第8話 まるで普通の同級生のように
店外へ出てから体感時間十分。
太陽高度は六十度を超えているだろう。
直射日光を避けるように、レトロ・アヴェの入り口から離れた
天神が席を立つ前。
かき氷くらいは奢ってやっても良い気持ちになった俺は、颯爽とレジへ向かった。俺のアイスコーヒーが四百円。かき氷はせいぜい五百円くらいだろう。
痛い出費なのは間違い。ここ数日は水だけで生きよう。強い覚悟で店主に伝票を渡した。
「会計は一緒で」
「千と七百二十円になります」
目が点になった。想像の約二倍の金額。
俺は手元の財布を覗き込む。千円札が一枚。小銭入れには、銀色の硬貨すら入っていない。
背中に冷たい汗が流れ落ちる。
「お客様?」
「いや、あの……」
石像のように硬直した自分の真上に影ができる。天神だった。
「二千円で」
「はい。お返しは、二百八十円となります」
「ご馳走様!」
カランコロンという音と「また、どうぞ」という声が遠くで聞こえた気がした。
気が付いたときには、目前の男が笑いを堪えるように白い手を口元に当て、顔を背けていた。
俺は、悪友からチベットスナギツネと
「ごめん、ごめん! いや、貴殿の気持ちはとても嬉しいよ!」
「…………」
「フフッ。失礼! 誰しもそう言う時はあるさ!」
「……ワラッテイイヨ」
天神は、腹抱えて笑い出した。慰めれば慰められるほど、虚しくなる。一層、笑ってくれた方が
体感時間十分。実質数分程度。
目尻に浮かぶ涙を拭うと、天神はいつもの調子に戻る。
彼は、パチンとフリルの着いた白い傘を広げた。俺も軒下を出る。失態もあって、無言で歩くのは、どうにも気不味い。
「一つ、聞きたいことがある」
「良いよ。笑ったお詫びだ。一つと言わず幾らでも聞きたまえ」
「いや、とりあえず一つで良い。どうして俺が、レトロ・アヴェに来ると思ったのか。教えてくれ」
「簡単なことさ。僕がそうなるように仕向けた」
「仕向けた?」
「貴殿は、あの喫茶店に来た理由を覚えているかい?」
「それは、お前がコンビニに忘れた傘を渡しに……」
俺はハッとした。晴れた日に白いフリルの傘を持った一メートル九十センチを超えた男。否が応にも目に付く。まして、龍山一筋と言って、来店客をよく見ているコンビニオーナーなら尚更だった。
「僕はわざとコンビニに傘を置いて行った。あのオーナーなら、気が付くだろうと思ってね。心配されているかも知れないと、佐伯カコさんの件も含めて、念の為に電話もしておいたよ。今日の午前中に早川くんと会うこともね」
「どうして、自分で取りに行かなかったんだ?」
「僕は方向音痴なんだ。行ける自信がない。それに、それだと真相は分からない。何よりも、貴殿が答えを欲するのは分かりきっていた」
「それは別に、後で教えてくれたら……」
「どうやって?」
天神が楽しそうに笑う。前を進む彼の表情は全く見えない。そうだ。俺たちは連絡先の交換すらしていなかった。知っているのは、お互いの名前だけ。
「理解してくれて嬉しいよ」
「ああ……」
再び沈黙が訪れる。自分の歩く足音と草木を鳴らす風の音が、やけに耳につく。コンビニの看板は豆粒程にしか見えない。
暑さで頭が緩んだのか。
「なあ、なんでそんな風にいられるんだ?」
「そんな風、とは?」
「
「君は存外つまらない発想をするんだね! 簡単なことさ。僕がそれを『普通』だとは認識していないからだ。なによりも、その『普通』には、全く
あっけらかんとした口調。
どこまでも晴れやかな声。
内容はともかく、そこに
俺はもう少しだけ、この男のことを知りたいと思った。
「なあ。なんで普通とか、
「好き、とかではないよ。普通は貴重だ。故に、愛してしまうだけさ」
「貴重?」
「基準に近いものは美しく貴重だ。安定と真理をもたらす」
「……悪い、理解できない」
「構わないさ。共有出来れば嬉しいが、理解されようとは思っていない」
さっぱりとした、淡泊な言い方。
「……天神は、文学部だっけ?」
「いや、人文学部だよ。貴殿は?」
「理工学部」
「なるほど。それっぽい」
初めて、天神一という人物に少しだけ触れた気がした。俺は歩調を早めて、男に並ぶ。
彼は、やけに驚いた顔をしていたが、気にしない。
それから、佐伯カコの家に着くまで。普通の同級生や友人同士が話すような、大学の授業や教授、来年からのゼミについてとか、学生らしい、どうでもいいことを話した。
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