森の都

増田朋美

森の都

その日も暑い日だった。でも、雨が降っていたせいか、昨日のような焼けるような暑さではないね、と道歩く人は、よく言っていた。もしかしたら、このくらい涼しい日が、普通の日ではなくなってしまうのかもしれない。それでは、困るというか、影響は、変なところに出る。

その日、浜島咲は、いつもどおり、下村苑子さんのお琴教室で、尺八代わりにフルートを吹く仕事をやっていた。今日も、お教室には、何人かお弟子さんが来た。そのうちの、まだ、入門して間もない若い女性のお弟子さんが、今日は新しい曲を持ってくる日であった。

「こんにちは。苑子先生。今日は新しい曲を持ってまいりました。希望する曲は、野村正峰の森の都です。」

そう言って、お弟子さんは、楽譜の表紙を見せた。咲は、お琴の譜面なんて、どれくらいの難易度があるのか、よくわからなかったけど、

「あら、いい感じの曲じゃないかしら。森の都なんて、今の季節にピッタリの、爽やかな曲じゃないですか。それでは、すぐに、尺八譜を五線譜にして、練習を始めましょう。」

なんて言ってしまった。お弟子さんは、とてもうれしそうであったが、苑子さんは楽譜の表紙を見るやいなや、

「いいえうちではやりません!こんな曲をうちで取り上げたら、古典筝曲のメンツがなくなります。そんな型破りな曲をうちでとりあげることはできませんよ!こんなものを持ってくるんだったら、四季の眺めとか、そういうものを、持ってきなさい!」

というのであった。それを見て咲は、なんでまたそんな事を言うんだろという顔をした。お弟子さんは、がっかりした顔をしている。

「どうしてそうなっちゃうんですか。いいじゃないですか、こういう型破りな作曲家の作品をうちで取り上げても。もうだって、いつもいつも古典ばかりでは、今度の演奏会だって、つまらないものに、なってしまいますよね。他の社中では、クラシックの作品をやっているとか、そういうこともあるそうじゃないですか。それなら、うちもやりましょうよ。型破りとか、古典筝曲がどうのとか、そういう事にこだわらないで、杜の都やりましょうよ!」

咲は苑子さんにそういうのであるが、

「他の社中ってどこよ。名前をいいなさい!」

と、苑子さんは言った。

「それは、、、。」

咲が、ちょっと口ごもると、

「そういうことを、言うのであれば、あなた、その社中のことをちゃんと説明できるでしょう。それもできないんだったら、根拠のない噂です。それを信じて、こういう作曲家の作品をやったら、古典筝曲の面目丸つぶれです。いいですか、古典筝曲は、このような、くだらない作品の何十倍も価値があるんです。それを無視して、こんな作品をやるわけには行きません!」

苑子さんは、演説する見たいにそういうことを言った。

「そうかも知れないですけど、でも、一つか2つくらい、現代筝曲をやってもいいと思うんですけどね。いつも六段の調と、小督の曲では、つまらないと言われても仕方ありませんよ。」

咲は、大きなため息をついた。

「浜島さん。あなた、私の何?ただの手伝いにんでしょ。一応、この社中の最高責任者は私であるわけだから、私の言うことを聞いてもらいます。」

日本の伝統文化に携わる人は、時々、こういう風に、強い権力を示すことがある。それは、どこの分野でも必ずある。まあ、西洋人は、そういう様を見て、日本の師匠さんは、すごい不条理を平気でするなと驚くことがある。それで、西洋の評論家は、日本の音楽界は、とてもおかしなところがあると、論文をたくさん書いて、日本文化は悪いと紹介するのである。だから、苑子さんのような人が、西洋文化を極端に嫌うのも、ある意味仕方ない。

今日も、嫌な思いをしたなと考えながら、咲は、お琴教室を出た。全く、こういうことで、なんで叱られなければならないんだろうと思ってしまうほど、お琴教室は、不自由な事ばっかりだ。なんでこんなに、好きな曲とか、やりたい曲とか、そういうものを、やらせて貰えないんだろう。特に山田流というのはその傾向が強い気がする。山田流の最大のライバルである、生田流とか言うところは、なんでも好きな曲をやらせてくれるようになっているらしい。もちろん、古典もやるんだけれど、生田流では、新しい曲がどんどん書かれており、動画サイトにも、たくさん紹介されている。咲もたまにそれを聞くことがあるが、すごく、かっこいいと思われる筝曲は、たくさんある。ああ、やってみたいなと思われる曲もたくさんあり、それを聞くたびに、うちではやれないんだなと、落ち込んでしまうことがある。

咲は、いつも自宅へ送ってくれるバスには乗らず、かぐやの湯へ向かってくれるバスに乗った。それで、富士山エコトピアの近くにある停留所で降りる。そしてしばらく田舎道だなと思われる、くねくね曲がった道路を歩いて、製鉄所にたどり着いた。

ちょうど、製鉄所では夕飯の時間帯で、杉ちゃんが水穂さんに、晩ごはんのパスタを食べさせようと、躍起になっているところだった。水穂さんにご飯を食べさせるのは、結構難しいものであった。一生懸命、栄養の話しとかして聞かさないと、水穂さんは、食べてくれないからだ。どうして、こんなに、食べようとさせるだけで、苦労してしまうのだろうか。杉ちゃんも、やれやれと頭を振るのであった。

「全く。こんなにご飯を食べさせることで苦労するなんて、これから先、本格的な夏になったらどうするんだ。食べないと、夏を乗り切るのは、難しいよ。」

杉ちゃんがそう言うと、玄関先から、

「こんにちは。」

と、ちょっと疲れた感じの女性の声が聞こえてきた。

「あれ、今頃誰だろう?」

杉ちゃんがそう言うと、

「杉ちゃん私よ。浜島咲よ。」

と言いながら、四畳半にやってきたのは、紛れもなく、浜島咲であった。

「ああ、はまじさんか。今日は一体どうしたの?僕らはご覧の通り、水穂さんにご飯を食べさせることで、すごい大変なんだ。全く、ご飯を食べさせることで、なんでこんなに、苦労しなくちゃならないんだろうね。困っちゃうなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうねえ。あたしたちは、いつも同じことで苦労しているわね。あたしは、曲選びのことで、杉ちゃんは、こうして右城くんにご飯を食べさせることで苦労してる。」

咲は、はあとため息を着いた。

「はあ、またはまじさんも、苑子さんに叱られたのか。」

と、杉ちゃんが言う。

「ええ。正しく。全く私は、苑子さんに対して、ただの助手ね。それ以外でもなんでもない。でも、お弟子さんのやりたい曲をやらせてほしいと思うのは、そんなにいけないことかしら?」

咲は、ちょっとヤケクソになるように言った。

「まあそうかも知れないけどね。日本の伝統芸能は、ゆるすということをあまり使わないからな。それに、変な権力意識のあるやつが多いから、はまじさんも、いい迷惑かかっているだろう。中には、鬱になったりするやつもいるからな。まあ、気長に付き合うしか無いよねえ。」

杉ちゃんが、咲の話にそう口を合わせた。

「そうなのよそうなのよ!あたしは、苑子さんにとってただの付属品みたいなものかあ。あたしだって、お弟子さんの気持ちになって、お教室を手伝っていたと思っていたんだけどなあ。着物だって、訳のわからない着付けの仕方だって、見様見真似で覚えたのよ。そんなふうに苦労して苑子さんに手伝ってたのに、あたしは、ただの付属品でしか無いんだわあ。」

「浜島さんも苦労していますね。生きることは何でも幸せにハッピーに生きるという事では無いですよね。」

と、水穂さんが、小さな声で言った。

「そうなのよね。まあ、それが人生かもしれないけどさあ。苑子さんが私の事を、ただの付属品でしかなかったということがショックだわ。私、そんな存在だったのかあ。あーあ、私は、なんで、人生ついてないのかなあ。もうやんなっちゃう。右城くんは恵まれているわよ。洋楽は、家元制度も無いし、すごい権力者がいるわけでも無いし、なんでも本人の意思で曲選びだってできるしい。」

咲は、悪酔いしたような感じで言った。

「まあまあはまじさん。そういうことを言うんだったら、逆の手を使うことも考えることもできるんじゃないか?それは、偉いやつが、自由にしてやるといえば、苑子さんだって、そいつには逆らえないだろう。それで、問題の曲のタイトルは何なの?」

「野村正峰の森の都よ!」

杉ちゃんにそう言われて、咲は、すぐに答えた。

「わかった。じゃあ、筝曲界で、すごい影響力を持っている人物に、森の都をやってもいいっていって貰えれば、解決できるということだろ。じゃあ、そうしよう。よし、それでは、あの人に聞いてみよう!」

杉ちゃんがそう言うので、水穂さんが、

「杉ちゃんあの人って誰なの?」

と聞くと、

「花村さんだよ!あの人であれば、ある程度影響力があるんじゃないか。よし、こうなったら、直談判しよう。そういう権力のある人を使って、苑子さんを動かせば、お前さんの苦労も少しは楽になるだろう!」

と、杉ちゃんは言った。すぐに決断してしまう杉ちゃんに、水穂さんは、そんな無茶は辞めてと言ったが、杉ちゃんの強い意思は、絶対に変えられないということでもある。

「よし、花村さんのお宅は、どこにあったっけ?すぐ行ってこようぜ。」

「でも、もう終バスもなくなってしまうし。岩本のバスは、本数が少ないんだし。」

水穂さんがそういうと、

「いや、タクシーという手がある。こっちだっていつまでものうのうとしていたら、森の都をやることはできなくなっちまうよ。すぐに、バスを探して、岩本野花村さんの家に行ってみようぜ!」

と杉ちゃんは出かける支度を始めてしまった。咲も、咲でやけになっていたものだから、

「よし、あたしも杉ちゃんと一緒に行くわ。もう、あたしは、苑子さんのただの付属品から卒業したいから!」

と、杉ちゃんのあとをついていった。

杉ちゃんと咲は、エコトピア近くのバス停に行き、バスを調べてみたが、水穂さんが行った通り、バスは本数が少なすぎた。なので、咲が呼び出したタクシーで、花村家に向かった。花村さんの家は、本当に小さな小さな家で、これで、山田流筝曲をになっている人物が住んでいるのだろうかというくらい小さな家だった。ただ、玄関のドアに、花村お琴教室と書いてある張り紙がしてあるだけであった。杉ちゃんは、タクシーを降りて、その玄関のドアを急いで叩く。

すると、出てきたのは、花村さんのお手伝いさんである、秋川さんだった。杉ちゃんが、花村先生と話をさせてくださいというと、先生はお稽古中だという。

「じゃあ、終わるまで待たせてもらうぜ。暑いからさ、中に入らせてくれ。」

と、杉ちゃんは、どんどん、玄関の中に入ってしまった。咲も、申し訳ない顔をして、お邪魔しますと言って一緒に入ってしまった。確かに、お稽古中らしく、二面の琴の音が聞こえてくるのである。その曲は、なんだか、古典筝曲からかけ離れたもので、どこか西洋のホ長調に近いような調性がある、西洋音楽のような曲である。

「森の都だ!」

杉ちゃんがでかい声で言った。そんな馬鹿なという響きがあった。でも、咲にも、この曲は、どこか西洋音楽に近いものがあって、とても古典筝曲というものではないということもすぐわかった。

「野村正峰の代表曲だ!」

それと同時に演奏が止まった。

「なんですか。そんなに興奮するようなことでも無いんじゃありませんか。お稽古の邪魔をしないでくださいよ。」

と、秋川さんが二人を制するが、

「杉ちゃん、そんなに、珍しいことですか?大声で叫ばれるから、びっくりしてしまいました。」

と、奥の部屋から、爪を付けたままの花村さんが現れた。咲はすぐに、花村先生と頭を下げた。

「ああ、珍しいことだ。この、はまじさんの師匠の下村苑子さんは、森の都をやろうと提案されても、激怒したそうだぞ!」

杉ちゃんが、花村さんに言うと、

「そうですか。それほど怒るようなことではありませんよ。私達のところでは、洋楽に近い雰囲気があって親しみやすいとして、評判なんですよ。」

そういう花村さんに、咲は開いた口が塞がらなかった。

「じゃあ、花村さん悪いけどさ。森の都を録音して、ネットにでも流してくれ。そうすれば、はまじさんの師匠さんだって、納得してくれるら。それで、はまじさんたちが曲選びに苦労しないように取り計らってくれ。だって邦楽の世界は、権力者がそうしろって言えば、一斉に、方向転換できる社会だよな。まあ、封建社会とか、変な批判もあるけどさ。とにかく、苑子さんが、古い曲にこだわらなくてもいい様に。この通り、よろしく頼む!」

杉ちゃんは、花村さんに頭を下げるのであった。咲も、こうしなければならないと、杉ちゃんに続いて頭を下げる。

「ネットに流すのを待っているなんて、悠長なことは言っていられません。このままだと、下村先生の、頑固すぎる態度のせいで、あたしたちは、お弟子さんがどんどん逃げてしまう事になって、大変なことになってしまいます。先生、一度だけでいいですから、森の都を録音させてもらうというわけには参りませんでしょうか!お願いします。あたしたちを助けるためだと思って、先生の演奏を使用させてもらえませんか!」

「全くだ。なんで、日本の筝曲というのは、こうして何もかも中途半端なんだろう。頑なに、伝統伝統って、変な制度にしがみついているやつもいれば、全く新しい、まあ沢井忠夫みたいに、有害な奏法まで使って、新しい曲へ持っていこうとするやつもいる。どっちも、成就できてないじゃないかよ。前者は、需要がなくて、後者は、足を引っ張るやつがいて。日本の筝曲は、ホント、何もかも中途半端なんだ!」

「お話はわかりました。では、おふたりとも、こちらにいらしてください。」

花村さんは、杉ちゃんと咲の訴えを聞いて、部屋に入るように言った。

「じゃあ、一度だけですよ。一度だけ、複製を許可します。ただし、ネットに上げるということは、ご勘弁ください。」

「どうして!」

と、杉ちゃんが言うと、花村さんは苦笑いを浮かべて、

「いいえ、私も、こう見えても、生田流のひとや、他の山田流の人に、色々言われるんです。花村一門が解党した理由を、しつこいくらい聞かれて、堪えるのが大変なんです。杉ちゃんの言うとおりですよ。結局、今の社会では、邦楽はどちらの方向にも行くことはできませんね。」

と言った。咲は、そのあたりをもっと、ちゃんと話してくれればいいのになと思った。そういうトップを走っている人でさえも、邦楽を維持していくのは大変なのだ。花村さんだって悪いわけじゃないけど、そういうことがあるんだと思う。

花村さんは、お琴の前に座った。確かに譜面台に置いてあるのは、森の都と書かれた楽譜だった。表紙も、咲のお弟子さんが持っていたものと同じものである。きっと花村さんのような人であれば、楽譜の入手だって簡単にできてしまうに違いない。咲は、そういうところが、邦楽は、ちょっとむずかしいなと思われる所だと思った。

「じゃあ、録音媒体は、浜島さんが用意してくださいね。」

花村さんに言われて、咲はすぐにスマートフォンの録音アプリを立ち上げ、録音ボタンを押した。花村さんはお琴を弾き始めた。夏山調子。西洋音楽で言うところのホ長調に近い物があり、わかりやすいと言うのも納得できる。もしこれが日本で伝統的に使われている調弦法なのであれば、西洋音楽と、こういう共通点があるというふうに持っていけばいいのに。なんでそういうことをしないのだろうか。

森の都は、14分くらいの演奏時間を有する大曲だったが、花村さんはそれを涼しい顔で弾きこなした。それはやっぱり、花村さんならではであった。花村さんが、琴から爪を離すと、咲は、急いで録音アプリを止めた。

「ありがとうございました!」

咲は、もう一度頭を下げる。

「いやあ、見事な演奏だねえ。そういう演奏を偉いやつばっかりじゃなくて、一般庶民にも、伝えられるやつが入れば、またかわってくると思うけどね。」

杉ちゃんの言うことも一利あった。

「いいえ、それにしても、下村さんの頑固ぶりも相当なものですね。まあ、彼女のような、古典を愛する人は、そうなってしまうのかもしれない。他の楽器でもそういうことは、多かれ少なかれあるんじゃないかと思います。」

そうにこやかに笑っている花村さんは、どこか遠くで二人のすることを、眺めているような節があったが、でも、それも、お琴業界では当たり前なのかもしれなかった。

「ありがとうございます。あたし、先生の演奏を大事にしますから、本当にありがとうございました!」

咲は、花村さんに何回も頭を下げて、これで、明日は、新しいお弟子さんも救えると思った。その日は、もう終バスも終わってしまっていたので、花村さんが、用意してくれたタクシーで自宅へ帰った。

「それにしても、はまじさんも大変だねえ。」

タクシーの中で、杉ちゃんにそう言われて咲はやっと、自分のことを褒めてもらえたような気がした。

「まあ、お琴教室ってのは、なかなか感謝のかの字も言い表せないようなところでもあると思うが、苑子さんはまじさんに感謝していると思うよ。」

「そうね。ありがとう。褒め言葉と受け取っておくわ。」

咲は、はあと小さくため息を着いた。

「いずれにしても、邦楽の世界は、人の目ばかりを気にするね。」

杉ちゃんに言われて、咲は先程の花村さんの態度もそうだなと思った。日本の文化というのは、常に誰かから見られているということをとても気にする。そして、悪いところをできるだけ隠して、できるだけいいところを見せようとする。それは、果たして、いいことなのだろうか?

「まあね。きっとそれは、よりお客さんに楽しんでもらいたいという気持ちがあるからじゃないかしらね。」

とりあえず咲は、憶測でそう言ってみたが、果たしてこの言葉の真偽はどうなのか。よくわからなかった。



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森の都 増田朋美 @masubuchi4996

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