どちらかを選ぶなんてできない
―――――ドンッ
イルシュエーレが消えてから間もなく、立っていられなくなるような揺れがその場を襲った。
緊張の面持ちでガラスの向こうを見つめていた実は、その衝撃でバランスを崩してしまう。
ベッドの上で遊んでいた精霊たちも、一瞬にして笑い声を引っ込めた。
「な……なに…?」
膝をついて起き上がる実の服を、誰かが小さく引っ張った。
下を見ると、何人かの精霊が自分の周りに集まっていた。
皆一様に怯えたような顔で、遥か上の湖面を仰いでいる。
「……どうしたの?」
問いかけると、精霊の一人が震える唇を薄く開いた。
「イルシュエーレ様が……怒ってるの。」
「怒ってる?」
聞き返した実に、精霊はこくりと頷いた。
「うん。すごく怒ってる。あんなに怒ってるイルシュエーレ様は久しぶり。いつもとても優しいから、怒るとすっごく怖い。」
イルシュエーレが怒るような理由。
そんなもの、考える限り一つしかない。
実の顔から、さっと血の気が引いていった。
「まさか……拓也たちが…?」
人間嫌いのイルシュエーレだ。
人間がこの聖域に足を踏み入れることですら、いい気分はしないだろう。
そしてその相手が、自分を助けるために来た拓也たちだったとしたら―――
「ねえ、みんなは自由に外に出られるんだよね?」
その問いに答えるように、精霊は一つ首を縦に振る。
「だったら、俺も一緒に外に連れていってくれない?」
実の言葉に、精霊たちが驚愕する。
「………っ!? そんなこと―――」
「無理は分かってる。でも、お願い。」
「むっ……無理だよ!!」
「―――……」
必死に首を振る精霊を無言で見下ろして、実はゆっくりと立ち上がった。
「………っ!? ―――だめ!!」
急に黙り込んだ実から、何かよからぬものを感じたのだろう。
精霊たちが揃って実にしがみつき、実がその先に進むのを止めた。
「実、何する気!?」
「頼んでだめなら、自力で行く。」
「行っちゃだめだよ!」
「ごめん。でも、もう限界。」
「違うのっ!!」
実は
だが精霊たちも必死なのか、何度振り払われても意地で実にしがみついた。
その場にいた精霊たちは、総動員で実に訴えた。
「この湖はイルシュエーレ様が自分の体を縛りつけてある場所だから、イルシュエーレ様の感情にものすごく影響されるの!」
「イルシュエーレ様が怒ってる今は、湖の水が全てに害をなすようになってるんだよ! 私たちだって、水に入れないくらいなの!」
「行ったら、実が危ないよぉ!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ!!」
実は叫ぶ。
「ここで、事が収まるまで指をくわえて待ってろって言うの!? そんなこと、できるわけないじゃん! もしかしたら……俺の大事な人たちが、危ないかもしれないのに…っ」
やりきれない思いが胸につまって、実は衝動的に髪を掻き回した。
「イルシュもみんなも大事だよ。ここにいるのも好きだよ。だけど……向こうにも、大事なものがあるんだ。どっちかを選ぶことはできないし、どっちかを見捨てることもできないんだよ! 少しくらいの危険なら、いくらでも飛び込んでやる。俺は……自分の大事なものを守りたいんだ!!」
そう。
どちらかを選ぶなんてことはできない。
イルシュエーレたちも拓也たちも、自分にとっては大切で仕方ない人たちだ。
優劣なんてつけられるわけがない。
どちらも大事だからどちらにも傷ついてほしくないし、危険な目に遭いそうならば全力で助けたい。
自分だけが守られて何もしないなんて、他でもない自分自身が許せない。
「実…」
精霊たちは困惑して、互いに顔を見合わせる。
そんな中。
「実。」
精霊たちとは違う、少年のように高めの声が実を呼んだ。
「実、こっち。」
実を呼んだシャールルは、実と目が合うとその場から飛び跳ねて、部屋を出ていった。
時々こちらの様子を見ながら進むシャールルに、実はとにかくついていくことにした。
彼が向かったのは、噴水があるあの部屋だ。
噴水の前で実を振り返り、シャールルは言った。
「実、僕が手伝うよ。一緒に行こう。」
「え?」
「シャールル!!」
一緒についてきた精霊たちが、非難めいた声をあげる。
だが、シャールルは彼女たちに向けて大きく首を振った。
「僕は、実のために動きたいんだ。実が嫌がることや傷つくことはしたくない。実が危険を承知で行くって言うなら、僕だって一緒に危険に飛び込むよ。それが僕の答えだ。」
有無を言わさないシャールルの口振りに、精霊たちは反論の言葉が出ないようだった。
何も言えない状況の中で、視線だけが未だに反対だと告げている。
しかし、シャールルはそれをまるで相手にしない。
シャールルの目は、実しか見ていなかった。
「シャールル……」
呟く実に、シャールルは小さく笑い声を漏らした。
「きっと大丈夫だよ。イルシュエーレ様も、本当は迷ってたんだ。実の大事な人を傷つけなんかしないよ。だから、一緒に見に行こう。でも……」
天井の
「僕の力も、この場の
「そんなこと気にしないでよ。」
そう言って、実はシャールルの前でしゃがむ。
「手伝ってくれるだけで十分だよ。ありがとう。」
「当たり前だよ。僕はずっと実と暮らしてて、実が人間も人間じゃないものも、みんな平等に信じようとしてたってことを知ってるもん。じゃ、行こうか。」
「うん。」
シャールルを抱き抱えて立ち上がると、周囲に水が渦巻き始めた。
体が床から浮かび上がり、シャールルと共に勢いよく水の中に飛び込む。
「う……わ……」
実は顔を歪める。
自分の周りをシャールルの魔力が包んで、自分を守ってくれているのが分かる。
それでも、水に触れた全身がビリビリと
「実、大丈夫?」
シャールルが気遣わしげに実を見上げる。
だが、そんなシャールルも苦しいのを我慢しているようだった。
実は歯を食い縛り、意識を集中させる。
シャールルの魔力の周りに自分の魔力を集めて、少しでも自分とシャールルにかかる負荷を弱める。
「大丈夫……急ごう。」
シャールルの力を借りて、実はひたすらに上を目指す。
進めば進むほどに、体の痺れが増していく。
きっと、少しずつイルシュエーレに近付いている証拠なのだろう。
実は表情を険しくしながらも、遥か向こうに見える湖面を目指した。
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