西から来る嵐③
(おかあ、さん)
そういえば、母はこんなような顔や声だったような気もする。
もはや記憶も朧気だ。
オリビアが覚えている母の姿は、
『近寄らないで! 気味が悪いッ!』
怒鳴ってオリビアを追い払ったり、
『もう嫌……、やめて、やめてちょうだい……』
ポルターガイストばかり起こる部屋で泣きながらオリビアに懇願する姿だ。
祖父のお葬式にもこなかった。
実の娘なのに。
葬列にいたオリビアの中では、咎める気持ちと、会わずに済んだという安堵とがごちゃ混ぜになっていたのを覚えている。
その母が今さらやってきてオリビアに会わせろと言っている。
「オリビア・クライスラー嬢でしたら確かに当ホテルで働いております。しかし、彼女は勤務明けで既に就寝中です。もしも火急の用でなければ、日が昇ってから改めてお席を設けましょう」
「親が子どもに会いに来たというのに、なぜすぐに会わせてくれないの? たかが支配人にそんな権利はないでしょう」
「私は、ジョージ・クライスラー氏が亡くなる前にオリビア嬢の後見人になるように頼まれております。オリビア嬢はジョージ氏と養子縁組もしておりますし、後見人に指名された私は実質彼女の親代わりなのです。必要とあらば弁護士の書面もございます」
会いたくない、と息を殺していたオリビアは、ハワードが「親代わりだ」と言ってくれたことに涙が出そうになった。
この十年近く会いに来ることもなかったくせに。
親だなんて名乗らないで。
それに……。
母の周囲には黒い靄のようなものが停滞していた。
(あれは何?)
死霊や精霊のようにきっと常人には見えない何かだろうが、オリビアにはそれが禍々しく、悪いもののように見える。
当然、ハワードにも見えていないだろうが、連絡もなしに突然やってきた親が娘に会わせろと言うなんて、良くない用件だと感じ取ったのかもしれない。
「見たところ随分お疲れのようです。よろしければ空いているお部屋にご案内いたしますが、いかがなさいましょう」
「……お金を払う必要はないわよね? 私は今すぐ娘に会わせろと言ったのに、あなたが明日にしろと言うんだもの」
「もちろんでございます」
ホテルマンらしい完璧な礼と共にハワードは母を案内した。
見たところ、母はハンドバッグひとつしか持ってきていないようだったが、このホテルはアメニティも充実しているため、一晩くらいなら問題なく過ごせるはずだ。
いや、それよりも。
(明日……。明日、話さないといけないのか。お父さんはどうしたんだろう。お母さんはなんで一人できたの? ハワードには迷惑をかけてしまったな……)
胃の奥がずうんと重くなる。
オリビアは眠っているという設定なのだから、さっさと部屋に引っ込んでおかないと、会わせないように気を遣ってくれたハワードに申し訳ない。だが、憂鬱で足が動かず、しゃがみこんだままでぼうっとしてしまう。
ふよ、と光の玉が飛んできた。
そして、その後を追いかけてきたかのようにルイスまで現れる。
「ここにいたのか」
「ルイスさん? ……何か、ありましたか?」
「いや。きみが落ち込んでいる気配がするなと思って……。精霊に案内してもらったんだ」
「落ち込んでいる……気配?」
なんだそれは、とちょっとおかしくて笑った。
ルイスがくれた腕輪はずっと嵌めているから、きっと精霊がルイスの元に
多分ルイスは――この前、オリビアに冷たく当たったことを気にしている。だから、罪滅ぼしじゃないけれど、少しだけ優しくしてくれているのだろう。
オリビアはなんてことのない顔で立ち上がると吹き抜けから離れた。
あまり大きな声で話すと、エントランスホールに筒抜けになってしまう。
「母が訪ねて来たんです。霊が見えるわたしのことを嫌がって、絶縁状態だったんですけど……。今さら何しに来たんだろう」
「きみの母は今どこに?」
「ハワードが空いている客室に案内しました。……そうだ、あの、ルイスさん。母の周りになにか黒いものがまとわりついていたんです。いったい何なんでしょうか?」
ルイスなら何かわかるかもしれないと思って尋ねる。
「残留思念ではないか? 人にとり憑く霊の姿なら、きみも散々見てきただろうが……、ああいった人型を取れるのは強い思念を持つ霊なのではないかと考えている」
「じゃあ、母には何かしらの弱い霊が取り憑いているということですか?」
「負の感情を抱えたものは取り憑かれやすいと言われている」
「負の感情……」
オリビアの記憶の中の母は、大抵怒っていたり嘆いていたり……。まさしく負の感情を抱えていた。過去を思い出すとオリビアの表情も曇ってしまう。
「……ふむ」
とん、とオリビアの額に人差し指を置いたルイスは何事かを短く呟いた。
そして額にちゅっと口付けられる。
「へあ⁉」
「守護のまじないをきみにかけておいた」
「まっ、まじないっ⁉」
突然のことに間抜けな顔をして額を押さえ込んでしまう。
「きみはそういった悪いものまで引き寄せやすそうだから……。どうした? 真っ赤だぞ?」
そしてルイスは、なんの下心もなさそうな顔で不思議そうにオリビアを見ている。
(この人って本当……こういう人よね! 年頃の女子相手にしれっとキスしてもなんとも思わない人なのよ……!)
男性とキスどころか、親から子へのおやすみのチューすら経験のないオリビアは真っ赤になって震えてしまう。ルイスは意識すらしていないというのに、うろたえちゃだめよ、オリビア! と自分を叱咤した。
「あ、ありがとうございます?」
「顔色も戻ったようだな。青くなったり赤くなったりしていたが、今はちょうど良い肌色だ」
「ちょうど良い肌色なんて表現、生まれて初めて聞きましたが」
「きみは元気にしているほうが可愛らしくて良いという意味の誉め言葉のつもりだったんだが。うまく伝えるのは難しいな」
「かわ……」
普段は斜め上の言動でオリビアを振り回すくせに、不覚にも変な誉め言葉でときめいてしまった。母の襲来で情緒がめちゃめちゃになっているせいもある。
(いやいや。これがルイスさんの作戦かも。ホテル乗っ取りを目論んでわたしに優しくしているのでは?)
トニーに気を付けるように注意されたばかりではないか。
もう元気になったので大丈夫だとルイスに告げ、オリビアはその場から逃げ出した。
ルイスと別れたオリビアは支配人室でハワードを待った。
やがて、疲れた顔をしたハワードが帰ってくる。
「ハワード」
「その様子だと、きみの母親が訪ねてきたことはもう知っているんですね」
「ええ。……ごめんなさい。気になって、二階から話を聞いていたの」
「……そうですか」
ハワード執務机ではなく、オリビアが座っている応接ソファの向かいに座った。
祖父が生きていた頃、支配人席には祖父が座り、ソファにはオリビアとハワードが座っていたことを思い出す。
お茶を淹れようかと尋ねたが首を振られてしまった。
「オリビア。きみはあと数か月もすれば十八歳。法律では成人になります。今は私が預かっているきみの財産――前支配人があなたに遺した遺産も、そのタイミングであなたに返そうと思います」
「ハワードが持っていてくれてもいいのよ。だってわたし、まだお嫁に行ったりしないし……」
「いいえ。あなたのものなのでお返しします」
ハワードはやんわりと、しかしきっぱりとした意志を持って拒絶した。
「そのお金はあなたがどう使おうと自由です。ですが、前支配人はあなたが広い世界を見ることを望んでおいででした。あなたは生まれ育った場所と、この古城ホテルの周辺のことしか知らない。ここに囚われず、自分の足で好きな道を選べるようにして欲しい、と」
「…………お母さんは、お金が欲しくて来たの?」
「ご用件はまだ伺っておりません」
でも、きっとそうだろうなあと思った。
お金くらいしかオリビアに会いに来る利点はない。
祖父の遺言状に
お金ならあげるから放っておいてと言って追い返したいと思っていたが、祖父がオリビアのためを思って遺しておいてくれたお金を渡してしまうのは……、祖父の気持ちも、オリビアを見守ってくれるハワードにも申し訳が立たないことなのだろう。
「母はどこの部屋に?」
「二階の真珠の間です」
「わかった。明日、わたしは午後勤だから……。朝のうちに尋ねるわ」
「気分が落ち着くお茶やアロマをお渡ししておきました。……すみません。お母上は気が立っているようにお見受けしましたので、今日のところはあなたに会わせない方が良いと判断したんですが」
オリビアも頷く。
父が危篤だ、とかならまだしも、母は手荷物も少なく、発作的に馬車に飛び乗ってやってきたような様相だった。
――時折そういったお客さんがいる。衝動的な家出や心中を考えて飛び出してきました、といった危うげなお客様は刺激しないように対応することになっていた。一泊すれば憑き物が落ちたように我に返ることが多い。
「私も立ち合いましょうか?」
ハワードは心配そうに尋ねてくれたが、オリビアは首を振る。
ハワードに甘えてばかりだ。
オリビアがこのホテルにいられるのも、自由な未来が選択できる立場にあるのはハワードがいてくれるおかげなのだから、頼ってばかりもいられない。
「大丈夫よ。何の用で来たのかわからないけれど、きちんと自分で対応するわ」
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