第11話 はじめてのおつかい
「――料理の配達、ですか?」
多数の客で賑わう昼時、オルガの言葉に、エーデルは首を傾げた。
「そうなんだよ……あんたに頼みたくてさ。全く、普段はそんな面倒な事、絶対にやらないんだけど」
料理を詰めたバスケットを見せながら、オルガが笑う。
「トムさん、覚えてるかい?」
「ええ。いつも夜にお酒を飲みに来る、小柄なお年寄りでしたわね。……そう言えば最近、姿を見ませんでしたが」
「あの爺さん、街外れの工房で鍛冶師やってるんだけどね。仕事中につまづいて足をくじいたらしいんだよ。それであまり出歩けないんだけど、うちの料理が恋しいって言ってるみたいでさ。届けてやろうかと思ってね」
「分かりました、謹んで承りますわ」
エーデルは頷くと、オルガからバスケットを受け取った。
「頼んだよ。地図も一緒に入れてあるからね」
「ありがとうございます。では、言って参りますわ」
バスケットを小脇に抱え、店を出て行くエーデル。
バルカスは、彼女が去った扉に不安そうな視線を向けた。
「どうしたよ大将、あのお嬢ちゃんが心配かい?」
そう、カウンターに座っていた中年男性――イアンが問い掛けた。
バルカスは、渋い顔で頷く。
「……まあな」
そこにオルガが、片眉を上げつつ口を挟んだ。
「困った人だねぇ……エーデルは、サーシャと同じ17歳だよ? 幼い子供みたいに扱ってちゃ、あの娘にも失礼じゃないか」
「しかし、エーデルはこの前まで貴族だっただろう。目を離したら、何が起こるか……昨日も、洗濯板を裏向きに使ってたろう」
「まあ、確かにあの娘はちょっとずれちゃいるけどさ」
確かに、こちらが常識と思っている事が、彼女にとっては未知の世界であるというギャップに、バルカスもオルガもこの短期間で幾度も遭遇している。
だから夫の不安も分からなくはないが、頼んだのは10歳に満たない子供でも失敗しようのない仕事なのだ。
「そんなに見くびらなくっても良いさね」
そう言って、肩をすくめる。
そんな二人に、イアンは、ぽん、と手を叩いた。
「よし。じゃあいっちょ俺が、ちゃんとお使いできるか見届けてこようじゃないか。勿論、あのお嬢ちゃんに気付かれないようにな」
日焼けた顔におどけた表情を浮かべたイアンに、オルガは嘆息すると、
「イアン、一つ頼めるかい? この人、このままじゃ仕事にならなさそうだからさ」
隣のバルカスを指差しながら、呆れ混じりに言った。
「い、いや別に俺は……」
「そう言いながら、さっきから手が止まってるよ! 焦げる前に手を動かしな!」
手元に目をやると、バルカスは慌てて鍋を振る。
「よっしゃ。じゃあ行ってくるわ。お嬢ちゃんの『はじめてのおつかい』を見届けにな!」
イアンはおかしそうに口元を歪め、店の扉に手を掛けた。
「しっかし、大将も心配性だぜ。あの利発なお嬢ちゃんが、お使いの一つもできないはずがねえってのにな」
食堂を出たイアンは、ごま塩頭に帽子を目深に被ると、エーデルを捜しながらそう一人ごちた。
トムの工房は店からだと30分程の距離だが、別に危険な裏通りを通る訳では無い。その上、今は昼間。まさか、そうそう危ない目に遭うはずは――そんな事を考えながら歩いていると、
「きゃあっ!」
目抜き通りの広場から、若い女性の悲鳴が聞こえた。
「……おいおい、まさかのまさかかよ……っ!」
急いで声のする方へ走ったイアンが見たのは――鳩を追いかけ回す、エーデルの姿だった。
「あははっ! 本当に、広場には鳩がいますのね! それも、こんなにいっぱい! きゃっ! また飛んでいきましたわ!」
エーデルが走り寄ると、鳩は飛び立って逃げる。その場を離れると、また戻って来る。また近寄ると――そんな遊びを、彼女は何度も繰り返していた。
「……こりゃ確かに、心配だわ」
イアンの心配は、バルカスのそれとは違う種類のものではあったが。
この少女から目を離すまいと、彼は固く誓った。
貴族として生まれ育ったエーデルにとって、平民達の暮らす街は、遠くから眺め、想像するだけの場所だった。
石造りの家が所狭しと建ち並び、街頭には食べ物を売る出店。曲芸や歌で小銭を稼ぐ大道芸人も、エーデルにとっては生まれて初めて見るものだった。
「素晴らしいですわ……!」
しかし同時に、貴族の頃は如何に多くのものに守られていたかと言うことも痛感していた。ふかふかの椅子やクッションを備えた馬車も、上等に整備された歩道も、直射日光を遮る日傘も、その日傘や荷を運ぶ侍従も、ここには存在しない。少しの心許なさがあるのは事実だった。
「けれど、これがここで暮らす人々にとっての『当たり前』なんですものね」
郷に入っては郷に従え、早くこの街での生活に慣れなくてはと、エーデルは一人ごちた。と、
「まあ!」
彼女の顔に再び輝きが戻る。走り寄る先にいたのは、一匹の大きな白猫だった。心の中で、『平民になったらやりたい事リスト』が瞬時に展開される。No.158、『猫を撫でる』、No.159、『猫に餌をやる』、No.160、『猫を膝に乗せる』――
「今こそ実現の時ですわ!」
が、その異常な気配に気付いた猫は怯えたような顔を見せると、さっと身を翻して裏通りへ駆け込んでしまった。
「あ、お待ちになって!」
慌てて追いかけようとするエーデルの様子に、更に慌てたのは曲がり角から覗き見ていたイアンだ。
「おいおい、『お待ちになって』じゃねえって! お嬢ちゃん、そっちは危ねえよ!」
エーデルに聞こえない程の小声で呟くと、イアンは周りを見回した。自分で止めに行っても良いのだが、それで尾行がバレるとイスール夫妻に面目が立たない。考えた末、彼は道端の小石を手に取り、エーデルの持つバスケット目がけて投げた。
果たしてそれは弧を描き、見事音を立ててバスケットにぶつかった。
「きゃっ!?」
急な衝撃に声を上げたエーデルは、はっとしてバスケットを見やる。どうやらようやく、その存在を思い出したようだ。そして、しまったとばかりに顔を引きつらせると、くるりと回れ右をしてその場を立ち去った。
「やれやれ、とんだお転婆だな」
イアンは胸を撫で下ろすと、再び彼女の背を追った。
「……はぁ、残念でしたわ」
猫に触れることすら叶わず、しょんぼりと肩を落とすエーデル。まさか猫があんなに素早い生き物だとは。
まあ、今回はそれを知れただけでも収穫だと思って――これは?
エーデルの思考に、突如香ばしく肉を焼く良い匂いが割って入り、彼女は顔を上げた。
気付けば、商店街の通りに出ていたらしい。先程までとは比べ物にならないほどの出店が軒を連ねていた。
見渡すと、賑やかな呼び込みの声や昼食を求める客の列、色とりどりの看板が目を奪う。
歩くにつれ迫って来る、様々な料理の香りとそれを勧める声。慣れない街歩きの疲れも手伝って、空腹を意識してしまうと、もうエーデルは我慢が出来なかった。
ふらふらと一軒の店に近寄り、気付けば彼女の手にはしっかと羊の串焼きが握られていたのだった。
「ありゃ、うちの娘が小さい頃とおんなじだ……三歳児だよ、あの娘は」
建物の陰に隠れたイアンは、またも忘れられているおつかいを、彼女がいつ思い出すのか、はらはらと見守っている。その心配をよそに、エーデルは満ち足りた表情で羊の串焼きを頬張りつつ、玉投げの曲技で客を沸かす芸人に拍手を送った。
「けど、なーんか幸せそうで良いよなあ」
幼い頃に失ってしまった、毎日がわくわくする、見るもの聞くことが新鮮だった日々。彼女を見ていると、そんな時の中を生きているように感じられる。
目を細め感慨にふけるイアンに気付く素振りも無く、エーデルは串焼きを完食し、はたと我に返った。
「何てこと!! わたくしとしたことが、浮かれすぎですわ! これでは、おかみさんに叱られてしまいます!」
叫びと共に慌てて走り出すエーデルへ、
「遅せえよ、お嬢ちゃん……」
イアンは言葉と裏腹に柔和な笑顔を浮かべ、ついていくのだった。
「……お、遅くなってしまい、大変申し訳ありませんわ!」
エーデルが店に帰り着いたのは、もはや客足も殆ど途絶えた昼下がりだった。彼女は店の扉を開けるなり、一直線にカウンターへ向かうと、深々と腰を折り大声で謝罪を述べる。その様は、かのテーゲルンドに謝罪を述べた時よりも遥かに真摯な態度だった。
そんな彼女に、オルガはにやにやと笑って尋ねる。
「羊肉の串焼きは美味かったかい?」
「は、はい……ってななな何故それを!?」
目を白黒させるエーデルを、オルガと、そしてカウンターに座ったイアンが面白そうに眺めている。
「まったく、そんな美人さんが広場で鳩を追いかけてたら、何事かってびっくりされちまうから、ほどほどにしなよ」
「あと、猫もな」
オルガとイアンの忠告――というか、からかいに、エーデルは耳まで真っ赤になった。さっきから黙ったまま様子をうかがっているバルカスも、心なしか肩を震わせている。
「ちょっ、イアンさん! 貴方もしや、わたくしを尾行けてましたわね!?」
目を吊り上げるエーデルに、イアンは悪びれもせず笑ってみせた。
「いやー、ちょっと世間ずれしたお嬢ちゃんが心配だってんで、大将とおかみに頼まれてな。この俺がこっそり追っかけてたって訳だ」
そして彼はエーデルより先に店へ戻ると、おつかいの一部始終をイスール夫妻に語って聞かせたのだった、
「! 別に心配なんか……」
かぶりを振るバルカスの脇腹を軽く小突いて、オルガがエーデルに笑いかける。
「まあ、大体そんなとこさ。けどあんた、街中を歩いたこともあんまり無かったのかい? 確かに、こっちに来てからは忙しくって、ろくに外にも出られちゃいないだろうけど」
「あの……あまり、ではなく行ったことが無いのです、平民の暮らす街へは」
恥ずかしげに俯くエーデルに、三人は驚きの眼差しを向けた。改めて、貴族と平民には大きな隔たりがあるのだと思い知らされる。
「何だ、そういう事なら、今度店が休みの時には、色々案内するよ! この街にゃ自慢の場所がいっぱいあるからね!」
オルガが胸を叩いて言うと、エーデルはぱっと花が咲いたような笑顔を向けた。
「良いんですの? でしたら是非、連れて行ってくださいませ! わたくし、もっとこの街の事を知りたいですわ!」
「勿論さ! ただし――」
オルガはそこで言葉を切ると、にやりと笑った。
「その前に、今日はさぼった分までしっかり働いてもらうよ! まずは皿洗い、頼んだからね!」
カウンターの奥にはうず高く積まれた食器。エーデルは悲鳴をどうにか飲み込んで、頷いてみせたのだった。
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