自分はどこにいるべきか……

 実はガラスの壁に手を置いて、頭上を仰いでいた。



 見えるのは、遥か上で揺らめく光。



 今は夜なのだろうか。



 水面で揺らめく光は太陽のように明るいものというよりは、月のようにほのかな優しいものに見える。



 今ここにいるのは自分一人だ。

 シャールルたちに頼んで、少しの間一人にしてもらった。



(どうしよう……)



 実は思い詰めた表情で光を見つめる。



 心の揺れを抑えきれない。

 迷っているのだ。



 人の世界に帰るべきか、ここにいるべきか。



 帰らなければと―――最初は、そう思っていた。



 でも、ここで徐々に記憶を取り戻して、精霊たちにシャールル、イルシュエーレの気持ちを知っていくにつれて、自分の心は明らかに道を失い始めていた。



 ここにいるのは心地よかった。



 人間がいないという環境に無意識で気を抜いている自分もいたし、精霊たちとの毎日を楽しんでいる自分もいた。



 それは懐かしさからくるものであると同時に、今までの世界に疲弊している気持ちからくるものでもあったのだろうと思う。



 そして何より、次々と思い出される記憶が、帰ろうと思っていた自分をしりみさせていた。



 あれはもう、過去の記憶。

 そう言い聞かせればそれまで。



 でもあの記憶は、幼い頃に刷り込まれた人間に対する不信感そのもの。

 トラウマと化していたその記憶を、過去のことだと言い聞かせるには無理があった。



 大丈夫。

 この人ならきっと大丈夫。



 そういった思いが、ことごとく絶望を招いた。



 もう人間を信じまいと。

 絶対に期待などすまいと。



 幼い頃の経験から、己の中に深く刻み込んだ思い。



 その思いを生み出した記憶は痛烈に脳裏に焼きついて、拓也たちに心を開きかけていた今までの自分を足止めしている。



 いいの?

 どうせ、また傷つくのに?



 また人と関わるの?

 決して報われなんかしないのに?



 いや、違う。

 報われるとか、報われないとか、そんなのはどうでもいい。





 ―――自分はまた、桜理みたいな犠牲を出したいの?





「―――っ!!」



 ぞわりと、全身が総毛立った。



 人に裏切られて、それでも人を求めて。

 そうして繰り返した同じ過ちの果てに、桜理を犠牲にした。



 桜理はもう気にするなと言ってくれるけれど、それでも彼女が自分の犠牲になった事実は変わらない。



 自分が特別だと認めたから、桜理を選んだのだと。

 レティルははっきりと、そう告げたのだから。



 あんな経験までしたくせに、再び桜理のような―――いや、桜理以上の犠牲を出したいのか?



 過去の記憶が。

 幼い心が。

 自分にそう問うてくる。



 嫌に決まっている。

 もう二度と、あんな思いはごめんなんだ。



 心がボロボロに引き裂かれるような、生き地獄のような思いなんて。

 だったら―――



「俺は……帰らない方がいいのかな?」



 ぽつりと、無意識に出た言葉だった。



 分かっている。

 こんなことを言ったら、きっとたくさんの人が怒るだろう。



 お前の居場所はここだろう、と。

 そう言って、自分を連れ戻そうとしてくれるに違いない。



 何があっても味方だからと。

 躊躇ためらいもせずに、手を伸ばしてくれるのだ。



 分かっている。

 でもそれが、胸を苦しく締めつける。



 そう。

 怖いのはいつも自分。



 近付くのが怖くて、人を遠ざける。

 傷つくのが怖くて、人を拒絶する。

 自分という存在の異質さを思い知るのが怖いから、ひとりになりたがる。



 本当は―――誰よりも、人の温もりを求めているくせに。



「………」



 考えすぎて目が回りそうだ。



 自分は、人の世界にいてもいいのだろうか。

 心一つで世界を動かしてしまう自分が、みんなと一緒にいてもいいのだろうか。

 自分に、そんな資格があるのだろうか。



 ―――否、ここにいるべきだ。



 躊躇ためらう気持ちがそう訴える。



 精霊たちを、拓也たちを、人の世界を大切に想うなら―――心が乱れてしまう外の世界にいるべきではない。



 ここにいて、精霊たちに守られていた方がいい。

 それで穏やかな気持ちで人々の幸せを願っていれば、それでいいじゃないか。



 だけど……



 ―――帰りたい。



 そう思う自分も、確かにここにいる。



 無邪気な頃に戻って、人との触れ合いを当たり前のようにしてきた。



 たくさんの人と触れ合って、笑い合って、怒鳴り合って、泣いて、ふざけて、また笑って―――



 人に裏切られた記憶があるように、人に与えられた温かい記憶もあるだろう?



 あの時は、全てを忘れていただけだったとしても。

 それでも、人と上手く過ごしていたではないか。



 そこに一縷いちるの望みをかけてはいけないのか?

 信じては、いけないのだろうか…?



「ああもう……」



 実は顔を伏せる。



「どうすればいいんだよ。」



 頭の中を目まぐるしく駆け巡る葛藤かっとうに、重い溜め息が零れた。

 その時。



「何を悩んでいるのだ?」



 この場で聞くはずのない声が飛び込んできた。


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