15話:影が行く
我が世の春が戻って来た。美しさと魔術を取り戻してからのアスフォデルスの日々は、まさしくそんな感じであった。
力は陶酔の感情を生み、狂気を孕んだ熱が彼女を焦がす。
仄暗い地下迷宮。『蛇蠍星の迷宮』と呼ばれる全百階の大型迷宮、その丁度五〇階である。
巨大な盆の様な階であった。丸く、手すりの一切ない一枚板。その十メートル下では大量の水銀が小さな湖の様に溜まっている。
目線の先には亡霊が一つ。ボロボロの黒衣を纏い、白い骨を剥き出しにした亡霊だった。ボロ切れからのぞく両腕にはそれぞれ銀の蛇の腕輪をしている。眼窩には赤い光が溜まっており、淡く輝くそれは何処か狂気的だ。
地には足が着いておらず、一メートル上に浮きながら空中に佇んでいる。
俗に、リッチと呼ばれる魔物であった。
「“水銀の蛇に希う。五束よ鞭となれ”」
リッチが古代語でそう唱えると、途端下の水銀の湖から五本の柱が立てられ、それぞれはまるで鞭の様に横薙ぎに彼女等徒党に襲い掛かる。
「ファン!」
「うー」
バルレーンのその声に合わせ、ファングインは呼応する。
彼は右手に抜いた剣を走らせると、一回転し襲い掛かる水銀の鞭を次々弾く。……弾かれた一柱は、彼等より前に倒された冒険者が残した剣を横真っ二つに両断する。
赤髪の女盗賊はと言えば、同じく髪の様に細い針を走らせると同じ様に一打を逸らせる。
「“守護せよ”」
ユーリーフはそう唱えると、漆黒の鉄騎士は薔薇の盾で一打を受ける。土を強度が極めて高い疑似オリハルコン――アンオブタニウムに変換したゴーレムには、罅一つ入らなかった。
普通のリッチであるならば、雷の魔術や唱えれば一定の範囲に死を撒き散らす魔術を撃ってくる。しかし、この『蛇蠍星の迷宮』の五〇階のリッチは下の水銀を操作する変わり種の厄介者であった。
「話には聞いてただけど、水銀操るリッチってタチが悪いよね」
通常のリッチの対処というのは、神官の祈りや浄化をぶつけて魂を昇天させる事である。しかし、このリッチが厄介者扱いされる点は魔を弾く銀の一種である水銀を操作する所であった。
この下一杯に溜まった水銀は時に鞭、時に槍、時に矢、そして時に盾となり銀の武器や神官の祈り、魔術師の魔法解除すら弾くのである。
しかも、水銀には毒がある。もし攻撃が掠りでもすれば、身体は即座に毒に蝕まれる。
この水銀遣いがいるが故に、『蛇蠍星の迷宮』の五〇階と言えば鬼門と呼ばれていた。真っ当な冒険者であるならこの階に達する前に引き返す。
「……だから辞めようって言ったの、幾ら何でも水銀遣いのリッチは面倒だって」
「しょうがないじゃん、アレだけのお金を稼いだ帳尻合わせるにはこの位やんなきゃ!」
彼等がどうしてここで水銀のリッチを相手にしているのか。それは事実の帳尻合わせである。
『不凋花の迷宮』を踏破し、持ち帰った魔導書は冒険者ギルドに買い取られ、かなりの金額を彼女達にもたらした。
しかも魔族の事は洗いざらい、そしてユーリーフとアスフォデルスが作成した誓約の証文をギルド長を始めとする幹部に交わさせた後はアスフォデルスに関する事も全て報告した。……これにより更に追加報酬が出された為、彼女等の懐はかなり温かい。
しかし、人が他人の異常に目が行くのは急に金回りが良くなった時である。
急に金回りが良くなれば、必ず勘ぐる者が出る。人間とはそういう物だ。……故に、『不凋花の迷宮』とアスフォデルスから目を背けさせる為。真っ当な理由で金を手に入れたという帳尻合わせの為に彼等はここにいるのである。
「……でも、絶対バルちゃん引き際誤ったでしょ!?」
「だって、今月見たいお芝居一杯あったんだもん! ボクにはお金が必要なんだ! 『恋せよティオニス』でしょ、『ブラスヴァンの一族』でしょ」
「……それ全部、ちっちゃい女の子が見てる奴じゃない!」
「悪い!?」
しかし、潜ったは良いが目ぼしい理由が手に入らず。あれよあれよの内に来たのがこの階であった。
一応、念の為に用意したドワーフの神官が売っている鉱毒避けの呪符は非常に役に立っていた。魔術においては魔導元帥とも言うべきアスフォデルスがいるので買う必要はないと思えるが、これもまた帳尻合わせである。
少しでも疑いの目を遠ざける為、態々出費して購入したのだ。もっとも、それが理由で徒党の資金が底を尽きかけている訳でもあるが。
故に、彼女達は自由に大金を使う為に目の前の敵を倒さなくてはならないのである。
「うー」
俺、関係ないもんね。と言わんばかりに、うんざりした表情でファングインは唸る。
実際の所を言えば、水銀遣いのリッチは彼等徒党にとって非常にやりにくい相手だった。
何せ毒を持つ水銀は動きが速く、縦横無尽に攻撃がやって来る。これを仲間を防ぎながら戦うというのは、彼等であっても些か骨は折れた。
ユーリーフのアンオブタニウム・ゴーレムの神の血で灼くというのはもっての外だ。水銀を熱せば、毒の蒸気を発生させる。それがもし肺に入れば触れるより重く毒に蝕まれる。
「参ったな……明日の夜から中央劇場で『フラウィアの悲恋』があるのに」
バルレーンがそうぼやいた時だった。
「なら、私が相手してやろうか――この魔術師アスフォデルスが」
にやけた笑みを浮かべ、背中まである金髪を一度右手で前髪から掻き上げながらアスフォデルスがそう言った。
顔は、もう力を振るえるのが嬉しくて仕方ないという感じににやけている。
……随分変わったなとバルレーンは思った。この前まで迷宮にいる何でもない魔物にすら怯えていたのが、今は好戦的な態度を取っている。
「勝てるの? アレ、魔術師として大分強いでしょ?」
しかし、彼女はそれを臆面にも出さずアスフォデルスに短くそう訊ねた。それに対し、金髪の大魔術師と言えば眉すら動かさず。
「ありゃ雑魚だ」
あまつさえそう言い放った。
「……雑魚ですか、あの水銀遣いが」
「あぁ、水銀操作は一見派手だが奴にはそれしか能がない。そういう一芸しかない手合い程、狩りやすい魔術師はいない」
ユーリーフが大規模迷宮の中階層の王を捕まえてあまりの言い様に、思わず物怖じしながらそう掘り下げると返って来たのはその答えである。
「ユーリーフ、授業だ。お前に魔術師の戦い方を教えてやる」
そういうと、アスフォデルスはファングインの右隣に出た。
今の彼女の装いと言えば、あの重さを殆ど無くした茶色い革鎧。その下には鮮やかな青で染められたチュニックと、その下には裏に鎖――これも重さを軽くしてある――で補強された膝まであるかという黒いスカート。
魔法銃は宿屋に置いてきている。
「来いよ雑魚。情けだ、先手を譲ってやる」
アスフォデルスは上唇を舌なめずりし自分の髪を一房取ると、枝毛を見つけた。迷宮に潜ってる間に傷んでいたらしく、彼女はその一本を右手で引き抜くと台座の外へ落とす。
水銀遣いはその発言と態度に憤りを覚えたのか、まるで侮辱に憤慨したかの様に両手を広げる。
「“水銀の蛇に希う。四十八束よ網となれ”」
古代語でそう唱えると、彼は水銀で網を模ろうとする。現れ出でたる四十八もの柱はそれぞれが交互に重なり合うと、巨大な網となって彼女等徒党に襲い掛かろうとした。
その一瞬、アスフォデルスは青と黄と橙が入り混じる淡褐色の双眸を向けると。
「“水銀の蛇に希う。四十八束よ解けよ”」
まるで返歌の様に古代語でそう唱えた途端、水銀の網はリッチが命じるより早く動き、網の形を解いて下の溜まりに戻った。
これに驚いたのが他でもない水銀遣いのリッチである。彼はと言えば現実を受け入れるのが遅いらしく、自分の操る水銀が溜まりに戻った後も腕の上げ下げで操作を試みる。しかし腕は空を切るばかりで、水銀は先程と違い何の反応も返さない。
それに対し、彼女はまるで教師の様に声音で黒衣を翻すリッチに対して語り掛けた。
「まず良い所を上げよう、本来なら魔を弾く銀の一種である水銀を魔術師としてよく操作した。――これはお前が確かな腕を持つ証拠だ、誇るがいい」
アスフォデルスは淡々と自分の分析を口にする。
「だが、水銀の操作に全てを注ぐのはよくない。確かに水銀は強力だが、こうして自分よりも上の魔術師が相対した時はその手数の少なさが仇となる」
右往左往するリッチを後目に、彼女は自分の胸元――赤く鍛造された賢者の石が埋まった――を右の人差し指で撫で。
「この身体は『生命魔術体』、髪一本で魔術を熾せる。お前のご自慢の水銀は、私の髪を取り込んだ事でもうお前の手を離れた――“水銀の蛇に希う、四束よ彼の者を縛る鎖となれ”」
途端、リッチの周りに細い水銀の柱が立ったかと思うと、それは統べる様な動きで彼の四肢に絡んで両手足を横に伸ばした。
「更にはこんな事も出来るぞ? “水銀の蛇に希う、六束よ彼の者を穿つ槍となれ”」
彼女の頬が嗜虐に歪むと、更に六本の柱が生まれたと思えば鋭い切っ先が無造作にリッチの黒衣を貫いた。
右脇腹と左肺。右の眼窩と左腕。左肩と右太腿へ一瞬にして槍が走り、磔にされた水銀遣いはまるで酸欠を起こしたかの様に顎を上下させる。
「お次はこれだ“水銀の蛇に希う、四束よ彼の者の四肢を断て”」
リッチの四肢が断たれた時、アスフォデルスの身に走っていたのは歓喜の感情である。
力は愉しかった。本来の力を完全に取り戻していたなら、こんな水銀の操作を奪う等下の下の手段である。
だが、それでも魔術を使えるというだけでもう心は興奮のただ中にあった。だって相手は魔物で、襲われている自分は身を守らなければならないのだから。そう、これは正しい事が保証された暴力なのだ。
次はどんな事をしてやろう、どんな物を見せてやろう。年幼い子供が虫や蛙に振るう様な残虐性を見せつつあった。
「あー、アスフォデルス。もう少し、こう何てか手心をっていうか……」
「痛くなければ覚えないぞ」
どこかの道場で交わされた様なやり取りをバルレーンと行った後。そう返しながらもアスフォデルスは終局に入る。
正しさは人を狂わせ、暴力は陶酔を生む。その典型例の様にアスフォデルスは裂けた笑みを浮かべながら、ある古代語の詠唱を行った。
「特別だ本当の魔術を見せてやる。――“形あるものは皆壊れる。朽ちて、溶けて、塵となる”」
そう唱えると、まずアスフォデルスの前に白い光が溜まり、徐々に球体の態を成していく。
「“一つを腑分けし、そこより生まれし数多も腑分けする。示すは無謬の壊乱、是なるは一切残さぬ破壊の顕現”」
白い光が拳大まで大きくなった所で、アスフォデルスは本来かなりの長文となる詠唱を終わらせる。原則として呪文を改竄すると魔術は発動しない。しかしその原則を破っても魔術を発動させる事が出来るのは、彼女がまさしく魔術の天才だという事の証明と言って良いだろう。
「“我は砕く、汝が存在全てを”」
彼女が使ったその魔術の名は、ディスインティグレイト。放てば対象を原子崩壊せしめる、古代魔法文明時代に失われた筈の呪文である。
詠唱を終えると白い光は音もなく滑空する。光が通った後は、浅い抉れた跡が刻まれた。
そしてそれは丁度磔にされていたリッチの胸に当たった瞬間、――彼の存在は瞬きすらしない内に掻き消えていた。
『蛇蠍星の迷宮』の五〇階の主、水銀遣いのリッチのそれが最後である。余りに呆気なさすぎる幕切れに徒党の皆がしばし言葉を失ってる中、アスフォデルス一人だけは嬉々とした声を上げた。
「どうだ、皆見たか! これが古代魔法文明時代の禁忌が一つ、ディスインティグレイトだ! なぁ、私って凄いだろう!?」
喩えるなら、それは飼い猫が飼い主に喜んでもらおうと鼠の死骸を持ってきた様にも似ている。アスフォデルスはそう自慢げに彼女達に語り掛けた。
とにかく私を見て欲しい、とにかく私を褒めて欲しい。そういう渇望が今彼女を動かす原動力である。
――――。
――。
所変わって、〈見えざるピンクのユニコーン亭〉の酒場の一画。
「なぁ、ファングイン! 今日は三つ編みにしてみたんだが、どうだ!?」
地上に戻れば、常に髪型を変えてその都度ファングインに感想を求めていた。
まず早朝は鏡に映る自分を見て、放っておいたらずっと見続けて陶酔の表情を浮かべ、更に手鏡を買ってからは四六時中自分の顔を見ては陶酔の表情を浮かべている。
最近では日毎に髪型を変えてみたり、時折自らの報酬で服を買ったりし、まるで年頃の娘の様に着飾る事を楽しんでいた。
それに対して、緑ローブの青年はと言えば席に座りながら――
「うー」
笑みを浮かべ、褒める様にそう一言唸った。それに対しアスフォデルスは気を良くしたのだろう、淡褐色の双眸を輝かせ彼の元に近寄る。
「お前ならもっと触ってみても良いぞ! ほらほら、遠慮するなよ!」
そう言ってアスフォデルスが彼に抱き着くと、そのまま彼は彼女を膝の上に座らせた。そして背中から抱きしめたまま頭を撫で始める。
「うー」
「えへへ、そうだろう? やっぱり私は可愛いだろう?」
彼女のその様は、まるで父に甘える娘の様に見えた。
そんな中。
「……アスフォデルスさん、すいませんが研究でちょっと見ていただきたい所が」
「――何だ、どうした?」
黒髪の女魔術師が羊皮紙を片手にそう声をかけると、一瞬にして年頃の娘から練達の魔術師の顔に切り替わる。
ユーリーフが訊ねた時、一切邪見にしない所にアスフォデルスの人格の一旦が垣間見えるだろう。
彼女がユーリーフから羊皮紙を取り、目を走らせた少し後。唐突に〈見えざるピンクのユニコーン亭〉の扉が開く。
「ただいまー、言われた通りの材料買ってきたけど」
茶色い編み籠を抱え、その中には肉や魚やオートミール。野菜と胡椒を始めとする様々な香辛料、そして果物等が入っていた。全て市場で買える物である。
「ねぇ、これで本当に教えてもらった武器が出来るの? これで出来るのは精々朝ご飯ぐらいじゃない?」
「良い武器だろ? ご飯の材料にもなる、渡したレシピ通りに作ればどんな化物でも倒せる」
訝しむバルレーンに対し、アスフォデルスは天才特有の醒めた感じに返す。その顔は娘や魔術師というより、友人同士という様だ。
アスフォデルスは会話する者によって顔が変化した。時に制裁癖のある暴力の素人、時に父親に甘える娘、時に二百年を生きた練達の魔術師、時に気楽な友人。そのどれもが彼女であり、彼女でないと言えよう。
そして、顔は再び娘に戻る。
「そう言えば、ファングイン。今日は私に付きあってもらうぞ、新しい服が欲しいんだ」
「うー」
そんな彼女の頼みにファングインはこくりと首を縦に振り、了承の意を示した。
ただその姿は父親というよりも、小さな子供の世話をする頭の良い飼い犬の様であった。
× × ×
イシュバーンの街はどこもかしこも常に賑わいを見せている。
それには勿論理由がある。迷宮だ。
迷宮は必ず攻略しなくてはならない。そこには常に冒険者が生まれ、その冒険者を目当てに様々な商人が群がってくる。
武器屋や防具屋、各宗教の教会に魔術師ギルド、飯屋に宿屋に酒場に娼館。服屋や劇場や本屋等と言った物まで。……冒険者の欲望を満たす為に商売が生まれ、その商売を行う為にまた新たな仕事が生まれる。
差し詰め経済の食物連鎖と言って良いだろう。
その結果としての賑わいなのである。
「輝く顔のアルトリウスが左の剣を宙に投げると、それは数百本に分裂し敵に突き刺さる! これこそアルトリウスの左の魔剣、その名も高き〈黒鏡〉! 魔剣を撃ち放った後、アルトリウスはこう言った!
“パルトニルの傀儡廻共。狂ったアルンプトラの命とは言え、全員孫の顔を拝ませぬ!”」
名高い冒険者・アルトリウスが一大交易都市パルトニルで起きた事件を男の講談師が道端で謳い上げる。……拙い講談ではあるものの周囲には人だかりが出来ており、それは演目が人気である事の証左となっていた。
そんな喧噪の中、一つ声がする。アスフォデルスである。衣服は冒険の時の革鎧を外しただけ。青いチュニックと、黒いスカートである。
姿を取り戻してから様々な服をそれなりに買った訳であるが、彼女が一番気に入ってるのがこの服であった。着心地が良く生地も丈夫で色々楽なのである。
「やっぱり服は大事だよなー、うん」
「うー」
そう言いながら、二人は市井の店の一つに入る。そこは雑貨店で、様々な日用品や食料が置かれていた。
アスフォデルスは店内を見回し、ある商品の前で立ち止まる。そこには『髪飾り』と書かれた木箱があった。
「なぁ、ファングイン! 似合うかな?」
そこに入っていた青い蝶をあしらった髪飾りを無造作に手に取り、前髪に翳す。
すると、ファングインは左手を伸ばし一つ――黒いリボンを手に取った。青い蝶の髪飾りはアスフォデルス自慢の金紗の髪に良く似合う。対し、ファングインが手にした黒いリボンは金の髪にも似合うが、茶色い髪にも良く似合う代物であった。
「そっち? そっちの方が良く似合うかな?」
しかし彼の思いに気付く事なく、アスフォデルスは彼が選んだという事自体に無邪気に喜んでいた。
結局、アスフォデルスは彼の真意に気付く事なく黒いリボンを購入したのである。
ここに来てアスフォデルスは常に上機嫌だった。経済的には以前より困窮していたかもしれない。しかし美しさと魔術を取り戻してからというもの、失われてた自分への自信が帰って来ていた。
自分の半生を賭けた物が帰って来た。それがただただ嬉しく幸せであった。
しかし、古来よりの言い伝えでは禍福は糾える縄の如し。幸福が来れば、次に来るのは不幸だ。
故に、それは当然の如く訪れた。
雑貨店を出て、しばらく経った後。人の通りもまばらな一方通行の道。道の端には足や腕を失った元冒険者の物乞いが、起きているのか眠っているのか分からず横たわっている。
通りの名前は誰が名付けたか、『眩暈通り』という。裏通りに近く、都市の光と影の境界線の様な所であった。
「なぁ、ファングイン。次は――」
『眩暈通り』を半分通った時。
――それはまるで風の様にアスフォデルスの身体を掴み取り、影すら残さず彼の前から消え去る。
死角から死角へ、街に存在する陰から陰を飛び移る様に彼女は強制的に連れまわされた。そうしてイシュバーンという街に存在する、建物と建物の隙間。昼間だというのに濃い影に覆われ、誰も訪れない一角。
「な、なにここ?」
突如の事にアスフォデルスは噎せ返りながらも、脊髄反射でそう言葉を吐き出す。声音は若干怯えていた。
目の前にいるのは青い髪と青い瞳の少女だった。身長は一四〇センチ程、身に纏うのは白いカートル――踝まで袖のあるスカートと上着が一体となった服。よく農民の娘が着る服だ。
少女の顔は整っていた。鋭さを帯びた目つきに、通った鼻梁。少女程の背丈であるというのに、何処か糜爛した空気を彼女は纏っている。街の誰もが振り返るだろうその顔は、一瞬呆けた様な顔を取り、そしてその後まるで裂ける様に笑った。
「誰?」
「……」
「ねぇ、誰なの? 怖いよぉ……」
まるで病室に見知らぬ人間が入って来た時の様な誰何の声を上げるアスフォデルスに、少女は歩みを進めると防ごうとする彼女の両手を掴みながらその顔を右頬に近づけ。
「どんなに姿が変わっても、この匂いだけは変わらない。アタイの好きな匂いだ」
聞き覚えのある声でそう言った。
「――言ったろ、アスフォデルス。また会おうってさ」
その声をアスフォデルスは知っている。彼女の脳裏に正解が過った途端、少女は顔を元の位置に戻し丁度アスフォデルスの顔を睥睨する様な体勢を取る。
途端、少女の姿はまるで泥の様に徐々に崩れていった。
――魔骸真変。
口から覗く歯はどれもが鋭さを帯び、身に纏った白いカートルは血の様に赤く色鮮やかに染まっていく。そして額から突き破る様に生えていくのは、古灰色の一本角。それはまるでユニコーンの様。
「誰、誰なのとはご挨拶だね。こっちはアンタの事を一日千秋、恋しやと思っていたのに」
「お、お前は……」
レンリー大森林に棲む鬼――カロンである。
「会いたかったぞ、アスフォデルス。あの大きな爆発で死んだと思っていたが、イシュバーンで深酒かっくらった後にこうしてまた出会えるなんて。そしてどうにかして力を取り戻したみたいだな、うんアンタはその姿が一番似合ってる。
――ボロ切れを必死に纏って、自分の醜さと弱さをひた隠す様でいてな」
「う、恨んでるのか!? 私がお前を襲った事を!?」
「恨む? アタイが?」
その声に青い瞳を一際大きくした後、カロンは噴き出した。
「恨む、恨むと来たか! アタイ、アンタのそういう考えに至る所人間らしくて好きだよ!」
「じゃ、じゃあなんなんだよ!?」
「そりゃ、年頃の可愛い娘を鬼が攫ったんだ。やる事は一つさ」
掴んだ両腕に力が籠められ、アスフォデルスの腕が軋みを上げる。痛みが走る前の一刹那、カロンは耳元でこう囁いた。
「アンタを今から食うんだよ」
……鬼の爛々と輝く青い瞳に映るアスフォデルスのその顔は、まるで祭壇に捧げられる生贄の様であった。
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