作り終えたよ」
そう言うと、彼女は肩にかけた袋を手渡す。それが彼女がこの場に一緒にいなかった理由である。
「……バルちゃんが買って来た材料で出来たのはそれ一つだけ。使い方は作る前に分かれた時教えた通り。ここぞという時に使ってね」
「うー」
敵はただでさえ強大な古老の鬼、そして魔王である。アンオブタニウム・ゴーレムや変移抜剣等の秘剣でも荷が勝ち過ぎる。その為に用意したのがこれである。
まさか材料を買い揃えた当日にこの様な事になるとは、彼も彼女も夢にも思っていなかった。
ファングインは受け取ると、外れない様に剣帯に括り付けた。
「……剣士様、本当に行くのですか?」
こうしてファン君と呼ばず剣士様と呼び敬語を使うのは、ユーリーフと彼は一番最初に出会った時の癖の発露である。出会った当初は彼の名を知らず、何か月かは剣士様と呼んで一緒に暮らしていたが故、自然とそういう癖が付いたのだ。
彼女のこの癖が出る時は、気が緩んだ時や疲れた時。そして、心からの言葉をかける時である。
「……アスフォデルスさんの事はわたしも心配です、誓約の事だってあります。このまま逃げれば皆不履行で死ぬでしょう。……でも、そんな事なくても、剣士様は迷わない。一切の迷いなく、あそこに辿り着く筈です」
「……」
琥珀の瞳はただ静かにユーリーフを見ていた。
「……何の躊躇いもなく、魔王の前に立って戦う。行くななんて言いません、でも……どうして貴方は戦うのですか? アスフォデルスさんに一体何を見ているのですか?」
行くななんて、と言う言葉が出る前に一.五秒程の間があったのは……それがユーリーフの精一杯の意地であった。戦いに行く男を迷いなく見送れる女はそうはいない。
しかし、ここまで来たのなら戦う理由をユーリーフは知りたかった。
それは目の前の剣士が――
「……剣士様は、別に剣の道に愛着なんてありませんよね。お金にも名前が売れる事にも興味がなくて、正義なんて物にも……命にすら。
なのにどうして、戦おうとするのですか?」
――ファングインには謎が多い。
本来人が持たない筈のエルフの名を持ち、功を立てた物にしか纏う事を許されないミスリルの編まれたローブを羽織り、古老の鬼の腕を切断出来る程の腕前を持つ。
そして最大の謎がこれだ。戦う理由。……彼が何を求め、何に駆られ戦うのかユーリーフもバルレーンすらも知らない。
「……答えて下さい、剣士様」
彼女にそう問われると、ファングインは一度瞳を閉じる。そして再び見開くと、彼は自分の服の裏側からある物を取り出した。
それは首にかけられる程の紐がついた革袋であった。その紐を緩め右手で中身を取り出したのは――
「……髪の毛?」
短く切られ、白い紐で一つに纏められた茶色い――丁度アスフォデルスと同じ色合いの髪の毛である。
彼はそれをまるで自らの愚かしさを噛み締めるかの様な面持ちでユーリーフに差し出した。
「うー」
その唸りは、これが全ての理由であると言わんばかりである。一拍の後、彼は髪の毛を再び革袋の中に入れた。
刹那、彼等の背後に影が差す。
ユーリーフが振り向くと、そこにいたのは年若い山猫の獣人族の少女だった。黒い髪を肩まで伸ばし、青いローブを羽織っている。
身長は一五〇センチ程。瞳の色は青。身体つきは凹凸が少なく、細身で魔術師特有の華奢さを持つ。
一瞬、ユーリーフの顔が硬直するのを見ると少女はにやりと笑った。
「ごめんね、ユー。感動的な場面に水を差しちゃいけないと思ってさ。……ボクちゃん、出来るシーフだし」
その声は何時もよく聞く陽気な声である。瞬間、彼女の身体が著しく変化する。
筋肉は急速に伸び、骨が幾つも外れてまた繋がっていき、胸は膨らみ、髪の色は黒から燃える様な赤に。
そして瞳の色は青から赤瑪瑙の色へと。
最後に羽織っていた青いローブを外すと、そこには何時もの皮鎧――バルレーン・キュバラムその人がいる。
「お待たせ、冒険者ギルドに行って情報抜いてきたよ。こっち側の最大戦力は案の定、アルトリウス一党。あそこのメルドレリア・カルフラジアスが一発デカいの撃った後、東に向かって攻め込むってさ。今は全軍に通達中」
腕を伸ばしながら、事もなげに彼女は先程冒険者ギルドに忍び込んだ時に得た情報を言う。
「こっちは?」
「……特に異常なしだって」
彼女も誓約による履行痛が走っている筈であるが、痛みをおくびにも出していない。バルレーンはファングインが無言で差し出した望遠鏡を受け取ると、そのまま東の地を覗き見る。
「うーん、地獄絵図ですなー。混沌神の加護がかかった武具で武装した魔物の軍勢に、育ちの狂った植物、物を溶かす霊薬の堀に、空飛ぶ物を削り消す鋼の帯」
「……デカいの一発って、どの位大きいの?」
ユーリーフがそう尋ねると、バルレーンは真鍮の望遠鏡から目を外し。
「あれ、知らない? それはね……」
その時である。
「あなた方は……」
三人が振り向くと、そこにいたのは金紗の髪にミスリルの弓を携えたエルフ――話題となっているメルドレリア・カルフラジアス当人であった。
彼はと言えば、ロープも何も持たず弓一つだけでこの大鐘楼塔の屋根に辿り着いたらしいが、まさか自分以外に人がいるとは思っていなかったのだろう。会議とは打って変わり、驚きの表情を見せていた。
と、同時に彼は腰に差していた二刀を抜く。
「あー、まぁ確かに。ここイシュバーンで一番高い建物だからね、そりゃここに来るよね――それじゃ皆解散!」
彼女がそう言うと、バルレーンはそのまま。ファングインはユーリーフを両手で抱きかかえてそのまま屋根から身を投じた。
黒髪の女魔術師はファングインの腕の中で左腕を上から下に回すと、一拍遅れて滞空していた巨鳥のゴーレムが彼等目掛けてやって来る。……ゴーレムはそのまま二人を拾うと、遥か上空へ昇っていく。
バルレーンはと言えば、地面を背にしたまま落下にその身を任せ、気が付いた時にはメルドレリアの目から消えていた。
「……」
ただ一人残されたメルドレリアは残心しながら、腰に差した鞘に二刀を収める。
そして、床に落ちていたある物を拾った。それは鮮やかな青で染められた女物のローブであり、彼にも見覚えのある物だった。
「……骨格や筋肉を変える変装、否もう変貌と言って差し支えありませんね。それにあの黒髪の女性、巨鳥のゴーレムなど桁外れな物を」
空を飛ぶゴーレムというのは、一級冒険者の彼でもお目にかかった事はない。しかもゴーレムに走る装飾は、ゴーレム教団が有する熟練のゴーレム術者たるパルトニルの傀儡廻達――その中でも上の位階だけが許される薔薇である。
「それにあの剣士……時折ローブに浮かび上がった刺繍は間違いなくミスリル」
そう言うと、彼が肩にかける真銀の弓も仄かに光を放っていた。
エルフの社会というのは閉鎖された氏族社会で、他の地方の氏族とは殆どやり取りはない。しかしそれでもミスリルの扱いはどの氏族でも一定の位置にある。
それは、功を立てた者への報酬だ。彼等エルフの中で希少なミスリルは、功を立てた者だけが身にする事が許される特権である。
現に、メルドレリアの弓も龍討伐の功を讃えられた物である。
「北の地の隠し刺繍のローブは、間違いなく功を立てた戦士の証。……噂では、北の地では僅か数人で水晶龍を倒した戦士がいると聞きましたがまさか……」
しかし、そこで彼は推理を働かせるのを止めた。今はアルトリウスに命じられた仕事に全力を賭けるのが先決だからである。
好奇心で弓の狙いを狂わせる事は有り得ない。しかし彼の経験則上、弓とは心も指も一体になればなるほど鋭さを増す物なのである。
……しかし、それでも尚彼はこう思わずにはいられなかった。
あれ程の者が味方であってくれるなら心強い。
されど、敵に回せば間違いなく破滅が待ち構えてるだろうと。
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