俺が信じないのは―――

 意識が沈んでいく。

 深く、深く、どこか分からない深淵へ。



 視界は闇に閉ざされ、聴覚は痛いほどの無音。

 その闇の中に、ふと不思議な光景を見た。



 それは、たくさんの本だった。



 厚い本。

 薄い本。

 った装飾がされた本。

 破れてしまいそうなほどに古い本。



 本の様相は様々だ。

 ただ、全ての本に共通する部分があった。



 本は全て鎖でぐるぐる巻きにされていて、鎖には頑丈な鍵がかかっていたのだ。

 そんな固く閉ざされた本が、重力を無視して暗闇に浮いていた。



 ………ザッ……



 無音だった聴覚に、ふいにノイズが混じった。

 ノイズは本に近付けば大きくなり、遠退くと小さくなった。



 ……ああ、ノイズの原因はこれなんだ。



 どこかぼんやりした意識で、そう思った。



 よく見れば、鍵の中にも壊れそうなものがある。

 そういう本に近付くと、ノイズの中に微かな声が紛れて聞こえた。



 たくさんの本を見送りながら、さらに落ちていく。

 その最中さなかで、ある本に目が止まった。



 その本には、そもそも鍵がついていなかった。



 ほどけかけた鎖を長く垂らして、その本は己の存在感を訴えるように、淡く発光しながら浮いている。



 手を伸ばしてみる。

 鎖を掴むと、それだけで鎖が霧のように消えた。



 そのまま本に手をかけると、本の光が一気に強くなった。

 光に飲まれて意識はかすみ、遠くなっていく。



 同時に、とある声と映像を光の中に見た。





「ねえ、どうして?」





 イルシュエーレの声だ。

 イルシュエーレは湖から上半身を出して草の上で手を組み、そこにあごを乗せている。



「んー? 何が?」



 イルシュエーレの隣に座って湖に浸かる足を揺らしながら、自分がそう聞き返した。



 初めて会ったあの日から、イルシュエーレは自分が湖に来ると、必ずその底から姿を現していた。



 イルシュエーレも他の精霊たちと同様に、自分に対して好意的だった。



 様々な知識を教えてくれて、今までよりも効率的な魔力の使い方や、ちょっとした応用も指導してくれた。



 おかげで自分の実力は、数日の間に飛躍的に上がった。



 イルシュエーレはいつも、この湖の底にいる。

 この湖から離れることができないらしいのだ。



 それではここを治めるには不便ではないかと思ったのだが、実際には大した問題ではないらしい。



 水は土や木々など、どこにでも含まれているもの。



 その水を通して森の観察はできるし、どこかで何かがあれば、それらを辿って分身を飛ばせるそうだ。



 それで事足りるくらい、イルシュエーレの力がとても強いということだろう。



 だから彼女は基本的に水底で神経を研ぎ澄まし、常に森中を監視している。

 地上には、年に数える程度しか出てこないという。



 そんな彼女が、自分と会ってからは毎日のように地上に姿を現していた。

 色々と教えてもらえるのでこちらとしてはありがたいのだが、少し不思議だった。



 それは周りの精霊たちも同じだったようだが、慕っているおさに毎日のように会える嬉しさの方が勝ったらしく、彼女たちは自分に「君はラッキーボーイね。」と、上機嫌で語りかけてくるだけだった。



 いつの間にか、自分についていればイルシュエーレに会えるという噂まで立ち、以前は姿を見せなかった精霊たちまで寄ってくるようになった。



 その結果、自分の周囲はこれまで以上に騒々しくなっている。



「ずっと不思議だったの。」



 イルシュエーレは、視線だけをこちらに向けた。



「あなたは、自分以外は信じないって言ってたわ。」

「うん、言ったよ。」



 認めると、イルシュエーレは軽い相づちの後にまた続ける。



「じゃあ、どうして精霊たちとはこんなに仲良くするの? あの子たちはあなたのことが好きみたいだからいいのだけど、あなたはどうして私たちに気を許してくれるの? それが、どうしても不思議で……」



「へ? どうして、そんなこと訊くの?」



 イルシュエーレからどうしてそんな疑問が飛んでくるのか分からずに、自分は思わずそう聞き返してしまった。



 自分からすればこれは当然のことで、疑問が生じる余地もないことだったのだ。

 だって……



 この後自分が放った言葉に、イルシュエーレは一瞬で顔色を変えてしまった。



「だって、イルシュたちは人間じゃないでしょ? なんで俺が、人間以外を敵って思わなきゃいけないの?」



 固まるイルシュエーレの目を、自分はまっすぐに見つめる。

 彼女の瞳に映る自分の顔は、何がおかしいのか分からないと語っているようだった。



「俺が信じないのは、人間だけだよ。それとも、イルシュたちも人間みたいに、俺を殺そうとするの?」



「まさか!! 人間なんかと一緒にしないで!!」



 間髪入れずに返ってくるのは、想像どおりの否という答え。

 それを聞いて、自分は彼女に笑いかける。



「でしょ? だから信じてるし、仲良くもする。それって変?」

「………」



 イルシュエーレは、しばらく沈黙していた。



 複雑に揺れる彼女の瞳が何を思っていたのか。

 あの時の幼い自分には、それを読み取ることはできなかった。



 静かな時間が、自分たちの間に流れていく。



 そんな空気の中、イルシュエーレは目を伏せると―――ふと穏やかに笑った。



「そうね。変じゃないわ。」

「だよね。」



 それだけが聞ければ、自分としては十分だった。

 笑みを深めた自分に、イルシュエーレがゆっくりと手を差し出してくる。



「いらっしゃい。秘密の場所に案内してあげる。人間が絶対に来られない場所。私たちだけの秘密基地にしましょう?」



〝人間が決して来られない場所〟



 その言葉は、幼い自分の心をわくわくとさせた。



 そしてその純粋さとは裏腹に、そこならどんなに派手に魔法の練習をしても誰にも分からないからラッキーだと思う計算高い自分もいた。



「うん!」



 意気揚々と、自分はイルシュエーレの細い手を握った。


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