人間の世界に行ってよかった

 そこは、面白い空間だった。



 ベランダのようなそこは、建物の外にありながら水は入ってこない。

 もちろん、息も難なくできる。



 上を見上げれば、遥か頭上に揺蕩たゆたう光を見ることができた。



 ふと、ベランダと建物を繋ぐ扉が微かな音を立てて開いた。

 それに、イルシュエーレはそっと振り返る。



「イルシュ、今大丈夫?」



 扉から半身だけ出して、実は許可を取る意も込めて首を傾げた。

 イルシュエーレは、優雅な仕草で静かに頷く。



「いらっしゃい。」



 それは母親が子供に語りかけるような、そんな口調に似ている。

 実はイルシュエーレの隣に並ぶと、イルシュエーレと同じように上を見た。



「ここの景色も、変わらないね。」



 湖の外から差し込んでくる光に反射して、水中に舞う魚がきらきらと輝いている。

 湖底から見上げるその景色は、まるで夜空を見ているかのようだった。



「そうね。でも、今日はちょっと特別かしら。」



 歌うように告げたイルシュエーレの視線が実に移る。



「あなたが隣にいるからか、今日は一段と綺麗に見えるわ。」



 微笑んで、イルシュエーレは実の髪を柔らかくいた。

 それに、実も笑みを浮かべる。



「そっか。なんか、かなり寂しい思いをさせてたんだね、俺。」

「本当に。」



 間髪入れずの即答。



「だって、昨日まで普通に会っていたのに、突然〝もうここには帰ってこない〟ですもの。いきなりすぎて、受け入れるのに時間がかかったわ。それにここを離れるってことは、人間の世界に行くってことでしょう。すごく……心配したわ。」



 暗い表情でうつむくイルシュエーレ。



「昔からね、私たちに好かれるような人間は、同じ人間からは都合のいいように扱われてきたわ。崇められたり、恐れられたり、殺されたり…。昔から、ずっとよ。よく襲われていたあなたを見る度、悲しかったわ。優しいあなたが、どうして無条件に傷つけられなきゃいけないのかって。すごく、心配だった……」



 イルシュエーレの手は、少し震えていた。



 彼女が語るのは、今さら変えようもないこの世界の摂理。

 そこを否定するつもりはない。



「ごめん、心配かけて。俺もさ、色々あったよ。」



 静かに語り始めた実は、頭上に広がる深い青を見つめた。



 遠い過去を思い出すように、一つ一つの言葉を噛み締めながら、喉を震わせて言葉をつむぐ。



「向こうの世界には、俺の正体に気付く人なんか本当にいなくて、みんな優しかった。幸せだったし、平和な日々を過ごしてたと思う。でも〝鍵〟の運命はしつこく追ってきて……結果として、大事な人の運命を壊すことになった。」



 隣でイルシュエーレが泣きそうな顔をしたけど、今はそれに触れずに過去語りを優先する。



「それ以来、他人と関わるのがもっと怖くなったよ。あれが完璧にトラウマになっちゃってさ……俺は人に関わっちゃいけないんだって思ったし、こんなひどいことを平気でやる人間なんか信じない方がいいとも思った。もしかしたらあの時の俺は、人間を憎んですらいたかもしれない。」



 人間を憎みそうになる気持ち。

 自分を責める気持ち。

 桜理を失った悲しみや絶望。



 その全てを、あの時の自分は抱えきれなかった。



 とにかくつらくて、桜理の面影から逃げたくて。

 だから、全部忘れた。



「でも今は、人間にも色んな種類があるんだって分かった。色んな人がいすぎて、信じていいのかだめなのか、判断できなくなるくらいに…。中には俺の正体を知っていながら、それでも俺に優しさをくれる人たちもいる。だから、余計に迷っちゃって…。今はここにいるせいか、自分がどうするべきなのか……正直、かなり曖昧あいまいになってるんだ。」



 誰にも言えずに、一人で悶々もんもんとさせていた迷い。

 それを初めて、言葉にしてみる。



「ここにずっといたい気もするし、早く外に帰りたい気もする。どっちつかずで、胸の中がもやもやしててさ。……それでも、ここに来たことは本当によかったって思ってる。イルシュたちのことをちゃんと思い出せてよかったって、素直にそう思えるんだ。だから―――」



 そこでイルシュエーレへと視線を戻した実は、彼女の細い手をそっと握った。



「ありがとう、イルシュ。俺をここに連れてきてくれて。それと、今も昔も変わらずに、俺を大事にしてくれて。……はは、なんか照れるね。」



 苦笑いを浮かべて、頬を掻く実。



 イルシュエーレは何も言わない。

 だが、無言を貫く彼女がこちらの言葉に驚いて、目の端に涙を浮かべているのが分かった。



 実はイルシュエーレに分からないように、細く息をつく。



「ねえ、イルシュ。」



 大切な存在の名を呼んで、実は目を閉じる。



「俺、たくさんの経験をしてきたよ。つらくて、悲しくて、消えたくなるような思いも何度もした。でもさ……つらいことばかりじゃなかったよ。後悔したことはたくさんあるけど、人間の世界で得たものは大きいと思うし、人間の世界に行ってよかったと思ってる。ごめんね。長くなったけど、それだけは知っててほしかったんだ。」



 一度桜理を失ったことや、拓也たちと出会ったこと。

 本当に色んなことがあった。



 望みもしないのに国の都合に巻き込まれて、望みもしないのに自分の運命に周りを巻き込んで。



 何度も死の縁に立っては、ボロボロに傷ついた。

 つらいことを挙げたら、きりがなくて嫌になる。



 ―――だけど、それだけじゃない。



 散々な日々の中で得たのは、決して絶望だけではなかった。



 人間を嫌っているイルシュエーレに、人間を好きになってほしいとは言わない。

 ただ、それで誤解はしてほしくない。



 自分が人間の世界で得たものはつらいことだけではなかったのだと、それだけは分かってほしかった。



 それが今の自分に伝えられる、精一杯のことだった。


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