翼を広げて

(ああ……)



 心の奥から、さっきまでの激情が引いていくのを感じる。



 ―――この子は行ってしまう。



 どんなに止めても、どんなに嘆いても、この子はその翼を広げて、己が決めた道へと飛び立っていってしまう。



 きっと、誰にも止められない。

 誰にも―――



 笑っていた実が、目を丸くして固まる。

 イルシュエーレが、実を強く抱き締めたからだ。



「あなたは……本当に、不思議な子ね。」



 そう呟くイルシュエーレは、さっきまでの態度からは想像もつかないほどに穏やかな声をしていた。



「あなたは変わったわ。昔よりもずっと強くなって、ずっと聡明になった。でも、とても優しいのは変わらないまま。そんなあなたが、私もみんなも大好きよ。だから……」



 実から体を離し、イルシュエーレは泣きそうな顔で笑った。





「―――行きなさい。あなたが、正しいと思う道に。」





 その言葉に、実が驚いたように目を大きく開いた。



 決めたからには引く気などないくせに、それを他人に認めてもらえるとこんな風に驚くのは、昔から変わらないようだ。



 こんな実だから愛したのだ。



 自分が人並みを外れていると知っていても、何度傷ついたとしても、恐怖と向き合いながら人間の中で生きようとしているこの子を、ずっと守りたいと思った。



 イルシュエーレは目を丸くしたままの実にくすりと笑い声を漏らすと、その額にそっと口づけを落とした。



 すると、実の周囲に薄いしゃがかかったかのように細かい水が散る。

 細かい水の粒子は日光にきらきらと光って、幻想的な景色を生み出した。



「この先私の名の下に、どんな水の力もあなたを傷つけることなく、時にはあなたを助けるわ。望むなら、あなたが守りたいと思うものも守る手助けをしてくれるでしょう。私にできるのは、これくらいみたい。」



 肩をすくめて明るく笑うイルシュエーレの目尻から、涙が幾筋いくすじも流れた。

 それを見た実が慌てたような顔をするが、イルシュエーレは静かに首を振る。



「違うの。悲しいんじゃないわ。私もよく分からないけど、なんだかとても安心してるの。今度は、ちゃんと送り出してあげられたから。」



 あの時とは違う。

 自分で納得して、自分の意思で実の背中を押してやれるのだ。

 それは決して、悲しいことではない。



「私はここから、あなたを見守るわ。でも……つらい時は、いつでもここに帰っていらっしゃい。いくらでも助けるから。……ううん。あなたは、人じゃないものに愛される子だもの。私じゃなくても、自然の力はあなたを助けてくれるわ。だから、自信を持って進みなさい。」



「そんなことありません。」



 その時、それまでずっと黙っていた拓也が実の腕を引き寄せた。



「人間にだって、実を大事に思ってる奴はたくさんいます。」



 拓也が話に入ってきた途端、イルシュエーレの表情が消える。



 内心はらはらして焦った実だったが、実の危惧に反して、イルシュエーレはゆっくりと目を閉じた。



「……人間は長い間、無知故に私たちを傷つけてきました。その長い時の中で積み重なった人間への不信感と嫌悪感は、そう簡単には消えません。私は今までどおりこの湖にとどまり、人間をこの聖域に近付けないように拒絶するでしょう。」



 そこで一旦区切ると、イルシュエーレは目を開いて表情をやわらげた。



「でも、この子が信じると言うなら、私もそれを信じましょう。私はここから動けません。この子を決してひとりにしないで、支えてあげてくださいね。」



「もちろん。お約束します。」



 はっきりと、拓也が答える。



 あの人間嫌いのイルシュエーレが、人間にそんなことを言うなんて……



 実は言葉もなく、イルシュエーレを見上げた。

 その時。



「―――っ!?」



 勢いよく、体が後ろに傾ぐ。



 バランスを崩した体が誰かの胸の中に倒れ込み、片手で抱き締められると同時に目を塞がれる。



 鼻をくすぐるのは、どこか懐かしい香りと温もり。



「父さ―――」



 言葉は続かず、意識が闇に落ちていく。





「ごめんね。」





 そんな言葉を、薄れゆく意識のすみで聞いた気がした。


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