草つ月、灼くる日 <天神一の日常推理 しろいこな>

ユト (低浮上)

第1話 はじまり

 だるような外の暑さとは乖離かいりされた、快適な温度と心地良い音楽。二十一世紀になって十数年は経とうというのに、ここはまるで十九世紀の映画に出てくるかのような佇まい。

 ダークブラウンのマホガニーの猫足テーブルに、ワインカラーのソファがよく馴染む。クラシカルな雰囲気と店主のこだわりを堪能たんのうできる喫茶店で、俺は居たたまれないほどの居心地の悪さを感じていた。


 万年金欠気味の貧乏学生が、こう言った洒落しゃれた店というのには縁が少なく、気後きおくれしてしまう。というのもあるが、なによりもその原因は目の前の男にあった。


凡庸ぼんよう、平均、十人並み。そして、普通! ああ、何たる褒め言葉! 貴殿……名前はなんだったかな?」

早川はやかわ、早川翔太しょうただよ」


 ほんの数分前に自己紹介はしたというのに、もう忘れたのか。


 呆れそうになる顔を引き締めて、俺は巧笑こうしょうする。同じ大学に通う学生とは言え、初対面。経験上、最初の印象は良い方が、一般的には事をスムーズに運びやすい。

 加えて、この程度のこと、コンビニでバイトをしている俺からしてみれば、日常茶飯事。笑顔を貼り付けるだけなら容易たやすいことだ。


「そうだった、失礼、早川くん。貴殿もそう思わないかい?」

「いや……」

「おや、そうか。貴殿と価値観を共有できなくて残念だよ。まあ、そんなことはどうでもいい。普通の模範とも言うべき僕に頼ろうとする、奇特で稀有けうな人よ。貴殿の判断が最良になるよう、僕は努めよう!」

「ああ……」


 テーブルを挟んで目の前に座る男は、先ほどからここが劇場か何かと勘違いしているのではないのだろうか。そう思うほどに、張りのある声で抑揚よくようをつけて話す。


 スッと通る鼻筋。七三に分けた髪は、烏の濡れ羽色とも表現されそうな漆黒。対照的なまでの透けるように白い肌。切れ長の瞳は、日本人にはあまり見かけないヘーゼル色。ダブルのスリーピースの似合う美丈夫からは、威圧すら感じる。


 低価格大量生産を売りにしている洋服で貧相な身体一面を覆っている俺とは、何から何まで大違い。同じことといえば、目が二つあり、鼻と口が一つであることだけに思えた。

 彼は俺のことなど歯牙しがにもかけず、優雅に紅茶を片手にしている。さながら、英国紳士のようだ。香りを楽しむように鼻に近づけ、ゆったりと口に含む。


「ああ、今日も素晴らしい」

天神てんじんくんは、ここの紅茶が好きなんだね」

「ああ、とても平凡な味だからね」


 俺は頭を抱えたくなった。大きな声。と言うほどではないにしても、よく通るその声では、店主に聞こえないことを願うも虚しい。チラリとカウンターの隅に視線を向けると、ゴホンと咳払いをしたマスターと目が合った。

 あまりの気まずさに、俺が思わず小さく会釈をしてしまう。けれども、言った当人は全く気にしておらず、何食わぬ顔でテーブルに備えられたスティックシュガーを三本もティーカップに突っ込んだ。これでは折角の味が台無しだ。彼の手元に置かれた紅茶に同情すら覚えてしまう。


 挙げ句、仕上げとばかりに、意気揚々とミルクまで足される。ティーカップを満たしていた、先程まで澄んでいた美しい赤茶色は、すっかり俺の心のようににごり始めていた。

 混沌こんとんを産み出すように、ティースプーンでぐるぐる回すこと十三回。スプーンをソーサーに置いた彼は、背筋をピンと伸ばし、手をテーブルの上で組んだ。


「それで、この天神てんじんはじめにどんなご用件かな」


 意気揚々。喜色満面。俺は、引きつった笑顔で男の顔を見る。

 後悔は後からやってくる。それを改めて実感させられた。





 龍山たつやま大学文学部二年には、事件を解決する神がいる。いつからか、学内ではそんな噂がまことしやかに流れるようになった。噂やその内容も様々で、中には眉唾まゆつばと思われるものも多くあった。


 行方不明になった猫を半日で見つけ出した。誰々の浮気を証明した。失せ物を探し当てた。窃盗事件の犯人を捕まえた。等々。とにかく、どうでもいい話ばかり。

 俺は関わりあうこともないだろうと、その噂には気にも留めていなかった。ところが、ふと最近出会した不思議な、否、不審な話を友人の相澤あいざわ悠斗ゆうとにした時だった。


「それさ、神に聞いてみたら良いじゃん?」

「は?」


 かじっていた賞味期限が一日過ぎたコッペパン、税込み価格三十八円が落ちそうになった。こいつは何を言っているのか。理解不能とばかりにあげた声は、直ぐに上書きされる。


「気になるんだろ?」

「まあな。でも、神は関係ないだろう。そもそも、居るかどうかすら、わからないのに」

「神はいるよ!」


 悠斗が前のめりになり、やつが食べている生姜焼き定食がこちらにググッと近付いた。


「お前って、そんなに敬虔なキリスト教とかの信徒だったっけ?」

「バカ! 龍山大学の神だよ!」


 肉の匂いの粒子が鼻に侵入してくる。食わないなら、俺にくれと言いたいところをグッとこらえて、俺は深くため息を吐いた。


「なんで、そんなに興奮気味なんだよ……」

「だって、面白そうじゃん! 変なやつって話だけどさ、俺は神の推理が気になる」

「ふーん。じゃあ、お前が聞いてくればいい」

「いや、それはなんか違う。当事者じゃない発言は混乱を招くだけだ。でも答えは知りたい」


 面倒くさい。妙にそれっぽいことを言うから、タチが悪い。キリッとした顔で答える悪友に、こめかみが痛くなった。

 こいつに相談したのが間違いだった。推理小説好きだからと面白がるんじゃないかと、いや、もしかしたら解決してくれるんじゃないかと思ったのに、まさか神にすがれと来るとは。

 確かに面白がってくれてはいるが、俺の期待からは大きくずれていた。俺の気持ちなどお構いなしの悠斗は、一人、興奮気味に続ける。


「毎週金曜日の午後二時、レトロ・アヴェ」

「なんだそれ」

「知らないのかよ。神の告解部屋が開かれるって有名だぜ」

「は? レトロ・アヴェって、南門をずっと真っ直ぐに行ったところにある、モダンな雰囲気の喫茶店のことだろう? いつの間に教会と併用するようになったんだ?」

「違う、違う。毎週金曜日の午後二時に神が必ずいるから、そう言われるようになったんだよ」

「へえ」


 俺は気のない返事で、残り三分の一となったコッペパンを齧る。給料日前の貴重な栄養源。脂質・糖質・たんぱく質。カロリーだけ見れば十分だ。素晴らしいコストパフォーマンス。決して、ヴィーガンとかではない。肉があれば喜んで食べる。ただ、懐に余裕がないだけだ。だが、俺の財布事情など知る由もない男は食い下がる。


「天神一に会ってみれば良いじゃん。それでさ、答えを教えてよ」

「……悠斗。なんで俺がこのコッペパンを大事に食べているか知っているか?」

「好きなんだろう? 最近、いっつもそれじゃん」

「その答えは正しくない。価格と必要カロリーのバランスを加味した上で、このコッペパンが最適解だからだ」

「……要するに金がないと」

「正解」

「うーん……」


 悠斗は押し黙った。やれやれ、やっとこの下らない問答から解放される。そう思った俺はすっかり忘れていた。この友人の享楽きょうらく主義と金銭感覚を。


「じゃあさ。推理を聞いてきてくれたら、駅ビルの中に入っているステーキを奢ってやるよ! だからさ」


 その続きは聞くまでも無かった。悪友はニヤリと悪戯っ子のように笑って、自分のスマートフォンを見せつけている。奇しくも今は、金曜日の午後一時三十八分。

 俺はステーキという高級なタンパク質を前に、平伏したのだった。

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