魔性の耳掃除
「う~ん、何かムズムズするな」
そう言って、俺は小指の先で耳の中をほじくった。恋人である
耳掃除というと一番最初に思い浮かぶのは母さんの顔だ。もちろん中学に入る前までは母さんにやってもらっていたという思い出があるからなのだが、それ以上にうちの家は父さんがいつも母さんに耳掃除してもらっているのだ。今思えば夫婦仲が良くて結構なことなのだが、当時の思春期まっただ中だった俺の目には、その姿が何ともこっ恥ずかしく、さらに自分が母親の膝枕で耳掃除されているなんて死んでも友達に知られたくなかった。なので小学校までは時おりされていた耳掃除だが、中学に上がる頃にはすっかりご無沙汰だったのだ。
耳掃除なんてやらなかったら死ぬものでもないし、それ以降は特に自分で耳の穴を掃除することもなく、時おり母さんの膝枕で耳かきしてもらっている父さんを眺めるくらいしか、耳かきに接する機会はなかった。
そんなときつき合っている美咲から耳掃除をしてもらったのだが……
「何かイメージと違ったんだよな」
別に美咲の耳掃除が下手だったってわけじゃない。むしろ結構気持ちよかったし「耳掃除されるって、こんなんだったよな」と何だか懐かしさを感じたりもしたのだ。
しかしそれと同時に「昔、母さんにされたのって、こんな感じだったっけ?」という違和感も感じてしまっていた。思い出の中にある母さんの耳掃除は、美咲がしてくれたものとは何かが違っていたのだ。
そのせいか昨日から気がつけば何となく耳を触ってしまい、そのくせ耳の奥には指なんて届かないものだから、耳の中がだんだんとムズムズしてきたのだ。
それが何だかじれったくで、俺は居間のソファでゴロゴロ転がった後、TVに映った芸能人に文句を言うように唸りながら背伸びする。すると、それを見て声をかけてきたのは母さんだった。
「アンタ、さっきから変な声出してどうしたの?」
「ああ、耳が痒くってさ」
「耳?」
「そう、耳」
「病院には行ったの?」
「別にそこまで酷いわけじゃないよ。別に痛くもないしさ。ただ単に耳クソ溜まってる感じなんだよね」
「だったら耳かきしなさいよ」
「耳かきなら――」
「昨日、美咲にしてもらった」と……そう言おうとしたのだが、その一言が何故か出てこなかった。それどころか口から飛び出したのは、自分でも思ってもみなかった台詞だった。
「自分だと出来なくてさ」
「そうなの?」
「ああ」
「アンタは大きくなってから耳かきして欲しいって言わなくなったから、自分でやってるもんだと思ってたわ」
「別にやらなくても困るもんじゃないだろ」
「そりゃ、そうだけど、昔はやってやってってうるさかったのに」
「そんなの昔の話だろ」
「そうね。まぁ、自分でするなら、そこの引き出しに耳かきが入ってるから使いなさい」
ちょっと恥ずかしくなって吐き捨てるように言ってしまうのだが、母さんは気にした風もない。それが何か悔しかった。そんなんだから俺はガキみたいに言い訳してしまうのだ。
「いいの?」
「何が?」
「いや……それって父さんの耳かきだろ?」
「別に父さんのってわけじゃないでしょ。うちの耳かきよ」
「まぁ、そうなんだけど……さ」
あまり見た覚えはないが、きっとそれは母さんも使っているのだろう。だけど俺が言いたいのはそう言うのじゃなくて……
俺は喉まで出かかった言葉を飲み下す。そんな俺を見て母さんは苦笑するのだ。
「しょうがないわね。ほら、取ってきなさい」
「別にいいよ」
「いいから、ほら」
そう言って、母さんはソファに座る。膝をポンポンと叩くのは「ここに頭を乗せなさい」という意味だろう。
「何? 嫌なの?」
「別に、そうじゃないけどさ」
「なら、いいじゃない。お母さんがしたいのよ」
そう言って笑う。
俺は渋々といった振りをして耳かきを取り出すと、膝の上に頭を乗せるためにゴロリと転がった。絵面だけみれば、まるで俺がマザコンみたいなだから、絶対に他人には見せたくない。
そんな俺に母さんが告げた。
「やっぱりアンタもお父さんの子ね」
「どういう意味だよ?」
「別に意味なんてないわよ」
このタイミングで意味がないはずはないだろう。父さんは見た目はパッとしない人だけど家族思いの立派な人だ。ただ度を越した愛妻家で、母さんを世界一の美人だと思い込んでいる。確かにうちの母さんは妙に若作りで、周りからは美人だと言われることが多い。だけど世界一はさすがにないだろう。
その父さんに似ていると言うのは、俺も実は自分が気づいていないだけでマザコンだということなのだろうか?
ちょっと不安になってしまう。何しろこういうのは自分ではよく分からないんだ。
ただ頭を乗せた膝は美咲の方が心地よかったので、それに少しだけ安心してしまった。
「じゃあ、始めるわよ。動かないでね」
「ああ」
たぶん10年ぶりくらいになるんだろうか。母さんの持った耳かきの先が俺の耳たぶの縁を撫でていった。
「うぉっ!」
ビリリと強烈な電撃が奔った……気がした。もちろん実際に電気なんか走る筈はない。しかしそれくらい強烈な一撃だった。
「どうしたの? 痛かった?」
「ああ、いや、大丈夫だよ。全然大丈夫」
強烈な一撃ではあったけど、別に痛かったわけじゃない。痛くはなくて……何なんだろう?
名状しがたい感覚だ。
おかしいな今のは耳たぶに触っただけだ。耳の中ならともかくこんなとこ突かれて強い衝撃が起きるはずもないんだけど??
「そう? 続けるわよ」
「ああ……うん」
俺が呆けたように応えると、母さんは再び耳かきを構えた。
もう一度、匙(さじ)になった耳かきの先端が触れる。今度は耳たぶではなく、もう少し内側。耳介の溝の部分だ。そこが浅く抉(えぐ)られる。
大きな音は聞こえない。
しかしそうの効果は絶大だった。
何しろあまりの衝撃に出かけた声が喉の奥へと引っ込んでしまったからだ。
「大丈夫?」
「…………っ」
「大丈夫そうね」
違う。
そうじゃない。
そう言おうとしたのだが声が出ない。
「けっこう汚れてるわね」
そう言って、薄い竹製のスプーンがゆっくりと耳の縁を這って行く。ゆるゆるとした動きで決して早くない。そしてそれがミチっと音が鳴った部分で止まる。
「ここ……固まってるわね」
ほんの僅かな痛み。
ペリっと音が響く。
少しだけ強い力が加えられ、耳の窪みに張りついていた垢の塊が剥がされたのだ。
そこから訪れるのは解放感だ。
耳の縁にこびりついた小さな垢の塊が除去されただけだというのに、重りでも取られたみたいに肩が軽い。
張りついたのはその部分だけだったのか。それが終わると母さんの持つ耳かきは、耳の溝の部分に沿わされると、そこに溜まった垢をゆっくりと掻き出していく。ジリジリとした痛痒が耳から脳に伝わり背筋が震えた。
おかしい!?
俺は母さんに耳かきされているだけだっていうのに、何でこんな目に会っているんだ??
耳つぼでも押しているのか、耳かきの先端が突くたびにチクリとした痛みと心地よさが交互に襲ってくる。
「アンタ、お風呂入るとき耳洗ったりとかしないのね」
母さんは呆れたように言うが、俺はそれに応える余裕がない。耳かきを拭ったティッシュペーパーは目を覆うほどに汚れていた。その汚れの分だけ、俺の耳の外にある溝は掘り起こされたのだ。
何だコレ?
昔、母さんからしてもらった耳掃除ってこんなのだったっけ?
そんなとき母さんは死刑宣告するように俺に告げた。
「じゃあ、耳の中もするわね」
耳の中?
ちょっと待ってくれ。耳の外側だけでもこんなになっているというのに、その上もっと敏感な耳の中まで触れられてしまったら――
声を出すよりも早く、母さんの持つ耳かきは俺の耳孔を侵略していく。
穴の淵の部分に引っかけるように耳かきが触れると、鉤で掻き回すようにしてズルリと垢が剥ぎ取られていく。
「耳垢って浅い部分に溜まりやすいのよね」
呑気な口調で言うが、それとは裏腹に耳かき棒は容赦なく俺の耳の穴の中を暴き立てていった。
耳垢がバリバリと音を立てて粉砕されていき、ズリズリとした感覚とともに体外へと排出されていく。耳垢の運搬が完全に終わり、匙の上に耳垢を堆積させた耳かきが身体から離れると一瞬の虚脱感。しかし次の一撃が矢継ぎ早に繰り出される。
チクリとした痛み。
バリバリと垢が砕かれる。
それが終わると痒みにも似たジリジリとした快感。
それが何度も繰り返される。
ヤバい。
これはヤバイ。
快美感に理性が麻痺していく。
まさか耳かきが脳みそまで侵入して、頭の中をかき混ぜられているんじゃないか?
そんなバカげた妄想を本気で信じてしまいそうになる。
それくらい母さんの耳かきは、もう常軌を逸していた。
ひと匙、ひと匙、耳の中の垢が掘り起こされるたびに意識が飛んでいく。
ああ駄目だ。
めちゃくちゃ気持ちいい。
チクリとして、バリバリ、最後にジリジリだ。
「……………………」
あとはもう何を言わんやだ。
右の耳の穴を存分にほじくり返された後、左の耳の穴もじっくりと蹂躙され、気がつけば馬鹿みたいな顔をしながらソファの上で自失していた。
「ほら、終わったわよ」
「あ……ああ、うん」
母さんの言葉は聞こえてくるのだが、もう上の空だ。
いつの間にか父さんが帰ってきたのかキッチンでお茶を飲んでいる。
「思ったよりも溜まってなかったわね」
「あ、うん……」
「どうしたの? ぼぉっとして?」
「いや、うん……大丈夫」
「そう?」
本当は何ひとつ大丈夫じゃないけど、何とかそれだけ口にした。
「今日はやってあげたけど、アンタもいつまでも母親に耳かきなんてされてたら恰好つかないだろうし、次は美咲ちゃんにやってもらうのよ」
「ああ……うん、そうするよ」
絶対にそうしよう。
あれは魔性の業だ。
もう2度とやってもらっちゃいけない。
次されたら男として完全に駄目になる。
間違いなく2度と美咲の前に顔を出せなくなるだろう。
自分の垢でグチャグチャに汚れたティッシュペーパーを恥部のように隠して捨てると、俺は心に強く決めるのだ。
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