2話:ゼロ時間へ
この世界を広く見渡せば何処も彼処も冒険者の黄金時代と言っても良い。
誰も彼もが剣や槍を持てば冒険者となり、人々は冒険を夢見て依頼や迷宮に飛び込む。
――それは魔術師とて例外はない。
魔法がかつて選ばれし者だけが学べる特権階級だった頃は遥か昔。現在は社会を動かす技術の一つに過ぎない。その結果として魔術師の中でも燦然たる功績を築き上げた偉人の名も、閉鎖環境で黴臭い本の一ページに刻まれるだけに止まらず、現代社会に大きく広まる事となる。
――魔術師『アスフォデルス』もその中の一人と言って良いだろう。
約二百年程前に魔術や錬金術などの神秘を極めた者として君臨。『空間に含有される魔力に対する人体変換工程に対するレポート』、『賢者の石の精製方法』、『効率的なホムンクルス精製方法』、『無機物に対する魔力付与論』、『古代語を基にした神代言語の翻訳』、『古代文明の各種遺失魔法の復元』、『各種新魔法の作成』など多くの研究結果を築き上げた。
つい最近にも今まで誰も為し得ていなかった『空間に含有される魔力に対する人体変換工程に対するレポート』が発表され、その精度の高さに魔術師界隈を騒然とさせた。現代の魔術師にとってアスフォデルスの名は知らぬ者はいないだろう。
だが、その功績に反しパーソナリティに関しては知られていない。
性別不明、生年不明、享年不明、血縁不明、性格不明。……遺された業績は数あれども、その実像に迫った記録は存在しない。
だから。
「私、失敗した!?」
あれから数時間後、住んでる屋敷の中の工房でアスフォデルスは怒りを露わにしていた。
衣服は着替えられており、ゆったりとした漆黒のドレスに着替えている。髪や顔についた泥は綺麗に落とされており、清潔さを保っている。
「私は稀代の大天才魔術師兼稀代の超天才錬金術師のアスフォデルスですわ! 狙った獲物は逃した事などなく、何でも手にして来ましたわ! それがどうして高々オーガ二匹に逃げられなくてはなりませんの!?」
だから。
「これは何かの間違いですわ!」
金の髪を両手でガシガシと掻き、部屋の中で幾度も絶叫を重ねる。
「あー、もう! ――絶対許さねぇからな、覚えとけよ鬼共!」
…………世間一般の人間は、謎に満ちた偉大なる魔術師『アスフォデルス』がこんな人間であるとはきっと夢にも思わないだろう。
ひとしきり絶叫した後も憤懣やる方ない事を露わにするも、流石に幾許か冷静を取り戻したのだろう、偉大なる金髪の女魔術師は息を荒らしながらもこう呟いた。
「いや、待て。私は全てを手にしたと言っても過言ではない超絶天才魔術師のアスフォデルス様。……超絶美しく賢い私がするのは喚き散らすこと? 違いますわ、まず私がすべきなのは落ち着く事」
そして彼女はよろよろとよろめきながら、心を落ち着かせる為に必要な物の前に立つ。それは鏡だった。彼女の身長程もある姿見であり、縁は金色で豪華な蔓草の装飾が施されている。
と、そこに。
彼女が鏡の前に立った瞬間、そこに何匹ものネズミや梟や蛙が手紙を運んでくる。それは学会や研究機関からの手紙であった。
「ええい、煩い! 私、今これから傷ついた自信を回復するんだ! 後にしろ!」
使い魔の小動物を足蹴にすると、アスフォデルスは鏡の縁を掴んだ。
「鏡、鏡は何時だって真実の妾を映し出してくれますわ……」
アスフォデルスは鏡の前に立つと深呼吸をし、次に荒れに荒れまくった金の髪を整える。そして……
「もう、アスフォデルスのおバカさん! ぷんぷんですわ! アスフォデルスはちょっとしたミスですら、魅力と化す事の出来る逸材ですわ! 終わった事を何時までクヨクヨしてもしょうがないですわ!」
もし表現するならば、ガッという音が相応しいだろう。彼女は両手で姿見を掴む。
「アスフォデルスは天才で鬼才で秀才でしょ? おまけに世界一美しくって、全てを持っていると言っても過言ではないですわ! だから、――あんな肥溜めの中のクソゲボにも劣るオーガなんて気にしちゃダメ。もし、これ以上言うなら“えい”ですわよ?」
そう言うと、前髪を右手で払う。そして、しばしの沈黙が訪れた。動くのは手紙を運んできた使い魔の小動物達だけ。
「……いい」
沈黙の中で、彼女がようやく紡いだのがその一言だった。
「やっぱり私って最高ですわ。世界一の美女と言っても過言ではありません事、美と言うのは妾の為にある言葉ですわ。――解りましたわ、私。もうあんなクソゲボのカス共の事なんか気にしません。そんなの、この美の前では些細な事ですわ。
私は稀代の天才鬼才秀才美女魔術師のアスフォデルス様様! あーんな小汚い鬼共なんて、これっぽっちも! 全然! 何一つ気にしていない!」
後半になると地が垣間見える絶叫だった。
……おそらく、他人が見れば百人が百人とも『ヤベー女』だと思うだろう。そんな光景が今現在繰り広げられている。
「きゃッ!」
その中で、ひとしきり騒いだ結果だろう。少しばかりの目眩によって彼女は思わず転びそうになり、机の上にもたれかかる。
それが全ての始まりだと知らずに。
机の上に置かれているのは何本ものフラスコや試験管、幾冊もうず高く積み上げられた魔道書達、“第三五二回オーガ原料による鼻炎用魔法薬について”等々が書きなぐられた紙束、そして超硬度を誇る水晶石で出来た水晶玉だ。
水晶玉が衝撃により台座から転げ落ちる。超硬度を誇る水晶玉はコロコロと転がっていき、あたかもボーリングの玉の様に並びたてられたフラスコや試験管を連続して破壊していく。
壊された試験管やフラスコに湛えられた薬品は当然の如く零れ落ち、机や床に思う存分広がっていく。
「やっば!」
アスフォデルスがそう言った時だ。幾つもの薬品が交じり合った末発火、それは紙束や魔道書に引火し、たちまち工房は炎に包まれる。
勿論と言うべきか、魔術師の工房は実験の為に安全第一で設計されている。アスフォデルスの工房の場合は天井に仕掛けられた元素魔法により、消火の為の水が散布される筈だった。
しかし、災害は元素魔法の起動より速く飛び火する。
……魔法薬による炎が立ち込めた事により、薬に込められた魔力に呼応し、ありとあらゆる呪具や禁忌の魔道書が暴走を開始した。
「ま、まずい! まずい!」
空気は帯電をし始め、工房一帯を暴風が立ち込めていく。アスフォデルスは咄嗟に魔術で防御するものの、既に事態の収拾は困難だった。
――その時、大地が
この周辺にいる全存在が、全く同じタイミングでその大爆発を感じた。
……後の歴史書を紐解けば、この爆発はアスフォデルス伝説で有名なレンリー大森林が爆心地だとされている。
事件発生より三日後。大陸全土を治めるトルメニア王国が派遣した調査隊によると、爆心地一帯には三キロにも渡る巨大なクレーターが出来ており、爆発の影響によってクレーター周辺地域の動植物や魔物の生育に異常が見られている。
……原因は数百年経っても不明であり、後世に置いては知る術はない。
そんな後世の歴史の埋まらぬ喪失点から、まるでゾンビの様に右腕が一本生えた。次いで金髪の女の頭が生える。
「い、一体全体何だってんだよ……」
アスフォデルスである。彼女は地面に埋もれた左腕を出すと、そのまま腕力で足を出す。
黒いドレスはボロキレ同然となったが、身体はドロだらけな事以外異常はない。アスフォデルスは自分の身体を隅々まで弄っており、その中には防御魔術も仕掛けられている。
それが地形すら変える大爆発から彼女が生き残れた理由だった。
「ゲホッ、ゲホッ、……うぇえ」
思う存分むせ返った後、彼女は赤い目を擦り辺りを見回す。彼女は爆心地の真っ只中にいた。すり鉢状になった地形の、目算で百メートル近くあるかもしれない深さの底。それが今彼女がいる場所の情景である。
「嘘だろ、やっちまったのかよ私……」
半ば呆然とした態で彼女はそう呟いた。染み付いた癖から、彼女はそう言いながらも飛行魔術を起動し、ひとまずクレーターから抜け出そうとする。
彼女の心境の表れかの様に飛行魔術はゆっくりと上がって行き、クレーターの縁からおよそ五メートルほど上昇した所で、――彼女の意思に反し飛行魔術が切れた。
「きゃあッ! ……ぶげッ!」
運良くクレーターの底に戻る事はなく、アスフォデルスは縁周辺の地べたを転がった。
「な、何だよもう……」
本来、もう少し上昇してクレーターの全体像を見るつもりであった。彼女は自分に突如起きた異常を訝しみつつ、再度飛行しようとする。
だが身体が浮いた瞬間、胸に強烈な痛みが襲った。
「――ッ、――!」
激痛に耐えかね、魔力を遮断し再度地面に転がり込む。
痛みは鈍く、まるで心臓を鷲掴みにされている様な感覚だった。声を上げようとしたが、それどころかそもそも息すら出来ない。まるで地上に打ち上げられ息途絶える寸前の魚の様にアスフォデルスは地面の上で少なくもがいた。
数分後、ようやく呼吸が整い始める。
「……もしかして、その、ひょっとして私魔術が使えなくなって……る?」
ぽつり、と呟いたその言葉は絶望に満ち溢れている。気付くと、胸に埋めた赤い石は罅割れていた。それの名は赤きティンクトゥラ――俗に言う所の『賢者の石』と呼ばれる魔法物質だ。
彼女の身体は『賢者の石』を中心に様々な仕掛けを施しており、胸の痛みはおそらくその仕掛けに故障が起きている事だと彼女は推測する。この仕掛けに問題が起きると魔術の行使にあたり著しく支障を来たすのを意味していた。
「ま、待てよ……それなら」
そして追い討ちをかけるかの様に、“それなら”が訪れた。
魔術が使えなくなった途端、彼女が自分に施した仕掛けが解かれていく。
……彼女が自負する美しさもまた自信の改造による物であり、魔術を使えなくなった今となっては維持は困難だ。変身魔術が解けて行き、肉体の老化を停止し常に最盛期を保つ為の魔法は暴走を始めていく。
一六〇センチあった身長は縮み始め、白い肌はくすんで行き、金髪は徐々に茶色に変わっていく。彼女は自分の両手を広げて見つめると、徐々に収縮していった。
「う、嘘……やだやだやだやめて!」
彼女の言葉に反し、身体の収縮は止まらない。
魔法は解け、身体は彼女が捨てた姿に戻って行く。
残酷な逆行が終わった直後、彼女はまず自分の前髪を引っ張り確認する。
その色は理想の金ではなく茶色。それも自慢だった長髪ではなく、首元までのショートカット。身体を触れば凹凸はなく、まるで欠食児童の様にあばらが浮いて貧相な身体つきになっていた。
次いでその顔を手で探る。
その鼻も、その目もその口もその頬も、その全てが理想とは程遠い。……鏡を見ずとも解る。それは、彼女があの姿になる前の最も忌み嫌う少女時代の姿だった。
「う、嘘……嘘だこんなの……悪い夢だ」
顔を蒼くしながら彼女はそう呟いた。けれど心は言葉に反し冷徹に現実を見据えている。自分はたった今さっき、美しさも魔術も財産も何もかも失ったのだと。両手で頭をガリガリと掻いた後、彼女の目に涙が溜まっていく。
そしてそれは数秒も経たずに両の眼から零れ落ちた。
しゃっくりの様にひきつけを起こしながら、涙は止まらず地面に落ち染み込んでいく。そして彼女は叫んだ。
「やーだー、やだやだやだ! 私、こんなのやーだー!」
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