第34話 忘れていた記憶
家に帰り着くなり、サーシャはイスール夫妻に向かって宣言した。
「お父さん、お母さん! 私、料理するから!」
「え? 料理?」
突然の言葉に、エーデルは目を丸くする。
しかしオルガとバルカスは「ああ」と訳知り顔で笑った。
サーシャは鼻息も荒く、袖をまくって調理場へ入っていく。何が何やら分からないエーデルは、とりあえず近くのテーブルに腰を下ろした。
その隣に、オルガが座る。
「久々だねぇ、あの娘の『挑戦』も」
「……『挑戦』?」
更に意味の分からない単語が飛び出して、エーデルは頭の上に疑問符を浮かべる。オルガはそんな彼女に優しげな眼差しを送り、
「何か、嫌な事あったんだろ?」
そう訊ねた。どうして分かったのかと思いつつも、
「……ええ、まあ」
エーデルは、素直に頷いた。
「ああ、ごめん。訳が分かんないよね。サーシャはね、元気が無くなった時、いつも『挑戦』するのさ。あの娘の、思い出の料理を再現しようとね」
「思い出の……料理ですか」
「あたし達が、サーシャの本当の親じゃないってのは、聞いたかい?」
「……ええ、うかがいました」
サーシャとエーデルが初めて一緒のベッドで眠った夜、その話は聞いている。イスール夫妻が気にしたらと思って、二人には黙っていたが。
「本当の母親は、あの娘が小さい頃に死んじまったらしいんだけどね、一つだけ、料理を教わったんだとさ。『元気の出る料理』だそうだよ。……でも昔の事だから、ちゃんと覚えてなくてね。たまにああやって、試行錯誤しながら母親の味を再現しようとするのさ」
「……そうなんですの」
鍋の前で奮闘するサーシャを眺めながら、エーデルは軽く息を吐いた。
エーデルが打ちのめされているのを見て、作る気になったのだろう。その『元気がでる料理』を。彼女の優しさに、涙が出そうになる。
「それにしたってエーデル、あんた顔が真っ青だよ? 料理が出来るまでしばらくかかるから、部屋で休んできたらどうだい?」
オルガに提案され、エーデルは自らの頬に手を当てる。
驚く程、自分の肌は冷たかった。
「そうですよ、エーデル。完成したら呼びますから、ゆっくり休んでいてください」
調理場のサーシャからも言われ、エーデルは首肯した。
強がる事もできない程に疲弊しているなら、ここは大人しく従っておいた方が良いだろう。
「では、お言葉に甘えさせて頂きますわ」
そう言って席を立つと、階段を上った。
部屋のベッドに倒れかかると、エーデルは仰向けのまま、手足をだらんと伸ばした。
「ふぅ……」
貴族の身分を捨てたのは、自らの意志によるもの。その結果、サンドライト家がどうなるかも知った上で、エーデルは決断したのだ。
だから、家族が自分にどんな感情を抱くかも理解し、覚悟していたはずだった。
それでも、実の父親に存在しない者として扱われるのは、想像以上に辛かった。あれならばいっそ、罵詈雑言を吐きかけてくれた方がずっとましだった。
「……いけませんわね。こんな調子では、皆さんに心配をかけてしまいますわ」
何の気無しに本棚に視線をやると、一冊の本が目に留まった。『初級魔術入門』――サーシャが実の母親から贈られた、思い出の品だった。
身体を起こすと、本を手に取ってぱらぱらと開いてみる。
ふと、幼少の記憶を思い出す。エーデルも、この本を呼んだきっかけは両親からのプレゼントだった。
「嬉しくて、何度も読み返したものでしたわ。魔術が一つ出来る度に、お父様は『さすが未来の王妃候補だな』なんて笑って。わたくしも、それが誇らしくて『かならずおうひになります』なんて――」
そこで、本をめくるエーデルの手が止まった。
「……あれ? では、わたくしは何故、貴族の身分を捨てようと……?」
父親に笑顔を向けられた事さえ、忘れていた。けれど確かに、両親と温かい日々を送った過去は存在したのだ。
どくんと、心臓が波打つ。
物心ついた頃には、既に親からの仕打ちに苦しみ、平民に憧れていた――そう思い込んでいた。だが幼い自分は、王子の婚約者候補である事を受け入れていた。
そうだ。そして王子の婚約者として選ばれた時も、自分を誇りに思っていたし、両親の期待をこんな形で裏切るつもりも、全く――
――おもいだしちゃ、だめ。
心の中で、幼い自分の声が聞こえた気がした。
しかし、一度始まってしまった思考を止める事は出来ない。
――とても、つらいこと。
脳内に、もやがかった記憶が蘇る。
大好きで、
――おもいだしたら、こころがこわれちゃう。
大好きで、
――わすれてなきゃ、いけないよ。
いつまでも変わらないと思っていた、あの時。
そして――そして、両親と同じくらい愛して、ずっと一緒にいたいと思っていた――あの女性。
手が震え、エーデルは思わず本を取り落とす。
落ちた本は、一枚のページをこちらに見せつけるが如く、床の上でぱらりとめくれた。
「――――っ!」
そのページは、焼け焦げていた。それ自体は、珍しい事ではない。まだ魔術の制御もままならない子供が、本を片手に魔術を使用し、本を破損してしまうのは、往々にして起こり得る事だった。
しかし――エーデルは、その焦げ跡に見覚えがあった。
「――まあ。よろしいのですか、お嬢様」
差し出された本を受け取りながら、その女性は酷く恐縮していた。
しかし幼い自分は、胸を張って答える。
「わたくしはもう、みんなよんでしまったから。あなたのおこさんに、さしあげるわ。おとうさまとおかあさまも、よろこんでさんせいしてくれたのよ」
得意気に話しているのは、父母に提案を褒められたから。
女性から、母親の帰りを独り待っているという彼女の一人娘の話を聞いたエーデルワイスは、大事にしていた魔術の本をその子にプレゼントすると両親に申し出た。
平民が魔術の本を読んでも仕方ない――そんな思いもよぎりはしたが、両親は彼女の優しさを褒め称え、是非そうするよう勧めた。
「これをよんでいたら、ひとりでもきっとたのしいわ。こげてしまったページがあるので、ちょっともうしわけないけれど」
「ふふ。きっとあの子も喜ぶでしょう。あの子ったら、お嬢様の話を聞くのが何より好きなんですから」
「そうなの? じゃあいつか、おともだちになっていただきたいわ」
エーデルワイスの無邪気な言葉に、その女性は優しく微笑んだ。
「ええ、ええ。もしお嬢様とお友達になれたら、あの子もきっと幸せですわ――」
思い出しては、いけなかった。
ああ――ああ。何という偶然――いや、あるいは運命か。
手足が石のように重い。今すぐ、何もかも忘れて眠ってしまいたい。
――だが。確かめなければならない。
エーデルは身体を引きずるように、部屋のドアを開けた。
階段を降りると、サーシャは鍋の前で悩んでいた。
「ここまでは、教わった通りの味なんだけど……」
「これでも十分、旨いと思うがな」
味見をしたバルカスがそう言うが、サーシャは納得がいかない様子だった。
「何かを一味、最後に足したような……」
一階に降りたエーデルの鼻先に、サーシャが作る料理の香りが飛び込んでくる。
エーデルの記憶にある、香りだった。
――あの時、彼女と一緒に作ったスープと同じ。
エーデルは気が遠くなりそうな思いで、それでもサーシャに向かって呟いた。
「……タイムを、ほんの少しだけ」
エーデルの声を聴いて、
「タイム……まだ試してなかったかも!」
サーシャは調味料の棚からタイムの瓶を掴むと、ほんの少量、鍋の中に入れた。
しばし煮込んだ後、サーシャはスープを少しだけすくい取り、口に入れた。
「…………これ! この味!」
興奮で頬を紅潮させるサーシャに、バルカスとオルガから歓声が上がる。
「母の味です! でもエーデル、どうして――」
そこでエーデルに顔を向けたサーシャは、言葉を失った。
エーデルは、泣いていた。
床に膝をつき、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「エーデル、どうしたんですか!?」
サーシャは慌てて彼女に駆け寄り、その身体を抱きしめる。
「大丈夫です、落ち着いて。美味しいスープが出来ましたから、一緒に食べましょう」
涙の原因が、エーデルと彼女の父との一件だと思っているサーシャは、そう言って彼女をなだめた。
しかし、エーデルはかぶりを振る。
「違う……違うの。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
そして、サーシャに縋りつくように寄りかかり、叫んだ。
「貴女のお母様を殺したのは――わたくしなの!」
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