リサについて

@FShino

第1話 リサについて



その日、上手く予定通りに起きられなかったのは、きっと前日の夜遅くまでチェスをオンラインでやっていたせいだ。

夜中にチェスをやりだすと、まるで悪魔に取り憑かれたように、やめられないんだ。

こういう、一見無駄にしかならないことが、僕にとっては、何とも贅沢な時間のように感じられるんだ。

自然と僕を、哲学的思考に、誘ってくれる。


『Your strategy for success in this game was great enough. I enjoyed it very much, too.

But, you have made one big mistake which your queen was previously taken.

It divided the victory or defeat on the game.

Take care of yourself not to miss your selection on any important point.』

(あなたの戦略は、十分に素晴らしかったよ。私もゲームを、楽しめました。でも、あなたは、女王様を先に取られるという、致命的なミスを犯しました。それが勝敗を分けました。これからは、一つの重要なミスを犯さないよう、気をつけて下さい。)

 僕は、スペルを確認して送信ボタンを押し、スマホを閉じると、終わったばかりのチェスのゲームの過程を可能な限り詳細に頭の中に再現し、分析した。

 その日の相手は、イギリス人の女性であった。

 オンライン上のチェスで人と対戦すると、コンピューターが相手の場合と異なり、チャットでゲームの感想を伝え合えるのが一つの大きな醍醐味である。

 それ以上に、時に、相手の人間性まで、怖いくらいに想像できてしまうのも、人間が相手となるゲームならではである。しかも、今まで出会ったこともない、経歴も国籍も全く異なる人間に対して、である。そういったことも、人を相手にプレイする実益と言えよう。

 上京後、オンラインでコンピューター相手に、暇つぶしにプレイするようになってから、チェスの奥義を学ぶようになった。

 対戦相手は、主にコンピューターで、仕込まれたアルゴリズムに従って駒を動かしてくる。レベルは十段階に分かれ、僕は何とかレベル四までは勝てるようになった。

 しかし、レベル五の壁は思いの外、厚かった。

 まず、凡庸なミスをしない。その上、キングを奪取するという目的に向けた駒の動かし方が、抜群に上手い。ルークならルークの、ビショップならビショップの利点を見事に発揮している。圧巻なのが、ナイトの使い方である。変則的に見える動きをするナイトは、個人的には使い勝手が悪い、という印象を抱いていた。しかし、コンピューターは、見事にナイトの動きを活かした効果的な攻め方をしてくるのだ。

 また、最も弱い駒であるポーンが、攻撃又は防御のための決定的な働きをすることすらあるのである。

 何よりも、コンピューターは、キングを奪取するという目的を見失うことが無い。

 これが、人間が相手の場合は、異なる。

レベル五の実力がある人でも、状況によっては、とんでもないミスを犯すのである。そして、一つのミスによって、優劣が一気に逆転し、勝敗が決まったりするのである。

 それが人間と対戦するときの面白さであり、怖さであった。

 こういうチェスによる学びは、世の人の心理を読むことに一役買っている。人間という生き物は、程度の差こそあれ、ルールではなく感情に従った行動をせずにはいられないのである。

 実際僕も、チェスにおいて、コンピューターが相手の時と人間が相手の時で、感情が異なる。

 人間が相手のときに、一回目の対戦で負けることが多いのは、人間を相手にしていることによる特有の緊張感に、判断能力が鈍らされるからであろう。一方で、二回目の対戦で勝てることが多いのは、人を相手にしているという意識が薄れ、アルゴリズムに沿った選択に近い判断ができるのであろう。

 再度枕元のスマホを取り、デジタル時計の表示を見た。

『げっ、もう、十一時半じゃん。民法の授業に遅刻するぅ〜』

 僕は心の中で叫んだ。

 部屋に差し込む光からして、あと一時間は布団から出なくて良いと踏んでチェスをしたのが、間違いであった。

 法学部生としての大学生活も二年目を迎えると、日によって、朝の緩急のつけ方が肌感覚で分かるようになったと思っていたのだが、甘かった。

 大急ぎで、うがいをして、パンを食べ、グレープフルーツジュースを飲み、またうがいをして、部屋を出た。

 大学は東京の西の端に所在し、通学において満員電車とは無縁である。

 それどころか、電車の車窓から見える田園風景は、僕の地元、香川県の中学校に通っていた頃を思い出させる。

 東京の道路とは、スクランブル交差点を人が何とかぶつかり合いを避けながら行き交うものと思っていた僕としては、見事に期待が裏切られた形となった。そんな期待の裏切りも、大学に通ううちに、良い意味に捉えられるようになっていた。

 その日も、大学の最寄駅に最も近い西門を通り抜けようとしていた。

 学生が多く利用する最寄駅の近さからして、正門よりも行き交う学生の数は多い。

 その際、それほど珍しくない光景を、目にした。

 西門前のコンビニの前で、学生らが数人たむろしていたのだ。四人なのか、五人なのか、その人数は判然としない。

 彼らは、粗雑な黒い影となって、一つの無秩序な構成物からなる集団をつくり上げていた。こういう場所に若者がいるのは、僕も実家の付近のコンビニで何度か見たことがあるが、東京でのそれは、心なしか、より退廃的であるように見えた。その一人一人は、特に何をするでもなく、目の前を通り過ぎる学生らに、目をやっている。

 時折聞こえてくる言葉から、彼らが何をしているかについて、僕は入学後の早い段階で、想像がついた。彼らの思考回路をなぞって思ったのは、田舎の不良も、都会の不良も、考えることは同じなのだ、ということである。

 ところで、『不良』という言葉は、法務省が毎年司法試験の採点実感で使う言葉でもあり、端的に出来の悪い答案のことをいう。

 それを知った時には若干の違和感を覚えずにはいられなかったが、法曹界の門をくぐろうとする受験生としては、一流の学者が作った問いに対して的外れな解答をすることは、『不良』なのだと、最近は妙に納得している。

 他方で、西門前でたむろしている『不良』な人間は、キャンパスに入っていく、女子学生を値踏みしているのだ。その容姿やスタイル、服装や持ち物から、彼女らを採点し、序列化する。そんな生産性に乏しい世俗的な遊びに、身を投じているのである。

 しかもそれを、さも生活に必要不可欠な活動のように、しているのである。

 彼らのうちの一人が、僕の三メートル程前を歩いていた女子学生を見て、言った。

「なかなかの美人だなぁ」

 たしかに、その女性は、通常の道行く人から見て、清潔感があり知的な雰囲気を醸し出していた。ただ、『なかなか』というのは、その彼らの中に僅かに残る自尊心から、そう言わせるものであるにすぎない、という事実を、僕は知っている。

 彼と同年代かつ同性の存在として、彼の搾り出すような声から、僕は確かに彼の心境を感じた。

 何か、美しいものを目にした時、その対象に自分が認識されていることを考えると、急に卑屈な気持ちになるのである。

 俗物は、自分が評価している対象からは、決して自分を評価されたくないものである。評価の対象となった相手が、評価の対象に甘んじていないと分かった途端、今度は自分の存在を脅かされるような感覚におそわれるのである。

 一方、当の本人である彼女は、彼らに色目を使うことなく、かと言って殊更に無視するわけでもなく、真っ直ぐ前を向いてキャンパス内に、入って行った。 

 僕は、彼の絞り出された言葉を胸に、彼女の後ろ姿をしばらく追いながら、彼女を含む『美人の人生』について考えた。

 彼女のような美人が、自分の美貌に注目する人間に見向きもせずに、ましてや自分の美貌を俗世間に高値で売りつけようなどとは決して思わずに、日々学業に打ち込む姿は、この今の時代を象徴しているように思えてならなかった。

『美人だから花奉行』という時代は、既に終焉を迎えた。だが、世が世なら、彼女は、金の成る木、または政治的な道具として、何らかの『貴重な』職務に従事させられていたであろう。そんな時代なら、どうあがいても、大学に通って勉強に打ち込むなど、世間が許さなかっただろう。

 美しく知性に溢れる女性というのは、いつの時代も、その時代の価値観を反映するものである。

 何故なら、彼女らは、その容姿と品性ゆえに、俗世間の評価に抗うことが、いかに難しいか、を知っているのである。世間の評価に沿った生き方をするか、自ら世間の評価という霞のように曖昧なものを作り上げる生き方をするのか、あるいはそのいずれも取り込んだ生き方をするのか、常に選択を強いられているようである。この、刹那的で虚無的な俗世間に、確かな美貌をもつ存在として生きる、評価の高い女性ほど、その鬩ぎ合いを自身の中に感じ取り、絶妙なバランス感覚をもって生きているのではないか。

 もしかしたら、あの凛とした女性の中では答えは出ているのかもしれない。

 肉体的精神的に不自由を強いられ、女性性を売りにする接客業を『花奉行』というあたかも華やかで名誉ある名前で呼ばれることで、自尊心をもつことを押し付けられるよりも、地味で誰の目にも止まらない状態で好きなだけ勉強に打ち込むことで得られる幸せを迷わず選択するような内面の強さを、彼女は想像させた。

 ただ、少なくとも僕の中では、まだ答えは出なかった。

 ともかく、あの、『美人』という評価が、後ろ姿からもハッキリと分かる、いや化粧では繕えない後ろ姿からだからこそその美貌が際立つ、あの女性と、またキャンパス内で会える日が来る事を、願わずにはいられなかった。

 それは、僕が毎日大学に通う、一つの大きな動機となった。

 幸運にも、僕のその儚い希望が叶う日は、それから遠くない日に訪れた。

 二年目となった大学生活が後期に入り、専門過程である三年目への準備の時期に入った。このことは、カレンダーの日付からというよりも、周囲の状況、そして同級生から聞こえてくる話題から感じとれた。

 この時期には、毎年、二年生に向けて研究室の説明会がある。

 大学一年目から幽霊部員として所属していた、法律系サークルの先輩に、自身が所属する研究室のビラを作ったから、と一枚の紙を渡された。続けて、誰か他の人にもよろしく、と三枚ほどを指でざっとつまんで手渡された。『誰か他の人』に、先輩が期待していることを、僕はしっかりと感じとった。

 説明会は毎年行われている、と言われても、僕ら二年生にとっては初めての体験である。実際に僕は、それぞれの研究室について壇上で上級生が説明する姿を、緊張した面持ちで聴いていた。その心境はおそらく他の同級生も同じであろうことが、変にざわついた大教室の雰囲気から感じ取れた。

 各研修室に所属する三年生の代表者が、壇上で、次々と説明をしていた。

 ふとした拍子に、斜め前に座る女子学生が目に入った。

 その後ろ姿は、いつぞやどこかで見かけた気がした。僕の思考を一定の時間、美女の人生哲学へ誘(いざな)った、あの凛とした雰囲気を醸し出していた。

 その時の僕の意識は、壇上で雄弁に語られる、各研究室の説明よりも、斜め前の彼女に集中していた。彼女の後ろ姿にしっかりとピントが合っていて、下級生として注目すべき壇上の先輩については、ぼやけた背景となっていた。

 さらに、ここで彼女を逃すと、もう二度と会えないような儚さを、その後ろ姿に感じ取った。終了時間になると、僕が想像した通り、彼女は静かに席を立ち、一人でその場を去ろうとした。

 その瞬間、僕もなるべく静かに立ち上がって通路に出ようとした。いつもは憂鬱としか思えない混雑が、この時ばかりは僕の躊躇いに味方してくれた。

 彼女は、なかなか動かない人の波の中で、しばらく僕の視界にとどまった。

 彼女が混雑に苛立つ事を諦めたように、小さくため息をついた瞬間、僕は彼女の肩に、軽く手を触れた。

「すいません」

 僕の声に対して、彼女は自然と振り返った。

「これ、どうぞ」

 僕は可能な限り自然体を装って、持っていたビラ一枚を、彼女に差し出した。

 彼女は、静かな微笑みを浮かべて受けとってくれた。

「はい、ありがとうございます」

 彼女はビラに軽く目をやった。凛としていて、世間と調和していながらも、どことなく、浮世離れしているというか、謎めいた雰囲気を醸し出していた。

 その謎めいた雰囲気が、彼女の周りに不可解な事件を生じさせることになろうとは、僕はまだ知る由もなかった。

 その後、僕と彼女は、何かと、キャンパス内で顔を合わせることが多くなった。

 この広いキャンパスにおいて偶然といえば偶然であるが、同じ法学部生で、しかも真面目に授業に出て日々勉強に打ち込んでいる数少ない学生となれば、その行動パターンは自然と似通ってくるものである。実際、彼女とすれ違う場所の多くが、法学部棟から図書館の間であった。

 彼女は僕とすれ違う度に、軽く会釈をしてくれた。その会釈も、僕が彼女を目で追っていたからだ、と言われれば、弁解の余地がない。

 それでも、彼女の会釈は、特別なもののように僕には感じた。

 たまに、声を出して挨拶をした事もあった。どれも、僕にとっても彼女にとっても、自然な態度の範囲内であったと思っている。

 人通りがまばらとなった、四限終了後のキャンパスで、僕はまた彼女を見かけた。

 この時、僕は彼女に、話しかけた。

「研究室、もう決めた?」

 思えばそれが、僕が彼女に、友人として初めて発した一言であった。

 ビラを渡した時には完全に他人であったが、何度も顔を合わせるうちに、そして何度も彼女について考えるにつれて、僕は彼女と親しい間柄のように感じていた。

 そして、彼女にとっての僕も、それほど遠くない関係にあることが、彼女の対応から感じ取れた。

「うん、一応ね」

 彼女は、例の微笑みで、僕に応えた。

 その口調は、彼女が僕に、男女間における貴重な友人関係を提示してくれるように感じた。

 さらにそれは、彼女が僕らの関係性を僕の選択に委ねてくれているようにも感じた。僕は素直に嬉しかった。

 もっともそれが、僕の思い上がりかもしれなかったことは十分承知している。

 その後の、僕らの短い会話から、彼女の名前が『柳 理沙(やなぎ りさ)』である事を知った。

 僕も、自分の名前が、『蓮田 奏(はすだ そう)』であることを、しっかりと伝えた。

 彼女の礼儀正しさからして、僕を下の名前のみで呼ぶように求めても、『君』を付けられるだろうということは容易に想像できたが、可能な限り、僕の希望を伝えておこう、と思った。

「苗字に植物の名前が付いているの、同じだね。皆、僕のこと、『そう』って呼ぶんだ。だから、これからは、『そう』って呼んで欲しいんだ。呼ぶときには、平仮名の『そう』のイメージでよろしく。」

 彼女はごくごく自然に、学生手帳から、名刺のようなものを取り出して僕に渡した。それは、入学時のオリエンテーション用に、新入生が各自作らされたものであった。僕も作ったはずであるが、それはもう手元に残っていなかった。

 そこには、メールアドレスに加えて、ニックネームとして『リサ』と記載されていた。

何となくではあるが、彼女の雰囲気からして片仮名の『リサ』が、彼女には似合っていると僕も感じた。

 その場での、彼女との会話においては、彼女がどの研究室に属するか、直接的に問うて明らかにさせるのは、何だか野暮な気がした。そのため、結局彼女が入ろうとする研究室がどこかは、聞けなかった。

 それよりも、彼女の名前に見覚えがあるように感じたことが、気になった。

 彼女を大学内で見たことがあるのは、一年間も同じ大学、同じ学部の学生として授業を受けていたら、当たり前だと考えられる。だが、学生それぞれが自分の名前をプラカードに書いて、それを掲げながらキャンパス内を歩いているわけではないのだから、名前に見覚えがある、というのは不思議な感覚であった。

 そんなモヤモヤした気持ち悪さを抱えながら、スマホの中の連絡帳を開くと、リサの名前があった。

 その瞬間、入学時のオリエンテーションで、手当たり次第に他の新入生と連絡先を交換していたことを思い出した。飲み慣れないノンアルコール飲料を飲んで、気分が悪くなっていたため、連絡先を交換した相手と、その相手との会話の内容が記憶の中で一致しないのはもちろんのこと、相手の名前と顔も、うろ覚えとなっていたのだ。その事実について特段の疑問をもたずに、一年以上もの間、連絡帳を放置していたのであった。

 連絡帳に打ち込んだリサについてのメモを見て、急に酔いが覚めるような感覚になった。

『センター試験、徳島』

 僕はその文字を頼りに、記憶をたどった。僕の回想の中のリサは、相変わらず、清楚で知的であった。

 リサとの出会いは、新入生歓迎会に遡った。馬鹿騒ぎする、大学生の集団の中で、リサは、ひときわ輝いていた。

 彼女を、一目見た時から、その美貌だけではなく、その中に息づく精神性の完成度の高さを感じていた。僕みたいに、ふて腐れるでもなく、群衆を小馬鹿にするでもなかった。群衆の中に存在していながらも、世俗にまみれていなかった。一人一人を、微笑ましく見ているようにも感じた。

 まさに、『和して同ぜず』という雰囲気であった。

 そういう雰囲気は、僕の今までの経験からして、男女問わず、勉強してきた人間の醸し出すものである。髪型や服装については流行をおさえていながら、自分の独自の好みも細部に取り入れ、絶妙のバランスをとったオシャレをしていた。その感性が、さらに彼女の知性を引き立てていた。

 その場で完璧に見える彼女に、何とかして僕の僅かばかりのアドバンテージを知ってもらいたかった。そんな切実な思いから、僕は声をかけたのだった。

 僕が、大学入試で都内の国立大学を受けており、ここの私立大学にはセンター試験利用方式で入学したことを言うと、彼女は特に驚いたそぶりも見せず、静かに頷いてくれた。

 そして、驚くことに、彼女も、センター試験利用方式で入学したということであった。

どの大学を受けたかは、さすがに失礼にあたると思って、聞かなかったが、彼女が優秀であることは、想像はついた。

 私立大学の法学部というのは、入学時のそれぞれの学生の学力は、同じ大学の学生とは思えないほど、ピンキリである。指定校推薦で入学した人の中には、センター試験利用方式があること自体、知らない人もいるほどなのだ。

 こういう状況で、センター試験利用方式で入学する学生が、この大学に入学するには最も狭き門であることを考えると、僕は多少なりとも優越感を覚えていた。実際に、三千人もいる法学部生の中に、センター試験利用での入学者は十数名程しかいないのである。

 もっとも、僕の優越感というものは、都内の国立大学に落ちたという事実の慰めとなるだけではなく、負の側面も持ち合わせていた。自分が、現在通う私立大学の中で優秀な層にいると考える度に、第一志望の大学に落ちた、という厳しい現実を突きつけるのであった。

 他方で、彼女については、センター試験の成績を聞かずとも、その優秀さを感じた。優秀さは顔に表れる、という何かの本で見た言葉を、説得力のある言葉であると初めて思った。彼女がセンター試験利用方式で入学したのだとすれば、彼女は既に、自身の弱さを克服している、と僕は感じた。また、その精神の強さに、多少なりとも驚いた。

 僕がセンター試験の点数を言うと、彼女は控えめに微笑みながら頷いてくれた。彼女の態度からして、僕よりもセンター試験の点数が上であると感じた。しかし、その点数よりも、彼女の全くおごらない態度に、僕は敬服した。

 さらに、出身地が、僕が香川であるのに対して、彼女は徳島、と同じ四国であることも彼女に親近感を覚えた。

 隣の県というだけでは、全く県民性が異なる場合もあるのだが、僕は香川県民として、徳島県民である彼女に、親近感を覚えた。

和三盆を名産品に使っているところや、車生活による運動不足が要因と思われる肥満体型の人、糖尿病患者が多く、交通マナーが悪いという点など、共通するところは多かった。徳島県民の、田舎ではあるものの、牧歌的というより、考え方がシビアで都会志向の人間も少なくない、という特徴も、香川県民の特徴と少なからず似通っているように思った。

 ただ、彼女はそういう、徳島県民のイメージと全く異なっていた。

 いや、正確に言うと、徳島県民の女性の傾向の一部である、勤勉で働き者で、美貌の持ち主である、といった良い面だけを持っているように見えた。そして、徳島県民の不名誉な傾向としての、肥満体型という側面は、全く持ち合わせていなかった。それどころか彼女は容姿とスタイル、そして服装からして、都会の誰よりも都会的であった。そして何より、標準語が板についていた。

 僕が上京前に想像していた、都会にいる魅力的な女性の象徴のような人であった。

 でも、もしかしたら、田舎から上京した彼女自身も、そういう都会のイメージに自分を重ね合わせているのかもしれない、とも思った。

 そういうリサの印象的な姿と、僕の忘却による記憶の不明瞭さが相まって、その後も何度かキャンパス内で彼女を目で追うようになったのかもしれない。

 僕のこのような心境を察してか、目の前のリサは、意味ありげに僕の瞳を見つめた。そして一言、「同級生として、これからもよろしくね」と言って、それまでよりも少し親しげに微笑んだ。

 その後も僕は、リサを、大教室の授業など、キャンパス内でよく見かけた。ただ、以前とは異なり、誰か分からない魅力的な女性としてではなく、『リサ』として、認識することとなった。

 僕は、別に同性が好きというわけでもないのだが、異性だからといって必ずしも恋愛対象として見ている、というわけではない。そういう自分の感性をキャンパスライフにおいて貫いてきた。

 そんな僕にとって、リサは、自然と親しくなれる相手であった。もし彼女に対して、異性としての交際を求めていたならば、容易に近づけなかっただろう。

 大教室の授業で、意味があるのか無いのか、御本人も分かっていないような講義を、お経のように長々と続ける、化石のような教授を前にしても、リサは文句一つ言わないのみならず、不満げな表情もせず、淡々と授業を受けていた。そんな彼女の姿に、僕はいつの間にか、尊敬の念を超えて、神秘的な美しさまで感じるようになった。

 この頃から僕は、リサについては、底知れない謎があるように感じることがあった。

 その後、大教室でなされる必修の授業で、リサと何度か顔を合わせる度に、一言二言会話するようになった。取り留めのない内容の会話であるが、僕にとってはリサとの関係性を維持するための貴重な機会であった。

 どうやら彼女にとってもそれは同じであるかのように、時折感じるのであった。リサとの数少ない会話から、僕は彼女の知性と人間愛を確かに感じとった。その感情が、僕が彼女を贔屓目に見ていることからくるものであった事は重々承知している。だが、同時に、僕の人間の性質に対する直感について、僕は根拠の無い自信をもっていた。

 そうこうしているうちに、各研究室の入室試験が終わり、それぞれの学生が所属する研究室が決まった。

 その後、僕は本当の『大学生活』というものを体験するのであった。三年生に上がると、僕らは、研究室を、『ゼミ』と呼ぶようになった。それぞれの学生がゼミに参加し、夏休みには合宿に参加した。

 大学という場所は、とりもなおさず学問を修める場所であるが、それ以上に大人になるかならないかの状態にある学生が互いに影響を及ぼし合い、また教授からも影響を受ける場所である。ゼミでの交友関係や教授との関わりは、大学での学びの中核となるものと言えよう。人によっては、学問ではなく、大学生活での学生や教授との関わりが、学びそのもの、となることも十分にあり得る。

 そういう事を、僕は自分自身の経験というより、自分が現実的に想像できるもの、として学ぶことができた。


 その日は、法学部の某教授の授業が休講になって、二週間が経過しようとしていた。

 一法学部生としては、ラッキーなこと以外の何ものでもないとして、特段気にかけることではない。だが、唯一の懸念は、その教授が、『赤岩』教授という、リサが所属しているゼミの教授である、ということであった。

 教授の大教室の授業も休講ということはリサが所属するゼミも、当然に休講となっているはずである。勤勉で律儀な性格から、ゼミにも毎回出席しているであろう彼女なら、教授の休講に、さぞ疑問を感じていることであろう。普通の風邪ならば、一週間もあれば完治するであろうし、何らかの事情で重病にかかっていたならば、又聞きなど、風の便りによって、僕の耳にも入るところとなろう。

 ところが、今回の休講について『教授の体調不良』とだけ知らされて、それ以上何らの情報も、憶測も聞こえてこないのであった。僕は、そこに何らかの謎があるように思えてならなかった。たとえ謎と呼べるようなものが無かったとしても、それはそれで僕に意味のある事実を教えてくれるように思えた。

 そこで、この休講の『謎』について、独自に調査をする事にした。

 奇しくも、この調査が、僕とリサとの関係を深めるものとなった。

 正直言って、僕個人としては、赤岩教授に対してあまり良い印象をもっていなかった。

 その要因はおそらく、彼の権威主義的な態度の中に、成熟した人間がもつべき謙虚さを感じとることが出来ないことにあった。特に、日頃の講義において、社会的責任を負わない学生が相手であるのを奇貨として、社会的責任を果たすことの重要性を強調し、自尊心を見せびらかしているように見える点が、僕としてはどうしても腑に落ちなかった。

 今回、その人間が、社会的責任として履行義務を負っているはずの講義を、しない、とはどういうことか。自己矛盾行為も、いいところである。

 もちろん、彼がサボっているのであれば、の話ではあるが。

 今回の僕の調査は、僕の彼に対する日頃の疑問からくるものでもあった。

 以前から赤岩教授に対して抱いていた違和感を、明確に述べることは依然としてできない。だが、講義の中での彼の言葉の節々から感じられる、彼の世俗性に、不快感を募らせていたのは、紛れもない事実であった。その不快感は、真綿で首を絞めつけるように、僕を苦しめた。

 他方で、彼の時に当意即妙の毒舌を挟みつつも熱弁を振るう講義と、既に四十歳を過ぎているとは思えない、その若々しい容姿から、学内からの評価が高いという事実は、認めざるを得なかった。

 それでも、彼の内面に蠢く、何か醜いものを思わせる黒い影についての直観を、無視することはできなかった。明確に、冒涜とか蔑視などと言って非難すべき言動が無いにもかかわらず、僕の嫌悪感を募らせている、という紛れもない事実が、彼の巧妙な手口を物語っているようかのように思えてならなかったのだ。

 ただ、彼の世俗性についての象徴的発言として、一つ、思い当たる節があった。

 大教室の民法の講義で、公序良俗違反(民法90条)について説明する際、「愛人契約などは、公序良俗に反するので、できません」と、言っていた。その口調が、いかにも善人ぶっているように、聞く者をして感じ取らせたのだ。その独特の口調は、僕の彼に対する不快感を増大させた。しかも、彼はその説明がお気に入りなのか、講義の中で、そのフレーズを何度も使うのであった。

 彼がその発言をする度に、彼の内心が透けて見えるように感じた。

『俺は、愛人契約など、しようと思えばできるが、することを欲しないのだ。しようと思ってもできない君らとは違うんだよ』

 そんな、彼のおごり高ぶった精神状態が見えるように感じたのだ。

『犯罪を、やろうと思えばできるが、あえてそれを欲しない』という精神状態にあった未遂犯に、中止犯(刑法43条但書)を認めているのは、道義的な意味における非難可能性の減少からくるものであり、自分にも十分な道徳観念が備わっている、とでも言いたげであった。

 ただ、自分がいかに素晴らしい人間であるか、を強調する人間ほど、信用できない人間はいない。そのことを僕は知っている。

実際、正論を熱弁する合間にチラリと見える、彼の不敵な笑みが、醜悪の極みであるように僕には感じ取れた。

 民法の教授として、今でこそ立派な肩書を得ているものの、彼は私立大学の出身だから、センター試験という苦行を味わっていない。このことは、百歩譲って、不問に付さないとしても、彼は司法試験に受かった経験がない。弁護士業の実績もそれなりにあるようであるが、その弁護士資格は教授職に長年就いていたことによって得た資格であって、司法試験に受かったことによるものではない。そういった事実も、僕の彼に対する不信感を募らせた。

 それでいて、彼は、目の前の学生に対しては、勉強しろ勉強しろと声高にのたまうのであった。

 それは、勉強をすることがどんなことであるかもよく分からずに、試験の成績が絶対的なものだと思い込んでいる、出来の悪い子供を持つ親の姿を、彷彿とさせた。

 そういった、彼の間違った教育方針の露呈として印象に残ったものは、概して彼の人格を的確に表現するものであった。僕は、その発言の一つを思い浮かべた。

「司法試験も、終わってしまえば、『なんだ、こんなものか』って思うんだよ」

 それを聞いた学生は、『自分は司法試験に受かったこともないのに、よく言うよな』と思うであろう。

 でも、受かったことのない人間だからこそ、そういう、司法試験を軽く見るような発言ができるのだろう、とも思うのであった。愚かな人間ほど自分の実力を過大評価する傾向にあり、無知な人間ほど知ったかぶりをしがちだ、という教訓を、教授自らを例にして示してくれているようにすら思えた。

 もしそうならば、教授はわざわざ教壇に立って、反面教師という寸劇を演じてくれているということになり、我々学生は安くはない学費を払ってその寸劇を、スマホをいじったり途中退出することを禁止された状態で、黙って見ている、ということになろう。

 ここまで考えて、『人をバカにする』という行為は、実力が下の者が上の者に対してする行為だ、というのを一流のスポーツ選手のインタビューで言っていたのを思い出した。

僕はまだ、人間として実力的に、赤岩教授の下にいる、という事実を認めたくなかった。

 そこで、彼をバカにするのではなく、文字通り反吐が出そうな彼の言葉の数々を、咀嚼し、飲み込むことにした。

 実際、彼の発した、嫌気がさす言葉について一つ思いつくと、また二つ三つと思いついてしまいそうであった。自分自身のことを出来が良いと思っている、と見る者をして感じさせる彼の姿も、見苦しいと感じた。

「皆、まだまだ僕から見ると、ひよっこだよ。僕みたいになろうと思ったら大変でぇ〜…」

 その発言を授業中に聞いた時、僕の彼に対する嫌悪感は、ますます増大させられた。本当に素晴らしい人間は、自分自身の真摯な努力について、それが多大であればあるほど、他の人に誇示したりはしない、という見解が僕の中にはしっかりと根付いていたからだ。

教授の休講について、リサに話を聞く前に、可能な限り情報収集をしておくのが、礼儀というものだ、と僕は考えた。

 一番先に、思い浮かんだ人物は、以前に共通の友人を介して友人になった、赤岩ゼミのゼミ長であった。

 手っ取り早いのは、彼に聞くことである。ただ、ゼミ長とは名ばかりで、実際にはゼミ員皆のパシリ役であるのを、僕は知っていた。さすがに、その事実を言いまわるのは、ゼミ長の人権を侵害するように思えて、控えていた。

 ただこの事実は、ゼミ員皆が知っていて、噂が回り回って、今では僕のような、ゼミ員以外の学生の知るところとなっている。聞くところによると、自ら立候補して、ゼミ長となったということらしい。それを聞いて、『下っ端の人間ほど肩書きを欲しがる』という人間心理を思い出した。ゼミ長も、よほど赤岩ゼミのゼミ長という肩書きが欲しかったのだろう。

 それならば、ゼミ長が皆から小馬鹿にされる事実についても、御本人の責任が多少はあろうか、と考えたりもした。

 いずれにせよ、人間というものは多少なりとも卑小さというものをもっており、それが露呈した自身の言動に対する社会的評価によって、報いを受けているのであろう。

 そう考えながら手帳を見ると、ちょうど、法学部生の必修の授業が、翌日の二限にあることが確認できた。

 その時、律儀さを超えて、まるで何かとてつもなく重要な規則を守るように、前の方の席で授業を受けているゼミ長の後ろ姿が、目に浮かんだ。その姿は、自分の守っている規則がとても重要なもので、それを守っている人間である自分は、とても尊い存在なのだ、とも言わんばかりのものであった。また、時折醸し出される悲愴感を、何とか隠し通そうとするものでもあった。

 次の日、前日の僕の脳裏に浮かんだ姿と、一ミリも違わないゼミ長の後ろ姿を見つけた。

 授業が終わると、僕は彼のところに駆けつけた。

「これ、実家から送られてきて、余ってるから、あげるよ」

 以前から、ゼミ長が甘党で、僕の出身地である香川県の名産である和三盆を食べたがってるのを、人づてに聞いていた。和三盆は、僕自身も滅多に口にしない、贈答品としてのお菓子である。以前、帰省した時に、土産用に多めに買って、冷蔵庫にストックしていたのだ。

 桜の花や菊の花を象った色とりどりの和三盆が、ビニール越しに見える小さな箱を渡すと、彼は、大げさに喜んだ。

「えっ、これ、僕に。ありがとう」

 彼は、躊躇なく受け取ると、僕の目を見つめた。その目は、『お礼に何かできることないか』と、純朴に語りかけていた。ここまで想定通りの言動をする人間も、珍しい。僕の期待を決して裏切らない、生身の人間としての彼に、感心した。この時ばかりは、軽蔑の念は、心の隅に追いやった。

 僕は、自然な関心事を話題に出すかのように、彼に言った。

「なぁゼミ長、赤岩教授の授業、長く休講になっているじゃない?」

「うん、法学部事務室前の掲示板に、掲示されてたね」

 ゼミ長の態度は、赤岩教授と関わり合いの無い、よそ者に対するもののように感じた。僕が赤岩教授の授業に毎回出席しているのを知らないのでは、とも思った。たとえそうだとしても、ゼミ長がいつも前の方の席で授業を受けているのに対して、僕は後ろの方でほとんどの授業を受けているのだから、無理もないことだ。

 僕が赤岩教授の休講について、特別な関心を寄せていることを、目の前の純朴な男に知ってもらう必要があった。

「僕も、赤岩教授の授業、毎回出ていたんだ。あんなに心も体も強そうな人が、体調不良で休講とはな。ゼミ長、何か聞いてない?」

 ゼミ長は、鞄の中から少し見えるスマホを見ながら、応えた。

「うん、先生からメール来たよ。体調不良によるゼミの休講で、迷惑かける、みたいな。授業とかゼミでは凄く厳しい口調だけど、メールだと意外と丁寧で優しいんだ」

 それを聞いて、まだ僕の聞きたいことが伝わっていないと悟り、僕はやや遮るような口調で言葉を続けた。

「ゼミ内で何か事件が起きて、体調不良になって、それが尾を引いているんじゃないの?」

 僕の直球の質問に対して、彼はやや神妙な面持ちで語り出した。

「これは…オフレコなんだけれど…」

 ゼミ長は、わざわざ前置きをしつつ、もったいぶった態度をとった。

「先生は、肺炎のようなものにかかって、都内の病院で入院しているんだ」

 その口調の歯切れ良さからして、ゼミ長が知っている、全てのことなのであろう、という事が容易に想像がついた。

 僕は、それ以上何も聞かなかった。本来ならば、聞くべきであろう、どんな症状で回復の程度はどのくらいかなどということは、一切聞かなかった。

 聞いても無駄である、と判断したのだ。

 その後、下宿先の学生マンションに帰って、僕はしばし一人で考えた。

 この暑い日に、肺炎かぁ。

 肺炎って、もっと風がビュービュー吹く寒い日に、咳き込んでかかるっていうイメージがあるけどな。まぁ、夏風邪は長引くと言うし、夏風邪をこじらせたというならば、肺炎もあり得なくはない。

 ゼミ長は、自分の情報に、自信を持っているようであるが、本当は、もっと違う真実があるのではないか。

 最悪の場合、教授は死んでいるのではないか。

 教授は既に亡くなっているが、それを公表すると社会的影響が大きすぎるから、身内だけの秘密になっていて、教授の代わりに家族の誰かが、ゼミ長ら、秘密を共有しない者とメールで連絡を取っているのではないか。亡くなっていないとしても、あの教授が、ゼミを三週間も休むなんて、相当重大な惨事が、教授の身に降りかかっているに違いない。誰かに、罠にはめられたのであろうか。

 あの傲慢さを含んだ態度からして、恨みを買っていてもおかしくない。そういう人間だから、何かの機会に、毒を盛られた、ということも、一応考えられる。

 ただ、そうだとすれば、あの教授と食事を共にできる者であり、そういう人間は、おのずと限られてくる。

 しかし、自分に嫌疑がかかり、傷害罪(刑法204条)の犯人として捕まることを覚悟して、赤岩教授を相手に、わざわざ毒を盛るほどの勇気を持っている人間がどれほどいるであろうか。

 この、毒盛り説も、何か違う、と思考の片隅に追いやった。

 いろんな思考を巡らせているうちに、僕のかつての推理小説愛好家としての血が騒ぐのが分かった。嫌いな奴を貶める気持ちよりも、真実を追い求める気持ちの方が、自分の中では強い、という事実に、少し嬉しくなった。

 ただ、その感情に浸る間も無く、次の日からの情報収集、そこからの推測に、思いを馳せた。それについて考え込んだまま、寝床に入った。そのまま、長い間、思いを巡らせていた。

 寝付きの悪い夜は、オンラインでチェスをするに限る。

 相手は、コンピューターではなく、中級者レベルの人を選択した。相手は、ベルギー人の女性であった。

 制限時間を二十分として、対戦した。一回目は、攻撃的に駒を進めたものの、途中での僕の不注意なミスにより十分も経たずに負けた。相手のリクエストにより、二回目の対戦が行われた。そこで相手は、意外にも僕が一回目に使った攻撃的戦略を模倣してきた。一方で僕は、一回目に試みた戦略を見事に遂行した。相手は攻め込むことに注力しすぎるあまり、防御が疎かになっていた。ゲームは、僕の勝ちであった。

 その後、相手からの再戦のリクエストの通知は来なかった。

 気がついたら、さっきまで真っ黒だった窓の色が、水色になっていた。このままだと、不眠症になってしまう、と危惧し、カーテンを閉め、ようやく眠りについた。

 幸運にも、次の日の大学の授業は、昼からであった。

 僕の学生マンションから大学まで、電車を乗り継いで、三十分はかかる。空いている電車内は、いつのまにか、思考を巡らせるのに適した状況となっていた。僕はその時も、赤岩教授の状況に思いを馳せた。すると、あることを思い出した。

 そういえば、休講になる一週間前に、ゼミ合宿があったはずだ。その合宿に何らかの原因があるかもしれない。一度そう思うと、そこに真実の宝の山が眠っているように思えてならなかった。

 また、そもそも今回の教授の休講について関心をもったのが、リサの所属するゼミの教授だったから、ということを思い出した。

僕は、リサと、今回の休講について何ら話をしていないことを不自然に思うほど、今回の件について関心をもっている自分に気づいた。

 最近見かけたリサについて脳裏に思い浮かべた。リサは相変わらず、清楚で知的であった。

 リサの姿を思い浮かべる時、巷でよく言われる、「モデル風スレンダー美女」というのは、こういう人のことをいうのであろう、と、妙に感心するのである。

 実際のモデルほど背は高くないのだが、通学用の運動靴が3センチほどの高さがあり、彼女の細身の体型も相まって、見かけ上170センチ近くあるように見える。その靴も、いかにもな感じのものではなく、インヒールで自然と背が高く見えるものであった。

 その立ち姿には、恋愛感情に疎い僕でさえ、ハッとさせられる時がある。そこには、自然を構成する生き物の一部である人間としての、調和のとれた物理的美しさが確かにあったのだ。

 しかも、リサの場合は、「知性」とかいう漠然としたもの以外に、学校教育において身につけた頭の良さもあった。その上、勉強をする過程で人間が身につけるべき道徳心というか、人間愛も感じられた。それは、教科書の内容によって身につける知識を凌駕するものであった。

 リサが、僕と同じセンター試験のみで入学したと知らなければ、僕は迷わず彼女をミスコンに推薦したであろう。

 しかし、センター試験利用方式で入学して、僕よりも優秀と思える女性を、その美貌をウリにしてはどうか、と勧めるに近い、ミスコンに推薦することは、どうしてもできなかった。失礼な気がしてならなかったのだ。入試が比較的緩い私立大学の文系学部において、ミスコンとか、そういう場に出る女子大生は、虚栄心が強く、外観を褒められることで内面を磨かない怠惰な自分を正当化するような、浅はかな人間がふさわしい、と僕は考えていたからだ。

 他方で、リサの美貌をミスコンで売った際の経済的価値を見積もると、計り知れないものがあるように感じだ。ミスコンの受賞者として何かのイベントを開催した時の経済的効果に加えて、リサのその姿を見た者の心の中に与える、影響力も相当なものに違いなかった。ミスコン優勝者が各種メディアで活動したときの収入の相場は知らないが、うちの大学内でミスコン優勝者としてリサが出演するトークイベント兼握手会などがあれば、参加費が五千円でも、大学の規模からして五百人人は集まるであろう。

 それを他の大学や、イベントハウスなどでも開催するとなると、一年間のリサの関わるイベントの収益は、新人で素人であることを考慮しても二千万はくだらないであろう。

とすれば、経費としての会場費用や人件費を差し引いたとしても、一年間のリサの収入は一千万程にはなろうか。

 リサが、美貌を売らないとすると、一千万円をドブに捨てている、とも言える。

 入学したばかりの頃は、何千万という金が途方もないくらいの大金に思えたのだが、いつのまにか、こうして、何か価値のあるものを目にした場合に、金銭に換算して考えるようになり、金額を単なる数値上のものとして捉えるようになった。またそういう計算は、一般の世俗的な価値から離れているようなものほど、面白みを感じるのであった。

 何故なら、僕を含めて人間は、この世に生きる存在である以上、良くも悪くも、この世の評価からは、程度の差こそあれ逃れられないからである。それはたとえ、この世の評価に無頓着な人間であっても同様である。

 今までの社会に無かった価値であっても、それが社会で機能している以上、金銭的算定をすることが可能なのである。むしろ浮世離れしているものほど、その希少性から価値が高くなる傾向にあり、金銭的算定に意義があったりするのである。

 これも、民法演習書の事例問題で、損害賠償金の計算を、逸失利益等を考慮した算定方法にのっとってするようになったからであろう。

 もっとも、ここでのリサに関する僕の見積もりは、取らぬ狸の皮算用であって、この収入が現実化するのは、リサが自身の美貌をエンターテイメントの市場に開示した場合に限られる。そこでは、決められたルール通りの仕草をし、ルール通りの言葉を使い、ルール通りの表情を作ることが要請される。そう考えれば考えるほど、これこそがリサがやりたくないことなのではないか、という気持ちにさせられた。

 浪人すれば、都内のどの国立大学にも合格したであろうリサが、敢えてこの、法学教育のみで名高い中堅私立大学法学部に在籍することに甘んじたのは、おそらくルールを扱う側に身を置きたかったからではないだろうか。

 法律家という存在は、生の事案に対して、既存の法というルールを解釈適用して、妥当な結論に導くことが仕事である。既存のルールに従う際に、自分なりの解釈を心の中にもっている、という点に内面の自由さがあり、そこがどんな外観上の利点よりも価値があるように感じた。

 もちろん、自由があれば責任もあり、権限をどのように行使するか、というところに人間性が出るのであろうが、リサの場合はその自由の中に素晴らしいものをもっていそうだと感じさせるのだ。もしかしたら、そういう、彼女に対する尊敬の念が、彼女を単なる性の対象とすることを許さず、僕の恋愛感情を呼び起こさなかったのかもしれない。

 いろいろと思いを巡らしても、リサと話をしなければ、今回の件について彼女から何も聞けない、と思った。

 そう思うが早いか、僕はリサにメールをした。一応、食事に誘うには、何らかの用件が必要であると思った。そこで、赤岩教授が本来この休校期間中に講義すべきであった箇所について勉強不足になりそうだから、参考書を持ってきて、カフェで読書会をしよう、ということを、メールの文面として記述した。リサは快く応じてくれた。その返信の早さから、結構なノリ気である事もうかがえた。

 問題は、食事の場所であった。

 まず思いついたのは学食であった。だが、やはりリサは目立つ存在であるため、変な疑いをかけられて、平穏な学校生活を害される危険性を無視することは出来なかった。リサは学食でも良いと言うのだが、万が一のことを考えると、僕にとっては、地雷の敷き詰められた土地に足を踏み入れるようなものであった。それほどまでに、この問題は僕にとって死活問題であった。

 結局、本を読むのに学食では落ち着かないから、という理由で、学校の最寄駅から特急で一駅離れた駅前の喫茶店を、『読書会』の場所とすることにした。今回は、僕が誘ったから僕の奢りで、という提案にリサも同意してくれた。

 リサに似合う店、という基準で僕が選んだ店は、和風のパスタ店であった。ホームページの案内によると、お箸で食べられるパスタ、というのを売りにしているらしい。

 リサと一緒に店の前まで来ると、ガラス張りの壁から店内の様子が多少なりともうかがえた。やや混雑していたが、席はまだ何箇所か空いているようだった。何より、各席が十分に区切られているようで、ホッとした。同じ大学に通う大学生らしき人間が、もしいたとしても話を聞かれないであろう、と思えたのだ。

 リサは、きのこクリームパスタを注文した。僕も、同じもので良かったのであったが、全く同じものは、何となく気がひけるというか、きまりが悪く感じた。そこで、似たものはないか、とメニューを見て、カルボナーラを注文した。

 最初に出された水を飲みながら、最近どのように民法の学習を進めているか、等の互いの関心事と思える話題について会話をしていると、まもなく、パスタが来た。

 想像していたより、オシャレな見た目であり、リサのきのこクリームパスタの上にはきざみ海苔が、僕のカルボナーラの上にはパセリを小さくちぎったものが載せられていた。

食べ始めた時、パセリは、箸で麺をすくった際に滑らないように、との配慮なのであろう、と気づいた。

 一口食べ、二口食べ、食事が中盤に差し掛かった頃、話題は学校のゼミのことになっていた。

 その流れで、僕は、休講になっている、赤岩教授のことを話題に出した。

「あの教授、最近休講になっているじゃん。リサは、あの教授のゼミを取っているんだよね。ゼミ員同士で、不穏な雰囲気になっていないか」

 リサは、見るものに不快感を与えない限度で、暗い表情になった。

「うん、あの先生、研究だけじゃなくて、実務家としての仕事も最近忙しそうだしね。何だかんだで、大変なんだと思う。」

 リサの、返答した際の口調と、表情から考えるに、おそらくリサは、僕が今回食事に誘った目的を察していた。

「合宿で、何か変わったこと、なかった?食中毒になるようなものを教授が食べたとか。」

「ううん、それは無いと思う。皆、同じものを食べていたから」

 リサは、箸でパスタを上手くすくい上げながら口に運んでいた。

 僕は、その場で何か喋らないと、リサの醸し出す雰囲気に酔いしれそうであった。

「リサって、知的だよね。こんな中堅の、地味な私立大学には、似つかわしくないようにも感じるんだ。リサ自身は、違和感、無い?」

 僕は、リサが限りなく自身の裁量で答えられるように配慮して、質問をした。

「不思議に思われるかもしれないけれど、私には、この環境が合っていると思うんだ。

 私は、地方の公立高校出身だから、周りの皆が皆、勉強に打ち込んで東大を受験するという環境じゃなかったの。

 そういう環境で勉強していた人間だから、周りが全員勉強している、という環境よりも、こういう推薦入試で入った人の多い私立大学の方が、自分には合うような気がするんだ。

 それに、推薦入試で入学して、センター試験すら受験していない大学生って、私にとっては別世界の人達で、興味深いなぁ、って正直思ってるの。

 私、ちょっと変わっているよね?」

 控えめな言い方であったが、リサの言葉は、僕にしっかりと刺さった。

 概して、男性という生き物は、女性に対して優位に立ちたがるものだ。その実例を、僕はこれまで幾度となく見てきた。多くの男性にとって、知的な女性に対しては、憧れが強い反面、自分自身のコンプレックスも刺激され、場合によっては心臓を抉られるような感覚に襲われるのである。

 リサの性格からして、おそらく周囲の人間に自分の学力を見せびらかすようなことは、していないであろう。ただ、リサの学力や知性は、周囲の人間をして十分に感じ取れるものであった。

 リサ自身も、周囲の人間がリサのことをどう思っているか、少なからず感じて生きてきたことであろう。それは、おそらくリサの所属するゼミの中でも同じだということは想像に難くなかった。

 僕は、リサの大学生活を想像しながら、あらゆる場面で生じうる特殊な出来事について、リサ本人を目の前にして言うわけにもいかず、しばし黙り込んでしまった。

 僕の心境を察してか、リサは沈黙をやぶった。

「大学に入ってからも思ったんだけど、男性って女性よりも繊細で傷つきやすい傾向にあるよね。人と比べて、落ち込んでしまうとか。例えば、周囲の人には恋人がいて、自分には恋人がいない、とか。そして、俗に言う優秀さの判断基準としての、入試形態が一般か推薦か、とか。

『同じ大学だから、皆一緒じゃない?』って思うんだけど、どうも違うみたい。

そう君は、どう思う?」

「たしかに、そうだよな。同じ大学でも皆、違うんだよな。逆に同じ大学の同世代の人間だから、互いに比べ合ってしまうのかもしれない、とも思うんだ。

 僕らみたいに、地方の公立高校を出て上京した人間には、よく分からない、暗黙のルールが、指定校推薦で入学した人や、内部推薦で上がってきた人には、あるような気がするんだ。

 何故かはよく分からないんだけど、推薦組の人達から距離を置かれている、というのは僕も感じるんだ。入試形態がセンター試験利用方式だからと言って、特別に優秀とは限らない、と僕は思うんだけど、周囲の人間は、その入試形態だけで優秀であるとみなしているようなんだ。

 だから僕も、自分がこの大学では優秀な層に属するんだ、と思うようになってしまったんだ」

 僕の発言について、リサも頷きながら、応じた。

「それって、学歴に関してもいえることだよね。私は高校までは、学歴が何より大事、って思って勉強していたんだけれど、そういう考えには息苦しさも感じていたの。私立大学に入ったら、学歴なんか気にせずに生きていけるかも、って期待していたんだけど、逆に、相当な数の人が学歴に関して異常なほどのこだわりがあるみたいで、他大学の人を話題にする時にも、大学名を強調しているように聞こえることがよくあったの。何というか、私が想像していたのとは、全く違うんだな、って感じてるんだ。そして、センター試験利用方式で入学した人達は、自分で言わなくても、語学のクラスの出席番号の位置で、何となく分かっちゃうみたい」

 僕が大学生活で抱えていたモヤモヤを、リサが見事に表現してくれたように感じ、リサに対する尊敬の念に加えて、信頼や親近感といった感情が湧いてくるのを感じた。

「僕も、正直、学歴については思うところがあるんだ。『同じ私立大学だけれど、自分だけは、こんなもんじゃないんだ』って、変に肩肘を張っている奴らも多いって感じている。もしかしたら、教授についても、そうなのかも、とか思ったりするんだ」

 リサは、黙って頷き、そのまま沈黙した。

 食事が後半に差しかかり、こってりしたソースを残り少ない麺に絡ませながら、目の前で同じ動作をしている彼女を見た。その時、本当に、このメニューを注文して正解であった、と安堵した。

 同時に、今回のリサとの会話はこれ以上進展しない、と踏んだ。そろそろ帰ろうか、と申し向けようとしたその瞬間、リサは口火を切った。

「男性の中でも、理系科目が苦手な人って、コンプレックス強そうだよね。

 別に、男性だから理系科目が出来ないことがカッコ悪いとか、女性だから理系科目が出来ない、とか、私は思わないんだけどな。

 そうくんは、高校時代の勉強で、どの科目のどの単元が好きだった、とかある?」

 高校卒業以来、理系科目と疎遠になっていた僕は、不意打ちをくらったように感じた。

「忘れちゃったな、そう言うリサは?」

「私は…、確率かな。数Aだったか、数Bだったか、どこの時点で学んだかは、忘れちゃったけど」

「ふぅん…」

 今ひとつリサの話の意図が掴めず、僕はポカンとしてしまった。そんな間抜けな顔をチラッと見ながら、リサは言葉を続けた。

「数学上の確率と、現実世界で私たちが見積もる確率って、かなり違うな、って思ったの。

 良い例だと思うのは、サイコロを十回振って全部一が出たら、さすがに次は一以外の数字が出るだろう、と現実世界では思うんだけど、数学上はそういう結論にはならないってこと。数学上の確率、というのは、ある試行を何千回、何万回と行った場合の統計を想定しているから。

 そして、究極的だな、と思うのが、人間関係。たとえば一つの大学に同じ年に入学した三千人の中から一人か二人と友人関係になったとするよね。

 それって、三千分の一の確率で、その人と友人関係になったというよりは、当事者による何らかの嗜好や関心が原因となって、半ば必然的に親しい関係になった、と私は思うんだ。

 数学の世界って完全な理想を表しているとは思うんだけれど、現実世界においては、数学上の確率の数字ってあまり参考にならない、って思うんだ。

 そういうところが、面白いな、と私は思うんだけど、そういうこと、他の人はあまり考えないのかな」

 言われてみれば、そうだ。

 確か高校二年の頃、夏休みの宿題をしている時に、確率の問題を解いていたのを思い出した。どんな問題かは全く思い出せないのだが、難しく感じていたこと、そして解説を読んでも狐につままれた気持ちになったことを思い出した。

「確かに、この現実世界では、数学上の論理では、説明できないことが起きているよな。人と人が、親しくなるのも、同じサークルやゼミだから無条件に、ってわけではないと思う」

 何か説得的な反論が出来れば、さらに議論を深められそうな雰囲気であったが、僕はリサに同調するのがやっとであった。

 意外にも、リサは僕の回答に満足げであった。そして、さらに言葉を続けた。

「うん、そういうのがね、同じ授業を受ける学生だからと言って、無条件に同じ教育を大学から受けるわけでもない、という事に繋がる、って私は思うんだ」

「まぁ、それはそうだよな、本人のやる気にもよるし」

 リサが何か重大な関心事、もしくは懸念事項を伝えようとしていることを確かに感じとったが、それが何なのかは、僕の中で曖昧模糊としていた。

「ただね、私は同じ大学、同じ学年に属していて、同じ授業を受けている大学生なら、皆同じように扱われるって思っていたの。そうあるべきなんだろうけれど、現実はそうはならないんだな、って最近感じるんだ」

「まぁ、教授から見て、それぞれの学生は、入試形態が異なるのはもちろんの事、授業態度も異なることは、明らかだろうからな。そういう違いって、各学生の性格や実力の違いからくるもの、と僕は思うんだ」

 リサの考えに沿った発言をしつつ、僕も考えた。

 リサは神妙な面持ちで僕を見た後、俯き加減で小さく頷いていた。

 チラッと思ったのは、僕や他の多くの学生が当たり前と思っていることが、リサにとっては当たり前ではなかった、ということだ。気がつくと、皿の中のパスタがなくなってから、しばらく経っていた。

 僕は、その現場の様子を目に焼き付けながら、この辺で解散することを申し向けた。リサも、自然な態度で応じ、その後、僕らはそれぞれ帰路についた。

 帰宅中、リサの発言をもとに、リサの内面について、思いを馳せた。

 地元の高校に通っていた頃の同級生らを思い出した。僕も一応、県内有数の進学校と言われる高校に通っていたものの、公立であったということもあって、学年や生徒個人によって偏差値の高さはまちまちであった。

 僕の周りの雰囲気は、良くも悪くも、のんびりしており、しゃかりきになって受験勉強に取り組む、という感じではなかった。そんな状況の高校で、実際に都内の国立大学に受験できる人間は、なかなかいなかった。

 実際、僕は受験できたわけだが、受験できただけでもまあまあよく頑張ったと思っている。

 リサも、徳島県の進学校に通っていたとはいえ、公立高校であることを考えると、都内の国立大学を受験するというだけでも、学年では相当な秀才であったのであろう。しかも、リサの容姿端麗、品行方正といった性質から、学校ではかなり重宝されていたはずである。

 ただリサ本人は、そういう『賢い子』扱いをされることに、飽き飽きしていたのではないだろうか。田舎の秀才は、都会の難関大学と言われるところに行ったら、やはりガリ勉扱いされるであろうことを、リサも感じていたのであろう。

 同様に、難関と言われる試験を受けたこと自体も、ガリ勉や、秀才といったイメージを植え付けるものになると考えたに違いない。

 そんな周囲の評価など気にせず、少しでも自分の学力を証明するものを取得しておけば、社会的地位も自ずと高くなるだろうし、良い就職先も得られるであろうに、という僕を含む周囲の意見は、おそらくリサには虚しく響くことであろう。

 そんなリサの決断には、『特別に賢い子』としてではなく、『普通の女の子』として周囲との関わりを感じたい、というリサなりの乙女心が垣間見えた。リサも、巷で囁かれる、女性は学歴が高すぎるとモテないという一般論を、少なからず気にしていたのであろうか。

 また、リサの自身の美貌に対する考えにも、思いを馳せた。

 以前、美人ほど、美貌を追い求め、やがて身の破滅を招く、という話を聞いたことがあった。リサは、そういう悲劇を知ってか知らずか、自分の美貌には無頓着である。そういう姿が、かえって見るものを惹きつけている、ということは言わずもがなであろう。

 感性にも恵まれたリサは、そういう自分が注目されているのを何となく認識して、せめて学歴から必然的に想像される学力だけは可能な限り秘密にしておきたいと思ったのであろう。

 自分の学力を、見せびらかすのではなく、胸の内に秘めて温めておこうという姿勢にこそ、彼女の知性が光ったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、学生マンションの一室である自宅に戻ると、今回の教授の休講の件について、無意識的に考えていた。合宿において、どんなことがあったか、リサ以外のゼミ員に聞くのはあまりに直接的だと感じ、憚られた。合宿で何か事件が生じたのであれば、それが赤岩教授の授業の休講の、直接的な原因であるように思えてならなかったのだ。

 さらに、その事件に、ゼミ員が関わっているとすれば、自分の責任逃れのため、皆何も言わないだろう、と思った。

 そこで、僕は今回の件についてのアプローチ方法を考えた。

 夜寝る際、良いアイデアが思いつかないか、思いを巡らせながら、眠りについた。

 次の日の朝、最初に思ったのは、こういう雑多なことを聞くには、ゼミ長は最適であろう、ということであった。

 幸運にも、その日も、一般教養の授業で、ゼミ長に会える機会があった。

 普段は後ろの方で受けている僕は、その日に限って前の方の席に座り、授業開始前、既に近くに座っていたゼミ長に話しかけた。

「オッス、和三盆、どうだった。意外と、大したことない味だったんじゃないか」

「いやいや、緑茶と一緒に食べると、最高だったよ。あの、口の中で、滑らかに溶ける感覚が、他の和菓子とは全然違う。病みつきになりそうだよ」

 予想以上の反応に、僕は少し驚いた。彼は僕の想像以上に、ありとあらゆる和菓子を食べているらしかった。

「そうか、それは良かった。また機会があれば持ってくるよ」

「ほんとにぃ。ありがとう」

 ゼミ長の、無邪気な表情を見て、僕は彼に対して多少不躾かと思える質問をするための、少しの嘘をつく勇気を得た。

「そう言えば、この前、赤岩ゼミのゼミ合宿があったようだね。うちのゼミでもあって、教授が酔いつぶれて大変だったよ。女子がいる前で、奥さんへの愚痴を言い出してねぇ。一部の女子の指示で、男子が四人がかりで抑えて、別の部屋に連れていって、事無きを得たんだ。もう少しで、御家族に対する侮辱罪が成立しそうになってたよ。

 家族法を専門とする教授が、現行法上の家族制度に不満をもっていて、さらに御家族に対して侮辱にあたる発言をする、なんてシャレにならないよな」

 僕の言葉に対して、ゼミ長は少し笑いながら、興味深そうに頷いた。

 ゼミ長の笑いがおさまり、何か考えるそぶりをしたので、僕は頃合いを見計らって言った。

「そっちのゼミは、どうだった。教授が、飲み会で、発狂するとか」

 かなり冗談っぽく言ったつもりであるが、僕の言葉に対して、ゼミ長の顔は、思いのほか歪んだ。

「まぁ、砕けた場だからね」

 やや、気まずい空気が流れた。

 その瞬間、近くにいた男子学生が、急に話に入ってきた。

 赤岩ゼミに所属する、二沢である。

「あいつ、飲み会の席で、ベロンベロンだったぜ。おっもしれ〜の」

 二沢は、パッと見は、今時の爽やかな青年である。若手イケメン俳優、という表現をされても、頷ける。

 しかし、聞いたところによると、入室試験、つまり赤岩ゼミに入るための試験の面接で、民法に対する情熱について、嘘八百の言葉を並べたてたというのだ。

 この面接でのエピソードを聞いた時を境にして、二沢の『二』のイメージが、『二枚目』の『二』から、『二枚舌』の『二』に変わった。

 僕は、この二沢の発言に、ひどく興味をそそられた。さらに深く聞こうとした瞬間、授業が始まった。

 その後二沢に、話を聞こうとも考えたが、二沢は、入室試験での嘘の発言といい、どうも信用できなかった。ただ、二沢から見ても、ゼミの教授の素行について、いつもと違う何かがあったことは、十分にうかがえた。

 この詳細を聞くには、二沢だと心もとない。

 他のゼミ員のメンツも思い浮かべてみたが、どの男子学生も、どうもいい加減な感が否めなかった。真実を言っていたとしても、その決め手に欠くのである。

 そうこうしているうちに、語学の授業の時間になった。

 法学部棟である九号館までは、大教室から近いものの、語学の授業があるフロアの十二階まで行くのが、一苦労である。何せ、二台しかないエレベーターに、授業を終えた学生と、授業へと向かう学生が乗ろうとするのである。おそらく半数ほどの学生は、エレベーターを諦めて、階段で上るのだが、これがまた急な階段でキツイのである。

 無事、授業開始前に十二階に到着し、語学の教室に入ると、まだポツポツと席に空きがあった。

 席に着くと、斜め前の席に、栗田がいるのに気づいた。

 そういえば、栗田もリサと同じ赤岩ゼミに所属している学生であった。語学の一番最初の授業で、隣の席の人と、英語で自己紹介をしよう、という場面があり、その時に隣にいたのが、栗田であった。 

 栗田が、都内でも有数の進学校である某私立高校に通っていた、ということを、彼女と出会った当初の僕はまだ知らなかった。

 しかし、その華奢な身体と、眼鏡の奥に光る眼光、そして手入れがしやすそうなショートカットからして、これまで勉強中心の生活をしていたのであろうことは、想像に難くなかった。

 また、「栗田」という名前を聞いてから、彼女の頭が、栗の形をしているように見えてくるのを感じた。華奢な体に対して、半球分を髪の毛に包まれた頭がやけに大きく感じられるのだ。それに加え、彼女のインテリな雰囲気も相まって、その頭が大きな栗のように見え、かつ、重たそうに感じられた。

 名は体を表す、というのは、こういう事か、と妙に納得したのを僕は覚えている。

 さらに、留学に行こうと思っている、と語学の先生に話している彼女の姿を見た時、彼女の、インテリ、勉強家といった印象が定着するのが分かった。

 もっとも、彼女が作成し、読み上げた英語の自己紹介文がどんな内容のものであったかは、全く僕の記憶に残っていないのであった。おそらく、その栗田の強烈なインテリの印象からは、肩透かしとなるような無難な内容だったのであろう。

 その栗田も、赤岩ゼミに所属しているのだ。彼女なら、合宿で起きたこともしっかりと把握しており、かつ正確に発言できるであろう。

 赤岩教授のゼミに所属してからは、「くりた」なのに、「くりだ」と呼ばれることを、時折ネタにしていた。語学のクラスでの同級生との雑談で話題にする程だから、本人としては、結構気にしていたのであろう。

 本当は、教授に対して、面と向かって言いたいのであろうが、なかなかそうもいかない、という栗田の僅かばかりの乙女心が垣間見えた。

 そのネタからうかがえるものは取りも直さず、教授の態度から透けて見える、教授自身の意識であった。僕も感じた、その意識とはつまり、教授自身は、栗田が「くりた」であっても「くりだ」であっても大して変わらない、と考えているということであった。

 人間誰しも程度の差こそあれ、自分が好きな人が、自分を好きかどうかは、直感的に分かるものである。

 栗田は、どうも自分の想いが報われなさそうだ、ということに気づいていたのであろう。

 その代わりに、教授が気にかけている他の学生に対しては、関心を寄せている、ということは容易に想像ができる。

 そこで僕は栗田に、合宿の飲み会での赤岩教授の様子を聞くことにした。問題は、その聞き方である。

 合宿中、教授が、誰か、女の子に、何か手を出したりしていなかったか、などと聞くのは、あまりに唐突で露骨で、品がない。

 さらに、それによって僕が何か嗅ぎ回っているように、栗田に思われるのは、何となく気まずいと感じた。

 結局、無難な聞き方をすることにした。

授業終了後、テキパキとノートを片付ける彼女に対して、僕は言葉をかけた。

「ゼミの合宿、どうだった」

「合宿?…うん、いろいろあって楽しかったよ」

 儀礼的に、だがしっかりと僕の目を見て、しっかりとした滑舌で、彼女は言った。

「飲み会も当然あったんでしょ。教授、何か面白いこと言ってた?リサもいたんだよね」

 その瞬間、ミスった、と思った。

不用意にもリサの名前を出してしまった、と思ったのだ。誰からも尊敬され、好かれてそうなリサは、ただ学校の勉強が出来るだけの栗田とは対照的であり、栗田の劣等感を刺激してしまったように感じたからだ。

 しかし、よくよく考えてみると、栗田を前に、同じゼミ員のリサの名前を出すのは、それほど不自然ではなかった。

 栗田も、特段、驚いた表情にはならなかった。

「あぁ…、リサちゃんね。ゼミでの議論の時、先生に狙われていたよ。んふふ…」

 栗田の、度の強い眼鏡の奥の眼光が、鋭く光っていた。

 ポカンとしている僕を尻目に、彼女は手際よく片付けられた机の上の埃を、手で軽く払いのけた。席を立ちながら、スマホのカバーを開けて一瞬画面を見た後、パカンと音を立てて閉めると、独り言のように、一言呟いた。

「休講について、先生から直接メールも来たし、体調については心配していないんだ」

 僕の目の前から、今にも去ろうとした時、何かを思い出したように身体の動きを止め、自分に言い聞かせるように、言った。

「帰りのバスの中で、先生が、毎年恒例のラブソングを歌ってくれたんだ。それが聞けたのは、良かったなぁ」

 それが、栗田にとっては、合宿の中で、最高の場面だったのであろう。それ以上、何も聞いてはいけない、という雰囲気に抗えなかった僕は、その後何の言葉も発することはなかった。

 栗田が去った後、自分の語学の教科書を片付けながら、思索にふけった。

 これまであまり意識しなかったのだが、栗田と僕は語学の出席番号が近い。

 栗田が推薦で入学した学生ではないことは明らかであるが、あれだけ勉強熱心で、成績もかなり良いものを取っていそうなことから、栗田もセンター試験利用方式で入学したのだろうか。

 以前、内部推薦の人が、出席番号の位置で、誰が外部からの学生かが分かる、と言っていた。たしかに、内部推薦の学生達は語学のクラスにおいて、出席番号が前の方にまとまっていた。

 こういう、誰がどういう入試形態で入学したかということって、出席簿を持つ教授なら認識しているんだろうな、とふっと思った。僕の履修している語学の教授は、柔和な雰囲気で、入試形態で学生を選別するとか、そんなこと考えてなさそうであるが、実際のところは御本人のみが知るところであろう。

 そのようなことを考えながら、僕はその日最後の授業へと向かった。

 

 そこから、数日が経過してもなお、僕の関心事は依然として変わらなかった。

 一日に一コマはある必修の授業で、また、ゼミ長を見かけた。こうして、すぐにゼミ長の姿が目に入るようになったのも、僕が赤岩ゼミに関心を寄せているからに違いなかった。そのことを僕は自覚していた。

僕は、ゼミ長の席の近くに移動して、話しかけるタイミングをうかがった。

 よく見ると、ゼミ長は、写真の束を手にして、結構なスピードで一枚一枚を次から次へと見ている。その仕草と、ゼミ長の後頭部から感じ取れる雰囲気からして、つい最近、現像されたのを受け取ったのであろうことが想像できた。

 スマホで撮った写真を電子データとして共有する現代社会において、カメラの現像とは、いかにも昭和の時代のようではないか。

しかし、そのカメラを現像に出して、写真を受け取りに行ったという、ゼミ長の姿を思い浮かべると、妙に様になっていて、可笑しかった。

「おつかれ、それ、合宿の写真?」

 僕が話しかけるとゼミ長も答えた。

「まあね、気にしないでよ」

 ゼミ長は、隠すようにして、手の動きを止めた。

「へぇ、少し見せてくれないか」

 僕は、可能な限り低姿勢で言った。

「だめだめ。ゼミ員だってまだ見ていないんだから」

 ゼミ員が、まだ見ていないからといって、僕が見てはいけないルールはないはずだ。ただ、ゼミ長の性格からして、そういうところが堅いのは、想定の範囲内であった。

 しかし、何としても、今この瞬間に、その写真を見ておかなければ、とても重要な何かを見落とすように思えてならなかった。

「今度の長期休みに、また和三盆持ってくるから」

「だめだよ。だいたい、今度の長期休みって冬休みじゃん。まだまだだし、その頃になったら、もう忘れてるよ」

「じゃあ、今度の三連休明けに持ってくるよ。それに、ザッと見るだけでいいんだ。どんな雰囲気だったか、知りたいだけだから」

「三連休って…、じゃあ十一月だね。忘れないでね」

 ゼミ長は、写真の束を、僕に渡した。

 厚さ三センチ以上はありそうな束であったが、一枚一枚、サクサクと消化できた。それぞれの写真の右下には、撮影の日付と時刻が印字されていた。どうでも良い景色や、バスの中での和気あいあいとした様子を写したものが、最初の方にあった。

 後半に入ると、飲み会の席であろう写真が続いた。浴衣姿で、皆、楽しそうである。

 ただ、ありがちなものが続き、なかなか僕の手は止まらなかった。それどころか、写真をめくる手の動きが速くなっているように感じた。

 あとはザッと見てゼミ長に返そうかと思ったところで、僕の手は止まった。

 ある写真が、僕の目の前に現れたのだ。

 そこには、ベロンベロンになった表情のまま座っている教授の姿が、写っていた。そして、その周りを、ゼミ員四人が笑顔で、取り囲んでいた。その教授の姿はもはや、権威者としての威厳を欠き、尊敬のしようがなかった。そればかりか、夜の新橋で顔を赤らめフラフラと歩く、酔っ払いのオヤジであった。

 ただ、その場で僕は、特に、何の反応もせず、とにかく最後まで見ることを心がけて、次の写真を見た。

 次の写真は、和室で、酒が置かれたテーブルの前で、教授が寝転んでいる。さすがに、教授を正面としておらず、他のゼミ員が酔っ払って談笑している様子がおさめられているが、正直言って、イモムシのようになった、その教授の姿は、気持ち悪い。

 日時は、合宿最終日の夜か…。

ゼミ合宿として旅館に宿泊する最後の夜に、ハメを外す、ということ自体は、それほど珍しくないことだ。そうだとしても教授の様子は異常ではないか。

「もういい?」

 ゼミ長が、固まった僕を見かねてか、退屈そうに言った。

「もう少し」

 僕は、その写真のところに左手の中指を挟んだまま、大慌てで、残りの写真を見た。

だか、それ以上に衝撃的な写真は見受けられなかった。

「あのさぁ…、これどういう状況?」

僕は、例の気になった写真を見せながら、ゼミ長に聞いた。

「あぁ、それね。宴もたけなわ、って状況だよ。僕も酔っ払っていて、覚えていない。写真係の子が、なんとか撮ってくれたんだと思う」

 この時の教授の状態を、詳しく知りたかったのだが、これ以上、ゼミ長に聞いても無理だと考え、諦めた。

「ありがとう。面白いものを見せてもらったよ」

 写真の束を、可能な限り丁寧に重ね、ゼミ長に渡した。

「ゼミ員に、写真を先に見たこと、言っちゃだめだよ。それから…」

「次の三連休、十一月の分の和三盆な。楽しみにしておいて」

 僕は、心配そうなゼミ長に向かって、快活に微笑んだ。ゼミ長も、僕につられたように、微笑んだ。

 もちろん、考えていたことは、違っていたであろうが。

 さて、次は写真係か。僕は周りを見渡した。

 私立の法学部は、膨大な数の学生がいるが、意外と世間が狭い。大きく分けて、司法試験を目指して日々の授業を真面目に受ける学生と、そうではない学生に分かれる。僕のように、まともに授業を受けている学生にとっては、何らかの話題になる学生は、知り合いを辿れば、必ずたどり着くようになっている。

 それでも赤岩ゼミの写真係である白井は、僕にとって、やや遠い存在であった。

 服装や化粧からして、控えめに言っても、やや派手めの美人で、僕の苦手なタイプであった。銀座のクラブの若手のママといった感じであろうか。元が色白の美人なのだから、もっと化粧を薄くして清楚な格好をすれば、リサのような品のある雰囲気が出るのではないか、と幾度となく思った。だが、そんなことを言う勇気ある行動は、たとえ本人のいない所であっても、僕には到底できそうになかった。

 その必修の授業の教室で、白井を探すと、真ん中あたりの席に座っているのが見えた。

 授業終了後、ゼミ長が、白井のところへ行って、写真が現像できたことを報告していた。その姿を遠目に見つつ、彼らの声に耳を澄ませた。

 学生がまばらとなった大教室で、二人の声はしっかりと僕の耳に届いた。案の定、合宿に関することが、話題になっていた。当然のように、赤岩教授の言動についても、話題が及んでいた。

 雑多な話の中で、とりわけ印象的だったのは、白井の発言であった。

「合宿の飲み会で、先生可愛かったねぇ。赤ちゃんみたいに寝っ転がって」

 おそらく、あの写真が撮られた時のことであろう。写真に撮られていなくとも、その現場では、様々な異常な言動がなされていたことは、想像に難くなかった。

 ただ、中年の教授に向かって、『可愛い』という表現は、どうかと思った。

 さらに、授業をしている赤岩教授を思い浮かべてみても、どう考えても『可愛い』とは思えなかった。

 もっとも、そのような疑問や批判は、白井ではなく、白井をしてそういう発言をさせた、赤岩教授に向けられていた。いつも偉そうにしている暴君のような人間が、赤子のように甘える姿など、気持ち悪いの極みではないか。そんな姿、母親くらいにしか見せられないだろうに。少なくとも、赤の他人である異性には、絶対に見せられない。

 赤の他人かぁ…。もしかして、僕が嫌いな人間は僕の美意識とは、真逆の意識で生きていて、僕とは、真逆の行動をとるのではないだろうか。

 僕の勘と、推理が、頭の中で広がり、うごめいた。

 結局、その日の調査は、それまでにした。

僕は自分自身の、今回の調査に関する言動を振り返った。

 あまりに合宿のことばかり聞いていると、それが赤岩ゼミの学生内で噂になってしまうのではないか、と思った。また、いかにも僕が赤岩ゼミの事件について嗅ぎ回っているように、ゼミ員をして感じさせ、怪しまれることを懸念した。すると、何となく自分自身に対して気まずい感じがした。

 そこで、せめてもの打開策として、普段の教授の姿について、ゼミ員として学生としてどう思っているか、聞いてみることにした。

こういう世俗的な話題は、二沢に限る。

 翌日、大教室の授業で、僕と同じように、後ろの方の席によくいる二沢を見つけて話しかけるのは、それほど難しいことではなかった。

「赤岩教授、最近体調不良みたいだね。いつもは、あんなにアグレッシブなのに。あんな人でも風邪とか引くんだね」

 僕が知っている、二沢の唯一ともいえる長所は、こうして取り留めのない話を振った時に、即座に返してくれるところであった。

「あいつは、世の中、自分の思い通りになると思っているよな。

 男子学生から人望が厚い、なんて、自分で言っているのには、引くよ」

 この発言から分かったのは、二沢は、僕とは性格が違うものの、赤岩教授に嫌悪感を覚えている多くの男子学生の一人なのだ、ということであった。

 それ以上、この男からは深い話は聞けない、と踏んだ僕は、手短に話を切り上げようと考えた。

「まぁ、自分で言うのは、あまり信用できないよね」

 二沢の話は、だらだらと続いた。

「先輩から聞いていた、恒例のカラオケとはいえ、今時の曲ではなく、昔のラブソングを歌われてもな。しかも、想像と違ってたしな。本人も、自分のこと、ちょっとイタい存在だと感じているんじゃないかな。なんか、息苦しそうだったしな」

 このまま、二沢の愚痴っぽい話が続きそうだと感じた僕は、二沢の意識を遮るようにして言った。

「今回の休講について、赤岩教授ってどういう状態だと思う?何かのメール、来てた?」

 正直、メールでの連絡については、一ゼミ員に過ぎない二沢に聞いても分からないと思ったが、一応聞いてみようと思った。

 すると、二沢はかったるそうに応えた。

「メール?そういえば来てたみたいだけど、風邪の言い訳みたいなもので、大した内容じゃなかったからじっくり読んでないや。忘れちゃった」

 二沢との会話はもう十分だと判断した僕は、軽く礼を言って、その場での会話を終えた。

 世の中、何でも自分の思い通りになる、と信じ込んでいた人間が、思い通りにならない現実に直面したときに、どういう気持ちになるだろうか。

 思い上がりが強ければ強いほど、思い通りにならない時の苛立ちというのは激しいはずだ。そんなことは、想像に難くない。

 僕は、ゼミ員同士の、ゼミの連絡手段についても、思いを馳せた。

 僕のゼミでもそうであったように、赤岩ゼミでも、ゼミの最初に、皆が開示したメールアドレスをゼミ長がまとめて紙に記し、それをコピーしたものをゼミ員皆に配ったはずだ。それによって、ゼミ員は互いのメールアドレスを把握することになった、と考えられる。

 そういうことから推測するに、教授も、ゼミ員それぞれのメールアドレスを把握していても、不思議ではない。

 もっとも、教授からゼミ員に、事務連絡等でメールすることなど、滅多にない。それは、おそらくどのゼミでも同じであろう。

その後、自分の部屋に帰って、民法の基本書を読んでいる際、文字を追うことによって民法の思考に浸っているはずが、自然と、赤岩教授の状況について、想像が湧き上がってきた。

 基本書の内容については特段目新しいものは見当たらなかったものの、赤岩教授の一件については様々な可能性が頭に浮かんだ。あらゆる状況を仮定した際に、赤岩教授の日頃の言動から透けて見える内面を考察することを忘れなかった。

 久しぶりの、長い夜であった。

 一晩寝て、僕は、一つの仮定にたどり着いた。全て仮定である、と言われればそれまでであるが、僕の中では、それなりの根拠があった。

 僕の考えが正しければ、証拠はリサが握っている。

 しかしながら、それを出すかどうかは、全てリサに委ねられているのであった。

 僕は、リサの性格を多少なりとも把握しているつもりだ。ここはリサの賢明な判断を、信じたいと思った。また、そのように、信頼しているリサに対してだからこそ、真実を問いたいと思った。

 早速リサにメールをし、また、あの喫茶店で、食事をしないか、と誘った。

 リサは、あの店のパスタはもう十分だから、ということで、近くの韓国料理店を指定してきた。そこは、韓流ブームの頃に盛況であった有名店だが、ブームもすっかり去って、店内は閑散としているであろうことが、十分に予想された。

 リサの対応からして、彼女も、僕との信頼関係のもと、僕の疑問に答える覚悟ができているのであろう、と期待した。この期待は、決して御都合主義的なものではなく、今までの僕とリサとの関り合いからして合理的といえるものであった。

 前回の食事からしばらく経ち、僕とリサとが、まずまずの親しい関係にあることが、早くも、赤岩ゼミ員を中心とする、同期の学生に知れ渡りつつあるように感じた。

 そういう状況において、リサと二人で食事をする場面を同級生に見られてしまうのは、御法度であるようにも、思えた。変な噂を立てられ、無駄に騒がれることで、貴重な友人関係を破壊されかねないからである。リサも、プライバシーを重んじる人間であることが、日々の言動から見て取れた。特に前回の食事から、自分たちの話が周囲に聞かれることを好ましく思っていないことがうかがえた。

 今回、リサが店を指定してきたのも、そういう考えがあってのことであろう。

 それに加えて、厳戒態勢を取るべきと考えたのか、リサは、自身が約束の時間より先に店に入ることとし、僕に後から入るように求めた。

 もちろん、僕は、それに応じた。

 僕が店に足を踏み入れた瞬間、店の経営状態が見てとれた。店内は、ガランとしており、入口からは見えない奥の方の席にリサがいた。ここならば、万が一、知り合いの学生が入ってきても、話を聞かれないどころか、姿を見られることもない。

 そう思いながら、僕はリサのいるソファの席に着いた。

「お待たせ。待った?」

「全然。ネットサーフィンしてたから」

 リサは、スマホを僕の目の前に突き出した。

 それは僕が見慣れたものと比較して、やや小さめであった。さらに、その形状と大きさから、やや古い機種のスマホであることが分かった。

「思うんだけど、その小さな画面だとネットのニュースが見づらいから不便じゃないか」

「ううん、家にアイパッドがあるから、ネットは、主にそれで見てるんだ。スマホは、メール機能があれば、私にとっては十分」

「そうか」

 それでも、最新版のスマホを携帯しておいて、外出時にニュースサイトなどを大きな画面で見られた方が良いんじゃないかと思ったが、それ以上の言葉を飲み込んだ。

 リサに対する敬意が、僕の、巷の若者としての発言を制止したのだ。

 要所要所で、独自のこだわりを見せるのも、リサの大きな魅力の一つだということを僕はよく理解していたつもりだ。

 そんなリサに対してだからこそ、他のゼミ員には決して言えない、僕の独自の考えを言える気がした。

「赤岩先生の休講についてなんだけど、赤岩ゼミの合宿で何かあった?」

 リサは、僕の疑問に対してそれほど驚かなかった。

「うん、まぁ、先生も無理しすぎちゃったんだと思う。仕事もお忙しい中、若い私達と飲んで騒いだり、スポーツしたりして、大変だったんだと思う」

 リサの言い方は、含みを持たせているように僕には感じた。

 以前、ゼミ長から見せてもらった合宿の写真で、気になったものがあった。それは、教授と、テーブルを挟んで向かい側の席に、リサが座っている、というものであった。リサも、教授の方を向いていたが、なんとなく、作り笑いをしているようであった。

「僕の考えなんだけれど、今回の赤岩教授の体調不良による休講について、合宿での何らかの出来事というか…、リサが絡んでいるんじゃないか、って思うんだ」

 リサは思慮深い表情で、応えた。

「ふーん、どういう根拠でそう思ったの。根拠を聞きたいな。私も、その話、興味あるなぁ」

 僕だって、当てずっぽうで言っているわけではない。リサからの言葉は、批判的なものとは感じられず、むしろ僕にとってリサとの会話を円滑にするものであった。

 さらに、僕の推理と思っているものも、もしかしたら、リサに誘導されてたどり着いたものなのではないか、とチラッと思った。

「センター試験利用方式で、リサが、この大学に入学したことを、リサが所属するゼミの教授ならば、当然のように知っている。

 僕の語学の先生のように、そういう事実を殊更に言わない人もいるんだが、世の中、そういう出来た人間ばかりではないと思うんだ。

 実際、その事実を知られたくない学生もいると思うんだ。少数派であることが周囲に知られてしまうと、何かと肩身の狭い思いをすることは、想像できるからね。

 そんな微妙な気持ちを、コンプレックスの強い大人は、巧妙にかぎ取り、当事者の学生に対してふりかざす、という事も大いに考えられる。

 でもリサは、そういう大人にひれ伏す人間ではないと思うんだ。

 しかも、僕の勘だけれど、リサには、もう一段階、秘密がある。

 それを教授は通常知り得ない、と思うんだ。なぜなら、センター試験利用方式で入学した学生については、おそらく名簿に、入試形態として『センター試験利用方式』としか、明記されていなくて、どこの大学を受験したかまでは、書かれていないだろうから。

これは、僕の見た、大学の合格証書の記載から推測できることなんだけどね。

 普通、私立文系の大学を滑り止めにする人間の第一志望は国立の文系の大学だと考えられるよね。

 でもリサは、国立の理系大学なのではないか、と思うんだ。

 その浮世離れした態度や、シンプルな美しさを好む点から、理系っぽいな、とは以前から思っていたんだ。

 正直、リサが理系の国立大学を受けていたことが本当なら、別世界のことを知っている人と交流できているようで嬉しかった。

 ただ、皆が皆そう感じるわけではない、とも思うんだ。特に、傲慢でコンプレックスの強い大人は、リサの潜在的な学歴というか学力を知って、ショックを受けるだろうな、と思うんだ。しかも、世俗的にみて社会的地位の高い人間ほど、ショックを受ける、と思うんだ。

 それこそ、数週間、寝込むほどのものかもしれない。

 知的で美しい女子学生が、センター試験利用方式で入学したことを隠そうとしているのを知って、その弱みをにぎったと思った大人が、今度は全く予想だにしていなかった事実を知って、相手を脅すどころか、病むほど恐れおののく、とか。

 あり得る話だよね」

 リサは、静かに僕の話を聞いていた。

 そして時折、感心したように頷いていた。

「ゼミ員の、聞き込みから、何か裏づけのようなものとか、あったの」

「いぃや、裏づけのようなものは無かった。    

 全て僕の想像だよ。

 ただ、合宿で、赤岩教授が、酒が入った時に、かなり取り乱していた、というのは気になったんだ。その程度というのが、たとえ酔っ払ったからといって、大の大人が、そこまで取り乱すか、と思うほどのものだと僕は感じたんだ。

 そこで、大人の男が、それほどショックを受けるもの、というのはなんだろう、と考えてみたんだ。そういうことに関して、様々な伝記小説や古典文学から推測するに、失恋ではないか、と僕は結論づけたんだ」

 リサは、僕の説明が、緻密さに欠けることを認識しつつも、僕の考えをしっかりと受け止めているようであった。

「ふ〜ん、そうくんは、そう考えるわけね。何か、証拠は見つかった?」

 語尾の声の調子から、リサの中で何かが吹っ切れたような、そして嬉しそうな気持ちが表れているのが分かった。

 また、リサが何かを誘導してくれようとしているのを感じた。

 僕は一度、大きく唾を飲み込んで、決して噛まないように言った。

「証拠は、リサが握っていると思うんだ。たとえばメールとか。赤岩先生が、今回の休講について、ゼミ員それぞれについて、メールしているみたいなんだ。リサにも、何かメールが来ていないかな、と思って」

 リサは頷きながらおもむろにスマホに手をやった。

「う〜ん、これなんだけど…」

 リサが差し出したスマホの画面に、文字が敷き詰まっているのが、ぼんやりと見えた。

 その文面を、スマホを受け取って、近くで見て内容を把握することも出来たのだが、僕はあえてそれをしなかった。

 リサは、その僕の意図を汲んだかのように、スマホのカバーを閉じ、自身の手元に置いた。

 僕は、もう予想したことが現実にあったと想定して話すしかなかった。

「あの教授から、何かを申し向けられたわけか。それで、おそらくリサは断ったんだ」

 リサも、僕の想定を一部共有しているかのようであった。

「うん、それを白日の下に晒すことは自分でも悪いな、と思って。これから社会に出て、どこかの組織に属して働くようになった時に、たとえ上司の失態を見たとしても、それを安易に他人に言いふらすわけにはいかない、と思うの。だって、そんなことしたら間違いなく自分の立場が危うくなるし、上司の失脚をまねいた場合にも、必ずしも自分にとって良い状況になるとは限らない、と思うの。場合によっては組織が傾くかもしれないじゃない。そうすると、自分が所属している組織が崩壊して、結局のところ、自分も損害を被ることになると思うの。

 そう考えると、黙っておくのが、賢明だと思わない?少なくとも、今の私は、そう思うの」

 リサは理性と感性を織り交ぜながら、思いの外、冗舌に語った。

「そうだな」

 僕は、彼女の言わんとしていることを何度も噛み締めながら、なんとか相槌を打った。

 彼女の頭のキレ具合を見せつけられた状況となっていた。

 本人が意図していないにも関わらず、そういう状況になっていることを考えると、余計に感心するのであった。

「リサの、そういう賢明な判断を知った相手は、リサに損害を与えないよう、必死で配慮すると思うよ。何故なら、リサによって自分の社会的地位が守られたと考え、リサに負い目を感じるであろうから。

 リサは相手の弱みを握っているのだから、相手から今後脅されるとか、嫌がらせを受ける、とか、そういう心配はしなくて大丈夫だ。むしろ、怯えているのは、相手なのだから」

 僕は、まるで自分に言い聞かせるように言って、しばしの間俯いた。リサも黙って僕の言ったことを反芻しているようであった。

 その間、彼女の姿を直視していないものの、彼女も俯いて何かを考え込んでいるようであった。

 少し遠くに座っていた客が、食事を終えて立ち上がり、会計へと向かう音が聞こえた。

そのタイミングで、僕は顔を上げると、リサと目が合うのを認識した。

 すると、リサは、おもむろに、手元のスマホをつかみ、カバーを開いて、何やら操作しだした。

 そして、また僕の前に差し出した。

 今度は、さっきと違って、僕の目の前にまで持ってきていた。明らかに、僕に、その文面を読んで欲しい、と思っている仕草であった。僕は黙って、それを受け取り、さっきはぼやけて見えなかった文面を読んだ。

 そこには、リサに宛てられたメールの文面が記されていた。

『柳 理沙様


 赤岩です。

 今回の合宿は、あなたのおかげで楽しいものとなりました。

 ゼミの教授として、心から感謝しております。あなたの勤勉な態度にも、刺激を受けました。

 僕は、あなたが大学に、センター試験利用方式で入学したことを知っています。

 そして、それをあなたが周囲に秘密にしていることも。

 僕は、その秘密をバラさないことで、あなたを守ることができます。

 もし良ければ、あなたへのプレゼントを受けとっていただけませんか。

 他のゼミ員に見られては、余計な憶測を招きかねませんので、二人きりの状況で、会いたいと思います。

 午後のゼミ終了後、午後五時、葵の広間の横にある、ランドリーコーナーまで来てくれませんか。

 このことは、僕の個人的なことなので、来ても、来なくても構いません。

 あなたの判断に委ねます。

 僕はあなたを信じて、お待ちしております』

 僕が読み終わるのを見計らって、リサは一度スマホを手元に戻すと、さらにスマホを操作して、別の画面を表示させ、僕に差し出した。

「ちなみに、これが私の返信」

 そこには、手短に彼女の意思が綴られていた。

 その文面は、赤岩教授の情念が垣間見えるメールの文面とは対照的に、淡々としたものであった。

『赤岩先生へ


 確かに私は、センター試験利用方式で入学しました。

 ただ、先生は、ご存知ないかもしれませんが、私は高校時代に理系のクラスに属しており、大学は理系の学部を受験しました。

 こういう私の経歴について、特に秘密にしようとも、言いふらそうとも思っていません。

 既に、知っている人は知っているので、暴露していただいて構いません。

 ただ、それをして誰が何の得をするというのでしょうか。

 例えば、先生からのメールを、私がゼミ員に、メーリングリストでばら撒いた場合のように』

 僕は、それをサッと読み終え、考え込んだ。リサも、スマホを自分の手元に戻し、黙り込んだ。僕の考察に、興味をもっているように感じた。

 静寂で、緊張感のただようその空間で、僕は、今までの聞き込みを合わせて、ゼミでの教授の失態といえる具体的場面を、可能な限り詳細に、脳裏に描いた。

 赤岩ゼミの合宿場所となった旅館は僕のゼミでも利用した場所であり、葵の間は、玄関からは奥まったところにあるものの、換気のため、夜の間は、窓が網戸になっていた。

 赤岩教授は、そこで長時間待って、体力を消耗するばかりでなく、精神をも蝕まれた状態で、その後の飲み会に参加する羽目となった。そんな状態で、酔っぱらった時、自暴自棄になってしまっていたとしても不思議ではない。

 その後も、僅かばかりの可能性に希望を託して、不眠のまま、自分の指定した場所で待っていたのかもしれない。

 さらに悲惨なことに、前年度のゼミで教授がバス内で歌った、という上級生からの情報を得ていたゼミ員の何人かが、カラオケでラブソングを歌ってくれ、と要望を出した。上級生にしたことを、すぐ後の下級生のゼミ合宿でしないわけにはいかず、無理して歌ったのだろう。

 題名は、『愛しきあなたへ』。一昔前、いや二昔前と言うべきか、つまり教授が若い頃、アルゼンチンの人気歌手の歌を、日本語にリメイクして大ヒットした歌である。

 それを教授が歌っている際、リサのことを思い浮かべてしまったことは想像に難くない。生身の人間ならば、そんな切ないラブソングを歌っている時に、愛しい人を思い浮かべない方が不自然である。

 教授も、自然の摂理には逆らえなかったということであろう。ついに、吐き気とめまいに襲われることとなった。

 その後のことは、言わずもがなである。

 彼が、入院した、というのが厳密には本当かどうか分からないが、通常の風邪をはるかに凌ぐほどのダメージを受けていることは、容易に想像がついた。

 社会的責任を声高にのたもうていた人間が、自分の仕事を既に三週間も、休んでいるというのだから、相当ショックだったのであろう。彼の敗北感は、半端なかったのであろう。

 そこまで考えて、僕は目の前にリサがいたことに気づいた。思索をするのに、あまりに心地よい空間だったため、自分の思考に浸ったまま時間が経つのを忘れてしまっていた。

不思議なことに、リサも全く苦にならないといった感じで黙って座っており、まるで僕の思索について追体験しているようであった。

 ただ、そういう状況に気づいてしまった以上、それ以上その場にいるのは、気が引けた。

「教えてくれて、ありがとう。今回の赤岩先生の休講について、これ以上詮索するのはやめにするよ」

 リサも応じた。

「うん、こちらこそありがとう。今回の休講も、もうすぐ終わって、また授業が再開されると思うんだ」

 リサの言葉を最後に、僕らは、その店を後にした。

 自分の部屋に戻り、ベットに横たわると、僕は黒革のスマホカバーを開けて、オンラインでチェスをし出した。

 相手は、コンピューターのレベル五である。それは絶対的なクオリティが保たれ、対戦して負けるたびに、僕に確かな気づきを与えてくれるのであった。

チェスのプレイ中に、この世の中と、自分の人生に対する深い洞察ができるようになってから、いつしか深い洞察をするためにチェスをするようになった。

 思索をするとき、頭が真っ白な状態のときよりも、何らかの心地よい別の思考が流れているときの方が、不思議と捗ることがある。  

 それと同様に、チェスをしながらの方が、深く的確な思考ができるように感じた。

チェスは、そういう『バックグラウンドミュージック』として最適である。

 それは、昔、家の裏庭で姉と遊んでいた、石を積み上げるゲームと似ている。

 石をうまく積み上げていき、自分が石をのせたときに崩れると負け、というシンプルなルールである。一見すると単調な作業と思えるが、石の大きさや形はもちろんのこと、置く角度などを総合的に考えた上で、石を置くわけだから、相当な集中力を必要とする。かと言って、力んではならないのである。

 こういう『作業』をしているとき、人生の方向性に関わるような、新たな発見をしたり、深い思考ができたりするのである。

 つまりそれは、何かを真剣に考えるとき、また別のことを考えることを強制される状態でした方が、より良い考えが生まれることと似ている。

 真っ白なキャンパスにペンで線を描く際に、鉛筆での下書きがあった方が、躊躇いなく大胆に筆が進み、より良い絵画が期待できることと似ている。

 眠れない夜に、暑くもないのに、扇風機を回して、川のせせらぎの音の幻聴を聴きながら、眠ることと似ている。

 いつも通り、勝てそうで勝てなかったチェスを終えると、僕は、一人の時間を心地よく感じながら、思索の続きに、浸った。

 僕がチェスで負けるたびに、何かを学んだように、赤岩教授も恋愛という勝負に『負けた』ことによって、何かを学んだのではないか。

 リサについては、ゆすろうとしてきた人間に、図らずもゆすり返した、といったところか。言葉で言うのは簡単であるが、実際に当事者になってみると、なかなか出来ないものであろう。

 リサが、センター試験の成績だけで、この大学の法学部に入学した優秀な学生であること、そしてリサの美貌と、美貌に甘んじない勤勉さ、何より魅力的な性格をもって、俗世間の男は魅了される。四十代半ばにさしかかった、ゆらぎ世代の男が、若く優秀な女性に、自分のゼミが乗っ取られるような錯覚に陥ったのかもしれない。

 リサの美貌だけではなく、その賢明な生き方を僕は知っている。僕は、リサを尊敬の眼差しで見ており、時折自分の凡才さに落胆するものの、情欲を貪ろうなどとは思っていない。

 ただ、そのことと、他の男性のリサに対する思いが想像できるかどうか、ということとは別問題であった。

 むしろ僕のリサに対する尊敬の念があるからこそ、巷の男性、つまり凡庸な大人の男がリサに対して抱くであろう感情を想像できるのではないか、と思った。

 ここで僕が「大人の男」と言うのは、二十歳前後の学生であれば、リサの知性と美貌に対して、自らの力を持って挑もうとは、考えられないからである。

 中年の教授の、人生の末路が見えてきたことへの不安と焦り、このままの自分で良いのか、という自己喪失感。これらが、絡み合って、教授にとって制御不能な衝動を生じさせたのであろう。リサの魅力をもってすれば、教授をして、その衝動が人生最大にして最後の大恋愛である、と考えさせたとしても不思議ではない。

 それにしても、メールの文面の中にあった、『来ても来なくても』構わない、という表現には、大人の男のずる賢さが感じ取れた。

 もしリサが『来た』とすれば、その先、自分がしたことを全て彼女の責任として、押し付けるつもりだったのだろう。

 何か問題が起きた時に、全て一ゼミ員であるリサに責任を被らせ、自己保身を図ろうとしたに、違いない。

 それでいて、リサと個人的な関係を持ち、リサの魅力を堪能したかったのであろう。

こういうことは実際に事件が起きなくても、世間のあらゆる場所で起きていることのようにも、感じた。

 いずれにしても、リサが賢明な判断をしたことは確かである。

 さらに今回の休講について、赤岩ゼミのゼミ員らが、語っていたのを思い出した。

 こういうメールって、通常代表者となるゼミ長に送信するか、メーリングリストでゼミ員に一斉送信して、終わりのような気がするのだ。少なくとも、僕のゼミを想定してみると、教授が一斉にゼミ員にメールを送信するか、ゼミ長に代表者として送信することはあれど、個別にゼミ員にメールを送信することは考え難い。

 赤岩教授は、ゼミ員に個別にメールを送信して、自分のリサへの申し向けが他のゼミ員の知るところとなっていないか、何とかして確認しようと考えたとしても、不思議ではない。

 実際に、休講について赤岩教授が、ゼミ長だけでなく、栗田や二沢にも個別にメールを送ったのは、自分の安否を心配するゼミ員に対する個別的で丁寧な対応と見せかけながら、リサへのメールの件について、他のゼミ員にバレていないか、メールで確かめようとしたのではないか。

 もっとも、それは教授にとって、おそらく慣れない行為であり、なかなか上手くいかず、よけいに焦燥感に打ちひしがれたのではないだろうか。

 実際、休講は長引いているように思える。

考えてみれば、リサは、自分の美貌を誇示するわけではないものの、特段、隠すでもない。その姿勢は、おそらく学力についても、同じであろう。

 リサの知性や勤勉さについて、僕は何度か接するだけでそれを十分に感じるのだが、もしかしたら、この大学に通う他の大学生は、リサのことを怠惰な自分でも入学できた大学の学生なんだらそれほど優秀でもない、と判断するかもしれない。

 そして、感性にも恵まれていそうなリサは、そういう周囲の目を敏感に感じていたとしても不思議ではない。さらに、リサは自分に対する評価を、『特別に優秀ではない大学生』とすることによって、これ以上自分が注目の的になるのを防止しようと思ったのかもしれない。

 それを、世俗の人間は、『秘密』とみなすであろうことは想像に難くない。人によっては、その秘密を、『弱み』である、と認識するのであろう。

 実際、そういうリサの内面を、赤岩教授は敏感に感じ取り、弱みを握った、と即断したのかもしれない。

 しかしながら、それは、『弱み』ではなくむしろ『強み』であったのだ。

 この事件に関して、教授が死んでいるのでは、という僕の最初の直観は、外れたものの、半分は当たっているのではないか、とも思った。

 生きるということが、活動するということを示すのならば、彼は失恋によって生きることへの活力を削がれていたのだから。

 数年前読んだ、アメリカの実業家の著者による自己啓発本で、勇気を失うと、財産を失うよりも人生において損失が大きく、勇気を失う最もたる出来事は、愛する女性に拒絶されることである、というのを読んだことがあった。

 僕は、それを読んだ時、ピンとこなかったが、今回の件での教授のことを思うと、まさに教授は、人生で最も大切なものをたとえ僅かな時間であれ、失っていたのではないか、と思った。そして、それが、多くの男性に生じうることである、という事のような気がして、僕の中で警鐘が鳴った。

 まだ、そんな経験のない僕にとって、良い反面教師になってくれた彼に、感謝しなければならないかもしれない、との思いすら頭をよぎった。

 図らずもその日の夜、リサからメールがきた。赤岩教授に、見舞いのメールをしたとのことであった。

 その見舞いのメールの文面まで、転送してきたのには、驚いた。

『赤岩先生へ


 ゼミ長から、肺炎で入院しているとうかがいました。

 お体、大丈夫でしょうか。

 一ゼミ員として、先生の体調の回復を祈っています』

 その文面から、リサが、教授の合宿中の全ての言動について、許したというニュアンスが見てとれた。

 これによって、多少なりとも、赤岩教授は救われるのではないだろうか。

 今回の入院が、失恋からくる心身の疲労にあったのならば、体調の回復も早まるに違いなかった。

 僕は、差し障りのない返信をすると、また思索にふけった。

 今回の件において主要な役割を果たしたリサは、自分を不利な状況に陥れようとした教授の意図を十分に認識していたであろうにもかかわらず、教授に対して、何の恨みももっていないようであった。

 僕を含む第三者から見ると、不思議に思えることであるが、おそらくリサ本人からすると自然な態度なのであろう。

 人間、自分とあまりにも違う相手に対しては、何の恨みも憎しみも湧いてこないという。リサと赤岩教授は、おそらく考え方の土俵が異なるのであろう。

 それに対して、僕の感情はどうか、と考えてみた。

 言動の節々から垣間見える、教授の幼稚性に対して、腸が煮えくり返るほどの苛立ちを感じている。

 人間というものは歳をとるほど、成熟しているべきであるという僕の考えが正しければ、教授の幼稚性は許されないはずである。 

 しかし上京後、様々な人と出会い、様々な場面に遭遇する中で、理想と現実とは、大きく異なるのだ、ということを僕は認識しつつあった。むしろ教科書や学校教育で学んだ通りにはいかないのが現実であろう。

 もしかしたら、歳を重ねるほど、わがままになるのかもしれない、とも感じた。

 また、僕が教授の言動を思い浮かべて腹を立てる時、自分の幼さに、腹が立っていたのかもしれない、と分析した。人間にとって、自分が腹の立つ相手というのは自分の嫌な面を反映した存在であるというのが本当ならば、僕も赤岩教授のような傲慢な側面をもっているのかもしれない。そう思いながらも、まだ信じられないという気持ちも感じた。

 あんな教授でも、純愛とかあるのかぁ…。

教授の企みとして、もっと極悪非道な事を考えていたが、その点についての僕の推理は外れていた。

 リサの心境も考えると、人間というものの奥深さについて、まだまだ学ぶべきところがある、と感じた。

 人間的な奥深さが言動に表れるとするならば、教授がリサを呼び出す口実とした「プレゼント」、一体何だったんだろうな。

 まさか、次の期末の試験問題か。僕は、全国的に問題になった、三年前の司法試験問題漏洩事件が脳裏をよぎった。確か、あの事件で捕まった教授も、教え子に恋愛感情を抱いていたというではないか。

 ただ、あのメールの文面と、リサの容姿と内面から、順当に考えると、教授からのラブレターであろう。凛とした佇まいのリサを前に、泣き崩れたり、跪いたりするのだろうか。

 その光景を想像すると、反吐が出そうなくらい気持ち悪くなった。

 同時に、自分を気持ち悪くさせる教授に対して、腹が立ってきた。この苛立ちも、僕の未熟さからくるものなのだとすれば、他の未熟な学生も相当な苛立ちを感じていることであろう。

 僕が思っているように、あいつのことを暴君とか、情欲を貪ろうとしている人間とか、そんな風に思っている学生は、思いのほか多いのではないか。

 そして、その事実について、あいつ自身も認識しているのではないか。だからこそ、恋心を抱いた相手にだけは、自分の純愛を語りたかったのではないか。

 愛人契約がどうだとか、声高にのたもうていながら、恋した相手の女性には、中学生のように恥じらいながら純愛を打ち明けるのだ。あいつの顔を思い浮かべると、また反吐が出そうなくらい、気持ち悪くなった。

 これ以上想像すると、僕の健康まで害される、と思い、僕の豊かな想像力の暴走に蓋をした。

 あの男は既に、三週間分の自分の仕事を放棄しており、十分報いを受けている。リサは、悪党にも善処しすぎる、というか、理想論をそのまま現実に当てはめるんだよなぁ。

 リサ自身は、プレゼントのことなど、全く気にしていないようであったが、 僕なら気になって仕方がないであろう。もし僕がリサと同じゼミに入っていて、リサがメールを受信した当日に、メールを見せられたなら、強く説得して、指定された時刻に教授のもとへ行くことを勧めるだろうな。そして、現場をおさえて、教授の醜態をさらけ出した状況であるとして、証人となって、有無を言わせず糾弾するのだ。

 ただ赤岩教授の件については、現場を押さえて、現行犯逮捕、とか、証拠を掴んだ、とか、そういうのが通用しない相手であることも、リサは分かっていたのであろう。

 もしかしたら、リサの潔癖な性格からして、犯罪に関与する側面があるおとり捜査は、気が進まなかったのかもしれない。

 いずれにしても、あいつは、一生リサに頭が上がらない。


 結局、休講になってから四週目に、教授は仕事に復帰した。

 最初に、形式的儀礼的に休講の詫びをした後は、何事もなかったかのように、九十分間講義をした。

 最後に、補講の予定もあるということを言って、これ見よがしに、真新しいシャツの襟に手をやり、左手に巻かれた腕時計を煌めかせた。その後は、いつものように、大教室の階段を上り、後ろのドアから去っていった。

 僕は、あいつをやり込められるのに。教授に対するものと同様の腹立たしさが、リサに対しても、生じようとしているのが分かった。

 それを感じて、何とか、教授に対する苛立ちを抑えた。

 僕がまだ体験したことのない、「発狂するほどの恋煩い」というものを体験した教授の言動には、多少なりとも考えさせられるものがあったのだ。恋愛、というものは、自分の社会的地位を投げ打ってまで、身を投じる価値のあるものなのか、と。

 誤解を恐れずに表現すると、今回の一件で、教授に対し、嫌いという感情以外のものを感じた。

 しかし、その感情は、教授を単に美化するものではなく、今後何をするか分からない得体の知れない存在に対していだく、という危機感のようなものであった。

 合宿が終わった直後から、ゼミが休講になったことからすると、ゼミでは、何らかの詫びをするはずである。その姿を、僕はこの目で見てやりたかったが、ゼミ員でない僕はできない。

 そこで、リサから聞くことにした。

 この時既に、必修の授業においてリサが毎回のように座る席の、大体の位置を把握していた。

 授業終了後、リサのいるところに駆け寄った。

「ゼミで、教授は、休んだことについて、何か言っていた?」

「まぁ…、三週分も休んでいたからね。私達ゼミ員も、心配していたことを、教授も気にしているようだったよ。『体調不良になったの、皆と合宿で騒ぎすぎたからじゃありません、心配しないでください』というようなことは言ってたから」

 リサのことだ。教授の、補講の予定も言わずに休講の許しを請う、その醜態を、かなりオブラートに包んで表現しているのであろう。

 見たかったなぁ。

 いつも偉そうに振舞っている人間が、跳べないノミのように小さくなっている姿。

 でも、こういう僕の内面を察してか、リサは詳細をあえて言わなかったのだ。

 教授も、そういうリサの性格を見抜いていたからこそ、リサに対して、人間がもっとも敏感になる、恋愛感情をさらそうと考えたのである。

 やはり、あいつは抜け目がない。

リサが、友情や知性、そして人間愛など、何でも持っていることに教授が劣等感を覚え、嫉妬したならば、それは違うと言ってやりたい。リサは、持っているのではなく、与えているのである。

 自分の立場を振りかざしている教授にこそ、このことを知ってほしいと思った。ゼミの休講により、学生からの信頼を失い、御自身のしたことの報いを受けるのは、これからである。

『自業自得』、『鬼の目にも涙』、『ミイラ取りがミイラになる』…。

 今回の件に関して彼の受けるべき報いについて、名称を思い浮かべた。今後、ゼミで毎回リサの目にさらされる、彼の姿を思い浮かべて、さらなる制裁を期待した。

 もちろん、これも根拠に基づく、合理的な期待である。

 いつか僕も、この合理的推理が、無意味になる程、特定の女性に心を奪われ、陳腐な言い訳で取り繕うしかならない、みっともない姿になる日が来るのではないか、と思わなくもなかった。

怖くなって、これ以上考えるのをやめた。


 今回の一件が終わり、赤岩教授の授業が再開して一週間が経ち、彼の休講について話題にする人は、ほとんどいなくなった。

 そんなある日、リサからメールが来た。

『久しぶりに、お茶でもどう?

 サークル棟一階のカフェテリアなら、落ち着いた雰囲気で、昼休み以外ならほとんど利用者もいないんだ。今回は、奢らせてね。

ちょっと前は、いろいろと話を聞いてくれたしね』

 あのカフェテリアは僕も知っている。学食よりは、やや割高であるものの、室内に流れるロマン派のクラシック音楽を聴きながらウインナーコーヒーを飲む時間は、確かな優雅さを僕に与えてくれる。それは、騒々しい中、席取り合戦をせざるを得ない学食では決して得られないものだ。人の少なさでいうのなら、営業時間終了前の午後四時から五時までの間は狙い目だと思った。

 幸い、その日の夕方には授業が入っておらず、すぐにリサの希望を叶えられそうだった。

『僕もあの場所、狙い目だと思うんだ。特にウインナーコーヒーが、好きなんだ。今日の、四時半はどう?その時間なら、かなり空いているよ』

 リサは、その時間に会うことに、快く応じてくれた。

 約束の時間、僕らはカフェテリアの席に着き、ウインナーコーヒーを堪能した。思いの外、ホイップクリームとコーヒーが合うことに感動していると、リサが口火を切った。

「ちょっと見せたいものがあるんだ。あまり驚かないでね」

 リサは、鞄の中から手帳を取り出し、そこに挟んでいた一枚の紙を、僕に見せた。それは、都内にある某国立大学、というか東大の理系の入試の、補欠合格通知書であった。

 そこには、補欠合格順位、五位とあり、入学資格を得られるかは未定、と記載されていた。

 不思議と僕は驚かなかった。

「ふーん、そういうことか」

 ここで、実際に入学資格が得られたかどうかを聞くのは野暮であるということを、僕は十分に感じた。この世のあらゆる試験において、合否のボーダー付近にいる数名の受験生は、受かっても落ちても実力的には、あまり変わらない、ということを僕は既に知っていたからだ。

 それほど驚いた様子を見せない僕を見て、リサは少し嬉しそうであった。確かに微笑んでいたのだが、それは、出会って間もない頃によく見た儀礼的な微笑みとは、明らかに異なっていた。

 リサは、僕が思う以上に、『世間』というものと上手く付き合っているのかもしれない。

 ペーパー試験で測れる能力は、十分に実力をつけたから、今度は俗世間の人間について学ぶってわけか。世俗の人間の心理を学ぶのに、孤独な勉強に時間を費やしたことのない人が多い内部推薦や指定校推薦での入学枠が多い、中堅私立大学の文系学部は、うってつけであろう。

 また、リサも、大学受験の出来によって人が選別されるこの世の中について、多少なりとも疑問を抱いていたのではないだろうか。

さらに、そういった世の中の評価基準に、犬のように従う受験生についても、疑問を超えて、嫌悪感を抱くようになり、自分がそういう受験生になることを許さなかったのではないだろうか。

 とりあえず偏差値の高い大学に入って、エリート路線に乗っかっていれば、安泰、という軽薄な考えから進路を決める同級生の内面を見抜いていたのではないか。

 そんな僕の思考を知ってか知らずか、リサは意味ありげに呟いた。

「この密会、好きだよ」

 僕は、不意打ちを食らったように感じ、ポカンとしてしまった。だが、その言葉から、リサの、子供が秘密基地を作った時のような、ワクワクした気持ちが感じ取れた。

 密会かぁ…。

 リサも、男女が学内で二人きりで食事などをするのは、年頃の同級生の好奇の的になる可能性も大いにあり、何となく秘密にしておいた方が良い、と考えていることは明らかであった。

 ややミステリアスな余韻を残したまま、お開きとするのが良いと思い、その場で僕らは解散した。

 今回の件でのリサの秘密について考えれば考えるほど、教授の軽薄さが浮き彫りになるように思えた。『教授』という名前から来る重厚感とは異なり、赤岩教授の場合、リサよりも、格段にピュア、というか幼稚なんじゃないか。

 まだまだリサについては知らないことの方が多い。

 ともかく、教授の生きた年月の半分程しか生きていないリサの方が、教授より人間として成熟しているのではないか、と感じずにはいられなかった。僕の脳裏に浮かぶ、リサの聡明さを感じれば感じるほど、教授が小さく、そして間抜けな存在のように思えた。

 教授は学生のことを一方的に評価する対象と思っているかもしれないが、実は教授も学生から時にシビアにジャッジされているのだ。

 もし、リサの優秀さと比較して著しく低い学歴を馬鹿にしてくる人間がいたとすれば、リサが彼らに対して、悲しみに打ちひしがれるだけでなく、心の中で小馬鹿にすることもあろうことは、リサの勤勉さに対するせめてもの報いであろう。何よりも、学歴でしか人の能力を判断できない世の多くの人間の、その愚かさを生ぜしめる原因について、慎重に分析しているのではないか。

 それによって、幾分かリサの知的好奇心を満たしていたことを願う。

 何故なら、賢者は愚か者からも学ぶのだから。

 今回の騒動は、リサの、ちょっとした悪戯が引き起こした惨事、ともいえるかもしれない。教授への返信メールで僕が感じた、小さな棘は、それによって急所を突かれる人間ならば、殺傷能力の高いものとなりうるからである。

 しかしながら、他人のちょっとした悪戯というのは人生においてつきものである。

 これによって、容易に立ち直れないほどの大怪我をするのか、上手くかわすことができるのか、その違いにこそ、人間性というものが表れるのではないか、と僕は思う。また、人間の弱さの露呈というのは、社会的地位の高さに関わりなく、いや、社会的地位が高いからこそ、生じ得るものなのではないか、と思った。

 もっとも、人間の弱さは時に魅力的であり、貴重な発見が生じ得る。

 僕はまだ経験が無いのであるが、自分の全てを投げ出しても惜しくないといえるほどの相手を見つけられることは、素晴らしいとも言えよう。

 ただ、権力とか権威をもった人間は、そのアプローチに、気をつけなければならない。赤岩教授も、危うく欲望の奴隷になりそうだったのである。今回は何とか犯罪にならなかったものの、少しでも状況が異なっていたら教授の立場も、どうなっていたか分からなかったのだ。

 本当は、教授も一人の人間として、自分の権力を試したり、金銭などの客観的価値に換算したりすることなく、純粋に恋する気分を味わいたいのではないだろうか。

 いつも歩いている道の街路樹の葉に特別な輝きを感じたり、お菓子作りをしながら愛しい人の喜ぶ顔を思い浮かべたりして、精神的なときめきを楽しみたいのではないであろうか。

 ただ、現実的なことを考えてしまうのも、また法律家のサガであり、欲望を達成する手段というものを見つけてしまったら、使ってみたい、という気持ちを抑えるのは相当困難を極めよう。

 こうして、教授の誤った行いについて考えている僕も、いくらぐらいを罰として徴収するのが妥当か、と今回の不当行為について金銭に換算しているのであるから。こういう時に、弱みを握られて脅迫される場合もあるのだが、今回の赤岩教授については、その権威によって、脅迫がなされなかったと言えようか。

 もっとも、リサが相手ということは、何よりも大きな要素であろうが。

 そう考えれば、このスキャンダルの賠償金というのも、教授という高い地位によって相殺(民法505条)されている、とも言えよう。また、こういう不当な結論が生じないように、不法行為の加害者からの相殺が禁止されている(民法509条)のであろう、と思った。

 こうして僕が今回の事件について思いを馳せていると、今回の真相の解明が、どうもリサの誘導によってたどり着いたように思えてならなかった。

 今回の事件は、終わってみれば、特段、難解な謎解きをしたわけではなかったのだから、この程度で、推理小説愛好家の名を名乗って、謎解きをした気分になってはいけない、とも思った。

 さらに、後から分かることであるが、今回の一件は、校内における、リサの存在感を知らしめる、序章に過ぎなかった。

 僕にとっても、リサの聡明さの一端を見たに過ぎなかった。

 そのことを、この頃の僕は知る由もなかった。



ーーーー終わりーーー

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