第10話

 君野先輩から電話が掛かってきたとき、僕は大学二年生だった。

『私、その子を助けようと思う。もう十年近く足を運んでいないから、鈍っているかもしれないけど――洞窟に行ってみるよ』

 胸騒ぎがした。何かよくないことが起きる、そう思った。

『僕も一緒に行きます』

 気づくと、そう言っていた。

 先輩の旦那さんの教え子を助ける。正直なところ、僕にはいまいちピンと来ていなくて、いざとなればその子を見捨てて先輩の安全を優先しようと思っていた。たとえ先輩に恨まれたとしても、君野先輩だけは死なせたくなかった。

 決行の日、二人で古ぼけたアパートのエレベーターを昇った。

 僕が大場スミたちを助けたときと同様、これまでの経験と分析を基に、『ミズカラ』たちを退けた。そのときの参加者数は五人。二手に分かれ、三人を君野先輩がリードし、残る二人を僕が担った。

 その女子高生が、先輩の言いつけを守らず、腕を振り回す『ミズカラ』に対してバットを大振りしたのは、戦いの終盤だった。『ミズカラ』の凄まじい腕力にバットごと彼女は弾かれた。

 君野先輩が彼女の名前を呼び、谷底へ落ちる前に捕まえようとした。しかし、それは叶わなかった。

 腕を振り回す『ミズカラ』は、この一連の動きの間に、先輩に迫っていた。しかし、女子高生の方へ意識を向けていた先輩には、身を守るだけの余裕がなかった。

 思わず、僕は飛び出した。そして、僕の内臓が背中側から飛び出した。

 僕の腹部に、『ミズカラ』の腕が突き刺さっていた。『ミズカラ』は腕を引き抜こうともせず、僕の体を引きずりながら、橋の上を引き返し始めた。そいつの目的――身体を得る――は達成されたのだ。だから、君野先輩やほかのメンバーには目もくれない。

 先輩が何かを叫んでいるのが聞こえる。だけど、僕の頭はぼんやりとしてしまって、耳にふたをされたように、音がこもって聞こえる。僕を失ったとしても、先輩は冷静に対処してくれるだろう。先輩を守りきれたという思いが僕の胸を満たした。

 その胸の中に、何かどす黒いものが入り込んできた。

 あいつだ、『ミズカラ』だ、と思った。

 僕は参加者ではないから、目覚める体がない。今ここで、やつは僕を乗っ取ろうとしているのだ。

 うねるような圧迫感が落ち着くと、それはもとからそうであったかのように、僕の胸の中にしっくりと収まった。こぼれ落ちていたはずの内臓はしっかりと体内に戻されており、腹部にも、背部にも、傷はなさそうだった。

 次に、焼けつくような渇望がやってきた。

 先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩君野先輩――

 僕は、どうしようもなく君野先輩を傷つけたかった。もう治らないくらい、彼女を傷つけて、僕だけのものにしてしまいたかった。

 はやる気持ちを落ち着けて、再び滝へと戻る。そこには、すでに君野先輩らの姿はなかった。エレベーターに乗って行ってしまったのだ。

 しかし、それほど遠くには行っていないはずだ。君野先輩は参加者ではないのだから。

 エレベーターのボタンを押す。エレベーターの到着が待ちきれなくて、僕は奇声を発しながら、手あたり次第に近くの石を滝へと投げ込んだ。石が岩壁に当たって砕けると、少しだけ気持ちが満たされるような気がした。

 エレベーターがやって来て、地階まで降りてみたものの、やはり君野先輩の姿はなかった。しかし、僕は慌てなかった。君野先輩のマンションなら知っている。そこへ向かうだけの話だ。何なら、君野先輩だけでなく、その娘も、その夫も一緒に傷つけてしまえばいい。そうすれば、幸せな気持ちが三倍になる。

 上機嫌に、狂おしく、胸をかきむしりながらマンションの近くにたどり着いたとき、僕が見たのは、地面に崩れ落ちる君野先輩の姿だった。件の女子高生が、先輩の胸から大きな包丁を抜いた。

 僕は――僕の中に入り込んだ『ミズカラ』は――ひどく混乱した。僕の獲物が――僕の大切な人が――奪われた――傷つけられた――僕のものにしたかったのに――僕が守りたかったのに――。

 何かが、切り裂くようにして僕の胸をつぶした。『ミズカラ』の昆虫のような叫び声を聞いたような気がした。僕は僕の体の主導権を取り戻し、君野先輩に駆け寄る。

 先輩を抱き上げたが、彼女の顔色、唇、出血量、どれを見ても、もう助からないことは明白だった。知らない間に、女子高生は消えていた。

 野次馬が集まってくる。僕は気にせず、君野先輩の名前を呼び続けた。彼女はショック状態なのか、荒い息を繰り返していた。

 雨が降っているのに気が付いた。濡れていては体力の消費も早まってしまう。どこか濡れないところへ先輩を連れて行かなくては。

 焦る僕に、先輩が「ねえ」と呼びかけた。顔を見ると、微笑んでいる。なぜそんな顔をするのか、僕には分からなかった。

「梨歩をよろしくね」

 そう言って、先輩は動かなくなった。僕の腕から、首がだらんと垂れ、もう二度と、こちらを見ようとしなかった。

 叫んだ。そんな気がした。でも、もしかしたら叫んでいなかったのかもしれない。胸の中の『ミズカラ』が鳴いているのを、そう勘違いしただけなのかもしれない。

 野次馬の中に、幼い君野梨歩がいた。蒼白な顔をして、胸を真っ赤にして動かない自分の母親と、それを抱きしめる僕を見つめていた。

 先ほどとは別の衝動が僕の胸を満たした。何に変えても、彼女を守らなければ。

 それは焼け付くほどの、使命感だった。

 月日は流れる。

 君野梨歩が大学附属の病院でカウンセリングを受けているという情報を得た僕は、その大学へ編入した。そして、彼女のカウンセリングを担当している古井教授に近づいた――もしかしたら、古井教授が大場スミとの面談に僕を同席させたのは、彼女と君野梨歩に何らかの共通点を見出したからなのかもしれない。君野梨歩に尋常でない執着を見せていた僕ならば、何か知っているかもしれないと。

 残念なことに、僕がカウンセリングの見学へ入れてもらえるようになるまでに、君野梨歩は父親とこの街を出てしまった。母親が通り魔に刺された街だ、当然かもしれない。僕は手を尽くしてその行方を調べたが、ついに足取りをつかむことはできなかった。


「桜庭さんも、『ミズカラ』を抑え込んで自我を保っていられた人なんですね」

 大場スミが朝焼けの中で笑う。現場検証の後、事情聴取が行われるらしい。僕らは少し待たされている状況というわけだ。

「いつから気づいていたの?」

「最初はただの直感でした。あ、この人、私と同じかもしれないっていう。でも、確証をもてたのは、水を掛けてパワーアップしたときです」

「パワーアップって」

「でもそうですよね。私もですけど、水をかぶると高ぶると言うか、力が出る――出すぎると言うか」

 それは僕らの中にいる『ミズカラ』のせいなのかもしれない。彼らは消えたわけではない。ずっと僕らの中にいて、僕らの意志が弱るときを待っているのだ。

「君はどうして?」

 逆に聞き返す。

「君野さんを追いかけたときです。君野さんと竹島さんが先に行って、私、一人になってしまって。実は、そのときに捕まってしまったんです」

 あの時は結局、竹島や大場スミは、部屋に残っていた面々と合流せずに時間切れとなり、現実世界で覚醒したという。だから、誰も大場スミが捕まったことに気付かなかったのだ。

「現実に戻ってすぐ――まだ暗い時間だったんですが――、調理場に行って包丁を手に取ったんです。そのときは、施設にいるみんなを襲うつもりでした。でも、施設長に見つかったんです。何してるの、と言われて、身体が固まってしまって。私の中にいる『ミズカラ』は困惑していたみたいですけど」

「施設長さんには、長らくお世話になっていたんだってね」

「正直、家族以上の存在です。だからかもしれませんが、『ミズカラ』は彼女を襲うことができませんでした。その後、施設長は私の手から包丁を取り上げて、抱きしめてくれたんです。そこで、私は完全に『ミズカラ』を抑え込めました」

 なんとなく合点がいく。大切な者への強烈な感情、そういったものが条件となって、自我を保つことができるのかもしれない。僕と大場スミのケースのように。

 それから、『ミズカラ』に捕まっても自我を保っていた人間は、その後も変わらず『呼ばれ』続ける、ということもどこかへメモしておかなければならない。まったく、あの洞窟に関しては未だに分からないことが多すぎる。

「結局、施設長らが相談した結果、カウンセリングを受けさせようということになったようです。それで、古井先生のところへ行っていました」

「なるほど。僕ら院生には包丁の件は伝えられていなかったけれど、そんな経緯があったわけだね」

 二人の警察官が現れて、僕と大場スミを呼んだ。これから別々に事情を聞かれるようだ。

「またみんなで会えるといいですね。その、みんなっていうのは、君野さんとか、三船さんとか、森藤さんとか」

「あと、松井くんと池下さんだね」

「ええ。実は私、なんとか全員でメッセージのアドレスを交換できないかと思ってるんです」

「いいね、同窓会みたいだ」

 大場スミはうなずく。

「それに、今回も全員が洞窟をクリアしてしまいました。でもきっと、今後も『呼ばれる』若者が出てくるはずです。そんなときに、今回のメンバーが動けたら心強いと思うんです」

「確かにそれもそうだ。今回、引継ぎ用のノートも失われてしまったわけだしね。それならば、僕は新しいノートを用意しよう。おおよその情報はまだ覚えているから」

「それ、私も手伝います。約束ですよ」

 警察官に促され、大場スミは僕にぺこりとお辞儀をし、行ってしまった。

 僕も、もう一人の警察官と一緒に歩き始める。

 大場スミは僕の通っている大学を知っているし、僕も彼女のいる施設名を知っている。会おうと思えばいくらでも会えるだろう。

 三船、森藤、松井、池下の四人も、住所はほぼ特定できている。こういうとなんだか付け狙っているようで怖いが、彼らにも会おうと思えば方法はいくらでもある。

 君野梨歩についてはどうだろうか。彼女の居住地を僕らは知らない。昏睡から目覚めた少女、というニュースか何かになっていれば、彼女への道は開かれるだろう。それが難しければ、あとは彼女の方からコンタクトを取ってくれることを祈るほかない。

 朝日が昇っている。僕は目をしばたいて、街並みを眺める。

 僕らの朝がやって来たのだ。

 呼ばれた者たちの朝が。

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呼ばれた者たち 葉島航 @hajima

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