西から来る嵐①

◇◇◇


 ――ルイスから見た世界は、何枚にも重なったセロファンのようだった。


 生きている人間たちの層があり、死霊たちがさまよう層があり、精霊たちが飛び交う層があり、さらにはオーラや気といったもやもやとした何かが漂う層がある。


 大勢の人たちがすべての色が重なった一番上の層だけを歩いているのに、ルイスは歩くたびに赤、青、黄色の世界に足を踏み入れてしまうのだ。


 正面衝突しているのに気が付かない幽霊と人間。

 現実は太陽が出ているのに、夜を告げる精霊たち。


 頭の中がぐちゃぐちゃで、毎日気が狂いそうだった。


 捨て子として孤児院で育ったルイスはシスターたちからも「扱いが難しい子」として匙を投げられ、いつも物置小屋の隅で頭を抱えて過ごしていた。


 そんなある日、あの人がやってきた。


「こんにちは。きみがルイスくんだね」


 ルイスの知っている大人は、紳士はスーツやジャケット、労働者は作業着、シスターは修道服、と職業によって服装もカテゴライズされていた。


 しかし、ルイスの元に訪ねてきた大人は白っぽい貫頭衣のような物を着ており、ルイスの知るどの大人とも違う。髪や髭は短く刈られていて清潔感があるものの、達観した顔立ちは仙人のようだった。


 何よりもルイスが驚いたのは、彼の周りに多くの精霊がつきまとっていた。無垢な自然霊から悪意ある死霊まで、彼の周囲にはあらゆる霊魂が漂っていたのだ。……ルイスと同じように。


「ふむ。きみも霊にずいぶん好かれているんだね」


「あなたは誰」


「私はゴドウィン。西の森に住んでいる精霊師だよ」


「……精霊師」


 喋っているだけで吐きそうだった。


 ルイスとゴドウィンと名乗った男の周りには幾重にも重なった色の層が断面を覗かせているのだ。あらゆるものが見えすぎて気持ちが悪い。頭が痛くてくらくらする。


 そんなルイスの視界を、ゴドウィンは皺くちゃの手で遮った。


「お前たち、しばらくどこかへ行っていてくれるかい? きみたちもだ。寂しいなら私のところへおいで。この子は解放してあげてくれ」


 男が見えざる何かに語り掛けると、ルイスの身体はすうっと楽になった。


 憑き物が落ちるとはまさにこのことだ。ルイスは目をしばたたく。


「あなたは、魔法使い?」


「精霊師だよ。人ならざるものの声を聞くのが私の仕事なんだ。ずいぶんきみは霊を引き寄せてしまう体質のようだね」


「たいしつ……」


 なぜ、このような体質なのかルイスにもわからなかった。物心ついた時から世界はこんな調子だったのだ。


 座ったままでぎゅっと膝を抱えて呟く。


「もう嫌だ。どうして俺だけ変なものが見えるんだ。毎日気持ちが悪くてうるさくて耐えられない。辛い。辛くて、苦しい」


 死霊たちはルイスの耳元で恨み言を呟き続ける。

 だけど、どうしろっていうんだ。


 精霊たちは楽しげにルイスを遊びに誘う。

 だけど、他の子どもたちにはその姿は見えないんだ。


 過呼吸のようにしゃくりあげ、髪をかきむしるルイスの手をゴドウィンは優しく止めた。


「きみに守護のまじないをかけてあげよう」


 ルイスの額に口づけが落とされた。


 親から子へするような加護のキスだ。そんなキスをもらったのははじめてでびっくりしてしまう。

 シスターたちはルイスを気味悪がるばかりで、愛情を込めたキスなどされたことはない。


 そしてゴドウィンの口づけでルイスの心はほんの少し満たされた。

 心に余裕ができたと言っていい。強張っていた身体の力が抜ける。


 ひゅうひゅうと喉を鳴らすばかりだったルイスはようやくまともにゴドウィンと視線を合わせようとした。


(この人、目が――)


 白く濁った色彩にはルイスの姿は映っていない。


 ルイスの骸骨のようにやつれた顔も、食欲がわかなくて痩せていくばかりの身体も、切れ毛だらけの髪も彼には見えていないのだ。だから彼はルイスを見ても顔をしかめたりしない。縋っても振り払われたりしない。


「たすけて」


 呟いたその声に、ゴドウィンは優しく頷いた。


「助けるよ」


 幽世と現世で苦しむルイスにとって、彼の言葉は光だった。



「私がきみを助ける」



 ◇


 昨夜のディナーパーティーを楽しんだ宿泊客たちは、今日は静かなものだ。


 朝早くから庭を散歩するものはいなかったし、階下からはまだ物音は聞こえてこない。


 ルイスが窓を開けると、庭師がせっせと水やりや剪定をしているのが見えた。


 朝露でみずみずしく濡れた木々たち。昨夜はどの木も美しかった。


 ……昨夜、オリビアに誘われてディナーに参加した。


 驚くべきことに庭先にテーブルを出し、外で食事をとるという。各テーブルには虫よけの成分を練りこんでいるというアロマキャンドルが焚かれ、周囲はランプなどで照らされて仄明るくされている。


 なかでも面白かったのは、植物や木々のいたるところに鏡で作ったモチーフ飾りを吊り下げていたことだ。そよそよと風が吹くたびにモチーフが揺れ、ランプの明かりを反射して光る。


「見て、ママ。妖精が飛んでいるみたい」


 子どもの声にルイスもなるほどと思った。


 絵本の中に登場する妖精は草木の周りを飛び回っている。


 霊が見えない者たちの想像力を刺激する楽しい演出になっているようだ。もちろん、料理も凝っていて大変美味しく、素晴らしい夜だった。


 部屋に帰り際にオリビアにそう伝えると、彼女は誇らしげに笑った、


「今年の案はわたしが出したんです。『精霊のいる庭』というコンセプトなんですよ」


 そう言った彼女が、おもむろに尋ねる。


「――そういえば、おじいさまからの手紙って他にもお持ちですか?」


 ルイスは驚きを押し殺して瞬いた。「なぜ?」と尋ねると「生前に交流があったのかなって」。それから、言いにくそうに続ける。


「すみません。ルイスさんの部屋でおじいさまからの手紙を読み直していたら、前半部分を切ったような跡があって……。おじいさまが季節の挨拶も書かないのってちょっと不自然だなって気になっちゃったんです」


「きみには関係のない部分だから、切って家に置いてきたんだ」


 ルイスははっきりと答えた。


「俺とジョージ・クライスラー氏の個人的なやり取りは、このホテルに滞在するにあたって別に見せなくてもいいものだろう?」


「そ、……それは、その、……そうですね」


 思いがけず強い口調になり、オリビアは戸惑っているようだった。


 昨日のあの言い方は失敗したな。あんなふうに突っぱねた態度を取るべきではなかった。


 それにその前も――口を滑らせた。


 霊が見えることを知られたくない彼女が、必死に人間の社会に溶け込もうと振る舞っていることくらいわかっている。そして、彼女の生活は概ね成功しているのだ。


 仲の良い従業員ややりがいのある仕事に囲まれて生き生きしている彼女を妬ましいと思ったなんて。人間だと思っていたオリビアが、自分と違う場所にいることにいら立ちを覚えたなんて。


 ふう、とため息をついたルイスは、水差しの水を一杯飲んでから着替えるとフロントに降りる。エントランスでは従業員の男が爽やかな笑顔でルイスを迎えた。


「おはようございます、ラインフェルト様」


「おはよう」


「お散歩ですか? いってらっしゃいませ」


 毎朝の日課だ。ルイスは頷く。


 古城ホテルの庭園は今日も美しい。幾重にも重なっているセロファンの世界の一番上だけをルイスは慎重に歩く。


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