第45話

「おっと、動くなよ? 下手なことをすれば、ソフィアの命はない」


「てめえ、どこまで卑劣な……ッ!」


いち早く懐の拳銃に手を伸ばそうとしたドミニクを制しながら、彼は高らかと言い放つ。


「確かに、お前たちの言う通りだ。俺は殺し屋を装い、あの愚かな老人共を始末した!」


クライドはソフィアを抱えたまま、アンリの足元に置かれていたボトルを一瞬のうちに奪い去った。そのまま大階段の中腹へと駆け上がると、彼はボトルを高々と掲げて叫ぶ。


「――だが、そんなことはもはや関係ない。結果的に『甘露』はこうして完成しているんだからな。今まさに、俺は勝利者となった! 俺はこの霊薬で、《世界の真理》を手に入れる!」


 この男にとって、まさしくそれは心の底から待ち望んでいた瞬間だったに違いない。彼はボトルを開封し、琥珀色の液体を喉の奥へと一気に流し込んだ。


「フハハッ……これが《甘露》か! なんと、なんと甘美な……嗚呼、これだよ! これこそ俺が求めていたものだ! ――感じる! 全身に力が漲ってくるのが分かるぞッ!!」


 クライドは身体を喜びに震わせながら、まさしく勝利の美酒に酔い痴れる。


 だが、アンリはそんな彼の姿に、とても満足そうな笑みを浮かべながら頷いた。


「ね。それ、美味しいでしょう。いやあ、やっぱ本物のはいいよねぇ」


 その言葉に耳を疑ったのは、他でもないクライドだった。彼の表情が一変する。


「なんだと……今、なんと言った?」


「みりんって知らないかな? 日本では調味料として使われる酒の一種なんだけどね。もとから飲用として作られたモノは、それは滑らかな口当たりで上品な甘みを持つ、いいお酒なんだ」


「そんな戯言は聞いていない! 《甘露》はどうしたんだ!?」


 謀られたと知ったクライドは当然のように激昂した。しかしアンリは、それこそまったく心外だとばかりに肩を竦める。


「そもそも、キミはどうしてそれが《甘露》だと思った? 今まで誰も見たことがなくて、液体であるとも固体であるとも明確じゃない。それなのに、キミが飲んだモノを《甘露》だと認識したのは、甘露というその名称や、霊薬という伝説やウワサが一人歩きしたから、だよね?」


 クライドは何も答えることができない。目を大きく見開き、口をあんぐりと開けたまま、血の気が引いていく様子がよくわかった。


「――つまり、すべてキミたちの固定観念が生んだ、幻想だったってワケさ」


「き、貴様ッ……ほ、本物の甘露をよこせッ!! さもなくば、皆殺しだ!!」


 しかし、彼の脅しなどまったく意に介さず、アンリは尚も飄々と話を続けた。


「あ、そういえばさ、知ってる? 英語とドイツ語って、元は共通のゲルマン語から分派したんだってさ。でも同じ綴りで同じ発音の同じ単語なのに、意味がまったく違うモノになったりするものがあるんだよ。不思議だよねー」


 こんな時に、この男は一体何を言い出すのか。疑問符を浮かべ、唖然としながらこちらを凝視するクライドに、アンリは満面の笑みで片目を閉じてみせた。


「あ、それ。そう、そのみりんね。この時の為に上等なのを選んどいたんだ。差し詰め、僕からキミへの》ってとこかな――」


 アンリの言葉にクライドが眉を顰めた、その瞬間。


「ぐっ!? あ、がッ……!?」


 突然、クライドの視界がぐにゃりと揺らぎ始めたかと思うと、彼の身体を全身に虫唾が走るような感覚が襲った。次第に自由の利かなくなった手足の先が、まるで砂のように崩れ去ってゆくような幻想が彼を蝕む。――まったく、精神がおかしくなりそうだった。


「皮肉なもんだよねぇ。英語の《贈物Gift》が、ドイツ語じゃ《毒物Gift》だなんて」


「……ば、馬鹿な……俺は、《世界の真理》を、て、手にする為に……ッ!」


 幻覚に苛まれ、もがき苦しむクライドを眺めながら、アンリは溜息を吐いた。


「確かに魔術師は真理の探究者なのかもしれないけれど、本来の彼らは、魔術とはあくまでも自然の一部なんだと弁えていたんだよ。でも、いつの頃からか身勝手な魔術師たちが現れ始めた。本来は自然と一体であるはずの魔術を、自分たちの都合の良いよう解釈し、秘匿し、体系化させ、凝り固まったモノにしてしまったんだ。僕のおじいちゃんもよく言ってたよ。魔術師は思想家じゃない。その技術さえ人の役に立てば、教義なんて糞喰らえだって」


 そして彼は続けて、呆れ果てたように肩を竦める。


「大体さあ、世界の真理、世界の真理ってしつこいくらいに言うけど、過去の魔術師たちがこれまで何千年も追い求めても見つからなかった、全知全能や、不老不死の秘法なんてものが、そんな簡単に手に入るわけがないじゃない。昔からよく言うでしょ? うまい話には裏がある――って、もう聞こえてないか。けっこう効くんだなぁ、この幻覚薬」


 アンリが気付いたときには既に、クライドは白眼を向いて失神してしまっていた。


「……ま、ぶっちゃけね。僕にとっては犯人が誰であろうと、別にどうでもよかったんだ。結果的に、彼が一番の〝欲深き者〟だったってだけで」


 異なる術式に、あらゆる種類の魔術を自在に操ることが出来る彼――クライドは、魔術師として驚異的な力を持った〝天才〟と言っても過言ではない。しかし、そんな彼がどうしてこんな子供だましのハッタリに引っ掛かってしまったのか。


 理屈は単純である。欲は人を変えてしまう。人を盲目にすると言ってもいい。判断を鈍らせ、ありもしないことを、さも現実であるかのように錯覚させてしまう。

欲望は生きる上で不可欠なモノだが、当然ながら、度を過ぎればその身を滅ぼすのだ。


 ――そう、この男のように。


 それは、なんとも呆気ない幕切れであった。

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