いのちの価値

澄田ゆきこ

本編

 いのちは尊いものです、と先生は言った。

 道徳教育の時間、先生はさらさらと暗唱する。国によって定められた私たちの価値の全てと、私たちの義務について。

 あなたたちの使命はふたつ。ひとつは自分のいのちがいかに奇跡的で神秘的であるかを理解し、善き市民として振る舞うこと。もうひとつは、先祖たちからあなたたちのご両親へ、そしてあなたたちへ受け継がれてきたいのちのバトンを引き継ぐこと。

 自殺とはもっとも愚かな者がする行為です、と先生は言った。なぜだかわかりますか、と指名された私は、教科書通りの模範解答をなぞる。

「私たちのいのちは一人のものではないからです」

 すばらしい、と先生は微笑む。クラス一の優等生を指名しておけば、授業は滞りなく進む。そのことに満足しているような笑顔だった。

 自殺率の上昇と少子化。その二つを防止するために組まれた、若者の健全育成プログラム。すなわち「道徳教育」。

 今日も私たちは、私たちのいのちが社会のものであること、すなわち人間は社会を構成するパーツにすぎないことを延々と説かれる。

 社会はある種の精密機械のように、ひとつひとつのパーツによって成り立っている。そのパーツは時として「労働力」だとか「納税者」だとか、色んな名前を持つ。近年、政府はこのパーツ不足に苦しめられてきた。若者が、個人の痛みを社会の存続より優先させたために、パーツを産むことやパーツとしての役割を放棄し始めたから。

 それゆえ私たちは、「善良な市民」のタマゴとして、全体に帰依することがなによりすばらしいと教育を受ける。自らもパーツとして社会の中で機能しながら、伝統的家族制度に与し、異性と番い、次世代のパーツを生み出すこと。全体の利益に貢献すること。すなわち善であると。

 パーツには、自我があってはいけない。役割ごとに必要な特徴は「個性」として尊重されるけれど、望ましくないものは、「非行」として芽のうちに摘まれる。

 髪は黒。スカートは膝下。靴下は黒か紺か白。くるぶし丈は禁止。形骸化したルールを無批判に守ること、すなわち善。そうでない異分子は矯正される。なぜなら、形骸化したルールに妄信的に従うことが、「社会」の維持のためには都合がいいから。

「ねえ、教育の本質は洗脳なんだって」

 目の前でそう問いかける金色の髪の少女も、いわばその「矯正」の当事者だ。

「そんなの、授業を受けていれば嫌でもわかるよ」

「やっぱり、頭がいいのね。優等生さん」

 彼女は意地悪く微笑む。

「そんなことない」

 私は机の下に伸びてきた彼女の指に、そっと指を絡ませた。

 人で満たされた教室の中で、それは背徳の象徴だった。

 彼女は目も髪も色素が薄い。外国にルーツを持つ母親の遺伝だという。「黒以外の髪はふさわしくない」と、先生たちは彼女の髪色を「野蛮」と断ずる。

「日本人の髪色は元来黒色だから」統一されることこそが美しいと決めつける先生たちによって、彼女は何度も指導室に連行された。小一時間説教を受けるだけにとどまらず、どす黒い染料を頭からかぶって指導室から出てきたこともあった。

「人権侵害ではないですか」

 一度だけ、私はそう先生に立てついた。肩を震わせて泣く彼女の痛みが、私にまで伝染していた。この髪はお母さんのおさがりだから。そう言った彼女の、宝物を慈しむような声を覚えていたから。

「権利を主張する前に、まず義務を果たしなさい」

「一人だけを特別扱いすると、全体の輪が乱れる」

「茶髪の生徒がいることで我が校の生徒全体の不利益になる」

 先生たちはそんな言葉で私を黙らせようとした。彼女は抵抗することも諦めて、もういい、もういいよ、と私の腕を掴んで泣きじゃくっていた。あの時のことを思い出すと、今でもちくりと胸が疼く。

 彼女が私を見つめていた。どうしたの? 目だけで問いかけられる。なんでもない、と私は微笑んで、さらに深く指を絡める。

 今夜、私たちは、誰にも言えない秘密の任務を遂行する。


 深夜。私たちは学校に忍び込む。二人で手を繋いで、屋上に向かう。

 だれの目も気にせず手を繋げることが、こんなに嬉しいなんて。上機嫌の私見て、彼女は「ふふ」と腕に顔を寄せる。

 屋上に向かう踊り場で、私たちはキスをした。「正しさ」の体現たる校舎で、私たちは間違ったことをする。

 同性愛は、「道徳教育」における禁忌だった。パーツを生み出せない性愛も、典型的な家族規範を外れるものも、悪として排斥された。

 金色の産毛が、月光に薄く照らされて、彼女の輪郭を淡く縁取った。

「優等生が、こんなことをしたって知ったら、驚かれるかもね」

 彼女が楽しげに言い、屋上への扉を開けた。涼しい風が髪の間を吹き抜ける。とても開放的で、気持ちがよかった。

「どうせ、馬鹿なことをしたって言われるだけだよ。『いのちの大切さもわからないのか』って」

「あら、だから死ぬんでしょう?」

 彼女は美しく微笑む。その笑顔があまりにもきれいで、私はもう一度口づけをする。

「馬鹿な大人たちに、訴えてやるの。金色の髪も、わたしたちの愛も。大事な大事な『いのち』を投げうつほど、わたしたちにとっては重要なことだって」

 どうせ伝わらない。けど、私は満足だ。まっさらに漂白された「健全な世界」を生きるより、ふたりで不健全に死ぬことの方が、ずっとずっと大切だから。

 私たちは手をつないだまま飛び降りた。

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いのちの価値 澄田ゆきこ @lakesnow

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