西から来る嵐④


 ◇


 ……ハワードには勇ましく宣言したものの……。


 気が重くてあまり眠れなかったオリビアは、明け方に庭園に出た。


 さすがにこんなに早くから庭を歩いている客はいない。朝露に濡れた生垣の間を通り、なるべく客室側から離れるように遠くへ足を運んだ。ヴォート城の南側には森があるが、そちら側は余所の土地だ。ヴォート城所有の土地ではないため、勝手に入らないようにと立て看板を置いてある。敷地の最南端まできてしまったオリビアは柵にそってぶらぶらと歩いた。適当なところで小路に入る。白いシャクヤクの花が咲いた茂みを通り抜け、花を楽しみながら心を落ち着かせた。


 白み始めた空。

 夜が明ける薄明の時間だ。



『アソンデ』



 ふいに声を掛けられたオリビアはびっくりした。


 声がした方を振り返っても誰もいない。


『遊んで』


 今度こそぎょっとした。


 いつの間にかオリビアの正面に子どもが立っていた。


 五、六歳くらいの少年だ。


 オリビアのスカートの裾を捕まれる。


 ああ、霊だ。


 本能的にオリビアはわかってしまった。


 少年の姿はピントの合わない像のようにブレ、じわじわ、ぞわぞわと、名前のない感覚がオリビアを襲う。得体の知れない何かに対峙したときに人間の第六感がよく働くように、ゆっくりと恐怖がオリビアの心を浸した。


「……あ、遊ばない」


『遊んで。遊んで』


 ぐいぐいとスカートを掴む力は意外にも強い。


(霊なのに)


 どうしてオリビアのスカートを掴めるの。


(それにこの子の顔……、知っている気がする)


 古城ホテル内のどこかで見かけたのだろうか? それとも、別の場所で?


 なぜかこんな時に限って、朝早くから作業しているはずの庭師は現れず、新聞や食品の配達もまだで、ホテルのどの部屋もカーテンがぴっちりと閉まっている。エスメラルダ三世も他の霊もいない。


(誰か)


 オリビアはお守りのようにつけていた腕輪に触れた。


 モンド夫妻とのトラブルの時にルイスから貰い、なんとなくそのまま嵌め続けていたのは、心の中でルイスを頼り続けていたからだろう。


 精霊がルイスを呼びに行ってくれないかという期待を込めてぎゅっと手首を握る。


『ねえ。遊んで。遊んで。僕と遊んでよ』


「離して」


『寂しいんだ。遊びたいよ。遊びたいよ』


 ぎゅうぎゅうと引っ張られる。


 さまよえる魂をかわいそうだと思うよりも、恐怖心の方が大きかった。


 少年の周りには黒い靄が漂っている。


 おそらくは若い霊なのだろう。


 エスメラルダ三世や城に住み着いている霊たちは、長い時を霊体で過ごしているせいか、『憑き物が落ちている』状態なのだ。お客様が連れてくる霊たちはまだこの世への執着が強く、不安定なエネルギーを強く感じる。


 過去、女性の生霊を大勢引き連れてお泊りになった富豪の男性の周囲は常におどろおどろしい黒い渦が取り巻き、ご本人も大変気分が悪そうだった。当然、オリビアも負のオーラで気分が悪くなった。……あの時の感覚に似ている。


 少年の手がスカートではなく腕に直接触れる。


 すると、パン! という光の膜のようなものが子どもの手をはじき返してしまった。


 なぜ? もしかしてルイスのかけたおまじないの効力?


『……ひどい』


 少年は涙をいっぱいに溜めた目でオリビアを睨んだ。


 突風が吹き、身体が傾ぐ。


 いつもの庭園なのに、暗く深い穴に引きずり落されそうな気分にさせられる。


 オリビアの世界は反転し、意識を失った。






(……あれ? わたし……)


 風が頬を撫でていく。


 真っ暗闇に引きずり落されたような気分になったが、瞼を開けると、重なった木の葉と木漏れ日が見える。蝶のようにひらひらと揺らめく精霊の姿もあった、


 ぼんやりとした世界の中、オリビアを覗き込んだのは……。


「気が付いたか」


「ルイス、さん……」


 美しい紫色の瞳がオリビアを見ていた。


 助けに来てくれたのだと身体からどっと力が抜けた、


 しかし、もぞ、と枕が動いたことでハッとする。この体勢。枕にしては落ち着かないと思ったのだが、まさか、今オリビアが寝かされているのは、ルイスの膝の上なんじゃ――


「◎▽×◇※……⁉」


 泡を食って飛び起きようとしたオリビアだが、身体が上手く動かなかった。腹筋をしようとして失敗をした人のようにへろへろと倒れこみ、ルイスの膝から転がり落ちてしまう。


「少し待ちなさい。影留めの指輪のせいで身体が少し重く感じるんだ」


(影留め……?)


 ルイスがオリビアの手から金の指輪を抜き取った。


 こんな指輪を嵌めた覚えはないからルイスが付けたのだろうか。外されたとたんに身体がすーっと楽になる。


 なんだその精霊師の七つ道具みたいな不思議アイテムは。


 っていうか、そういうのよ。ルイスに求めていたのは「霊との対話が大切です」というような訓話ではなく、一撃で霊が追い払える魔具とか、とりつかれた身体を楽にする薬とか、そういうのを授けて欲しかったのよ。


「今、はじめてルイスさんを精霊師っぽいと思いました」


「『精霊師っぽい』ではなく、れっきとした精霊師だからな。急に身体を起こさない方がいい。しばらくはそのまま寝ていなさい」


「でも……。今、何時ですか?」


「朝の七時前だ。おそらく、きみが気を失ってからそこまで時間は経っていない」


「……まだ七時……」


 少年とのやりとりは五分にも十分にも感じられたが、実際はそこまで時間は経っていなかったのだろうか。何があったんだ? と尋ねるルイスに事のあらましを説明した。


「少年の霊?」


「はい」


「……このホテルでは見かけていない霊だな? 長く留まっているものならエスメラルダ三世にも確認をとればわかるだろうが」


「あ……ですよね。わたしも見たことがないと思っていて」


 こういうとき、情報を共有できる存在がいるのはありがたいかもしれないと思った。


 ルイスと出会う前なら誰にも相談できずに一人でもやもやとして怯えていただろう。


 今もまだ恐ろしさが残っていて、オリビアの指先は震えていた。


「俺を呼んでくれたんだな」


「へ?」


「腕輪に触れただろう。精霊たちが知らせにきてくれた」


 やはり、ルイスを呼んできてくれたのは精霊たちらしい。


「……すみませんでした。朝早くから叩き起こしてしまって。夜明け前も来てくれたばかりだっていうのに」


「別に構わない。何せ俺は古城ホテル心霊対策本部の特別相談役だからな。……それに、これくらいしか役に立てることがないから」


「そ、そんなこと、ないですよ」


 珍しく自嘲気味なルイスのセリフに戸惑う。


「いいんだ。わかっている。どうせ俺は社会に適合しないはみ出し者で、霊くらいしか喋り相手のいない孤独で根暗な男なんだ」


「急なネガティブ思考! どうしたんですか」


「いや……。ホテルで生き生きと働くきみを見てわが身を顧みたまでさ。……どうだ? もう身体は動くんじゃないか?」


 言われて身体を起こすと、もうだるさや不調は感じなかった。震えも収まっている。


「すごい。さっきの指輪の力ですか?」


「ああ。俺の師匠が持っていたものだ。役に立って良かった」


 師匠――ゴドウィン・ラインフェルト氏か。


 あれこれ聞いてみたい気持ちはあったが、踏み込みすぎてまたごーでんパーティーの時のようにシャットアウトされては困る。オリビアは注意深く尋ねた。


「ルイスさんのお師匠さんってどんな人だったんですか?」


「師匠は……変わった人だったよ」


「ルイスさんよりもですか?」


「どういう意味だろうか。……とてもやさしい人で、人でも霊でも、誰にでも手を差し伸べる人だったよ。俺は子どものころからいたから。霊たちと対話をしたり、感情に引きずられないようにする術は師匠から学んだんだ。もっとも、生活能力はあまりなかったけれど……」


「ル、ルイスさんよりも……?」


「さっきから微妙に貶められているように感じるのは気のせいだろうか。掃除も洗濯も料理も苦手な人だったよ。目が見えなかったからな」


 盲目だったと言われたオリビアは驚いた。


 ルイスは微笑む。


「だから、あの人はどんなに見た目がおぞましい霊にも、傷ついた人間にも優しく接することができていたんだ。魂の本質を見ていた。本当に心が綺麗で、精霊たちから好かれて当然の人だよ」


「ルイスさんは……、お師匠様のことが本当に好きだったんですね」


「ああ、とても尊敬していた」


 優しく笑いつつも、ルイスの目はどこか悲しそうだった。


「死んでしまったとき、幽霊でもいいから側にいて欲しいとどんなに思ったことか」


「…………」

 その言葉に胸が詰まった。


 オリビアも、祖父が死んでしまったとき、お化けでもいいから側にいて欲しいと願った。


 霊は怖い。

 見たくない。


 でも、祖父の霊なら……。守護神みたいにオリビアの側にいてくれたら。困ったとき、迷ったときに支えてくれたらとどれほど願ったことか。


「いつまでもこの世に留まり続けていては輪廻転生できない。だから、すぐにあの世に旅立ってくれて良かったはずなのに、いざ置いて行かれるとやはり寂しいな」


「留まって欲しいと思うのは、生きているわたしたちのワガママなんでしょうね」


「そうだな」


 ルイスは寂しそうな笑顔を浮かべて頷いた。

 会いたいと願っている人は側に留まってくれない。


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