【7】晴樹の願い
刈り入れのすんだ田んぼの脇を、祖母と歩いた。この辺の道を歩くのは、疎開する前以来だ。この道を駅へと歩いた時は、父と2人だったことを晴樹は思い出していた。その父も、もうこの世にいないのだと思い出すと、どうしようもない喪失感の靄が胸をおおっていく。不安になる。
「晴樹、見てご覧、赤トンボ」
そんな晴樹の心を知ってか、努めて明るい祖母の声に顔を上げると、指さす方に、赤いトンボが2匹、連なって飛んでいく。
その赤い背に、アキアカネの名を持つ人を思い浮かべた。
晴樹はこの夏に10歳になった。先日、大陸から引き上げてきた父の戦友が、遺品を持って挨拶にやって来た。
油紙に大切に包まれた中に、手紙が三通あった。
晴樹へと、室井の祖母と伯父に、もう一通は、別の封筒に。それと母が生前特別な時にだけ髪に刺していた櫛が。
祖母は戦死の報告を信じておらず、戦友からの報告にてようやく、事実として受け止めることにしたようだった。
その日は夜ご飯も食べないで、部屋に閉じこもったままだった祖母は、翌日、晴樹を部屋に呼んだ。
泣き腫らした目は、あかく腫れぼったかった。自分よりもずっと歳若い息子を亡くすというのは、どんなに辛いことだろう。幼い胸に、祖母のその様子が刻み込まれた瞬間だった。
祖母への手紙には、春樹を兄の養子にしてください、とお願いしてあったそうだ。それを晴樹に分かりやすく説明して、祖母は言った。
『どうする?晴樹。お母さんの親戚には、晴樹がしたいようにしていいと返事を貰ってるんだけど。おまえがこのまま向こうの苗字を名乗りたいなら、それでもいいよ?どうするね?』
母の家の苗字。父が婿に入ってからの苗字。自分が室井晴樹になると、新屋扱いだった向こうの家はなくなるが、本家は健在だという。
「室井の子になる」
晴樹は言った。晴樹への手紙にも、父からぜひそうして欲しいと書いてあったからだ。
晴樹の為にもなるし、伯父さんの家も跡継ぎの男の子を欲しがっている。だから、おばあちゃんから話があったら、受けるように、と。
農家の後継になるのだから、従姉妹達にも血の繋がらない伯母の事も、本当の親姉妹だと思って、大切にしなさいと。
それが2日前のことだった。今は元の家の本家へ、報告の挨拶へ行った帰りだった。晴樹のたっての願いで、茜の嫁ぎ先へと向かっていた。
「茜さん、もうそんな年頃になってたんだね」
祖母は、昔、子供の頃会ったきりの、遠縁の娘のことを覚えているのか、目を細めた。父のもうひとつの手紙は、茜への手紙だった。先程本家の後に、茜の実家へも挨拶に行き、台所の奥で、祖母は茜の母親にその手紙をこっそりと渡していた。
「元治が茜さんと思いあってたなんて、晴樹は、嫌じゃなかったの?」
気を遣う祖母の問いかけに、晴樹は首を横に振った。
「そうか、ならいいんだ。私もあの子は好きだよ」
祖母を見上げた晴樹の顔が、ぱっと明るく咲いた。
「子供の頃から楽しそうな子だった。きっと嫁ぎ先でも上手くやってるよ」
茜の嫁ぎ先の村の入口までやって来た。神社の脇をとおり、鎮守の森を抜けると、民家がちらほら建ち始める。
「突然訪ねるから、あんまり忙しそうなら、またにしようね」
祖母が言うと、うなづいた。手の中にある柿の籠をぎゅっと握った。ふと、村から小さな男の子と手を繋いだ女の人が出てきた。4つくらいの男の子を追いかけて、赤ん坊を背負っている。片方の足が不自由なのか、左足が少し不自然で歩を進める度にびっこを引いていた。
「あれ、そうじゃないの?」
祖母が指を指した。男の子を捕まえて、何か言い聞かせ、手を繋いだ途端、また走り出した男の子を捕まえた。そしてこちらに気がついて、軽く頭を下げた。だがまた男の子が今度は村の方に向かって走り出したので、その人はそちらへまた赤子を背負ったまま不自由な足で追いかけていく。1度チラッとこっちを振り返ったが、それどころでは無さそうだ。
「茜ちゃんだった」
「大変そうだねえ、親戚の子かな?背負ってたのは産んだ子かもしれんねえ」
晴樹は柿のかごを、お地蔵さんのそばにそのまま置いた。柿の上に、あるものを置いて、
「おばあちゃん、帰ろう?」
そう見上げた。祖母は頷くと、晴樹の頭をそっと撫でた。
一人っ子で育ったにしては、預かったあとも、物分りのいい子だった。ワガママを言わずに手伝いもちゃんとして、嫁の佳代子は男子を産めなかった負い目もあるのか、晴樹を大切にしてくれるし、晴樹もまた、気に入られようと努力してるのがみてとれた。
だけど、本音はどうだったのだろう。今、口を真一文字に結んで駅の方へと歩く晴樹は何かをこらえているようにも見える。
「お参り、していこうか?」
村の神社の傍で、祖母が足を止めた。晴樹は祖母を見上げて、不思議そうな顔をした。
「ちょっと歩くの疲れたから、そこで少し休んでから帰ろうじゃないか」
「うん」
神社の境内の手洗いの近くにあった腰掛けに、2人は座った。
「お参りしないの?」
「休憩してから」
「ふーん」
晴樹に水筒のお茶を差し出すと、ありがとう、と言って飲み干した。
「茜さんは、よく家に来てたの?」
「うん、おばさんがおかずとかお野菜とか分けてくれて。それを届けに来てくれてた」
「そう」
「雨が降った日にね、傘にお父さんが入れてもらって来たことがあってね」
晴樹は、その時のことを、祖母に話して聞かせた。父に宿題をゆっくり見てもらえたのが初めてだったこと、お風呂にも2人でゆっくり入れたこと。茜が一緒に折り紙してくれた事。
「茜ちゃんはね、笑い声が、お母さんに似てたの」
「ほう」
「お父さんも、それに気がついてたよ。優しい顔で茜ちゃんのこと見てた」
晴樹の目に涙が浮かんだ。
「三人で、暮らしたかったなぁ。本当は母さんが生きてるのが良かったけど、お父さんと茜ちゃんと、家族になれたら良かったのに」
ポロポロと溢れる涙は、これまでずっと吐き出せなかった本音なのだろう。叶うことはなかった。時代がそれを許すことは無かった。祖母は何か言うわけでもなく、そっと晴樹の背中を撫でた。
「茜ちゃん、もうお母さんなんだね」
やっと泣き止んだ時、晴樹は泣き腫らした目を空に向けて言った。
「そうだね」
「じゃあ、茜ちゃんがずっとずっと幸せに生きていけるように神様にお願いしなきゃ」
晴樹は立ち上がった。
「そうだね、じゃあ、おばあちゃんは、晴樹も、ずっとずっと幸せに生きていけるように、どんなことがあっても負けない子になるようにお願いするよ」
「うん!」
二人はお参りを終えると、山里の家へと帰っていった。
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