第7話 受け入れ先

 エーデルを突き飛ばすように馬車から下ろすと、挨拶もなしに馬車は走り去った。


「……少し、やり過ぎましたかしら。まあ、どうせ二度と会わない方でしょうし」


 そして、エーデルは眼前の家に目を向ける。軒先には「食堂イスール」と書かれた飾り気のない看板が吊られていた。


「どうやら、ここで間違いなさそうですわね」


 扉の取っ手を握った時、エーデルは一瞬、躊躇った。


 あの貴族が話していたように、ここに住むイスール夫妻は、エーデルがこれまでサーシャにしてきた仕打ちを残らず――いや、恐らく誇張までされて、聞かされているだろう。もしかしたら本当に、牢獄の方がましという扱いを受けるかもしれない。


 しかし――それが何だというのか。平民になると決めた時から、そんな状況は何度も想定してきた。それでもなお、貴族を辞めようと思ったからこそ、自分はここにいるのだ。


 己を奮い立たせ、エーデルは扉を開く。


「失礼致しま――」


「ああ、よく来たねえ!」


 エーデルの挨拶を遮って、中から聞こえてきたのは、思いも寄らぬ快活な声だった。




「女の子を、こんな夜中に送るとはねえ。何かあったらどうするつもりなんだか……ささ、座って座って」


 明るい女性の声に促されるまま、エーデルは近くのテーブルに着いた。


 エーデルを出迎えたのは、声色通りの豪快そうな女性だった。黒い癖毛に目尻の垂れた人懐っこそうな面立ちは、年齢を感じさせない張りがあり、食堂の魅力の一つに相違ないとエーデルは一目で感じた。


 女性の後ろには、彼女より頭一つ以上大柄な、体格の良い仏頂面の男性が無言で佇んでいる。


「あたしはオルガ・イスール。サーシャの母親さ。ほら、あんたも自己紹介しなよ」


 オルガに言われ、男性は短く刈られた黒髪をがしがしと掻くと、顔をしかめたまま野太い声で言う。


「……バルカスだ」


 エーデルは慌てて椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。


「エーデルと申します。これから、どうぞよろしくお願い致しますわ」


 と、エーデルが頭を上げる前に、バルカスは彼女に背を向け、


「顔合わせは終わった。俺はもう寝る」


 そう言って、どしどしと重い足音を立てながら、木造りの階段を上がっていってしまった。


 呆気に取られるエーデルに、オルガはやれやれと頭を振った。


「すまないね、まだちょっと割り切れてないのさ。……そうだ、晩飯まだだろ? 残り物ですまないけど、今用意するからさ! そこに座って待ってておくれよ!」


「あ、ありがとうございます……」


 数分後、エーデルの前に、湯気を上げるシチューと、薄切りにされたパンが供された。


「あいにく、貴族様が食べるようなもんはうちにゃ無いからね。我慢しとくれ」


 そう笑うと、オルガはエーデルの正面に座った。


「いいえ、とんでもない。謹んで、頂戴致しますわ」


「あはは! 謹んで食べる必要なんて無いよ!」


 スプーンでシチューをすくい取り、口に運ぶ。肉と野菜を長時間煮込んだであろうそれは、こってりと濃厚で、空腹の胃に染み渡るような美味だった。


「美味しいですわ……!」


「ああ、口に合ったかい。そりゃ何よりだ」


 何口かシチューを食べた後、エーデルはパンを一切れ、手に取った。


「あの……このパン、シチューに浸して食べても?」


「そんな食べ方する人もいるねえ……そっか、貴族様は、そんな品の悪い食べ方なんてしないのか」


「わたくし……小さい頃からこの食べ方が憧れでしたの……!」


「好きな食い方しなよ。ここじゃ、食事のマナーにうるさく言う奴なんていやしないさ」


「では、遠慮なく」


 暖かいシチューにパンを浸し、そのまま口に放り込む。シチューと一体化したパンは、エーデルの想像以上に美味だった。『平民になったらやりたい事リスト』No.087、『パンをシチューに浸して食べる』――昂る心を抑えつつ、エーデルは完了のチェックを心に刻んだ。


 がつがつと食事を頬張るエーデルを見ながら、オルガは呟いた。


「何だい、やっぱりいい娘じゃないか」


 その言葉に、エーデルの手が止まる。


「……『やっぱり』とは?」


「ああ、気を悪くしないで聞いとくれ。あんたをこの家に置くって話をしに来た貴族がさ、散々、あんたの悪口を言ってたんだ。うちの娘を苛め倒した挙句、王子に断罪された悪魔のような女だ――ってね」


 余りの言われように、エーデルの口から笑みが漏れる。だが、『そうなるべく』行動したのだから仕方ない。


「まあ、そういう風評を受けるのは当然ですわ。……でも、ならば何故、わたくしをこの家に置く事をお許しになったのですか?」


「あたしも旦那も、そんな奴の面倒なんて見れるかって怒ったんだけどね。あの子――サーシャが言ったのさ。『エーデルワイス様は、とても良い方です』って。……だからあたしは、初めて会った貴族より、うちの子の言葉を信じようと思ったんだよ」


 エーデルは改めて、深々と首を垂れた。


「信じて頂き、ありがとうございます」


 サーシャの家にエーデルを送ったのは、他ならぬサーシャ自身の案だったようだ。彼女の真意がその言葉通りかは分からないが、少なくともその判断は最善だろうと思った。それはエーデルにとっても、そしてサーシャにとっても。


「あの人だって、分かってるんだよ。でも貴族に言われた事も否定できない。だって現に、王子から貴族の身分を剥奪されたってんだからね。割り切れないってのは、そういう意味さ。……まあ、一緒に暮らしてくうちに、どうにかなるだろ! あ、ほらほら、シチューが冷める前に食べちゃいなよ!」


 再びシチューを口に運びながら、エーデルはサーシャを羨ましく思った。この家族には、サンドライト家には無いぬくもりがある。そのぬくもりを全身に浴びて育つ――それはエーデルが、決して手に入れられなかった幸福だった。


 食事を終えたエーデルを、オルガは二階の部屋へ案内した。


「サーシャが使ってた部屋だから、荷物とかそのまんまだけど勘弁しとくれ。他に部屋も空いてないし」


「ええ、十分過ぎる待遇ですわ」


 オルフェリオス王子との婚約が公になったサーシャは、既に王宮で暮らす事になったそうだ。身分はまだ平民のままだが、いずれ行われる結婚式の前に、王族としての暮らしに慣れておくべきという王子の計らいらしい。


「まさかあの子が、王族になっちまうとはね。これ以上の幸福はないとか周りは言うけど、親としちゃ少し寂しいね……」


「あら。お二人も望めば王宮で暮らせますわよ? 王妃の親族になるのですもの」


 エーデルの言葉に、オルガはぶんぶんと手を振った。


「よしとくれよ、王宮で貴族の真似事なんて、柄じゃないさね。あたしもあの人も、この街で生まれたんだ。ここを離れる気はさらさら無いよ。それに――」


 サーシャが使っていたであろう古びた机に手を置き、エルガは言った。


「あたし達まで離れたら、ここを捨てなきゃならない。あの子との思い出が詰まった、この場所をね。それは、嫌なのさ」


 言いながら、机を優しく撫でる。きっとこの机にも、母娘の思い出が溢れているのだろう。


「あっ――と。もういい加減寝なきゃいけないね。明日も早いんだから」


 オルガはエーデルの肩を叩き、親指を立てた。


「明日からは、あんたにも働いてもらうよ。働かなざる者食うべからず、ってね。うちは食堂やってんだ。今日は定休日だから静かだけど、明日からはたっぷり仕事があるから、覚悟しときなよ」


「ええ、覚悟しておきますわ」


 そして、二人は互いに笑い合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る