思わぬ介入

 実は慌てて背後を振り返る。

 そこにいた彼は実と目が合うと、親しげに目元をやわらげた。



「お前……どうして……」

「どうしてとは愚問だな。」



 レティルは笑った。

 実の驚いた表情に満足しているのか、彼の声には上機嫌な響きが宿っている。



「何日も前から、お前の気配がここを動かなかったからな。ちょっと様子を見に来てみたのだ。予想どおり、悩んでいるようだな。」



「予想どおりって……これも、お前が仕組んだのか!?」



 レティルに食ってかかる実。

 だが意外にも、レティルは実の期待した反応を返さなかった。



 彼は静かに、首を横に振る。



「今回は違う。お前の様子は予想どおりだったが、これは私が仕組んでのことではないぞ。」



 レティルはぐるりと部屋を見回した。

 ふむ…と思案げに頷いた彼は、ゆっくりと実に視線を戻す。



「簡単にとはいかないが、出ようと思えば出られるではないか。出たいなら、出ればいいだろう? ここを壊してでも。」



「それはだめだ!!」



 瞬間、自分でも驚くほどの大声が出た。



「ここは……俺の大事な場所なんだ。何があっても、それだけはできない。」



 ここは、優しい思い出がたくさん詰まった場所。

 イルシュエーレがいる場所。

 壊すなんてできるわけがない。



 そんな実の答えを聞いたレティルが、意地悪そうに口の端を上げる。



「ほらな。迷っているのは、間違いなくお前の心だろう?」

「………っ」



 実は唇を噛む。



 反論できない。

 迷っているのは自分。

 誰に強制されたわけでもない。



「別に、迷うのは仕方ないことなのではないか?」



 そう言うと、レティルはまばたき一つの間に実との間合いを詰めた。



 それに反応して素早く地を蹴った実だったが、寸でのところで手首を捕らえられてしまう。



「つっ…」



 バランスを崩した実の二の腕を逆の手でしっかりと掴み、レティルは実の目を間近から覗き込んだ。



「目の輝きが変わっている。?」

「!?」



 実は瞠目する。

 なんのことを言われているのかは明白だ。



 実の動揺は、隠す間もなくレティルに伝わった。

 彼はまじまじと、見開かれた実の瞳に目をらす。



「おかしいと思ったのだ。力を取り戻したばかりのお前は、異常なほどに過去を拒絶していた。その過去に引きずられて、人間不信に陥っているにも関わらずだ。ここでのことを思い出していなかったなら、それもまあ納得がいく。」



〝思い出していなかったなら?〟



 レティルの発言に、実は引っかかりを覚える。



「ちょっと待て。お前……やっぱり知ってたのか? 俺がここにいた時のこと。」

「そりゃあ、ずっと見ていたからな。」



 レティルは、隠しもとぼけもなかった。



「初めから知っていた。エリオスの子供が〝鍵〟として生まれてくることはな。だから、ずっと見ていた。そして、だから知っている。お前が人間に憧れていたことも。その人間からされた仕打ちも。壊れかけたお前を、あの精霊王が心から愛したことも。全部だ。」



 実は言葉を失った。

 やはり、レティルは全てを知っていたのだ。



 ずっと昔―――自分という存在が生まれる前から。



「なんで……」



 無意識に口をついていた。

 それを聞いたレティルは、にやりと笑う。



「―――っ」



 ぞわりと、背筋を悪寒が走った。



 まるで蛇が這い上がるような悪寒は、実をしびれたように動けなくさせる。

 そんな実の耳元に、レティルの口がそっと近付く。



「前も言わなかったか? 私は、お前という存在と出会えるを待っていたのだと。」



「………っ」



「しかし、実際はどうなのだろうな…。もしかしたら……私ですら、お前の運命に組み込まれた歯車の一つでしかないのかもしれん。」



「―――っ!!」



 ドクン、と。

 心臓が大きく跳ねて、血という血がざわめく。



 聞きたくない。

 どうしようもなく、そんな思いが頭で爆発する。



「お前はな―――」

「だめっ!!」



 次の瞬間、自分の体は強い力によって後ろに引き倒されていた。

 なすすべもなく傾いだ体は、すぐに柔らかいものに受け止められる。



 いつの間にか、イルシュエーレが実の後ろにいたのだ。

 イルシュエーレは実を守るように抱き締め、レティルを睨む。



「ほう…」



 レティルが感心したような息を漏らした。



「私が来たと絶対に分からないよう、結界を張ってあったのだかな。」

「聖獣が教えてくれました。」

「シャールルが…?」



 呟くと、それに応えるようにイルシュエーレが小さく頷いた。

 そして。



「あなたは…っ」



 彼女の瞳が、怒りをはらむ。



「あなたは、一体何をするつもりなのですか!?」



 精一杯の声を張って、彼女は目の前に立つレティルに言葉を投げつける。



「イルシュ……」



 思わぬ展開に驚いた実は、慌ててイルシュエーレの腕に触れる。



 イルシュエーレの腕は、微かに震えていた。

 怒りに彩られる双眸には、巨大な畏怖の念が渦巻いている。



 恐怖に駆られながらも、イルシュエーレは必死に言葉をつむぎ続けた。



「この子がどんなに苦しんでいるのか、あなたはご存じでしょう? それなのに……」

「イルシュ……」



「それなのに、これ以上この子に何をさせるのですか!? 何をいるおつもりなのですか!?」

「イルシュ!」



「何度、この子の心を殺せば気が済むのですか!?」

「イルシュッ!!」



 これ以上はだめだ。

 我慢できず、勢いよく振り返ってイルシュの頭を抱き寄せる。



 突然のことに、イルシュエーレが身を硬直させる。

 その震える体を、実は力強く抱き締めてやった。



 遥かに格上の存在である神に意見しているのだ。

 相当な恐怖があるのは、当たり前のこと。



「もう、いいから…っ」

「うっ…」



 イルシュエーレの強気が、その一言で瓦解する。

 涙を流して震えるイルシュエーレを支えながら、実はレティルに顔だけを向けた。



「もう帰ってくれ。答えなら自分で出す。頼むから、これ以上ここを荒らさないでくれ。」

「その方がよさそうだな。」



 レティルはあっさりと頷いた。



「そうだ、最後に言っておこう。」



 きびすを返しかけて、レティルは実に向き直る。



「私は別に、お前に人間の世界に帰れと言いに来たのではない。今の目の色もなかなかにいい。人間不信や人間嫌いであるのは、非常に結構だ。」



 そう言い残し、今度こそレティルは消えた。



〝人間不信や人間嫌いであるのは、非常に結構だ。〟



 最後にレティルが残したその言葉を、実はどこか凍った気持ちで繰り返していた。

 全身に、薄ら寒い余韻が残っている。



 本当に分からない。

 彼は何を考えているのだろう。



『お前はな―――』



 自分はあの時、彼に何を吹き込まれようとしていたのだろう。



 分からない。

 怖い。



「俺は……何なんだろう…?」



 気付けば、ぽつりと零した後だった。

 その後、思わず唇を噛み締める。



 すると、それまで身を縮こまらせて震えていたイルシュエーレが、思い切り抱きついてきた。



「わっ…」

「………、……から。」



 驚いて下を見下ろすと、彼女はぼそぼそと何かを呟いている。



「イルシュ?」



 呼びかけると、イルシュエーレは腕に力を込めた。



「もう……傷つけさせない。」



 それは今まで震えていた声など忘れさせるような、よどみのない力のこもった声。



 それに、実の表情が曇る。



「………」



 何も言えなかった。



 彼女たちの好意はとても嬉しい。

 いっそのこと、彼女たちに守られていたいと思うほどに。



(俺は、どこにいるべきなんだろう……)



 イルシュエーレの温もりを感じる実の心は、さらに大きく揺れていた。


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