精霊の女王



「ああ……―――思い出した。」





 目が覚めた瞬間、無意識にそう呟いていた。



 そうだ。

 自分は、あんなにも精霊たちと言葉を交わしていたじゃないか。



 彼女たちから様々なことを学んで、彼女たちと様々な感情を共有して、あの場所でたくさんの思い出を積み重ねた。



 実はゆっくりと身を起こす。



 寝かされていたベッドの周りには、天蓋てんがいから薄いカーテンがぐるりとかけられていた。



 背景を透過しているカーテンを通して、部屋の様子を確認してみる。



 ここら、壁全面がガラスでできたドーム型の部屋だった。

 ガラスの向こうには深い青が広がっていて、その中を魚が泳いでいるのが見える。



 そういえば、自分は誰かに湖の中へと引き込まれたんだったか。



『さあ、行きましょう。』



 穏やかなあの声にいざなわれて。



「ここは……多分、知ってるよな…?」



 胸がもやもやしている。



 おそらく、自分はここを知っている。

 まだ思い出せていないだけだ。



「………はあ。」



 少し記憶を探ったが全く頭に引っかからなくて、実は重い溜め息をつく。



 とりあえず、いつまでもここで寝ていても仕方ないだろう。

 そう思って、実はカーテンを開けた。



 すると―――



「わっ…!?」



 カーテンを開けた瞬間に向こうから何かが跳びかかってきて、実は思わず後ろに尻餅をついた。



 跳んできた何かは実の膝の上に乗り、そこから実の胸に向かって前足を伸ばす。

 それを見下ろして、実は目をしばたたかせた。



「お前…っ」



 青みがかった白色をしたうさぎだ。

 黒くつぶらな目が、こちらをじっと見上げている。



 思い出したばかりの記憶の中で、同じ色の兎が跳び跳ねた。



「もしかして……あの時の?」



 信じられない気持ちで兎を抱き上げる。



 兎は記憶の中よりも、一回りも二回りも大きくなっていた。

 持った感覚も、昔よりずっしりとしている気がする。



「大きくなったなぁ…。つーか、太ったんじゃないか? 懐かしい。ここにいたのかぁ。」



 実はくすくすと笑みを零した。

 ちょっと、幼い頃に戻った気分だ。



 静かに兎を下ろすと、兎は膝の上に乗ってそこで丸くなる。

 かなり久しぶりに会ったというのに、自分にべったりなのは変わらないらしい。



 実は苦笑する。



「相変わらずだな……お前。」



 背中をなでてやると、兎は気持ちよさそうに目を細めた。



「ふふ…」



 ふと、笑い声が聞こえた。

 首を巡らす。



 いつの間にか、ベッドのすぐ側に一人の女性が立っていた。



 深い青と淡い青。

 二つの青が美しく織り混ざる髪は、緩やかに波打ちながら彼女の腰辺りまで伸びている。



 優しい顔立ちの彼女は、透き通るような青い瞳を穏やかに細めてこちらを見下ろしていた。



「待ちなさいって言ったのに…。よっぽど嬉しかったのね。」



 彼女は、もはや実の膝から動く気のない兎をなでた。

 そして次に、その手で実の髪をそっとなぞる。



「おかえりなさい。ずっと……待ってたわ。」



 実をまっすぐに見つめる彼女の目は、深い慈愛に満ちていた。



「うん…。久しぶり、イルシュ。」



 そう言うのが精一杯だった。

 イルシュエーレは実の隣に腰かけると、そっと実を抱き締める。



「すごく心配してたのよ。いきなりあんな風にさよならを言われて……もう、二度と会えないのかと思って……」



 イルシュエーレの声に切なさが混じる。

 それに、実は何も言うことができなかった。



 彼女はこの森を統べる精霊の女王。

 水に属する精霊である彼女は、滅多にこの湖の外へ出ることはない。



 知識として、彼女がどんな存在なのかは分かる。

 けれど、彼女との思い出がとても薄い。



 思い出せたのは彼女が初めて姿を現した時のことと、自分が親しげに彼女をイルシュと呼んで、何度か話していたことだけ。



 彼女とどんなやり取りをしていたのか。

 そして、どんな別れをしたのか。



 そういった具体的な思い出は、何一つとして出てこない。

 それが、とても悲しくてたまらない。



 イルシュエーレや精霊たちは、自分に惜しみない愛情を注いでくれていた。

 それなのに、彼女たちのことを全然思い出せないなんて―――



「……ごめん。」



 寂しさや悲しさが入り混じった複雑な感情が胸を圧迫して、絞り出した声は囁くように微かなものになってしまった。



 こちらの声に含まれた異変に気付いたのだろう。

 イルシュエーレが体を離し、心配そうに眉を下げてこちらを見つめてくる。



「どうしたの? そんな……悲しそうな顔をして。」



 実の頬に手を当てて訊ねてくるイルシュエーレ。

 そんな彼女の瞳を見て、実は言葉につまってしまった。



 そこに映る自分の顔は、彼女の言葉どおりとても悲しそうだった。



 まるで泣くのを必死にこらえて、あふれそうな気持ちを全力で抑え込めているかのような表情だ。



 自分はこんな顔をしていたのか。

 今では、こういう表情こそ別の表情で隠すようにしていたはずなのに。



 どこか他人事のようにそう思っていると、イルシュエーレが目の端に涙を浮かべた。



「そんな表情をするくらい……あなたは、心を追い詰めてしまったのね。」



 どうしよう。

 自分は、彼女になんと答えればいいのだろう。



 どうにかしてごまかしたいのに、自分よりもイルシュエーレの方がよっぽど悲しそうな顔をしているように見えてしまって……



「思い……出せないんだ。」



 気付けば、口からぽつりとそう零れていた。

 イルシュエーレの顔を直視できなくなって、深くうつむいてしまう。



「人の世界に戻って……色々あった。そのせいなのかな? ……よく、思い出せないんだよ。イルシュやみんなのことは分かるのに……分かるのに、思い出せなくて…。……ははっ、結構ショックなんだ。」



 実は自嘲的に笑う。



「全部思い出したつもりでいたのに、まだ完璧に思い出してなかったなんてさ…。しかも、忘れてることにも気付いてなかったなんて…。こんなに……大事な思い出のはずなのに……」



 断片を思い出しただけでも、こんなに胸が温かくなるのだ。

 それだけで、彼女たちとの記憶がどれほど自分にとって大事だったかが分かる。



 それなのに、どうしてもはっきりと思い出せない。

 その事実が胸を締めつけて、呼吸を苦しくさせる。



「ごめん……イルシュ……」

「………」



 イルシュエーレは、何も言わなかった。

 落ちる沈黙が、ひどく重苦しくて居心地が悪い。



 実は握った手に力を込める。

 そうしないと、この苦しさに耐えられそうになかった。



 その時ふと、イルシュエーレの細い手が実の拳を包んだ。

 イルシュエーレは黙したまま、実の手を握った両手を自分の額に持っていく。



「!?」



 実は目を見開いた。



 頭の中に、これまでの記憶が駆け巡る。

 意識してもいないのに、今まで経験したことが走馬灯のように脳裏にひらめいた。



 その感覚が告げる。



 イルシュエーレは、自分の記憶を見ているのだ。



「ちょっ……何して―――」



 抗議の声は、途中で途切れてしまった。



 イルシュエーレが、ぽろぽろと大粒の涙を流し始めたのだ。

 想像もしていなかった反応に、実はつむぐべき言葉を見失ってしまう。



「こんな……つらいことばかり…っ」



 涙声で、イルシュエーレはその言葉だけを絞り出す。

 それ以上は感情に負けて話せないのか、涙声は小さな嗚咽おえつに変わってしまった。



「えっ…と…」



 まさかの展開に、実は戸惑いを隠せずに狼狽うろたえる。



 こちらの過去にショックを受け、涙を流すイルシュエーレ。

 こんな反応をされるとは思っていなかったので、少しばかり頭が混乱していた。



「あの……泣かないで……」



 控えめに声をかけてみても、イルシュエーレの目から零れる涙は止まらない。



 とにかく、このままでは気まずさばかりが募ってしまう。

 どうにかしてイルシュエーレに泣きやんでもらいたい実は、慌てて口を開いた。



「だ、大丈夫だよ。過去のことだし、俺はあまり気にしてない―――」



 その言葉を遮るように、イルシュエーレがきつく抱き締めてきた。

 耳の間近ですすり泣く声がして、流れ落ちてくる涙が肩口を濡らす。



「……いいの。」



 嗚咽おえつの合間に、小さな声が鼓膜を揺らす。



「我慢しなくていいの。こんな思い……もう、二度とさせないわ。」

「………」



 何も言えなかった。



 イルシュエーレは、本気で涙を流しているのだ。



 彼女にとって、こちらの記憶がどれほどショックなものだったのかは知るよしもないが、彼女がこちらの過去を自分のことのように感じていることだけはひしひしと伝わってきた。



「イルシュ……」



 突き放すことも、一緒に涙を流すこともできない状況。



 戸惑う実はどうすればいいのか分からないまま、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。


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