第31話 エーデルワイスとセレン 後
それからも毎週、セレンはサンドライト家を訪れては、エーデルワイスと談笑した。
エーデルワイスの知識に、セレンは驚かされるばかりだった。
騎士団の訓示や過去に騎士の挙げた武功、果ては剣匠の名前に至るまで、彼女は完璧に覚えていた。
「……エーデルワイス様は、騎士に興味がおありなのですか?」
呆れる程の知識量に、セレンがそう問い掛けると、
「貴族の息女として、学ぶべき事ですので」
エーデルワイスは笑って答えた。
そんな話を繰り返して、半年程経った頃の事だった。
普段のように、お茶とお菓子を供に会話に興じていた時。
セレンはふと、エーデルワイスの肩に目を留めた。
「エーデルワイス様、肩が……」
服でほとんど隠れていたが、彼女の肩は、紫色に変色していた。
「……っ!」
エーデルワイスは目を落とすと、即座にその肩を手で覆った。
「……何でもありませんの。お気になさらないで」
しかし、その顔は青ざめていた。
「それは……打撲ですね?」
普段から剣の稽古を行っているセレンにとっては、見慣れた傷だった。だが、深窓の令嬢であるエーデルワイスには、あまりに似つかわしくない。
「早く医者に診せた方がいい。誰かを呼んできます――」
席を立つセレン。しかし、その腕をエーデルワイスは強く掴んだ。
「お願い、誰にも言わないでください……!」
エーデルワイスは、泣きそうな顔でセレンに縋りついた。
「しかし、放っておいては……」
「お願い、お願いです……!」
エーデルワイスの瞳から、涙がこぼれた。
それは、これまでセレンが見てきた気品に満ちた彼女とは、別人のような苦痛に歪んだ表情だった。
「……分かりました」
セレンは、再び椅子に腰を下ろした。そして、問う。
「……何が、あったのです?」
エーデルワイスはうつむいたまま、
「……誰にも言わないと、お約束頂けますか?」
そう、か細い声で訊ねた。頷くセレンに、エーデルは躊躇いがちに答えを返す。
「……お父様に、罰を受けたのです」
「……っ!?」
セレンは目を見開いた。
躾の為に子を叩く親は、貴族の間では別に珍しくない。しかし、青痣が出来る程に殴打するのは、いくら何でもやり過ぎだった。
「お願いします、セレン様。どうかご内密に。こんな姿をセレン様に見られたとお父様に知れたら、もっと酷い罰を受けてしまいます……」
エーデルワイスは、震えていた。
そんな彼女を見て、その言葉を聞いて、セレンは理解した。
そして、思い出す。普段はあまり話しかけてこない父が、エーデルワイスと会った日は必ず、彼女の様子をセレンに問うてきた事を。
恐らく父は、サンドライト卿に頼まれていたのだ。エーデルワイスが、セレンと問題無く親交を深められているか、その確認を。
セレンは、己の愚鈍さに激しい怒りを覚えた。
彼女が、騎士に興味などあるはずが無かったのだ。セレンを満足させる為、必死に知識を詰め込んだのだろう。父親の期待に応え、罰を受けぬように。
それを疑問に思いもせず、ただ能天気に談笑していた自分を、思い切り殴ってやりたかった。
「……エーデルワイス様。誓って、自分はこの事を誰にも話しません。だから落ち着いてください」
エーデルワイスの前に片膝をつき、セレンは静かに言った。
「それと、貴女が本当に好きなものを、教えてください」
「え……?」
エーデルワイスは、呆気に取られたように声を漏らした。
「何でも構いません。これからは、貴女が興味のある、貴女の好きな事を話しましょう。だから自分といる時だけは、どうか本当の貴女のままでいてください。それがどんな貴女でも、自分は受け入れます」
エーデルワイスの頬を、涙が伝う。
「……本当に、良いのですか?」
「ええ」
「本当のわたくしは……上品でも高貴でもありませんわよ……?」
「そんなもの、自分だって同じです」
エーデルワイスは、笑った。涙で顔をくしゃくしゃにしながら、それでも口の端を吊り上げて、笑った。
「……では、わたくしからも一つ、よろしいですか?」
「はい、何なりと」
涙を拭うと、エーデルワイスは一瞬前とは別人のような、不敵な笑みを見せた。
「今後、わたくしと話す際は、敬語は使わないようにお願い致します。……敬語、お嫌いでしょう?」
「……っ!」
図星を突かれて、セレンは狼狽した。
無骨な男達と多く接してきたセレンは、貴族らしい丁寧な言葉遣いがどうにも苦手だった。
「……恐れ入りました――いや、恐れ入った。まさか見抜かれていたとは」
「半年もこうしてお話しているのですから、当然ですわ。あ、どうせなら様付けも無しにしてよろしいかしら? 何か窮屈な感じがして嫌ですの、あれ」
エーデルワイスの豹変ぶりに、セレンは思わず噴き出した。
「……その地を、よく隠し通してきたものだな」
エーデルワイスは肩をすくめると、
「ねえ、セレン。もしも本当に、わたくしの好きな事を話して頂けるのなら――一つ、とても興味のある事がございますの」
きらきらと目を輝かせて、言った。
「ほう。それは何だ?」
セレンの問いに、エーデルワイスは、満開の花のような笑顔を見せた。
「――彼女が『平民に興味がある』と言い出した時は、我が耳を疑いましたが……それからしばらくは、会う度に平民の話ばかりをしていました。騎士団には平民も多く所属しており、話題に事欠きはしませんでした」
セレンの話を、サーシャは興味深く聞いていた。
しかしふとそこで、セレンが寂しそうな顔をする。
「……セレン様?」
「ああ、すみません。……ですが、我々のそんな関係は、長くは続きませんでした。やがてエーデルは、殿下の婚約者としてのより高等な教育が始まるとかで、自分と会う暇も無くなり、やがて疎遠になってしまいました。ですから――」
セレンは、少し恥ずかしそうな様子で言った。
「ですから、エーデルとは別に不仲なのではなく……きっと我々が顔を合わせる時には、まだお互い、子供のままなのです」
その言葉に、サーシャは深く頷いた。
そうか、この二人は。
十年前に出来なかった事を、今、しているのだ。
だからあれは喧嘩ではなく、小さな子供同士のじゃれ合い。
十年前、友人になり切れなかった二人は、その空白を埋めようとしているのだろう――
「……とても、素敵なお話でした」
「ご満足頂けたなら、何よりです」
そこで、セレンはふと、何かに思いが至ったようで、サーシャに小声で呟いた。
「……昨夜の『初恋の人』というご質問ですが」
唐突に話を持ち出され、サーシャは目を丸くした。
「もしも自分が男だったら、十年前の彼女がその相手だったでしょうね」
それ程に、あの時の彼女は――あの涙と、そして笑顔は、心を奪われるぐらいに美しかった。
「まあ……」
サーシャは、くすりと笑い返した。
セレンは照れ臭さを紛らわすように、大きな声で言った。
「しかし、そうならなくて良かったです。エーデルが相手など、それこそまだ動物園のゴリラの方がマシでしょうから!」
「ふふ。セレン様、さすがにそれはエーデルに――」
微笑んで言葉を返すサーシャの動きが、止まる。
セレンの背後に、そのエーデルがいた。
「……朝食の準備ができたそうなので、呼びに参りましたが」
そこで彼女は、がっ、とセレンの肩を掴んだ。
「……わたくしよりゴリラがマシとか聞こえたのですけれど。どういう意味なのかしら?」
「あ、それはだな……ええと……」
困り果てるセレンに、エーデルは冷たく言う。
「……セレンの朝食は、無しにしてもらいますわね」
「それだけは勘弁してくれ! 餓死してしまう!」
「乙女よりゴリラの方がマシなんて言う無礼者、餓死でも何でもすれば良いのですわ! ばーかばーか!」
「なっ! 馬鹿とは何だ馬鹿とは!」
「馬鹿に馬鹿と言って悪い事がございますの!?」
また始まったと、サーシャはくすりと笑う。
しかし、セレンの話を聞いた後では、このやり取りも微笑ましいものに思えた。
「お二人とも。私は先に朝食を頂いてきますね」
サーシャの言葉が耳に届いていないのか、二人はずっと言い争いを続けている。
その姿は本当に、小さな子供のようだと、サーシャは思った。
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