母子編

恋人のマザコン疑惑


「う~ん、気持ちいいけど母さんの方が上手だな」


その言葉を聞いたとき、私は完全にフリーズした。言ったのは私の恋人である内海うつみまことだ。


「えっと……内海君?」

「ああ、ごめん。別に美咲が下手とかそんなんじゃないんだけど」

「う、うん、別に気にしてないよ」

「そう、良かった」


そう言って、膝の上の彼はゴロンと転がると私の腰に手を回してきた。仰向けになって見えるのは、大学生になってからはすっかり見慣れた下宿の1ルームマンションの照明だ。

それを眺めた私はどうにも釈然としないものを感じたまま、なし崩し的に持っていたものを床の上に転がす。それは先端が匙のように婉曲して、逆端にフワフワとした綿毛のついた細い棒。つまり耳かきだった。





「何よ、それ。内海って、マザコンだったの?」

「いや、そういう訳じゃないと思うんだけど」

「何にしても、彼女にそんなこと言うなんて最低ね」


大学の学食で憤慨する松本まつもと倫子りんこは私の一番の友人で、こうしてよく悩みを聞いてくれる。とはいえ、彼女はあまり理性的とは言い難い性格の女の子なので、素晴らしいアドバイスがもらえることは稀だ。でも感情豊かな倫子は私がなかなか言えないことを口に出して言ってくれる。こうして彼女に相談してしまったということは、やっぱり私が内海君のことをマザコンだと思っているということなのかもしれない。


「それにしても小学生ならともかく、二十歳過ぎた男がお母さんに耳かきって、ちょっとキモくない?」

「別に今でもやってもらってるわけじゃないよ。ただ話の中で、昔やってもらってたって話が出てきて、それで私がやってあげたんだけど……」

「ママの方が上手だったよ~……って言われちゃったんだ」

「もう、怒るよ」

「ゴメン、ゴメン。でも美咲は内海の両親って会ったことあるんだよね?」

「うん、何回も実家には行ってるよ。お父さんもお母さんもすごくいい人たちだった」


そう言って、この前遊びに行ったときにとった写真を見せる。するとスマートフォンの画面を見た倫子は思った通りのリアクションを見せた。


「うわっ、スゴイ美人のお母さんね。何やってる人なの?」

「普通に会社員らしいよ」

「へぇ、モデルとか、女優みたいね。やたらと若く見えるし……内海のお母さんってことは若くても40歳いってるはずよね?」

「うん、40後半らしいけど」

「見えないわ~。うちの母親が見たら発狂しそうね」


そう言って取り上げたスマホの画面と私の顔を見比べた。


「まぁ、ちょっと美咲に似てるかもしれないわね」

「そ、そうかな?」


ちょっと言葉遣いがキツイけど、内海君のお母さんは綺麗で優しくて、そんな人に似ていると言われるのは悪い気はしない。だけど次の言葉で私の心を重くなる。


「これはますますマザコン疑惑が濃厚ね」

「そういうこと言わないでよ」


まぁ、もしも本当にマザコンだったとしても重度なものでなければ問題ない。何しろ世の中には「男は全員マザコンだ」なんて言葉もあるくらいだし、母親が嫌いでないがしろにする男性もどうなのかなって思う。それと比べれば、ちょっとくらいマザコン気味でも問題ない……と思う。問題ないよね?

ちょっと自信がないな。


「うぅ……どうしよう」

「どうって言われても、内海の趣味とか性癖のことまで知らないわよ」

「性癖って……」


それはちょっと言い過ぎだ。少なくとも内海君は私に変な性的嗜好を強要したことはない。


「そりゃマザコンなんて心の病気みたいなもんじゃないの?」

「そ、そこまでは言わないけど」

「そんなに気になるなら、とりあえずママよりも上手に耳かき出来るように頑張ってみたら」


返ってきたアドバイスは予想通り理性的なものとは言い難い。しかし他に何だかいいアイデアが浮かばなかった私は倫子の顔を眺めながら腕を組む。


「耳かきね……」

「試しに私にやってみる?」

「倫子に?」

「そうそう。ママよりも上手に出来るように練習しないとね♪」


そう言って、倫子が化粧ポーチから出てきたのは一本の綿棒だ。それを親指と人差し指で摘まむとゆっくりと振って見せる。白い頭が揺れ終わると、それは私の目の前に突きだされた。

楽し気な口調は明らかにからかっているようだ。私は綿棒を受け取ると鼻を鳴らす。


「ん……ほら、やってみぃ♪」

「楽しそうね」

「うん♪」

「あっ、そう……」

「ほら、やってみぃ、やってみぃ♪」


挑発的に言って、彼女は自分の耳を指さした。それを聞いて何だかムッとする。なので腹いせに私は、耳たぶで静かに光っていたパールのピアスを軽く引っ張った。


「あぅっ! 痛い!」

「大げさ」

「でも、これ高かったからさ。千切れたらマジで怒るよ」

「それはゴメン。でも倫子ってば、ちょっと調子乗りすぎ――」


彼女を嗜(たしな)めようとしたときのことだ。

に気づき言葉が途切れた。


「ん? どうしたの?」

「あ、いや……倫子って、けっこう耳汚れてるわね」

「マジで!?」

「うん、ちょっと……汚いわね」


耳の中を覗き込む。彼女とは2年くらい前に知り合って大学にいるときは一緒にいることが多いんだけど、こうして耳の穴を覗き込むなんて初めてだ。

薄い産毛の先に埃がついていて、何だかタンポポの綿毛みたいになっている。


「その言い方はちょっとじゃないでしょ」

「そうね。すごく汚いかも」

「その言い方もヤダな」


げんなりとした顔。ちょっといい気味だな。

そんなとき手の中には一本の綿棒。

それを私はゆっくりと構えた。


「ちょっとやってみようかしら」

「やるって、何?」

「だから耳かきよ。練習しないと」

「マジで?」

「さっきやってって言ったじゃない」

「まぁ、そうだけどさ……」


倫子はあんまり乗り気じゃない。でもそれも当たり前で、人の出入りが少ない時間帯とはいえ、学食の隅で同級生から耳かきされるなんてあんまり普通の経験ではない。だけど私はさっきの意趣返しも込めて、彼女の耳へと忍び寄った。


「動かないでね」

「マジでやるんだ」

「うん」


倫子が何か言おうとするが、それよりも先に白い綿棒の頭が穴の中へとそっと侵入していく。椅子に座ってるのを横から見てるので正直あまりやりやすい体勢じゃない。だから、ゆっくり、ゆっくりとだ。

耳の入口の部分。

その表面だけをふき取るつもりで、ゆっくりと綿棒の腹の部分を当てる。


「うぉっ!? 何か来た??」

「あ、ごめん。痛かった?」

「いや、全然……ぜんぜんイケるから」

「そう?」


倫子の声はちょっと上ずっていたけど、どうやら大丈夫のようだ。私は毛先にこびりついていた垢を払い落とすために、指先で摘まんだ綿棒をくるりと回した。指先にほんの僅かな引っかかり。それを引っ掻くようにして白い頭が回転する。


「うひゃぃ!!」


子猫に水をかけたらこんな声を出すのかもしれない。変な鳴き声が友人の口から洩れた。


「ちょっ! 倫子、大丈夫?」

「あ……うん、だいじょうぶ」

「そ、そう?」

「うん、続けていいよ」

「まぁ、それなら続けるけど」

「お願い~」


もう嫌がってはいないようだった。これなら問題ないと判断して、私は綿棒をもう一度差し込む。


「ガサガサ音がするわね」

「まぁ、耳の穴に棒が突っ込まれているわけだからね」


耳元どころか耳の中を弄られてるわけだから音が大きいに決まっている。


「うん……どうかな?」

「うひゃ、んぅ……いいんじゃない。けっこう気持ちいいよ」

「そう?」

「耳かきとか……うひゃ、あんまりやらないけど気持ちいいわ。他人にやってもらうからかな……うひゃひゃ」


少し奥まった部分を柔らかい綿玉で触れると、倫子はくすぐったそうにうひゃひゃと笑う。


「う~ん、けっこう快感。クセになるかも。もっと奥まで入れても大丈夫だよ」

「奥って……ここ?」

「ああ、そう。そこそこ。グリってやっちゃってもいいよ」


言われた通りに、少し強めに触れてやる。すると倫子の背中が僅かに反った。


「うひぃ、きたっ!」

「何が来たのよ?」


あまりに過剰な反応にちょっと引く。だけど倫子は満足そうにうひゃひゃと笑うのだ。もしもあのとき上手に耳かき出来ていたら、内海君もこんな反応をしたんだろうか?

ちょっとだけ想像してみたが、頭の中の内海君はいつもののんびりした笑みを浮かべていて、こんな怪しく悶える倫子みたいな姿は想像出来なかった。


「うひぃ……あひゃ、こりゃタマらん」

「そんなにいいんなら、実家に帰ったときにお母さんにやってもらったら?」

「私をマザコン内海と一緒にしないでよ……うひっ!!?」

「あんまり内海君のこと悪く言うと、グサッとするよ」

「はひ、ごめんなさい」


ちょっとだけ強くすると倫子は全身を強張らせて静かになる。

すごい効果だ。だけどこれって危ないからもう絶対やらないように気をつけよう。鼓膜とか破れちゃったら大変だしね。


「何だ。美咲ってば耳かき上手いじゃない」

「そうかしら?」

「うん、うん、これってもうちょっとした必殺技ね」

「必殺って……耳かきで何を殺すのよ? というか殺しちゃ駄目でしょ」

「でもこれってマジで必殺だよ。今度、私も彼氏に試してみようかな」

「内海君に必殺じゃないと意味ないんだけどね」

「ひょっとして内海って不感症? マザコン疑惑どころか、ED疑惑も沸いてきた――ぎゃふん!」

「調子乗りすぎ」

「はひ、ごめんなさい」


手刀で倫子の頭をバシンと叩いて暴言を止める。

そして溜息ひとつだ。


「別に耳かきくらいで、そんなに気にしなくてもいいんじゃないの?」

「そうは言っても『お母さんの方がいい』って、地味に堪えるよ。しかもお母さんだし」

「ああ、そうね……あの美人のお母さんと比べられると、ちょっと嫌かも」

「しかも美人なだけじゃなくて、他にも隙がないのよね」


もうひとつため息を吐く。倫子もそれに感化されたのか「うへぇ」と嫌そうな顔を見せた。


「まぁ、頑張りな」

「ありがと、頑張りどころが分からないけど、頑張ってみるわ」

「頑張りどころか~。確かに耳かきが上達する方法なんて、ちょっと検討つかないわね」

「でしょ」

「だよね~。う~ん、私は上手いと思うんだけど……そうだな、例えば道具に頼るとか」

「道具?」

「うん。だって内海には耳かきしてあげたんでしょ。でも今、使ったのって綿棒じゃん」

「それもそうね」

「内海の『大きくなってからはやってもらってない』っていう自己申告を信じるなら、アイツが忘れてるだけで、ひょっとしてお母さんにやってもらったのも綿棒だったかもしれないじゃん」

「なるほど」


かなり無理くりではあるが、一応筋は通っている。彼女らしからぬ理性的な意見に感嘆しつつ、私は手に持った綿棒を眺める。


「まっ、試してみましょうか」

「おう、試してみてよ。ただ、内海がEDだった場合は――」

「こら」

「あひ! ごめんなさい」





そうして内海君が家にやって来たとき、勇気を持って言うのだった。1週間前と同じ場所、同じようなタイミングだ。


「ねぇ、内海君。耳かきしてあげる」

「耳かき?」

「うん、この前は途中で終わっちゃったから」

「ああ、うん。そうだったね。俺から言ってきたのに悪かったよ」


思い出したのか、苦笑とも、照れ笑いともつかない笑みを浮かべてくる。あのときはけっこう失礼なことを言われて、今日もリベンジのつもりで意気込んで来たのだが、この笑顔を見るとそういう気持ちがどうでも良くなってしまう。これがきっと『惚れた弱み』というヤツだろう。自分で言ってて悲しくなるが、大学生になって初めて出来た彼氏に浮かれてしまう私はなんともチョロい女なのだ。


「じゃあ、お願いしようかな」

「うん♪」


この日のために綿棒は準備している。しかもタダの綿棒じゃない。取ったヤツが見えやすい黒い綿棒だ。あの時は途中で終わっちゃったから、内海君の耳にはまだ耳垢が残っている。これで溜まった耳垢をゴッソリ取って、倫子みたいに「うひゃひゃ」と言わせてあげるんだから。

膝の上にはすでに内海君が頭を乗せてゴロリと転がっている。

それを見て腕まくり。

よし、やってやるわ。

横顔にちょっとだけ見とれてから、そこにある目的の穴の中を覗き込み――


「あれ?」

「ん? どうしたの?」

「あの……えっと」


違和感に気づく。

だってあまりにも分かりやすいのだ。


「ねぇ、内海君」

「なに?」

「ひょっとしてあの後、耳掃除した?」


そう、内海君の耳の中は1週間前よりも明らかに綺麗になっているのだ。

そして不安を感じながら訊いた私に、内海君は言うのだ。


「ああ、実は久しぶりに母さんにやってもらってさ」

「そ……そうなんだ」

「でも1週間たったから少しは溜まってるんじゃないかな?」

「うん、そうだね」


別にそこまで悪い事じゃない。

だけど私の乙女心が不満を言っている。


「じゃあ、始めるね」

「うん、お願い」


こうして私のリベンジは始まる前から負けを迎えたのだ。


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