お義母さんの耳かき指南


内海君の実家には去年から、ちょくちょく出入りしている。慣れてきたのは最近になってのことで、最初はガチガチに緊張していた。今でもお父さんの前だと少し緊張するかな。少なくとも内海君のお母さんとは親密に話せるようになっていたのだ。

でも今日の私はそんなお母さんを前にしてぎこちなく接してしまっていた。


「どうしたの、美咲ちゃん?」

「え……あ!? いや、何でもないです」

「そう? 体調悪いのなら言ってね」

「あ、はい……大丈夫です」


テーブルの上にお皿を並べながら私は答える。

ダメだ、ダメだ。ちょっとぼうっとしていた。これというのもお母さんを意識してしまっているせいだ。

内海君から「母さんの耳かきと違う」と聞いたのはもう1か月近く前だ。それ以降、その言葉は私の心に棘のように刺さってしまっていた。もちろん彼に悪気があったわけではないだろうし、そもそもそんなに悪い事でもないのだ。

ただ言葉にしにくいんだけど、あれ以来まるで内海君をお母さんに盗られてしまったような気がして、ちょっぴり嫉妬してしまっているのだ。


「それにしても誠ってば遅いわね。どこまで行ってるのかしら?」

「コンビニに置いてなかったんでしょうか?」

「かもしれないわね」


内海君はお母さんに頼まれてお使い中。夕飯はとっくに準備が済んでいる。このままだと内海君よりも先にお父さんの方が帰ってきそうだ。

私が念のためにスマートフォンを確認すると、そこには着信が入っていた。


「やっぱりスーパーの方まで行ってるみたいです」

「売り切れだったのかしら?」

「そうみたいです。あと10分くらいで戻るみたいです」

「そう、ならちょっと休憩ね」


そう言って、お母さんは今のソファにどっかりと腰を下ろした。内海君のお母さんはウチの母親とひとつしか変わらないとは思えないくらい若く見えるのだが、こういう仕草はやっぱり年相応なんだなと思うと面白い。


「どうしたの?」

「いえ、内海君のお母さんもやっぱりおばさんなんだなって」

「いつも言ってるじゃない」

「なかなか信じられませんよ。内海君のお姉さんって言ってもギリギリOKですよ」

「あら、ギリギリなのね。ちょっと残念」


そう言って静かに笑う。余裕のある大人の笑みだった。こんな風に年がとれたらと思うんだけど難易度高そうだな。顔だって近づかないと小じわが見えないんだもん。これで化粧してないんだから反則だ。


「それでも十分に若く見えますよ。最初に紹介されたときは本当に驚いたんですから。普段の仕草も『お母さん』って感じがしませんから」

「お母さんじゃなかったら、どう見えるの?」

「そうですね……奥様とか、マダムとか?」

「いちおう奥さんには見えてるのね。でもお母さんには見えないんだ?」

「内海君みたいな大きな子どもがいるようには見えないですね」

「そう、こう見えてもけっこう頑張ってお母さんやってるつもりなんだけどね。この前も誠に耳かきだってしてあげたんだから」

「え?」


その言葉にドキリとする。

私が今座っているソファの上でお母さんが内海君に耳かき……

頭の中で内海君がお母さんに膝枕されている姿がフラッシュバックする。もちろん私はこんな光景なんてみたことがないんだけど、この短い間に何度も妄想したイメージが頭の中で醸造されてしまっていたのだ。


「ちゃんとこのソファの上で膝枕しながらやってあげたのよ」

「へぇ……内海君って子どもっぽいところあるんですね」


白々しく答える。

やっぱり内海君は普段からお母さんに耳かきしてもらっているんだ。ということは、内海君はやっぱりマザコン? ううん、そうじゃない。

何だろう。悔しいな。凄く負けた気がする。まるで恋人に浮気されてしまったような気分だ。

心の中に重たいものが生じようとしたときだった。


「とは言っても、やってあげたのも10年ぶりくらいだけどね」

「え?」


10年ぶり?


「いつもやってるわけじゃないんですか?」

「そりゃ、あの子ももう大きくなったから、普段は耳かきしてなんて言わないわよ

「そ、そうなんですね」


安心した。

いや、別に内海君が言った「お母さんの方がいい」というセリフが帳消しになるわけじゃないんだけど、それでもその事実は私の心を幾分か楽にした。


「普段からしてあげるのははお父さんの耳かきばっかりね」

「お父さんの耳かきはやってあげるんですね?」

「昔からね。よくやって欲しいって言ってくるのよ」

「へぇ、そうなんですね」


それはちょっと羨ましいかもしれない。うちのお母さんがお父さんに耳かきしてるところなんて見たことない。ああ、でも実際に親が目の前で仲睦まじく耳かきしてたら鬱陶しいのかな? 内海君はどう思ってるんだろう?


「誠には言ったけど、今度からは美咲ちゃんがやってあげてね。あの子、自分だと出来ないらしいから」

「それなんですけど……」

「どうしたの?」


表情を翳らす私を見て、お母さんは尋ねる。

そうっして思い切って先日の話を相談したとき、お母さんは盛大にため息を吐くのだった。


「本当に男の子って無神経ね。昔、お姉ちゃんから聞いた話を思い出したわ」

「お姉さん?」

「ああ、私のお姉ちゃん……つまり誠の伯母さんね。ちょうど美咲ちゃんと同じくらいの歳のときに、今の旦那さんから言われたらしいのよ『女の子だからって料理がうまいとは限らないんだな』だったかしら」

「けっこう酷いこと言ってますね」

「まぁ、料理が出来なかったお姉ちゃんも悪いんだけど、それでも取り立てて下手だったわけでもないのよね」

「よけいに酷いですね」

「私もそう思うわ。まぁ、姉夫婦は今でも仲が良いから問題ないんだけどね。でも男の子ってそういうこと無神経に言っちゃうもんなのよ」


眉を顰(ひそ)めて「仕方がない」と嘆息する。それを見て私も苦笑する。


「内海君のお父さんも、そうだったんですか?」

「う~ん、あの人は…………そんなこと言ったことないわね」


どうやら違うらしい。見た目通りに優しい旦那さんみたいだ。

でも両親の仲が良いというのは良い事だと思う。私はこうして恋人の家に出入りしているのも今、話に出た伯母さんの影響があるみたいだ。内海君の伯母さんは若くして結婚している。私たちの間にはいずれは一緒になるというのが暗黙の了解として存在するからだ。


「内海君がいつも『年甲斐もなく仲が良い夫婦だ』って言ってますよ」

「もう、あの子ったら」

「でも内海君の中の『奥さん像』がお母さんみたいな人だったら自信ないです」

「そんな大したものじゃないわよ」


そう言って引き出しから取り出したのは耳かきだった。


「ちょっとやってあげましょうか?」

「え?……耳かきですか?」

「そんな難しいものじゃないから、すぐに覚えれるわよ」


ソファに座って膝をポンポンと叩く。「頭を乗せなさい」と言いたいのだろう。

だいぶ慣れてきたとはいえ、やっぱり他人様に膝枕をしてもらうというのは緊張する。

どうしよう?

急に耳かきしてあげると言われてもちょっと困るんだけど、思い出すのはあのときの「お母さんの方がいい」という不満そうな内海君の顔だ。1回目のときもそうだし、2回目の時も口にこそださなかったが「何か違うな」という表情をしていたのだ。

それが妙に悔しい。

別に超えるべき壁だとかは思っていないが、今後のことを考えると一回お母さんに耳かきしてもらうのはいいかもしれない。私は「お願いします」と覚悟を決めて、ゆっくりと頭を膝枕に委ねる。

膝枕なんて実の親にも随分してもらっていないけど、けっこう気持ちいい。


「それじゃあ、始めよっか」

「は、はい……」


お母さんが耳かきを構える。

緊張するな。耳かきはたまに自分でもするけど、他人からやってもらうのは久しぶりだ。でも私は内海君がやってもらっていた『お母さんの耳かき』が如何なるものなのか知る必要がある。

目を閉じると何だかいい匂いがした。

それが私の心を落ち着かせる。


「あんまり溜まってないわね。最近したのかしら?」

「はい……この間したばっかりです」

「そう」


そう言って、耳が指で挟まれる。中が見やすいように耳たぶが軽く引っ張られると、それだけでピリリと心地よい痺れが耳の中に走った。


うお! ナニコレ!?


それほど強い力で触られているわけではないのにガッチリとホールドされていて、何という安定感。指先からは温かな体温が伝わってきて、これだけで肩の力が抜けて、ふわっとした感覚に包まれる。


「誠と違ってちゃんとお風呂で耳を洗ってるのね」


優しい声が耳朶を打つ。耳かきの先端が耳たぶに触れ、耳の溝を外側からゆっくりとなぞっていく。それだけで身体の芯がゾクゾクと震え始めた。

あれ?

これ? 何かおかしい??

ただ耳を触られているだけなのに、つま先からジワっと言いようのない快感が這い上がってくる。


「あの子はここが汚れてるのよね」


そう言って、耳かきの先端の匙に力が加わると心地よい痛痒が背筋を伝って来た。つま先から這い上がってきた快感が下腹部に溜まり、身体が火照る。

明らかに身体がおかしいのだが、お母さんはあんまり気にした様子もなく、耳を触る指に力を込めた。


「ほら、この角度って耳の外側だけど指でも触りにくいでしょ」


思いもよらない角度で耳かき襲って来る。そこは自分でも触ったことがないような、初めて知る私自身の弱点だった。


「ぐりっとすると垢がよく取れるのよね……ほら」


そういって初めての場所をぐりっとされる。


「うひぃ!」

「ん? 美咲ちゃん、どうしたの?」

「あ……その、何でもないです」


しまった。お母さんの前で「うひぃ」とか言っちゃった。私、バカみたいだ。

その間もお母さんは耳つぼでも押すみたいにして、次々と私の急所を刺激していく。

チリッとして、ピリッとして、ゾクゾクする。その一撃一撃が的確で。油断するとまた「うひぃ」とか言ってしまいそうになる。それを必死になってかみ殺すのだ。


「うん、綺麗にしているわね、感心、感心」

「はひ……ありがとふござひまふ」


呂律ろれつが回っていない。

何だろう? 頭が回らない。新入生の歓迎コンパで初めて一気飲みさせられた時みたいだ。

だからこれ以上はマズイと思う問いかけにも、私は「はい」と答えてしまう。ずいぶん後の話だが、内海君は「はい」とは答えなかったらしい。しかし「はい」と言ってしまった私の身体は人生初の体験に見舞われるのだ。


「それじゃあ、耳の中もやりましょうか」

「は、はひぃ………………うひ!?」


耳かきの先っちょが耳の穴の淵を引っ掻けるようにして刺激すると、またしても「うひ」と間抜けな声が漏れる。でも、それも仕方がない。

これ、すごい、きもちいい。

似たようなことは自分で耳かきするときもやってるのに、お母さんにやってもらうと全然違う。これ、もう、耳掃除じゃない。耳かきの先端のカーブが穴の淵に沿うようにピッタリと当たり、へばりついた垢をこそぎ落としていくと強烈な快感に脳がショートする。意識が遠くなっていく。

お母さんが何か言った。

よく聞こえないが、とりあえず「はい」とだけ答えておこう。

するとニュルリとした感触が耳の奥へと侵入した。


え? なに? 耳に何かニュルっとしたのが?

おかしい。

これ普通の竹の耳かきだよね!?


「お、おかあひゃん」

「なに?」

「耳かひ、なんかチガうのに変えましタ?」

「え? 別にさっきと同じ竹の耳かきだけど?」


違う!

コレ、チガウ!!

絶対に竹のヤツじゃない!!!

硬質な竹の質感では絶対にありえない、ねっちゃりとした感触。恐らくは匙の先端の異様な動きが生み出しているのだろう。私の奥へと容赦なく侵入していく。

粘液質なソレはまるで蛞蝓なめくじのように這いながら耳を這い、粘膜を舐めとっていくのだ。


「うひぃ……」

「ほら、いっぱい取れた」

「あひ……」


じっくりと耳の穴の中をねぶられて私の背すじがビクンと跳ねた。

穴の奥を弄られるたびに眩暈のような感覚に酔う。耳の中に侵入した蛞蝓が耳垢を溶かすようにして私の汚いものを取り除いていく。

玄関が開いて誰かが帰ってきたようだが、意識が曖昧でよく分からない。

気がついたら耳掃除が終わっていて、私はぼうっとした頭でソファに座っていた。


「おかえりなさい、誠。遅かったのね」

「ああ、コンビニには置いてなくてさ」


内海君が帰ってきたみたい。キッチンの方を見るとお父さんがお茶を飲んでいる。どうやらさっき先に帰ってきたのはお父さんみたいだ。


「美咲? どうしたの?」

「ふぇ?」

「いや、何か、感じが……」


内海君が不思議そうな顔をするのだけど、それも当然だろう。今の私は完全に頭が働いていなくて、きっとアホみたいな顔をしているに違いない。それを見てお母さんも不安に思ったのか、私の顔を覗き込んで訊いた。


「美咲ちゃん、大丈夫?」

「あひ?……何ですか? お義母さま」

「お、お義母さま!?」

「ちょっ、美咲どうしたの??」

「はひ? なに? うつみクン?」

「何って、母さん、美咲のヤツ――」


そう言って、彼が見つけたのは机の上に置いてある耳かきだった。それを見て全てを察したのだろう。彼は何やら悟ったような、諦めたような顔で私を見た。


「母さん、もう美咲には耳かきしないであげてくれ」

「え? どうして?」

「どうしてもだよ」

「そう、まぁ……別にいいけど?」


歳に似合わぬ可愛らしい仕草で首を傾げる。そんなお義母さんを私は呆けながら、内海君は呆れながら見る。お父さんはそんな様子をお茶を飲みながら半眼で眺めている。


凄い体験をしてしまった。

未だ自失しながら、私は耳を弄ばれた余韻に酔うのだった。


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