大地を震わせる怒り

 湖から現れたのは、具体的な言葉では言い表せないほどの美しさと、神秘的な雰囲気を身にまとった女性だった。



 流れるように波打つ二色の青の髪に、伏せ目がちなまぶたの奥にある、透き通るように青い瞳。



 水をつかさどるに相応しい姿だと、無意識に思った。



 人間を外れた美しさ。

 そんなものに、拓也と尚希は言葉を失うしかない。



「……なんの用?」



 柔らかそうな雰囲気を放つ彼女から発せられたのは、深い水底のような冷たさをはらんだ声だ。



 雰囲気と声に気圧される拓也たちとは対照的に、イルシュエーレの前に立つ彼は至って穏やかだった。



「それは、君がよく分かっていると思うな。君が大切に隠している子と話がしたい。」

「嫌って言ったら?」



 イルシュエーレの返答は早かった。

 実を返す気がないことは、彼女の中ではっきりしているのだろう。



 彼はそれに、苦笑いを浮かべるだけ。



「それは困るな。せめて、話だけでもさせてくれないかな? そうでないと、私も後ろの彼らも納得できないんだ。実も困っているらしいね。君も、それは分かっているんだろう?」



「………っ」



 イルシュエーレの顔に、微かな動揺が走る。

 そして、それを見のがすほど彼は甘くなかった。



 彼は畳み掛けるようにして、言葉を重ねていく。



「お互い、実の意見を尊重してあげないかな? 実もきっと、そう望んでいるはずだよ。」

「………」



「実を出してあげてくれないかな?」

「………」



「それが、実のためだよ。」

「―――っ」



 彼がそう口にした瞬間、ずっと沈黙を守っていたイルシュエーレの表情に苛烈な感情が横切った。



「あなたが……あなたがそれを言うの!?」



 怒りがこもった声が、大きく地を震わせる。



 険しい目つきで彼を睨むイルシュエーレ。

 その視線は、彼を射殺してしまわんばかりの激情を伴っていた。



「こことは違う世界へ行けば、あの子は穏やかに暮らせるんじゃなかったの!? あの子はいつも、自分の気持ちをこらえて大人になろうとしてた。私たちと暮らすのを気に入っていたのに、それさえも抑え込めてあなたに従ったのよ? それなのに…っ。どうしてあの子はあんなに傷ついて、追い詰められて、つらそうな顔をしているの!?」



 一言を発する度に、イルシュエーレの表情が怒りから悲しみの色に変わっていく。



「それでも……あの子は、絶対にあなたを責めない。今でもあなたを信じ続けて、心の底では誰よりもあなたの助けを欲しがってる。なのに、どうしてあなたは……あの子の傍にいてあげないの? 一緒に立ち向かってあげないの? ねえ……答えてよ! ―――エリオス!!」



 今にも泣き出してしまいそうな声で、イルシュエーレは目の前の人間に問いただした。



「違う!! エリオス様は―――」



 とっさに反論しかけた尚希を、エリオス本人が手だけで制する。

 ゆっくりと後ろを振り向いたエリオスは、小さく首を振った。



「いいんだよ。」



 淡い微笑みと共に、エリオスはそう告げる。

 そして彼は、怒りと悲しみに震えるイルシュエーレと向き直った。



「君の怒りも、もっともだと思う。確かに私は、いい父親ではない。実を運命から解放したい一心で、逆に実をより運命に縛りつけてしまったのかもしれない。傍にいてやれないことも、どうしようもなく歯がゆく思う。」



 ただ、静かに。

 エリオスは己の非を認める。



「……本音を言うならね、君が実を保護してくれるなら、私はとても安心できるんだよ。実の運命は、私みたいな人間一人の力ではどうにもならないんだと……十分に思い知った。精霊のおさたる君の加護の下なら、実も幸せに笑っていられるのかもしれない。」



 自分の力では、どうにもならない。

 淡々とそう告げるエリオスを見つめ、尚希は複雑な気持ちにならざるを得なかった。



 自分の力では大切な人を救えない、と。

 そう認めるのに、どれだけの葛藤かっとうがあっただろう。

 それを思うと、胸がやるせなくなる。



 ―――違う。



 エリオスだって、実のために色んなものを犠牲にして、血が滲むような努力をしているはずなのに。



 違うんだ。



 そう叫びたいのに、エリオスの〝いいんだよ〟という言葉が、尚希の喉から声を奪っていた。



(―――ありがとう。その気持ちだけで十分だよ。)



 その瞬間エリオスの声が頭に響いて、尚希は目を丸くした。



「………」



 所詮エリオスには、自分の気持ちなどお見通しということか。

 ひっそりと息をつき、尚希は引き下がるしかなかった。



 そんな尚希を背にして、エリオスはそっと目を閉じる。



「でもね、イルシュエーレ。私や君が考える実の幸せと、実自身が考える幸せは、必ずしも同じとは限らないだろう?」



「それは……」



 イルシュエーレが言葉につまる。



「あの子も、もう大人の言うことを聞くだけの子供じゃない。実には、実なりの信念や守りたいものがあるはずだ。それを、私たちに抑え込めることなんてできないよ。実のことを想うからこそ、君も分かっているはずだ。違うかい?」



「………」



 イルシュエーレの視線が、ここで初めてエリオスから外れた。



 彼女も迷っているのだ。



〝実を大事にしたいから〟



 それが彼女を動かす原動力となり、逆に彼女の行動をさまたげるブレーキとなってしまう。



 イルシュエーレは何も言わない。

 それぞれがそれぞれの想いを胸に、その場を動けずにいた。


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