親愛なる精霊師どの③


 ヴォート城の客室は二階に七室、一階に三室あり、それぞれの部屋には名前がつけられている。


 例えば、薔薇園にもっとも近い部屋は『女王の間』。木製の彫刻や調度品が多く配置された『フクロウの間』。家族用にベッドを四つ配置した『チェスの間』など、部屋ごとに内装も変え、何度宿泊されても新鮮な気持ちで過ごしていただけるように趣向を凝らしている。


(『精霊の間』は三階の一番角部屋コーナースイート……。おじいさまがあの部屋を客室として開放しなかったのは、単に利便性が悪いからだと思っていたわ)


 入り口や食事のためのレストランホールからは一番遠く、おまけに狩猟棟が邪魔をして自慢の庭園の景色も見えない。


 そういった部屋は他にもいくつかあり、予備の客室として清掃は定期的に行われていた。


 ルイスが鍵を持っていた精霊の間も、ベッドメイキングさえすれば問題なく使用できるはずだ。ハワードが預かった鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開ける。


 ええ、ええ、もちろん予想はしていましたとも!


 リビングルームと寝室のあるゆったりとした部屋の中には、大勢の先客がいた。


 ベッドに寝転がる男。

 ソファに座りカードゲームに興じているらしい三人の貴族。

 空中で素振りをする騎士。

 床に座り込む鹿(鹿⁉)。

 シクシク泣きながらバスルームの方から出てきた令嬢。

 なんだかよくわからないがブンブン飛んでいるいくつもの光の玉。


 ずっと使っていなかった客室は、すっかり幽霊たちの憩いの場となってしまっている。


(いーやーっ!)


 混沌極まりない幽霊部屋の有様である。


 当然、霊たちは人間三人が現れたところで驚いたりはしない。


 ベッドに寝転がっていた男は尻を掻き、貴族たちはカードに意識を戻し、騎士は素振りを再開し、鹿はまったりとくつろぎ、令嬢は壁に頭をつけてシクシク泣き……。唯一、光の玉だけがこちらに飛んできた。


 ひえ、と身を引いたオリビアの前で、光の玉たちはじゃれるようにルイスの周囲にまとわりつく。


「……これはすごいな」


 ルイスは苦笑していた。きっと彼の目にはオリビアと同じものが見えているのだろう。


「失礼いたしました。清掃は定期的に行っていましたが、やはり少々空気がこもっているようですね。しばらく窓を開けておきましょう。ハウスキーピング係も呼んですぐにベッドも整えさせます」


(こもっているのは空気じゃなくて霊なんだけど……)


 ハワードはスタスタと部屋の中に入り、窓を開けた。


 彼は見えていないくせに誰にもぶつからず、鹿の足も踏むことなく器用に窓辺まで歩く。


 部屋の中に風が入ったことにより、淀んでいた空気が少しだけ動いた。


(ど、どうするんだろう、この人……)


 こんな部屋でくつろげないと言うだろうか。ルイスが眠るベッドも、ソファも、ラグの上さえ、座れそうなところには誰かしらの霊がいるのだ。


 ルイスは穏やかに口を開いた。


「……すまないが、皆、出て行ってもらえるだろうか。今日からここが俺の部屋なのでね」


 霊たちは顔を見合わせていた。

 出ていけだって? どうする? と言った様子だ。オリビアは感動を覚える。


(す、すごい。霊たちに語りかけている……)


 いつものオリビアなら見えないふりをし、理由をつけてそそくさとこの部屋から離れたことだろう。だが、今は幽霊が見えるらしいルイスが一緒にいる。


 怪奇現象に悩まされてきたオリビアにとっては実に頼りがいのありそうな人物だった。彼がどのように霊たちの相手をするのか、非常に気になる。                   


 ……残念ながらそんな状況が見えないハワードは丁寧に頭を下げた。


 先代と懇意だったという特別な客に「出ていってくれないか」と言われたら……、従うに決まっている。


「もちろんでございます、ラインフェルト様。すぐにお暇させて頂きます。先代からも便宜を図るように申し使っておりますので、どうぞご自分の部屋だと思ってお寛ぎくださいね。それでは、我々はこれで」


「え? もう行ってしまうのか?」


「ええ。何か御用がありましたらいつでもお申し付けくださいませ」


「一人でいても退屈なので、できればこのまま部屋の説明や城の案内などしてほしいのだが」


「……?」


(あああ……。大変だ、会話が噛み合ってない……)


 ハワードからしたら、「出て行けと言ったり、引き留めたり、どっちなんだ」状態だろう。


 しかし、彼は一流のホテルマン。


 内心でどう思っているかはさておき、完璧な笑顔で「かしこまりました」と返事をした。


「では、案内役にコンシェルジュのオリビア・クライスラーをつけましょう。構いませんか、ラインフェルト様?」


「うむ」


 そして当然のようにオリビアに「お世話係」の仕事がパスされる。


 そりゃそうだ。祖父がこの男にオリビアの事を頼みたいと書き残していたのなら、彼の側にいるのにこれ以上の適任はない。


 そしてオリビアもルイスに聞きたいことは山のようにあった。手紙の事や祖父の事、それから霊たちの事――……そもそも彼はいったいいつまでこのホテルに滞在するつもりなのか。


「では私はこれで」


「待ってくれ。もう一つだけいいか」


 退出しようとしたハワードをルイスは再度引き留める。


「なんでしょう」


「この城には鹿の剥製があったりしないか?」


「鹿の剥製ですか? ええ、ございますよ。元々この城に保管されていたもので、現在はそちらの窓から見える狩猟館に飾ってありますが……」


「良かったら、掃除の回数を増やしてやってくれないだろうか。自分の身体が丁寧に扱われている様子を見れば鹿も喜ぶと思うのだ」


「…………。……かしこまりました」


 にこっ! と笑ったハワードは了承して出ていった。


 すごい。考えることを放棄したハワードの笑顔なんて初めて見た。


 そして、床に寝そべっていた鹿は感謝の意を示すようにルイスに身を摺り寄せて消える。


 霊も人もいなくなり、部屋の中にはオリビアとルイスだけが残された。

「……あの、ラインフェルト様」


「うん?」


「祖父とはどういったお知り合いで? それに、わたしを頼むっていうのは、いったい……」


「――んだろう? きみも」


 微笑んだルイスはインバネスを脱いでソファに腰掛けた。


 ホテルマンとしての癖で、サッと彼の上着を受け取ったオリビアはその姿に見惚れてしまう。長い手足にサラサラの銀の髪。こんな美形に微笑まれてときめかない女の子なんていないのではないか。


 その魅力に吸い寄せられるように、部屋のあちこちを飛んでいた光の玉がルイスの肩や頭に止まる。


 薄闇の中、ふわりと蛍のように。


 ……この部屋はこんなに暗かった?


 ハワードがいた時は暗さを感じなかったのに、あっという間に日が落ちてしまったのか、今は明かりを灯さねばならぬほどにルイスの輪郭に闇が滲んでいる。


「……その、光って、なんですか?」


 乾いた声で問う。


「精霊だよ。姿は見えないのかな?」


「はい。あの……わたしには光の玉のように見えるのですが」


「ふうん。精霊の姿はきみには見えないのか。その代わりに、死霊の姿は良く見えているようだね」


 どきりとする。


「この古城にはずいぶんとたくさんの霊がいるようだ。さっきもロビーで軽薄そうな霊にキスされそうになっていたじゃないか」


「ラインフェルト様もんですか」


「見える。おそらくきみよりもたくさん、はっきりとね」


 ルイスの言葉はオリビアに感動をもたらした。


 同じものが見える人に会ったのははじめてなのだ。


 頭がおかしい。妄想癖。幻覚。


 霊が見えると口にすれば、否定され続けてきたオリビアは思わず縋るようにルイスを見てしまう。


「ラインフェルト様、……いえ、ルイスさん。わたし、どうしたらいいんでしょう? 子どもの頃からずっとよくわからないものが見えるのが怖くて……。人に話しても理解されなくて辛かったんです!」


 祖父は霊に怯えるオリビアを否定したりはしなかったけれど、この気持ちを理解してはくれなかった。両親に連れて行かれた医者や祈祷師の元でも――「かわいそうに、この子は両親の気を引きたいのだ」「前世で犯した罪によって神様に与えられた罰だろう」。そんな的外れな言葉はオリビアを深く傷つけるばかりで。


「どうか助けてください。わたし、霊に振り回されるのはもう嫌なんです……!」


 びくびく霊に怯える暮らしはもう嫌だ。


 見ないフリ、聞こえないフリをしながら、内心ではいつも怯えていた。


 幽霊が怖いのではない。人と違うことで気味悪がられたり、距離を置かれたりするのが嫌なのだ。オリビアが普通の子だったら、もしかしたら家族三人で仲良く暮らせていたかもしれないのに――……。いらぬ苦労をかけてしまった両親にも、祖父にも罪悪感がある。


 そんな切実な訴えに、


「助けてと言われても困るんだけど?」


 ルイスはやや慄いたようにのけ反った。


 拒絶されてしまったようでオリビアの方が困惑してしまう。


「え……でも……、おじいさまの手紙に『わたしのことを頼む』って……」


「話し相手になってやってくれという意味じゃないのか? いつでもホテルに泊まりに来ていいとはそういうことでは?」


「……ルイスさんがお祓いをしてくれるわけでは……」


「あのね。精霊師はこの世ならざる者たちの声を聞くのが仕事であって、霊を追っ払うわけじゃないからね? そういうのを頼みたいなら、除霊師とか、霊媒師とかでしょ。ああいうのもパフォーマンスでやっているだけの人間がいるから、本当に追い払えているケースなんてごく僅かじゃない? だって、この世に留まり続けている霊って、何か訴えたいことがあるからそこにいるのであって、一方的に『向こうへ行け!』って追い払われたって、納得してなかったら戻ってくるだろ。あの世に行くのが嫌で留まっているような奴らがそんなにあっさり退散するわけなくない?」


 べらべらべらと一気に喋られるが……。


「……じゃあ、どうしてこの古城ホテルに来たんですか?」


 ぽろりと漏れてしまったオリビアの言葉に、


「泊まるために決まっているじゃないか!」


 即答された。


(え? じゃあ、この人はわたしを助けに来てくれたわけでもなくて、本当にふらっとやって来ただけってこと?)


 だって、『オリビアの事を頼む』って。


 普通だったら後継人になるとか……。け、結婚相手になるとか、そういう……。そういう意味じゃないの⁉


 混乱と羞恥でぐちゃぐちゃになったオリビアにルイスがずいっと顔を寄せた。


 顔のいい男に迫られたオリビアはますます動転する。


「オリビア」


「な、なんですかっ」


 しかも声もいい。


 低くて張りのある声だ。


 腰が砕けそうな甘い声で、彼はオリビアの目を見てはっきりと告げた。




「腹が減ってきたのだが、夕食はまだだろうか?」


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