第4話
養護施設に帰ってきた。辺りはすっかり暗くなっているが、晴空に事情を聞く人は誰一人いない。
自室の扉には『帰ってくんな!』などの暴言が書かれた張り紙。施設員が毎日剥がしているらしいが、夕方頃には必ず張り直されている。晴空はとっくに剥がす気がなくなっていた。
晴空は体を洗う事が苦手だ。自分を綺麗にする理由が見つからないから。故に今日も体は軽く流し、髪のみ重点的に洗う。昔、洗わなかった時に施設員から注意された為致し方ない。
浴槽に浸かる。水面を見ると自分の顔が映った。晴空は気付かなかったが、何時になく表情が明るい。
風呂場から上がると、晴空の履き替え用の下着には噛み終えたガムが幾つもへばり付いていた。
(…今日はガムパンツか)
このいじめは前にも受けたことがあるのだが、さすがに脱いだ下着にまでガムは付いてない。そのためガムをティッシュで取り除いてから洗濯カゴに入れ、今日着ていた下着で自室まで行き、新しい下着と履き替えればいいだけ。
これは詰めが甘いという訳ではなく、単にこうしていじめていること自体に意味があるのだろう。でなければ10年半以上もいじめを続けられるわけがない。それでも飽きない執念があるのだ。
とは言ってもいじめにもネタ切れがあるわけで、今回のように前と同じようないじめが周期的にやってくる。
しかし今更この生活を変えようとも思わない。ただ周りに振り回される日々。それでも晴空は生きているだけで充分だった。
食事中、晴空は再び朝緋との出来事を思い出す。
不思議で、掴みどころのない彼女だが、今日の夕方、少しの微笑みを見せた。しかもそれが自分がきっかけともなれば、舞い上がり行き過ぎた憶測まで浮かんでしまう。
(あの微笑みはどういう意味なんだ…いや、単に感謝してるだけだとは思うけど…というより何に感謝されたんだ?なにか思い悩んでたのかな…それとももしかして…俺の事…いや、思い上がるな…そんなわけない…とりあえず親睦は深めることは出来た…そう思おう)
考え込みすぎて、途中完全に食事そっちのけになってしまうほどだった。横から近付く気配にさえ──
その日、エビフライが晴空の口に入ることは無かった。
晴空はいつも寝る前にしている事がある。パソコンを開いてアニメを見ることだ。
晴空にとって、小説は活字を読むのが面倒くさい。漫画はつい流し読みしてしまって、途中で話が分からなくなるので読む気が無くなる。ゲームは下手なくせに向上心が全くないのですぐ飽きる。SNS・動画サイト・テレビ番組なども興味を惹かれるものがなく勧められても見る気も起きない。
しかしアニメなら次々と映像が流れるのでぼうっと見ていられるし、数が豊富だから飽きることもない。だからといって楽しんで見ていた訳でもないのだが、小さい時から他にすることがなかった晴空にとって1番時間を潰せる娯楽と言えよう。
だが今日はアニメを見なかった。それどころかパソコンすら開かず、机の前に座っている。手には朝緋から貰ったプロテインバーの包み袋。それを見てただぼうっとしている。
(…僕は…木村さん…朝緋さんが好きなんだ)
晴空は今まで恋愛感情とは無縁で生きてきた為、それがどんな感情なのかハッキリとはわからないが、これは否定のしようがなかった。こんなにも気持ちが狂わされているのだ。そろそろ自分の気持ちに正直になるべきだろう。
(でもやっぱり夕方の様子はちょっとおかしかったよね…なにか事情があるのかも…聞く機会があるといいけど…)
人付き合いの無い晴空でも、深入りすることで相手が傷付くかもしれない事くらいはわかっている。
まだ少しモヤモヤしているが、これからアニメを見るような気分でも無かったため、今日は寝ることにした。
(明日も話せるといいな…)
晴空は包み袋を机の上に置き、寝床に着く。しかし、明日に期待を抱くと眠れない。その感覚を晴空は初めて味わっていた。
(ソワソワする…気持ちが落ち着かなくて寝る気が起きない…それになんだか、フワフワするし…フワフワ…?)
晴空は異変に気付いた。体が妙に軽い。布団を被っているはずなのに、まるで周りが無重力であるかのように何の感触も無い。
恐る恐る目を開ける。すると目の前に広がっているのは天井ではなく、足元すら見えない一面の暗闇。その向こう側に微かな光が見える。
(…これは…いつもの夢…?でも、歩いてないし…体が自由に動かせる…)
明らかにいつもの夢とは違っていた。晴空は警戒しながらいつも通りあの光に向かって進もうとする。だがやはり光は遠く、少し進んだだけでは近付いているようには見えない。
するとまたもや異変が起きた。その光が急に大きく、強くなり始めた。物凄い速さでこちらへ向かってきている。
(嘘…!?待っ──)
逃げる余裕すらなかった。一面暗闇だった目の前が一瞬で光に覆われてしまった。晴空は思わず目を瞑る。
刹那、激しい重力と疲労感に襲われ、晴空はすぐに目を開けた。すると目の前にあるのは…一面の床だった。
どうやらあの後すぐ眠ってしまい、魘されてベッドから転げ落ちてしまったようだ。
晴空はベッドに戻ろうとするが、目を覚ました時から感じる激しい重力と疲労感によって上手く立ち上がれない。悪夢の中で感じていた浮遊感の反動だろうか。
しかもなぜか腹痛まで感じてきた。変なものでも食べて、風邪でも引いているのかもしれない。晴空は重い体を力いっぱい起こした。少しの不安を抱えつつ、部屋を出て御手洗へと向かった。
(…あの夢…というより初めてあの夢とは違う夢を見た…あの光がこっちに向かって来たってことは…まさか…いや、不穏な考えはよそう………それにしても、こんなにトイレって遠かったっけ?)
晴空の自室からトイレまでは十数歩離れた所に見えている。なのに先程から近付いている様子すらない。
腹痛と疲労感もますます強くなっているような気がするし、目眩すら感じてきた。
突如、晴空は後ろに『何か』の気配を感じて振り向く───
そこにあったのは無限に広がった廊下。部屋の数も照明も本来の数とは違う。暗闇に包まれ、肉眼では廊下の奥を見ることは出来ない。
その暗闇の中に赤い目を輝かせた黒い大きな影がいた。それは深淵から覗く悪魔の如く静かに佇んでいる。
「ある巫女たちは言った。『樹が育つには、泥も吸わせることが必要』だと」
晴空は危機感を感じて反対側へ逃げる。しかし、変わらず前へは進めない。
「水をあげるのはいいが、育ちすぎるのも良くない」
(何?僕は逃げてるの?死ぬのが怖いの?こんな生活なら死んでも変わらないのに?)
「樹勢は、保たねばならない」
(違う!死にたくない!僕はやっと生きる意味を見つけたんだ!)
「さあ、変革の時だ」
(まだ話し足りないんだ!木村さんと…朝緋さんともっと話したいんだ!僕は…!)
───グシャッ───
晴空は宙を舞った気がした。
視界がぼやけ始めた。
「物語を始めるとしよう」
遠のく意識の中、大きな獣を見た。
晴空の意識はそこで途絶えた。
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