11話:闇からの脅威


 それは迷宮の下層から、時にシーフの忍び足。時に聞き耳、時に魔術師の暗視の呪文を用いて、迷宮の天井や壁の隙間をまるで蛸の様に這いながら上層に登って行った。


 目指すのは久方ぶりに足を踏み入れた獲物達の所だ。……取って喰らった脳四個に魔力を通し、その機能を強制的に励起れいきさせる事で、それは遥か遠く離れた場所にいる獲物の音を拾っていた。


 音は五。非常に重たいのが一体、重たいのが一体、非常に軽いのが一体、そこそこなのが二体。……一人は金属鎧を着ている重武装の戦士と思われる。

 それは更に倍率を上げる。革や絹がすれる音、鋼ががちゃつく音、呼吸音。

 嗅覚はわざと使っていない。上層から流れてくる煙には、恐らく魔物除けの薬草が混ざっているのが、吸い上げた知識を通して理解してた。


 種族としての本能から、生き物が持つ『脳』という器官の使い方をそれは十分理解している。


 この脳というのは多種多様な知識を溜め込む壺であり、記憶と思考を合わせる歯車であり、肉体と魂魄を繋げる鎹である。そこに自分の持つ魔力を通す事で、それは哀れにも犠牲になった脳の知識や技能や経験を十全に使う事が出来るのだ。


 ……故に、まだ心や自我といった物を残した脳達は地獄の様な苦しみを味わい続けるのだが、それにとっては彼等の痛みもまた貪りつくす対象に過ぎない。

 脳を喰らう醍醐味だいごみとは、蓄えた知識や記憶や経験を使うだけでなく、自我や心までも味がしなくなるまでしゃぶり尽くす事である。


 例えばこうして、脳四個に痛苦を与える一方で、この前取って喰らったハーフエルフの脳には快楽を与えている。魔力を通し本来なら性交で得られる法悦境の快感に浸し続ける事で、それは獲物に残った一握りの自我を尊厳と共に壊そうとしているのだ。


 ただ、嗜虐を満たす為だけに。

 ――人は、それらの事を魔と呼んだ。



 ×    ×    ×



 不意に目覚めたのは尿意を感じたからだ。アスフォデルスは浅い眠りから目覚めると、一度もぞりと身体を震わせる。

 少し水を飲み過ぎたらしい。だが、この感じは朝まで持ちそうにない。


「ファングイン、腕離して。私、おトイレ行きたい」


 自分の腹に回ったファングインの両腕を外す為、右の二の腕を軽く触る。

 すると、腕が緩み彼女は毛布から音を極力立てず抜け出した。

 そして彼女が身を起こし立ち上がった時、――ふと背後から微かに毛布の落ちる音がした。

 彼女が首を後ろに向けると、そこにはファングインが立っていた。目を瞑り、呼吸は規則的でどうやらまだ寝ているらしい。


「……あれ冗談じゃなかったのか」


 彼女がそう呟くとファングインは寝息を立てながら、アスフォデルスの後ろにつく。剣術の極意に辿り着いた剣士が、夢見心地のまま剣を振るい、気付いたら敵を倒していた話を幼い頃父から聞いた事がある。

 聞いた時は、子供心に荒唐無稽な話だなと思ったが、まさかこの年齢になって目にするとは――


「まぁ、剣の上に立つ事できるし……寝ながらついても来れるか」


 昼間の戦いを思い出し、目の前の光景を納得すると彼女はファングインを連れてトイレを目指した。

 軽く開けていた扉を越え、闇の立ち込める迷宮に再び潜る。明かりの無い迷宮は、一歩間違えれば遭難してしまいそうになるが、その都度ファングインが眠りながら彼女を導きトイレには難なく辿り着く。


「少しここで待っててくれ」


 彼女がそういうと、未だ眠り続ける緑ローブの青年はこくりと頷き入り口の前に留まった。

 ……闇に慣れた目に映るトイレの中は、大小様々な瓶が並んでいる。彼女はその内の小さな瓶を引きずり出すと、閉じていた上蓋を開けた。

 中にはカラカラにひからびたスライムの残りが一つ入っている。これが迷宮のトイレである。

 彼女がこげ茶のズボンから出したわら紙を床に置くと、そのままズボンを下げようとした。


 ――想像するなら、動きは蛇。それは狙いを定めた蛇が獲物を捕らえようとする様に似ていた。 


「……ッ!」


 足元に忍び寄った柔らかい何かが触ったと思った瞬間、アスフォデルスの身体には肉の厚い何かが絡み、気が付くと身体を引きずられて逆さ宙吊りの態にされる。


 喉が引き攣り、声にはならなかった。絡みついた何かが強く締まると、そのまま腹の空気が一気に外に漏れる。次いで口元にも何かが絡み、声が漏れ出ない様にされた。


 一瞬の内に自分に何が起きたのか、全く分からない。

 しかし、自分の身体がゆっくりと部屋の左奥に近づけられると徐々に――それの姿が見えて来た。


 砕け散り、大きな亀裂となった左隅から自分を持ち上げる触手と爛々と輝く目が七個。目は碧や緑や茶など、どれ一つとして同じ色の瞳は無い。

 徐々に近づくにつれ、不規則な息遣いが聞こえてくる。


「あ」


 声。


「あ、あっあっあっ」


 自分が上げた物ではない、男と女二人が重なった喘ぎ声が響く。

 声は一人、また一人と重なっていく。低い年かさの男の声、高い少年の様な声、ハスキーな女の声。まるで喘ぎ声の重奏だ。


「あ、助け、あっあっあっ、殺し、あっあっあっ、苦し、あっあっあっ、気持ち良」


 声は人間の物かもしれない。しかし、それは――けして人間ではない。

 理解する。これは自分を取って喰らう魔の者だ。


「……ッ! ……ッ!」


 時ここに至りて、恐怖は沸点を迎える。まず覚えたのは恐慌。声にならぬ悲鳴を上げ身を捩り、何とか触手から抜け出そうとするも引き締めはより強くなるばかり。

 毒の様に全身に回った恐れから、股座の力が緩み出そうと思っていた尿が溢れ出す。逆さ吊りにされ、それは涙と混じり頬と茶色い髪を伝って地面にボタボタ落ちていった。


 そして顔には、まるで白地に黒いインクが染みていく様に爛れた火傷痕が広がっていく。


「あっあっあっ、やめ、あっあっあっ、狂、あっあっあっ」


 そうして、亀裂の闇の中からもう一本触手が伸びる。

 彼女の青い瞳がみるみる内に広がっていったのは、触手の先がまるで蟷螂の斧の様に尖っており、惜しむらくは人間の少女一人など容易く切り刻めるだろうと察したからだ。


 そしてその先には、死より恐ろしい運命が待っているであろう事も。

 ――だが、その運命に辿り着く事は無かった。


「うー」


 風切り音の代わりに唸り声が一つ。ただそれだけで、彼女を縛っていた分厚い肉の蔦は突如分かたれる。

 音の無い白銀が暗闇に煌めく。


「ふぎゃ!」


 自分に絡んでいた触手が分断されても、アスフォデルスの身体が地面に叩き付けられる事は無かった。

 そこにはファングインが先程まで瞑っていた左目を確りと開けて立っており、彼女の身体を両腕で受け止めていたからだ。

 琥珀色の瞳は、今は敵意に染まっていた。


「ふぁ、ファングイン……」


 アスフォデルスの腹腔にようやく空気が戻り、喉を震わせ口にしたのがその名前である。彼の表情はいつもの穏やかな顔でなく険しい物を浮かべ、触手が潜む亀裂を睨んでいた。

 これ以上、自分の手中に収まった女に手を出そう物ならけして容赦はしないと。そう言わんばかりに。


 ひそやかな冷たい殺気が場に染み渡る。……一拍の後、亀裂に潜んだ魔は触手を収め、ずるずるとその場を後にした。

 アスフォデルスの身体に未だ巻き付く、触手だけが先程まで起きた事が現実であった事を示す唯一の証拠であった。


「ファングイン、ファングイン……」


 一度目は確かめる様に。二度目は嗚咽交じりに。自らを襲った恐ろしい物が去った安堵から、堰を切った様にアスフォデルスは彼の名を呼び続ける。

 彼女の顔に広がっていた火傷痕も、徐々に海の潮が引く様に消えていった。

 彼はと言えば、一転して何時もの穏やかな顔に戻し、そのまま自らの衣が汚れるのも構わずに震える少女の身体を抱き締める。


 ただ自分はここにいると、恐ろしい物は去ったと、もう泣く必要はないと。

 言葉の喋られぬ身で、そういう思いを伝える様に。


 ――――。

 ――。


「なるほどね、そういう事があった訳か」


 ファングインがアスフォデルスを助けてからしばらく経ち、事の詳細を知ったバルレーンはそう言った。

 現在、異常を察したバルレーンとユーリーフは起きており、トイレで何があったかをアスフォデルスから告げられて把握した所である。


「あぁ」


 汚穢に滴った身や衣、顔や茶の髪を湖水とファングインが持っていた無患子の粉で泡立たせて洗い、替えの下着に履き替えた後。アスフォデルスはようやく落ち着きを取り戻していた。


 それでも未だ恐怖は拭えきれていないのか、同じくローブを脱いだファングインの左腕に身体ごと抱きしめている。……襟元までかかる銀の髪をたずさえた青年は、アスフォデルスのされるがままにされていた。


「そして、これが私に巻き付いてた証拠」


 焚火で深緑のローブとこげ茶のズボンと灰色のチュニックを乾かす横で、バルレーンは赤瑪瑙の瞳を右に向けた。

 肉は木の幹程も厚い、二メートルはあろうかという赤黒い触手である。獲物を滑らせ逃さない様に吸盤が付いており、ファングインが切った断面は鋭く滑らかだった。


「こんなの見た事ないな。『不凋花の迷宮』どころか、他の迷宮でも見た事ないよ」

「……いつか、港町で見た蛸に似てますね」


 ユーリーフが恐る恐る触手に手を伸ばし、それが何なのかを調べる。骨は無く、彼女が先程言った様に感触は蛸に近い。

 バルレーンもユーリーフも初めて見るそれには、何の推論も立てられなかった。


「アスフォデルス、これが何か解る?」

「あぁ」


 バルレーンが話を向けると、アスフォデルスは静かに答えた。


「こいつは、魔族だ」



 ――神話に曰く。

 天地開闢てんちかいびゃくの折、降りたりし別天ことあまつ神々は世を三つの国に分けた。

 光満つる雲際おおそらの天つ国、豊芦とよあしの人の国たる中つ国、臥したる眠りの下つ国。これを三世とし、それぞれ分かつ理の壁をとこしえの物とし、何れもひとり神となりて去れり。

 さりとて、別天つ神々去りし後。下つ国より泉が如く穢れが満ちた。

 これらの穢れを魔と呼び、なんじら中つ国の民を苛むという――



「神話によれば、天地開闢の後に生まれたのがこいつ等だ。私達の人の世を苛む異界の魔の者達、それを俗に魔族と呼ぶ――最も滅多に見る事はないがな。

 お前らも子供の頃、教会の説教とか寝物語の御伽噺で悪魔とか聞いた事あるだろ? つまり、ああいうのだ」

「実在したんだ、悪魔って……」

「……知らなかったです」


 二人がそう返すと、アスフォデルスは説明を続ける。


「神官や僧侶が祈り奇跡を呼ぶ神が秩序の勢力なら、こいつ等は差し詰め混沌の勢力さ。本能としてこいつ等は人間を苛み、傷つけ徹底的に玩具にする。しかも現れる時は現世の物質と霊的な肉の要素を持つ、エクトプラズムで体を構成してる為か普通の武器は殆ど効かない筈なんだが」


 その青い瞳が上を向くと、そこには銀髪の青年がいる。


「う?」


 ファングインは、自分?という風に小首を傾げ唸った。


「なんだが。こいつの剣って、普通の鉄製だよな? こう斬り落とすなら本当は魔力を帯びた武器か、銀の武器しか出来無いんだが……」

「まぁ、ファンだしね。剣一本で無理を通せる男だから……」

「……今回のは、まだ現実の法則に則してる方じゃないでしょうか?」

「こいつ、本当一体何者なんだよ……」


 少し話は逸れたが、アスフォデルスは気を取り直して魔族に対して話す。正体と性質の次は、特性だ。


「恐らく、こいつは死脳喰らいデッドブレインシーカーだ。獲物の脳を喰らい、その知識や技能。記憶や経験を利用する事に長けた不定形の魔族。……今まで潜った徒党は恐らく私達以外全員食われたんだろう」

「……どうして魔族はこの『不凋花の迷宮』に現れたんでしょうか?」


 ユーリーフの素朴な疑問に対し、アスフォデルスは一度顔を顰める。そして躊躇いながら語気を落として推論を話し始めた。


「恐らく、最近このイシュバーン一帯の土地の魔力を狂わせる事があった。……私が引き起こしたアレだ。あの衝撃を呼び水として、私の魔力の残り香が色濃く残るこの迷宮に現れたんだろう」


 彼女にはそうとしか考えられなかった。そしてつまりそれは――


「すまない、全部私の所為だ。危険な状況を作って、それにお前達もお前達以外も巻き込んでしまった……」


 その言葉は自らへの罪悪感で重みを増していた。


「……別にアスフォデルスさんが直接の原因だと決まった訳では無いですから、そんなに落ち込まないでください」

「そうそう、それに冒険者なんて死ぬ奴は全員間抜けなんだよ」


 ユーリーフは労わる様に、バルレーンは笑い飛ばす様に声をかけた。そしてファングインはアスフォデルスから左腕を柔らかく抜くと、そのまま彼女の肩に手を回して身体を抱き寄せる。


「悪い……皆」

「それよりも、死脳喰らいとまた出会う可能性はある?」


 バルレーンがそう訊ねると、アスフォデルスは一度首を縦に振る。


「あぁ、魔族は習性上人間を見たら襲わずにはいられない。ここで私を見つけた以上は撤退しても、必ず次の襲撃を掛けてくる」

「それじゃ勝てばいいだけだね」


 一つに纏めて結い、左に寄せた三つ編みの先を口元に当てながらバルレーンは平然とそう言った。


「……バルレーン。お前、まさか魔族に挑んで勝つ気なのか?」

「だって、契約は最奥まで御案内エスコートする事でしょ? ボクちゃん、契約は絶対に守る主義なの」


 一息置いて。


「それに、相手の特性は把握した。銀の武器はボクが用意してるし、切り札だってユーが持ってる。それに何よりファンさ」

「ファングイン?」


 バルレーンが右手の人差し指を指すと、途端ファングインは立ち上がり、少し離れた所で右手で剣を引き抜く。

 そしてそのまま微動だにしなかった。


「ほら、ご覧の通りもうやる気が最高潮。過去一と言っても過言じゃないよ」

「棒立ちしてる様にしか見えないんだが……」

「と思うじゃん? 達人なら、アレもう今の段階で頭の中で化物と千合打ち合ってるんだよね」

「私、素人だよ……」


 時折何処から来たのか分からないそよ風が頬と篝火を撫でる。

 ――不意にファングインが動きを見せた。

 剣を握った右手を横顔の一つ上に上げ、逆さまに向いた両刃の刃をくの字に構えた左手の人差し指と親指の間に通す。それと同時に足は軽く膝を曲げ、肩幅に開く。


「構えた」

「構えが出た事自体は、寝相みたいな物だよ。……差し詰め二千合行った所で、数十本想定した触手を全て斬り落とし。尚且つ警戒を解かず、引き続き防御の型を取ったってトコだね」

「……何でお前そんなの解るんだ?」

「だってボク、出来るシーフだし」


 あっけらかんとした風にバルレーンはそう言った。ファングインの強さはもう充分過ぎる位分かった、ユーリーフのアンオブタニウム・ゴーレムの特性も理解した。

 しかし、ここで改めて疑問が浮かぶ。目の前にいるこの赤毛の少女の実力は一体どれ程なのだろうか。

 日中は、ほぼファングインが乱舞した為実力を見る事は無かった。


「なぁ、気を悪くしたら申し訳ないんだが。お前って、そもそも戦えるのか?」

「いきなりどうしたのさ?」

「正直この一週間程お前と一緒にいるけど、お前腰の鉈は抜いてるのは見たけど、その二刀を抜いてるのは見た事無いし」


 アスフォデルスがそう言うと、バルレーンは顎に手を当ててしばし考え込む。


「あー、確かにね。でも今日は流石に仕方なくない? ファンが大暴れしてたじゃん」

「だから、今その二刀抜いて見せてくれよ」

「無理だよ、だってこれ張りぼてだよ?」

「え、張りぼて!?」


 バルレーンは腰の二刀の柄を両手を交差させて掴むと一気に引き抜く。鍔から先に刃は付いていなかった。


「良く出来てるでしょ、これー。ぱっと見、本物にしか見えないよねー」

「でも、さっき銀の武器持ってるって……」

「この柄が銀製なんだよねー」

「冗談だろ!?」

「勿論冗談だよ、ばっかだなーアスフォデルスは」


 あまりの事に驚く様を見せるアスフォデルスを余所に、バルレーンは笑いながらからかう。


「……バルちゃん、アスフォデルスさんは真面目に聞いてるんだから、からかうのは良くない」

「ごめんごめん、ちょっとアスフォデルスの反応が面白くってさ」


 アスフォデルスがからかわれた事を理解し空白の心が怒りに染まる前に、バルレーンは釈明を始めた。


「これは元々相手の注意を引く為に着けてるだけさ。腰に堂々と剣でも吊り下げてれば、知恵のある奴は必ず引っかかる」

「……なら、その鉈で戦うのか?」

「鉈も得物じゃないな。じゃあ、ボクの得物を教えるとね――」


 彼女がそう言った時だ。アスフォデルスが思いつめた表情を取る。


「いや、言うのはちょっと待ってくれ」

「どうしたの? 自分で当ててみたくなった?」

「それもある。だが、張りぼての剣で隙を誘う事までするって事は……もしかしてお前の得物って正体がバレたら意味をなさなくなる奴じゃないのか? なら、この場で一番弱いのは私だ。もし死脳喰らいに捕まって知識を吸い出されたら、お前の不利になるだろ」


 大真面目な顔をしてアスフォデルスがそう言うと、バルレーンは一瞬虚を突かれた顔をし、直に笑みを浮かべた。


「かっこいいとこあんじゃん。でも大丈夫だよ、君があいつに捕まる事なんてないから」

「なんでそんな事言えるんだ?」

「だって、君はボク達が守るんだもん」

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