第7話 暗躍
須藤月美は幼い頃から動物好きで、さまざまなペットを飼っていた人物である。彼女は若くして結婚したが、夫の哲也もまた動物好きであったため、小鳥や金魚、犬やウサギといった様々な動物を購入しペットにしていた。その中でもルナと名づけられた黒猫はことのほか美しく、また月美によくなついていた。しかし、月美は次第に酒乱に陥るようになり、不機嫌に駆られて飼っている動物を虐待するようになった。それでもルナにだけは手を挙げないでいたが、ある日、ルナに避けられているように感じた月美は猫を捕まえ、衝動的にその片目を抉り取ってしまった。当初は月美も自分の行いを後悔していたものの、その後も募る苛立ちと天邪鬼の心に駆られ、ある朝とうとうルナを木に吊るし殺してしまう。その晩、月美の屋敷は原因不明の火事で焼け落ち、彼女は財産の大半を失う。そして奇妙なことに、唯一焼け残った壁には首にロープを巻きつけたルナの姿が浮き出ていた。
その後、良心の呵責を感じた月美はルナによく似た猫を探すようになり、ある日公園のベンチの上にそっくりな黒猫がいるのを見つける。彼は黒猫を引き取って家に持ち帰り、始めは哲也とともに喜び合っていたが、しかしその猫がルナと同じように片目であることに気付くと、次第にこの猫に対する嫌悪を感じるようになる。
哲也は食品工場に派遣されていたが、派遣切りに遭ってからは人格が変わり、月美を殴ったりするようになる。
月美は地獄から逃れるために、哲也を斧で殺してしまう。
月美は死体の隠し場所を思案したのち、地下室の煉瓦の壁に塗りこめて警察の目を誤魔化す。しかし捜査が地下室にまで及び、それでも露見する気配がないと見た月美は、調子に乗って哲也が塗り込められている壁を叩く。すると、その壁からすすり泣きか悲鳴のような奇妙な声が聞こえてきた。異変に気付いた警察の一団が壁を取り壊しにかかると、直立した哲也の死体と、その頭上に座り、目をらんらんと輝かせたあの猫が現れる。
月美はその美貌で看守たちを魅了し、脱獄することに成功した。
夏菜子や貴子が小屋で見つけたのは留萌右近の惨殺死体だ。真犯人はいったい何人殺せば気が済むのだろうか?
夏菜子は貴子を疑った。この小屋のドアを自由自在に開けられたのは貴子だ。
「警察には言わないでもらえますか?」
「やっぱりあなたがやったんですか!?」
「私じゃない!けど、警察は私を疑うでしょうね?あの和戸って刑事はなかなかの切れ者ですよ」
「死体を隠すのって犯罪ですよね?」
「10万で見逃してくれない?」
夏菜子は耳を疑った。それだけの金があれば生活が随分楽になる。小説家は生活が意外と大変だ。1日2食って日なんてざらだし、風呂に入らない日もある。
「どこかに遺体を埋めないといけないですね?」
2人は汗だくになりながらワゴン車で遺体を桜の名所である吉野山に運び、スコップで穴を掘り遺体を埋めた。
宿に戻って風呂に入ってると、物音がした。脱衣所に向かうとカゴに茶封筒が下着の下に隠れていた。茶封筒の中には諭吉が10枚あった。
2月2日午前10時、夏菜子は近鉄奈良駅のロータリーにいた。「カナちゃん、待ったぁ〜」
高校時代からの親友だ。2人ともバスケ部だった。
「あの頃は楽しかったよね〜」と、夏菜子は言った。
「え〜?地獄だったけどなぁ」
映美はその美しさが評価され女優になった。
夏菜子たちは東向商店街に入り、興福寺へ向かう。通行人はみんなマスクをしていた。
夏菜子はアベノマスク、映美はウレタンマスクをしていた。
10時5分、五重塔が見えてきた。興福寺に2人はやって来た。猿沢池横の石段を上って境内へ向かう。
そんな2人の背中を1人の男が見ていた。
俺は8人の命を奪うことに成功した。あと2人で怪物を倒すことが出来る。
本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)に隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
しかし、興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している。中でも永承元年(1046年)12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失している。治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による被害も甚大で、東大寺と共に大半の伽藍が焼失した。
この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走し、朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
鎌倉時代や室町時代には武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。また、江戸幕府からも寺領2万1,000石を認められた。
江戸時代の享保2年(1717年)にまたしても大火災が発生し、中金堂、西金堂、講堂、南大門などが焼失した。しかし、時代背景の変化もあって再建資金を捻出できず、大規模な復興はなされなかった。その後、約100年たった文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によって仮堂ではあるがようやく中金堂が再建された。
慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈を引き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は早々と還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。18か寺あった末寺とは本末関係を解消し、83か寺の子院、6つの坊は全て廃止され、僧は全員自主的に還俗し、とりあえず「新神司」として春日社に使えることとなった。
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