第46話

「――待って下さい! それでは、本物の甘露はどうなったんですか?」


 だが、漸く訪れたはずの終息を打ち破ったのは、ソフィアの悲痛とも言える叫び声だった。


「叔父が、ジェームズ・マクラーレンが、命を懸けて貴方に託した《甘露》とは、一体なんだったんですか!?」


 掴み掛るほどの勢いで詰め寄るソフィアに、アンリは至って真面目な口調で答える。


「キミも、さっきでしょ?」


「そんな、ま、まさか……あのフォンダン・オ・ショコラが!?」


「あの古文書に書かれていたのはね、昔に作られたお菓子のレシピだったんだよ。それを僕が自分なりにアレンジして作り上げたのが《甘露のガトー・オ・ショコラ》なんだ。ちなみに、あの古文書が書かれたのは確かに十七世紀頃で間違いない。でも、微かに残っていた魔術の痕跡は後から付加されたもの……つまり、ジェームズさんによる偽装だったんだ」


 同じ〝錯覚〟を、アンリは例のブランデーボトルのラベルから読み取った。元々古い物に残されていたを、同年代に付けられたものと思わされていたのだ。


「それにね、あれは古典言語で書かれているから誤読が多いんだ。表題は単に『甘い物』と読めるから、どんな解釈も成り立ってしまうしね。また、キーワードでもある『陰陽の気の調和』というのも、高名な魔術師だったトーマス・アリシエ氏の娘であり、なおかつ西洋と東洋と両方の血を引く者である結羽ちゃんの生命力こそが、陰陽の調和――甘露を生成するために必要な〝カギ〟だと思われていた。……けれど、実はそうじゃなかった」


 驚きを隠せないソフィアに、アンリはさらに告げる。


「僕は結羽ちゃんのヒントを元に、そのカギの正体を干し柿か、もしくはそれに準ずるドライフルーツの類か何かだと解釈したんだ。そしてそれは、あのケーキの完成を見るに正解だったと思う。柿の渋味を太陽の力で甘味に変える――つまり、陰の気に陽の気を与えることで調和が生まれる。この発想こそが、まさしく魔術や錬金術に通じたんじゃないかな」


「本当に……存在しないんですか……?」


「ああ。残念ながら本当だよ。この《甘露》と呼ばれた〝お菓子〟は、全知全能も不老不死も与えてくれやしない。ましてや、なんかありゃしないんだ」


「そんな、そんなことって……嘘ですよね? 嘘だって言って下さい、アンリさんッ!!」


 尚も悲痛な叫びを上げるソフィアに対し、アンリは溜め息を漏らしながら静かに言った。


「もうやめよう、クリス」


 突然のアンリの言葉に、結羽は耳を疑った。


「ジェームズさんを殺害したのはキミだね。クリストファー・ウィリアムズくん」

そうしてアンリが指差したのは、紛れもなく、ソフィア・マクラーレンだった。


「そ、そんな……」


「ウソだろ……あの時連れ去られたのも、全部、自演だったってのか!?」


「なるほど。道理であの時、私の仕掛けが動作せず、簡単に結羽を連れ去ることができたわけだ。外部からの侵入ではなく、元より内部にいたのだからな」


 結羽や獅宇真から次々に驚嘆の声が上がる。ジルベールはひとり感心した様子を見せた。


 だが、ソフィアは彼らの言葉に否定も肯定もせず、ただ黙って俯いているだけだった。


「非常に残念ながら……ジェームズさん殺害において、少なくともキミがあの矢を仕掛けたのだという証拠もある。それはキミがよく知っているはずだ。あのホテルのエントランスに設置された防犯カメラに、キミがクリスとして映っているということを」


 それでもソフィアは黙したままだ。アンリは一呼吸置いてから、再び淡々と語り始めた。


「なんにしろ、僕らを欺いたのは称賛に値するよ。キミの容姿はもとより、その完璧なまでの演技力なりきりと、人の先入観や思い込みなどの心理的な錯覚を巧みに利用した結果だね。冷静に考えればおかしいところはいくつもあったのに、誰もそれに気づくことができなかった」


 今こうして、男だと言われて見ても到底信じられないほど、結羽の目には完璧な少女に見えた。しかしソフィアは、すべてを認めるかのように苦笑して、漸く口を開いた。


「さすがですね。だけど、どのタイミングでボクが男だと気づいたんですか?」


 声が変わった。というよりは、これが本来の彼の声なのだろう。

 それはまさしく、あのとき結羽が会話を交わした、優しげな少年の声だった。


「人の思い込みってのは時としてすごい威力を発揮するけど、やっぱり、どうしても限界はある。そう、普通はどんなに上手く異性装をしたところで〝骨格〟までは偽装できないからね。キミが、キミ自身クリスの話をしたあの時……抱きしめてみて、すべて合点がいったよ」


「そっか……なるほど、そうですね……ボクが迂闊でした」


 そうしたアンリの推察は、結羽の耳にはほとんど入っていなかった。どうしてソフィアが、そんなことをしなくてはならなかったのか、それだけが重要だった。


「どうしてなの!? あんなにソフィアちゃんのことを心配してた叔父さんを、どうして!?」


 結羽は涙をにじませながら、ソフィアを問い詰める。それは騙されたということに対しての怒りでも、憎しみでもなく、ただ悲しいという感情だけが結羽のすべてであった。


 彼女――いや、彼はそんな結羽の心情など知る由もなく、吐き捨てるように言葉を返す。


「魔術師はみんな同じだ。ジェームズ叔父さまも、あいつらと同じ。所詮は己の欲望のために行動していたに過ぎない。あの人だって、結局はボクを助けてなんかくれなかった!」


 結羽にはどうしても信じられなかった。彼の言葉も、彼という存在も、何もかも。自分が知っている可憐な少女とは別物に見えた。


「ダールトンを毒殺したのも、また《M:O:M》のメンバーを焚きつけたのもキミなんじゃないかな。彼らに《甘露》に関する情報を流したり、キミ自身が二重、三重のスパイとなったりすることで彼らの争いを煽動し、そして殺し合わせようとした。……すべては、復讐のために」


「ああ、そうだよ! だが、目的は復讐だけじゃない……ソフィアのためだ! ボクは、彼女を救うためなら、どんな汚いことも! 何だってすると誓った! 何故なら――ソフィアは、あいつらに殺されたんだ!」


 彼の口から出た衝撃の事実に、結羽は愕然とする。


「そ、ソフィアちゃんが……?」


「だから、霊薬の力を使った儀式で、その魂を喚び戻そうとしたんだね」


 確かめるようなアンリの言葉に、クリスは自らの正当性を主張すべく力強く言い放つ。


「その通りさッ! ソフィアは、ボクに生きるための希望をくれた。生きるための、意味をくれた! だから彼女を、救おうと決めた! ――彼女は、ボクのすべてだったんだッ!!」


 その言葉に真っ先に反論したのは獅宇真だった。


「悲劇のヒーロー気取りか知らねえけど、だったら何してもいいってのかよ!」


「キミたちにボクの気持ちを理解して貰おうなんてつもりは毛頭ない!」


「お前の気持ちなんかはどうでもいい! だけど、お前のことを考えてるやつの気持ちを考えたことはあんのかよ? ……結羽はな、この馬鹿正直を絵に描いたような大馬鹿はな! 最後まで、お前のことをずっと、ずっと、心配してたんだぞ? それでもお前は、なんとも思わないのかよ? 自分の目的さえ果たせれば、他人のことなんか知ったこっちゃないって? お前だって、結局やってることはあいつらと同じじゃねえか! お前みたいな、自分のことだけしか考えてないヤツが――俺は大嫌いなんだ!!」


 獅宇真の言葉は、結羽の心に大きく響いた。彼女は今にも泣き出してしまいそうになる。


 だが、そんな彼の言葉も、結羽の気持ちも、今のクリスに届くはずもなかった。


「黙れ、黙れッ! ボクは信じない! 甘露に変わる伝説の霊薬は、必ず存在するはずだ!」


 ヒステリックに叫びを上げるクリスに、アンリは静かに問う。


「ひとつだけ、教えてくれないかな。キミはどうしてジェームズさんがあの時、あの場所に立つということを知っていたんだい?」


「どういう意味だ? 元から魔法の効果で標的に向かうようプログラムしてあったんだ。叔父さまがどこに立とうが、結果は同じだった!」


 その答えでアンリはすべてに納得がいった。クリスは、魔術が書き換えられていたことに気付いていなかったのだ。


 最初から立ち位置を知っていたのは、ジェームズ自身。当然のことだった。矢に仕掛けられた魔術を単純な構造に書き換え、痕跡がすぐに消えるようにしたのも、きっとこの少年を庇うためだったのだろう。


「……そうか、わかったよ。ジェームズさんは、キミを心から愛していたんだな」

ならば、もう、終わらせる頃合だ。アンリはゆっくりと目を閉じて、かぶりを振る。

「最後にもうひとつだけ、キミに伝えておかないといけないことがある。……ソフィア・マクラーレンという少女は、この世にはよ」


「だから、それは何度も言ってるじゃないか! ソフィアは、あいつらに――」


「そうじゃない。元から、この世界にんだ」


 その意味を理解し兼ねているのか、クリスは思わず目を丸くした。


「あ、貴方は、何を言ってるんだ……?」


「たとえ、伝説の霊薬が存在したとしても、たとえ、死者を生き返らせる秘法が存在したとしても……元から存在しない人物を、生き返らせることなんかできやしない」


「ばっ、馬鹿を言うなッ! そ、ソフィアは、彼女は! ボクを、ボクの心を、救ってくれたんだ! あっ、アルフレッド・マクラーレンの娘――ソフィア・マクラーレンは……ッ!」


「アルフレッド氏にはね、息子がいたんだ。と言っても、養子だったそうなんだけどね」


 狼狽するクリスを無視するように、アンリは淡々と語り出す。


「アルフレッド氏は、非常に優れた魔術師としての才能を持った孤児の少年を引き取り、その子に過去の魔術師と同じ名前を付けて育てた――」


 嫌だ。嫌だ。聞きたくない。


「そして、彼は醜い大人たちの玩具にされてしまった――」


 それ以上言うな。何も言うな。


「その子はね、ずっと夢を見ていたんだ。とても、とても哀しい幻想ゆめを――」


 黙れ、嫌だ、やめろ。


「ソフィアとは、そんな彼が心の救いを求めて生み出した――幻想ゆめの中の少女だった」


 やめろ。やめろ。やめろ!


「やめろおおおお――――――ッ!!」


 崩れ落ち、むせび泣くクリスの姿に、かける言葉は何も見つからない。

 結羽は、最初から最後まで、茫然と立ち竦むことしかできなかった。


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