迷い人
「え…」
イルシュエーレを含む精霊たちが、俺の言葉に身を強張らせる。
俺も
人の気配がするのだ。
俺のものでも両親のものでもない、他人の気配が。
気配はさまようように右往左往しながらも、確実にこちらへ向かってくる。
そして。
下草を掻き分けて、一人の男性が姿を現した。
三十代くらいに見える彼は、何があったのか肩で大きく息をしている。
怯えるように見開かれていた瞳は、俺を視界に映すと、瞬く間に別の感情に塗り替えられていった。
「君……は?」
男性の声を聞いて、俺はとりあえず肩の力を抜いた。
もう完全に狂っているのかと思ったが、まだ話せるだけの正気はありそうだ。
「……人間だ。」
精霊たちに、警戒を含んだ不穏な空気が流れる。
「また迷ってきたの?」
「汚らわしい。」
「こんな所にまで来るなんて。」
「みんな、落ち着いて。森が荒れる。」
ざわざわと、生ぬるい風が木の葉を不気味に揺らす。
精霊たちの感情は、時として気候をも乱してしまうから厄介だ。
俺は精霊たちを小声でたしなめてから、ゆっくりとその場から立った。
そして、茫然と突っ立ってこちらを見つめる男性に近寄る。
「おじさん、迷子?」
訊ねると、ずっと呆けていた男性がようやく反応らしい反応を見せた。
ハッとした彼は、何度もまばたきを繰り返す。
「あ、ああ…。ちょっと森に入ったら、帰り道を見失って……」
「ふーん。」
よくある話だ。
「君は?」
少し落ち着きを取り戻したらしく、彼は俺に問いかけてきた。
「君はどうして、一人でここに? お父さんやお母さんは?」
男性の問いに、なんとなく複雑な気分になる。
(一人……ねぇ……)
背後に意識を向ければ、たくさんの気配があるのだが。
ある意味幸せだ。
俺の背後で敵意を剥き出しにしている精霊たちに、彼は気付いてなどいないのだから。
俺は男性の横を通り過ぎて、湖を離れる方向に歩いた。
戸惑っておろおろとしている彼を、
「帰りたいんでしょ? こっちに来て。」
その言葉に大袈裟なほど驚きながらも慌ててついてくる男性を先導して、俺は無言で先を進んだ。
別にこいつを助けるためじゃない。
ただ、あの場所に彼を長居させたくなかっただけだ。
あそこは森の中でも、特に清い力が渦巻く場所。
本来なら、人間なんかが気安く足を踏み入れていい場所ではないのだから。
それに加えて、精霊たちが彼を受け入れていないのも大きい。
あのままでは、精霊たちの不快感が募って森の力が荒れてしまう。
彼の安否はともかく、穏やかなこの森が荒れるのは嫌だった。
俺は小屋に戻って、男性を中に通してやった。
おずおずと中に入った男性は、小屋の外装から中までを珍しげに見回している。
「ここにいれば、お昼には父さんか母さんが来るよ。そしたら、帰れると思う。」
「今はいないのかい?」
「二人とも、仕事だから。」
俺がそう答えると「そうか…」と呟いて、彼はまた家中を見渡し始める。
「……珍しいの?」
気になって訊ねると、彼はその問いで自分の行動に思い至ったらしく、気まずそうに顔を伏せた。
「あ…。いや、まあ……まさか、こんな森の深いところで人が暮らしてるとは思わなかったから。やっぱり、どんな所にも人はいるんだね。」
情けなく笑う男性に、俺はふと違和感を持つ。
「ねぇ、おじさんって城の人?」
念のために訊いておくと、彼は案の定大きく首を振った。
「そんなわけないじゃないか。あんなすごい人たちになんて、遠く及ばないよ。ぼくは王都の外れで気長に暮らしてる、ただの凡人さ。家の近くの林で散歩をしていたら、斜面で足を滑らせてしまってね。帰るために迂回できそうな道を探していたら、逆にどんどん迷ってしまって…。狼の群れに遭遇した時は、もうおしまいかと思ったよ。」
「狼? よくそれで逃げてこれたね。」
驚いたので素直にそう言えば、男性はほっとしたような微笑みを零した。
「僕もそう思う。この辺りまで走ってきたら、急に狼たちが追ってこなくなったんだ。」
なるほど。
それを聞いて納得。
確かに、この辺りに狼はそうそう近付かない。
精霊たちが集まる湖があるということと、森の
この男性は、狼の群れに遭遇した位置がたまたまよかったのだろう。
そこまで聞いて、俺の男性に対する興味は完全に失せた。
「好きにしてていいよ。どうせいるのは俺だけだし。あと、体調が悪くなったりしたら、何も考えずに寝ておいた方が身のためだよ。」
さっきまでの会話で、男性がここがあの禁忌の森だと知らないことは読み取れた。
だからこんなに落ち着いていられるのだろう。
「身のためって…?」
やはり意味が分からなかったらしく、男性は当惑顔でこちらを見る。
「ここは、そういう場所だから。」
そうとだけ答えておいて、さっさとドアを閉めた。
おもちゃ箱から本を取り出して、ベッドに寝転ぶ。
いつもみたいに先日拾った
「ほっといていいの?」
それまでずっと黙っていた精霊が、伸びをしながら自分の周りを飛んだ。
「いいんじゃない? 胡散臭くなったら、自分から出ていくよ。俺に、これ以上の面倒を見る義務はない。」
昼までにはまだ時間があるが、賢明な判断ができるなら出て行きはしないだろう。
男性のことなど意識から追い出して、本に集中することに。
……本当は、少し不安だ。
おそらく彼は、自分が〝鍵〟だと気付いていない。
まだ狂ってもいない。
だから多分、大丈夫だと思う。
でも、確信はない。
確信がないから、不安になってしまう。
(父さんたち、早く帰ってこないかな……)
集中したいのに集中できない中途半端な不快感をこらえつつ、本を読み進めた。
時間は進む。
静かに、無為に。
だが―――
「うわああぁぁぁっ!!」
突如として響いた絶叫が、その沈黙を一気に打ち壊した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます