猫被りのとある日

「私が、あなたを守るから。」



 遥か遠くに聞いた、微かな声。

 水滴が水面みなもに落ちるように、それが記憶の海を揺らした。



 波紋が幾重いくえにも広がり、奥底に眠っていた記憶をまた呼び起こしていく……





「いってらっしゃーい。」





 ドアを支えながら、俺は頭上を見上げた。

 そこに立つ両親は、後ろ髪を引かれるように名残惜しそうな顔をしている。



「一人で大丈夫?」



 優しく聞いてくる父さん。



「うん! ちょこっと寂しいけど、父さんも母さんもすぐに帰ってくるもんね。」



 無邪気さたっぷりの笑顔で言うと、屈んだ母さんが俺をきつく抱き締めた。



「ごめんね。本当は、ずっと一緒にいてあげたいのに。」

「大丈夫だよ。僕、お留守番ちゃんとできる。」

「そうね。えらいわ。」



 母さんは優しい手つきで頭をなでると、ゆっくりとその身を離した。



「じゃあ、あまり外に出ないようにして、鍵とかは閉めておくんだよ。」

「はーい。」



 毎度聞く父さんの言葉に、俺も相変わらずの返答をする。



「あと、何かあったらとにかく大声を出すんだよ。」

「うん、分かった。」



 これにも頷くと、父さんはにこやかに微笑んで虚空に視線を向けた。



「じゃあ、何かあったらすぐに知らせて。」

「お願いね。」



 母さんも父さんと同じように、虚空に向かってそう言った。



 そこにいる精霊たちのことは当然俺にも見えているのだけど、あえて何も言わないことにする。



 両親の前では徹底的に精霊たちを無視しているので、両親は俺が精霊を見なくなったと、都合のいい誤解をしてくれているようだから。



「見えないんだから、あまり悪戯いたずらしちゃだめよ?」



 両親が精霊たちにそう注意しているのがいい証拠。



「じゃあ、いってくるよ。」

「うん。父さんも母さんも、頑張ってね。」



 少し躊躇ためらいながらも離れていく両親を、その姿が見えなくなるまで見送った。



 ドアを閉めて、ふと息をつく。

 途端に。



「なんていうの…? あんたの家での態度って……いつ見ても気持ち悪いわね。」



 横から、一人の精霊が話しかけてきた。



「言うな。俺も、ひしひしとそれを実感してるとこなんだから。父さんと母さんを騙すためだし、いちいち文句言うなよ。」



 そうは言い返すものの、こいつの言うとおりだと思う。

 自分で言うのも複雑だが、両親に対する言葉遣いに抵抗がないわけじゃない。



「うー…。やっぱ、気持ち悪いなぁ。」

「ちょっと、自分で言ってどうすんのよ。」



「うるさい。大体お前だって、父さんたちの前では態度が違うだろ。猫被っちゃって。」

「あーら、私はいいのよ。精霊は常に美しく、清らかに見せないと。」



「……どの口が言うんだか。」

「何か言った?」



「いーえ。」



 一通り自己嫌悪はしたので、俺はドアから勢いをつけて背を離す。

 クローゼットから布を取り出し、椅子にのぼって机の上に布を広げる。



「ほんっと、人間のチビって不便ね。」



 しみじみと言われた。



「それには同感だけど、チビって言うな。人間では平均だ……多分……」



 他の子供を知らないので、語尾に自信がない。



 精霊の言葉を適当に流しながら、机の上にあるパンを布にくるんだ。

 それを持って、いつものように湖へ向かう。



 イルシュエーレや精霊たちとのんびり話をしたり、魔法を指導してもらったりと、その日も何事もなく終わるはずだった。



 でも―――



「……人の気配がする。」



 その事件は、ふい俺がそう呟いたことをきっかけに始まったのだった。


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