花と亡霊③
「目的地? ああ、そういえばポピーの……。全然違います。こっちは裏口です」
「裏には何があるんだ」
「畑です」
「ほう。畑」
「たいしたものじゃないんですけどね。すべての食事に使う野菜は到底まかないきれませんから……、サラダに使うチシャの葉やパセリ、ラディッシュ、ミニトマトなんかはありますよ」
城でとれた野菜を使用していると言うと宿泊客のウケもいい。
おいしくて新鮮な野菜を提供できるし、一石二鳥だ。
「向こうのビニールハウスは?」
「ハーブ園です。ハーブは繁殖力が強いので、他の庭園に種が飛んでいかないように隔離しています」
「どこかの国では、ミントを入れた水を聖水というらしいな。清涼感の強い匂いのするものを霊は嫌うと言い伝えられているらしい」
「えっ本当ですか。じゃあちょっと今からミント摘んできます」
「ん? ミントが嫌いなのは虫か? 違うな。ハッカだったかな」
「どっちですか。なんなんですか、もう」
曖昧なルイスの話に突っ込みを入れるとルイスは笑った。オリビアも力なく笑って――繋がれたままの手を離す。震えはもうすっかり止まっていた。
「……さっきはありがとうございました。助けてくれて」
「俺は何もしていないよ。でも――そうだね、次からはちゃんときみ自身の言葉で断りなさい」
あっさりしたルイスの言葉にオリビアは顔を強張らせる。
「い、嫌ですよ。あんな人……。断ったら絶対にまた怒るに決まってます。逆上して襲い掛かってきたらどうするんですか」
「襲い掛かられたとしてもすり抜けてしまうし」
「そういう問題じゃなくて! ポルターガイストでシャンデリアを落としてくるかもしれないじゃないですか! あと祟りとか! 取り憑かれちゃったりとか! 呪い殺されちゃったり!」
ルイスはおかしそうに笑う。
「きみは想像力豊かだな」
「笑い事じゃありません。さっき、あの霊だってそう言ってたしっ」
「大丈夫。そうなったら俺が助けるよ」
「簡単に言わないでください」
オリビアはむくれた。
一度はオリビアの助けを無視しようとしたじゃないか。……無視……は「していなかったかもしれないが、『やあオリビア』とだけ言って通り過ぎてしまっていったくせに。
むくれて、傷ついて、恨み言を言ってしまって。
……そして自己嫌悪で落ち込む。
「ものすごく虫のいい話をしてますよね……。わたし」
「ん?」
「ルイスさんに目立つところで霊とやり取りするのをやめて欲しいと言ったのに、自分が困っているときには助けてほしいなんて。すみません、図々しすぎました」
「きみは普段は俺の事を『ラインフェルト様』と呼ぶのに、時々『ルイスさん』と呼んでくれるね。ラインフェルトは俺を育ててくれた師の家名だから、ルイスと呼ばれた方が好きだよ」
ルイスの受け答えはややズレていて意味がよくわからない。
「はあ、それは……。ええと、公私混同しているって指摘でしょうか。すみません」
「謝る必要はない。俺の事を『ルイス』と呼ぶときはきみのプライベートなのだな、と認識しただけだ。きみが俺の名を呼ぶとき、俺はきみを助けよう」
遠回しな物言いに、オリビアはようやく意図を理解した。
――幽霊が見えると思われたくないコンシェルジュ・オリビアとしてラインフェルト様に庭園を案内しましょうかと言ったから断ったのか。
――で、幽霊に怯えるプライベート・オリビアとしてルイスに助けを求めたから助けてくれた、と。
「まあ、あの金髪の彼は仕事中のきみにくっつくのが好きみたいだし、やっぱりきみから断らないといけないと思うけどね。よく言うじゃないか。浮気された場合、女性の場合は相手の女性――つまり、奪った側に対して『泥棒猫!』と怒りの矛先を向けるが、男性の場合は心変わりした恋人側を責めるって」
「わたしは恋人じゃありませんっ。一方的につきまとわれているだけなのに!」
「じゃあこう考えたらいい。――彼はこのホテルの宿泊客で、コンシェルジュのきみにしつこくアピールをしてくる男。お客様だから邪険にはできない。でももちろん、彼の要望を呑んで好きでもない相手の恋人になるわけにもいかない。……さあ、どうする?」
どうするって。
……どうしたらいいんだろう。
難しい宿題を与えられた生徒のように口ごもったオリビアの横を突風が吹き抜けた。
『城の平和はこの騎士団長が守ろうぞ! 我こそはドナデラ・ジャン・エスメラルダ三世な~り~! ハイヤァ!』
白馬に乗ったエスメラルダ三世は今日もやかましく庭園を駆け抜けていく。
ルイスと共にポピーの庭園へ行こうとしたオリビアだが、城門の前で蒸気自動車が止まったのを見て足を止めた。
車から降りたのは若い夫婦だ。
派手な化粧をしたブロンドの美女と、眼鏡をかけて髪を後ろに撫でつけた理知的な男。
男性の方は、ホテルの制服を着たオリビアに目を止めると頭を下げた。
「あの、先ほど十四時に到着すると連絡をしたロジエール・モンドと妻のキャスリンと申しますが……」
「モンド様ですね。ようこそ、ヴォート城へ」
脊髄反射でオリビアはニッコリ営業スマイルを作ると頭を下げた。
「私は当ホテルのコンシェルジュ、オリビア・クライスラーです」
「すみません……、こんなに早くついてしまってご迷惑ですよね。街で時間をつぶしてからの方が良かったかな……」
「とんでもございません。すぐにお部屋にご案内できますよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
夫のロジエールはほっとした顔をした。
荷物は運転手が運び入れるため、手荷物だけを持ったロジエールは妻に手を差し出す。
「行こう、キャスリン」
しかし、妻のキャスリンはその声には返事をせず、きょろきょろと庭に視線を巡らせた。
「素敵な庭ね。外で食事もできたりするの?」
「ご用意できますよ」
「じゃあ、明日の朝食は外で食べたいわ」
「かしこまりました」
ルイスは到着したばかりのモンド夫妻に気を使ってくれたらしい。
「……案内をありがとう、オリビア。俺は向こうを見て周ることにするよ」
「ごゆっくりお楽しみください」
ルイスには後でお礼のお菓子でも部屋に持っていこうと思いつつ、モンド夫妻をフロントまで案内すべく向き直った。
が。
「待ってください。わたしもご一緒しても構いませんか?」
キャスリンが甘えるようにルイスの腕にしがみついた。
(えっ)
夫と旅行に来ているのに、別の男性に声をかけるの?
ロジエールも困ったように眉根を寄せている。
「キャスリン。初対面の方にいきなり……、ご迷惑だろう」
「あら。おとぎ話から出てきた王子様みたいでしたから、ついお声をかけてしまったわ。ご迷惑でした?」
「……いや、迷惑ではない、が……」
美女に抱き着かれたルイスは心なしかしどろもどろだった。
よく見ると、腕に絡みついているキャスリンが乳房をむぎゅっと押し付けているのだ。気づいたオリビアの方が険しい顔をしてしまう。
「まあ。ご迷惑でないのなら良かった! ではぜひご一緒させてください」
「しかし」
「夫は花に興味がありませんの。わたし一人で見て回ってもつまらないですし、せっかくならお庭に興味がある方と楽しく散策したいわ」
夫に冷たい視線を送ったキャスリンは、「行きましょ?」と楽しそうにルイスの腕を引いた。ルイスは戸惑いながらも彼女に従うように行ってしまう。
(夫婦喧嘩中なのかしら……?)
まるでロジエールに当てつけるような態度だった。
気まずく思いながらロジエールを窺うと、彼は諦めたように肩を落としている。
「…………申し訳ありません。妻がご迷惑を」
「え、いえ、その」
「先ほどの方、奥様や恋人はいらっしゃらないでしょうか。妻の振る舞いで誤解などさせてしまわなければいいのですが」
「あの方はお一人でのご滞在ですので」
と、口にしたオリビアはホテルに滞在していないだけで、ルイスに妻や恋人がいるかもしれないという可能性に今さら思い当たった。
(結婚指輪はしていなかったと思うけれど……)
よく知らない。だって出会ったばかりなのだ。
(相手がいてもおかしくはないわよね。っていうか、わざわざわたしに恋人の有無を報告する必要もないし、「恋人はいますか?」って聞くのも変よね)
ただうちのホテルに泊まりに来た、おじいさまの知り合い。
ルイスとオリビアの関係などそれだけだ。
なのに、キャスリンに抱き着かれて抵抗もしなかったルイスの姿にもやもやとした気持ちを抱いてしまう。
「……お一人での滞在ですが、プライベートなことは存じ上げておりません。申し訳ありません」
やや頑なになってしまったオリビアの口調に、ロジエールは頭を下げる。
「ああ、すみません。お客様の個人情報なんて、知っていても他の客に話したりしませんよね……。無粋なことを聞いてしまって申し訳ありません」
「あ、いえ。……ええと、フロントまでご案内させていただきますね!」
「はい。お願いします」
歩き出しながらも、オリビアとロジエールの意識は何となく庭園の方に向いてしまっていた。ルイスにくっついたキャスリンが楽しそうな笑い声を上げている。
またフロントにナンパ男の霊がいたら……と思ったが、霊はもういなくなっていた。代わりに、コンシェルジュデスクには蛍のような光が留まっている。
よくルイスが連れている光だ。精霊だと言っていたっけ。
ふよふよと気まぐれな蝶のように舞う光に恐怖は感じない。その光は、オリビアが業務を終えるまで側にいてくれた。
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