第12話 夜更けの来訪者
エーデルがイスール家に来てから、一か月程が過ぎた。今日は店の定休日。いつもは多数の客で賑わう店内も、今はイスール夫妻とエーデルのみ。
静かな夜は、温かい紅茶と共に少しずつ更けていく。
その時、控えめにドアを叩く音が聞こえた。
客ではない。入口には本日休業の札が下がっているし、そもそも音がしたのは裏口の方だったのだから。
「誰だろうね、こんな時間に」
首を捻りつつ、裏口へと向かうオルガ。
扉を開けた瞬間、外から飛び込んできたのは――
「……お母さん、お母さんっ!」
泣き腫らした表情の、サーシャだった。
「サーシャ! どうしたんだい、あんた!」
娘の名を耳にして、バルカスもサーシャの元へ近寄った。
「サーシャ、何があった」
「うぅ……ああぁああ!」
しかし、サーシャは何も答えず、ただオルガの胸で泣きじゃくるばかりだった。
困惑するオルガとバルカス。そこに、エーデルが歩み寄った。
「お久しぶりですわ、サーシャさん」
声をかけられ、サーシャは顔を上げた。
「エーデルワイス、様……」
「今のわたくしはエーデルです。あと、『様』など付けなくて結構。そんな事より――」
エーデルは跪くと、サーシャの手を取った。
「――まずは紅茶を一杯、いかが? ミルクと砂糖もたっぷり入れて」
温かい紅茶のおかげで、サーシャの感情は幾分か収まったようだった。
「あの、ごめんなさい、皆さん……こんな時間に……」
恐縮するサーシャに、オルガが笑いかける。
「何言ってんだい。ここはあんたの家なんだから。そんな事、気にする必要ないんだよ」
「……で、何があったんだ、サーシャ」
バルカスに問われ、サーシャの顔が再びこわばった。
「あ、の……」
「バルカスさん。本人が言いたくない事を、無理に聞き出そうとするのはマナー違反ですわよ」
「な――い、いや俺は、ただサーシャが心配で……」
うろたえるバルカス。エーデルはちらりとサーシャを横目に見て、
「それに……わたくしには、サーシャさんが泣いていた理由は見当が付きますわ」
そう、告げた。
貴族に生まれたエーデルは、サーシャがこの一か月、どんな目に遭っていたのか、容易に想像がついた。
サーシャは大きく目を見開くと、軽く息を吐いた。
「やっぱり、エーデルワイス様は何でもお見通しなんですね」
「だから、今の私はただのエーデルですわ。様など付けないで下さいませ」
「失礼しました……エーデル、さん」
「何だか、ぎこちないですわね……」
「仕方ないですよ。ずっと、エーデルワイス様とお呼びしていたのですから」
言いながら、サーシャは口元に微笑みを浮かべた。
「お父さん、お母さん。心配させてごめんなさい。……ちゃんと話します」
オルガもバルカスも、固唾を飲んで娘の言葉を待つ。
どんな酷い仕打ちを受けたのか、二人とも気が気ではなかった。
そして、サーシャは静かに言った。
「…………笑われるんです」
オルガとバルカスは、互いに顔を見合わせる。
「…………えっと、それだけかい?」
オルガの問いに、サーシャは頷く。
「何だ、あたしゃてっきり――」
胸を撫で下ろすオルガに、厳しい声を上げたのはエーデルだった。
「いいえ。まったく……陰湿極まりない、最低の行為です。そんな事だろうと思いましたわ」
皆の視線が、エーデルに集まる。
「面と向かって暴言を吐いたり、暴力を振るう方がまだ救いがありますわ。悪意のある笑いがどれだけ人を傷付けると思っているのか……本当に、虫唾が走ります。ですが――」
そこで、エーデルはサーシャに目を向けた。
「貴女は、魔術学院に在籍している身。最低限の作法はあそこで教わったはずでしょう? 礼節ある所作は既に身に付いているはずですわ」
王立魔術学院。アストニア王国唯一の、魔術の学び舎である。
才ある者に広く門戸を開く――という建前だが、平民法により魔術の使用が禁じられている平民がその門を叩く事は、ほぼ無かった。そもそも魔術と縁の無い暮らしをしてきた平民は、魔術の使い方さえ分からないのだ。
そんな学院において現在、一人だけの平民の生徒、それがサーシャだった。
「学院は、魔術を志す者ならばいかなる者も入学可能――とは言え、現実はほとんど貴族専用の学校。ですから、将来の為に礼儀や作法も教えているのです。あの通りにしていれば、決して笑われる事など――」
「教わった通りにしても、それでも……笑われるんです」
なるほど――と、エーデルは眉根を寄せた。
サーシャを嘲笑う貴族達は、別に彼女の作法が誤っているから笑っているのではない。ただ彼女を貶めたいだけなのだ。
恐らく王宮でも、サーシャは孤立しているに違いない。信頼できる人間も王子だけなのだろう。
気にしない――それが最善の解決策であることは明白だった。しかし、それにはサーシャ自身が、己に確固たる自信を持たねばならない。
再び涙を浮かべるサーシャに、エーデルは言った。
「サーシャさん。定期的に、この家においでなさい。わたくしが直接、王子の婚約者として恥ずかしくない振る舞いを教えて差し上げますわ」
「え……?」
サーシャは目を丸くして、エーデルを見た。
「いかがかしら。これでも『元』上級貴族ですから、幼い頃よりマナーも作法も叩き込まれてきましたので。例え笑われようと、逆に笑い返せるぐらいにして差し上げますわ」
「いいじゃないか、サーシャ。エーデルに教えてもらいなよ! うちの客にもエーデルの所作は評判なんだ、貴族様御用達の料理屋に来たみたいだってね。まあ、誰もそんな料理屋に行ったことなんて無いんだけどさ!」
「そ、それは願ってもないことですけど……よろしいのですか?」
おずおずと、サーシャが口を開く。エーデルは、笑って頷いた。
「もちろんですわ。それで貴女の心が少しでも安らぐのなら、喜んで力になりましょう」
「あ、ありがとうございます……!」
喜びに頬を染めるサーシャ。そんな娘を見て、バルカスとオルガも安堵の表情を浮かべた。
しかしそんな二人に、エーデルは鋭い視線を向ける。
「……まるで他人事みたいな顔をされておりますが、わたくしの授業、お二人にも一緒に受けて頂きますからね」
突然そう言われて、バルカスとオルガは声を荒げた。
「はぁ!? どうして俺達まで!」
「そうだよ! あたしらには貴族の作法なんて必要ないだろ!?」
「――お二人とも、大切な事をお忘れのようですわね。いずれサーシャさんは王子と結婚する。当然、新婦の両親も、結婚式には参列する事になりますわ」
エーデルに言われ、バルカスもオルガも目を見開いた。
「オルフェリオス王子はいずれ国王となられる身。式には、我が国の貴族のみならず、他国の重鎮も出席される事でしょう。作法の一つも知らないまま、そんな場に出たいですか?」
「さ、サーシャ……助けておくれよ……」
弱弱しくサーシャに助けを求めるオルガ。しかしサーシャは、無慈悲な笑みで返した。
「一緒に頑張りましょう、お父さん、お母さん」
バルカスとオルガは、揃って肩を落とした。
そんな両親の姿を、くすりと笑いながら、サーシャはエーデルに礼を言った。
「ありがとうございます、エーデルさん。いつも、エーデルさんには助けられてばかりですね」
「別に大したことでは――ん? いつも?」
サーシャを助けたのは、これが初めてのはずだが――
首を傾げるエーデル。しかしサーシャは、かぶりを振った。
「学院でも、ずっと。分かってるんですよ、私。エーデルさんが私に辛く当たるようになってから、他の方からの嫌がらせが無くなったんですもの」
「…………う」
確かに、サーシャの言う通りだった。
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