別れの記憶

「イルシュ…。一つ、お願いがあるんだ。」



 幼い自分が、湖のほとりに立ってそう言った。



 湖から腰までを地上に出して自分と対峙していたイルシュエーレは、先を促すように首を傾げる。



 いつもは賑やかな湖には精霊たちの姿はなく、とても静かだった。

 それもそのはず。



 イルシュエーレと二人だけで話したいからと、精霊たちには席を外してもらったのだ。



 俺は、抱いていたうさぎをイルシュエーレに差し出した。

 イルシュエーレは不思議そうな表情をしながらも、兎を自分の手に抱く。



「その子を、頼んでもいいかな?」



 兎を見下ろすイルシュエーレに、静かに告げる。





「俺は……ここを出ることになったから。」

「!?」





 イルシュエーレの表情が、瞬時に凍った。



 やっぱり、こういう反応になるか……



 分かりきっていた。

 こんなことを言えば、彼女がどんな顔をするか。



 なんの前触れもなかっただけに、ショックは余計に大きそうだ。



「どういう……こと?」



 イルシュエーレは震える唇で、そう訊いてきた。



「そのままの意味だよ。」



 嘘をついても仕方ないので、正直に話した。



「父さんが、もっと安全な場所に行こうだってさ。そこならきっと、静かに幸せに暮らせるからって。」



 そうだ。

 そうだった。





 ―――この日は、父さんと地球へ発つ日だった。





 〝鍵〟であるという重荷と、いずれ器になるだろうという運命。

 そのいずれからものがれるには、この世界から逃げなければいけない。

 そして都合よく、今はこの世界から逃れるすべがただ一つだけある。



 父さんはその魔法について、その原理から丁寧に説明してくれた。



 地球へ行けば、生まれながらに持った運命を断ち切れるかもしれない。



 その代わり、安全性を高めるためにも、俺が生まれたことを知っているわずかな人間から、俺に関する記憶を全て消すことになる。



 状況によっては、今まで一緒に暮らしてきた母さんからも。



 まだ四歳が少し遠い幼い子供の俺に、父さんは地球へ行く目的やその代償を全て話した。



 そして俺は、それを理解して承諾した。



「きっともう、ここには……いや、この世界には帰ってこない。」

「そんな!!」



 叫ぶイルシュエーレの顔が、嘘であってほしいと願っている。

 けれど、その願いに応えることはできない。



 俺だって、彼女たちと別れるのは悲しい。

 人間よりも仲良くしてきたみんなと、もっと一緒にいたいと思う。



 でも、なんとなく嫌な予感があった。



 俺がいつまでもここにいたら、いつかここを取り返しがつかないくらいに荒らして壊してしまうと。



 月日を重ねるごとに強くなるこの力が、いつか大切なものを傷つけてしまう。



 それだけは嫌だから、いっそこの力が全く関係のない場所へ行こうという父さんの提案を飲んだのだ。



 決心は、すでについていた。



「いきなりで、本当にごめん。でも、時間がないんだ。母さんが起きる前に、ここを出ないといけない。そいつを放してくるからって言って父さんに待ってもらってるから、早く行かなきゃ。」



 結局母さんは、俺の地球行きに最後まで反対した。

 今は、深い眠りについている。



 俺が眠らせた。

 自分に関する記憶と共に。



 揺らがない俺の態度に、これが悪い冗談じゃないとイルシュエーレも分かったのだろう。



 一気に彼女の顔が歪む。

 潤んだ瞳から、透明な雫が幾筋いくすじも流れた。



「今までありがとう。俺さ、平和とか幸せとか……そういうの、諦めてたんだ。だけど、ここでみんなと過ごす時間はすごく楽しかった。ありがとう。これだけは、言っておきたかった。」



 そこまで言って、俺はすぐにきびすを返した。



「ま、待って!!」



 イルシュエーレの叫び声が聞こえたけど、絶対に振り返らなかった。



 泣かせてしまった。

 最後だから泣かさずにいられたらと思っていたけど、やっぱり泣かせてしまった。



 自分も悲しい。

 だからこそ、振り返ることはできなかった。



 今振り返ったら―――

 振り返って、イルシュエーレを見てしまったら―――



 俺はきっと、あの胸の中に戻ってしまう。



 地球へ行くと決めてから押し殺している、人の世界への猜疑さいぎ心と恐怖心に負けてしまう。



 ここは大切な場所。

 何よりも優先したい、ただ一つの居場所。



 ここを壊したくない。

 だから、今のうちにここを出る。



 いずれ来る〝いつか〟が、少し早まっただけだ。



 イルシュエーレの泣き顔が、頭から離れない。

 自分の目にも涙が滲むのを感じる。



 それを振り切るように、俺は父さんの元へ走った。


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