3話:封龍の魔剣

 ボロボロになったドレスをどうにか纏い、彼女は誰もいない街道を裸足で歩いている。息は絶え絶えだが、気絶はしなかった。それは血塗れになった足の所為である。


「いたッ……」


 空には既に日が昇っている。あれから一晩中眠る事なく彼女は当てもなく、街道を歩いていた。普段なら飛行魔術で難なく移動していたが、今彼女にあるのは二本の足だけ。


 “不死の花”、“赫奕かくやくたる異端”、“背きし者”、“大ゴーレム遣い”とまで呼ばれた魔女の何と惨めな事か。


 それでも、彼女は死んでしまいたいとは思わなかった。希望は無いが、死ぬのだけは怖くて出来なかった。


 死にたく無かった。こんな寒くて、冷たくて惨めな場所でなんて。

 理想の姿の頃は「この美しさを失うくらいなら死んだ方がマシ」等とのたまっていたが、実際に何もかも失うとただ一つ残された命まで手放すなど考えられなかった。


「……嫌だ」


 弱音で折れそうになるのを言葉で叱咤し、彼女は歩みを進める。その矢先だった。

 大きな羽音が鳴り響く。

 人間が街から街へと移る時、冒険者を雇い護衛するケースがある。それは街道での魔物に対する物だ。現在の季節は春、それは冬眠が明けた魔物が活動を開始する時期でもある。


 例としては飛竜などが上げられる。


 アスフォデルスが空を仰ぐと、目算で高度四〇メートル程から自分に向かって滑空している赤い飛竜の金の瞳と目が合った。


「わぁぁあああああ!」


 それを見ると彼女は一目散で逃げ出した。普段は歯牙にもかけぬ雑魚だった為、飛竜と出会った時の対処方法などとうに忘れ去っていた。……飛竜と出会った時にやってはいけないのは、飛竜に背を向けて逃げる事である。


 十歳の少女が竜種の翼から逃れられる訳もなく、竜は先回りし彼女の進行方向上を陣取る。


 飛竜は体長十五メートル程。赤い鱗に覆われ、恐らくは齢一五〇歳の成体と言った所か。金の瞳は一直線にアスフォデルスを見つめた。


 賢者が修める博物学の書物を開くと、飛竜は竜種の中でも下位に位置する。古龍などに比べれば知能レベルも精々トカゲに毛が生えた位だとも記載されているだろう。

 だが、それでも街道で遭遇する魔物の中では上位に食い込む。火こそ吐かない物の、その爪や牙は牛や馬などの家畜を葬って余りあり、まして何の力もない十歳の少女など一口で済むだろう。


 飛竜はその乱杭歯を剥き出しにし地響きの様な唸り声を上げる。

 そして。


【――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!】


 アスフォデルスに向かって口を大きく開けて咆哮を浴びせた。


「ひ!」


 飛竜の咆哮ほうこうは彼女のなけなしの意気地を折るのに十分過ぎた。彼女はその場に座り込む。

 アスフォデルスは心の中でこう思った、誰か助けてと。


 だが、直後に気付く。自分を助けてくれる相手の顔を全く浮かべられない事に。父も母も兄弟達も、遠い過去に置いてきてしまったのだから。

 心の中で、誰も助けてはくれない事に気付くと彼女の中に一層深い絶望が立ち込める。飛竜が一度首を引く。……それは獲物に喰らいつこうとする為の素振りだ。


 理解した瞬間、恐怖から彼女は咄嗟に目を閉じた。

 その時である。

 何かが肉を断つ音がした。


【――、――――ッ、――――――!】


 アスフォデルスが恐る恐る目を開けると、そこにはまったく奇妙な光景が映っていた。


「うー、うー?」


 気の抜けた低い男の声が響く。

 二メートルもの大男だった。体型は細身なのは、頭まですっぽり覆う深緑のローブから見て取れる。被ったフードから垣間見える髪は銀。

 それがアスフォデルスの前に立ちふさがり、あろうことか右手に両刃の長剣を抜き払っており、…………代わりに赤い飛竜が右前足から憤血ふんけつを流していた。


「な、何?」


 誰でなく、何と彼女が漏らしたのも無理のない話である。

 赤い飛竜が苦悶の呻き声を上げ、それが徐々に恨みの震えに変わる。痛みを怒りでかき消した後、竜は左前足で振り上げ――降ろす。

 対し、男はその場から一歩も動かなかった。剣すら構えず、まるで棒をそのまま持っただけの様に。

 そして飛竜の爪牙が太陽を覆った刹那。


【――、――――ッ、――――――!】


 アスフォデルスが気付くと空は晴れ、今度は左前足から血を流して竜が苦悶くもんの唸りを上げていた。


 何が起こってるのか意味が分からなかった。


 男の刃には血が一滴も着いておらず、あれだけ袖の余ったローブなのに衣擦れの音一つ聞こえず、そもそも右腕を動かした挙動すら見えなかった。

 それは最早怪異である。


【――、――――――――――ッ】


 飛竜が男に対し睨みを利かせる。それは今目の前に映る痩身の男を敵に回してまで、その後ろにいる痩せぎすの子供に執着するべきか。そんな野生の葛藤の発露であった。


 飛竜の唸りが突如止む。

 刹那、双翼を羽ばたかせ飛竜は空に帰って行った。


「……」


 あまりの事にアスフォデルスが言葉を失っていると、緑ローブの男は彼女の様子に気付いたらしい。血に塗れていない剣をそのまま左側に吊り下げた茶色い皮の鞘に入れると、そのローブを降ろす。


 髪の色はやはり銀であった。襟元までかかる程の長さで、右側は髪の毛に隠れている。左目は琥珀色をし、肌の色は白く、先程まで竜と一騎打ちをしたというのに汗どころか血管すら見えない。


 美しい男だった。


 目元涼しく、鼻梁は彫刻もかくやという程に真直ぐ通り、先程まで恐怖を通り越し困惑の境地まで達していたアスフォデルスも思わず見惚れてしまう程の美青年だった。

 完璧な、完璧な美青年である。……左の口元から垂れた涎の跡以外は。


「うー……」

「ひっ!」


 彼が笑顔を浮かべ彼女に一歩を向けるのと、彼女が怯えをぶり返らせ彼から一歩引くのは同じだった。


 普通に考えて欲しい。


 竜を訳の分からない技で追い返した後、刃物を携えうーうーうめいて口元から涎の跡をつけた大男が自分に近寄ろうとしたら、誰だって怯えの一つも覚えて仕方のない物である。

 ただし美青年に限る、というのはこの世に古くから伝わる言葉であるが、格言が何時どんな時でも当てはまるかと聞かれたらそれは違う。


「うー……」


 こいつは困ったな、と言いたいのだろうか。眉を下がらせて左頬を掻くと、彼は自分の母親代わりの人がこう言った事を思い出す。

 小さな子にはまず目線を合わせる事が大事である、と。

 彼はその答えに辿り着くと、途端その場にしゃがみ込んだ。……アスフォデルスはまた一段怯えた猫の様に身を竦ませる。


「う、うー。うー、うー」


 その場から動かず、長い手足を折りたたんで座り込み、まるで猫の注意を惹くかの様に声を掛け続ける。

 彼のその様を見て、アスフォデルスはようやく少しばかり身を緩ませた。


「うー、うー」


 そこで、彼女はようやく目の前の大男が何をしたのか思い至った。


「な、なぁ……」

「う!」


 はい、と元気よく答えるかの様な声だった。しかし怯える彼女に近寄る事なく、深緑の裾を微動だにさせず彼はその場に座り続ける。


「も、もしかして。お前、私を助けて……くれたのか?」


 彼女がそう口にした時だった。


「ねぇ、大丈夫ー?」

「……大丈夫ですか?」


 両方とも女の声であった。途端アスフォデルスの背後から、衣と鉄の擦れる音が迫ってくる。

 アスフォデルスが振り向くと、そこには二人。瞬間男の貌が明るい笑みを浮かべる。


「うー! うー! うー!」

「あ、女の子と一緒にいる! ちょ、しかも何か凄いボロボロだし!」


 一人は背中まで届く赤い髪を三つ編みを左に流した少女だった。年の頃は十七歳程か、足のつま先から指まで顔以外全て深茶色の皮鎧を身に纏っている。

 背丈は百六十センチと言った所か、凹凸のある身体つきは年相応以上に発達していた。

 腰には皮の鞘に入った二対の短剣が縦に吊り下がり、背中には切っ先の尖った剣鉈けんなたが横向きに吊られている。


「……回復魔法、今かけます」


 もう一人が呪文を唱えると、両手に灯った淡い青の光をアスフォデルスに翳す。

 真っ黒い髪を太ももまで流した女だった。前髪も長く、紫色の双眸そうぼうはのぞけるものの、活気というよりかは陰気な印象を与える。

 身に纏うのもやはり黒装束のローブと、頭には細い金の鎖で出来たサークレット。分厚い布地のローブには金糸で薔薇ばらの花が所々刺繍されている。十本の指には指輪を嵌められ、おそらくそれが魔法使いの杖の役割をしていると思われた。


 背丈は百五十センチ程。年の頃は二十代と言った所か、もう一人とは違い凹凸はなだらかだ。


「この子を見つけたから走ったの、ファン?」


 赤髪の女がそう言った。どうやらこの男の名は、ファンというらしい。


「うー!」

「女の子になると、本当鼻がよくなるねファンは!」


 赤髪は白い八重歯を覗かせて笑いながらそう言うと、しゃがみこんで男の鼻を右手で摘まんだ。ついで、彼女は目を動かすとファンのその先を見る。地形に残った巨大な足跡、そして土に吸われつつあるそれなりの量の血。

 ついでファンの剣に目を移す。柄の革紐は乱れておらず、鍔にも――おそらくは刀身にも――血は滴っていない。

 それで赤髪は全てを察した。


「相変わらずバカみたいに凄い腕だね、ファン!」

「うー!」


 彼女が褒めるとファンはまるで子供の様に嬉しそうに笑う。その様をアスフォデルスは茫然としながらしばらく眺めていると、回復魔法をかけている黒髪の女魔術師がおずおずと話しかけて来た。


「……初めまして、わたしの名前はユーリーフ……大丈夫ですか……? 話せます……?」

「あぁ」


 回復魔法のお陰で昨晩からの生傷は塞がり、気力も僅かながら回復していた。アスフォデルスも徐々に理解が追い付いてき始め、黒髪の女――ユーリーフの質問に頷いた。


「……わたし達、冒険者。あそこにいる緑ローブの人がファングイン君、赤い髪の女の子がバルレーンちゃん……」


 ユーリーフがそう言うと、赤髪の少女――バルレーンが勢い良く手を上げた。


「初めまして! ボク、バルレーン! ねぇ、君大丈夫だった?」


 明るく屈託のない物言いに、アスフォデルスは一瞬物怖じした。しかし、直後引っかかる事があり冷静さを取り戻した。

 ファングインという名前と、バルレーンという名前。ファングインというのはエルフの言葉で“小さな歯”という意味を持つ。が、目の前の男はどう見ても人間だ。

 それにバルレーンとは、かなり物騒な名前である。


「……それで、貴方のお名前は?」

「わ、私は……アスフォデルス」


 自分の名前を答えた瞬間、ユーリーフの顔が真面目な物に変わった。


「へー、レンリー大森林に相応しい名前だね。ね、ファン?」

「うー!」

「……あ、ちょっと静かにして……ファン君、バルちゃん……」


 二人にそう言うと、ユーリーフはそのまま質問を続ける。


「……住んでるとこはどこ? お父様やお母様は……?」

「私は一人……」 


 私は一人、とアスフォデルスがそう答えた直後だ。一晩中を歩き続け、既に身体に蓄積された疲労は限界だったのだろう。黒髪の女の穏やかな口調が安らぎに誘う。


 身体から一気に力が抜け、その場に倒れこんだ。


 意識が薄れ行く感覚は、果ての無い水底に落ちていく感覚に近い。三人の声はぼんやりと聞こえるが、意味を理解する前にアスフォデルスは深い眠りに着いた。


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