第9話

 大場スミから参加者全員の名前と居住地を入手してから三日間、僕は彼らの住所特定に奔走した。インターネット上で名前を検索し、記載のあった人間についてはそれを基に住所を絞り込む。その後は現地へ足を運び、一軒一軒表札を確認して回った。職務質問を受けた回数は実に三回だ。

 竹島一郎の家は、参加者のうちでは早期に発見することができた。彼はスポーツか何かで優秀な成績を収めていたらしく、その模様を全てSNSで発信していたのだ。自己顕示欲が高くて助かった。

 エレベーターから出たその足でA区へと向かう。あちらの世界とこの現実世界では時間の流れが異なるため、竹島がいつごろ覚醒するのか分からない。もし僕の到着よりそれが早かった場合、手遅れになっている可能性もある。

 早朝で、通りに人はほとんどいない。たまにジョガーや犬の散歩をする人とすれ違う程度だ。

 自分の装備が心もとない。バットは回収せずにここまで来てしまった。武器になりそうなものと言えば、ポケットの万能ナイフだけだ。

 赤い屋根の洒脱な家が見えてくる。豪勢な門に、周囲とは一線を画す広い敷地。ここが竹島一郎の家だ。

 僕が近づいていくと、けたたましい金属音をたてて門が開いた。敷地から転がり出るように、寝間着姿の男女が飛び出してくる。おそらく竹島の両親だ。父親と思しき小太りの男性は、赤く染まった肩を押さえている。傷つけられたのだ。ネクリジェ姿の母親は、「助けて助けて」とヒステリックにわめいている。この分だと、近所の人が異変に気付くのも早いだろう。

 門から、ゆっくりと歩み出てくる人間がいた。

 ――竹島一郎だ。

 無表情に、両親に近づいていく。片手にはナタが握られている。よりによって、そんなものを持ち出しやがって、と内心つぶやき、僕は彼を止めに入る。

彼の右手を押さえると、竹島がこちらを振り向いた。目がうつろだ。真っ黒に沈んだ、ミズカラの質感と同じ目をしている。

 邪魔するなとでも言いたげに、彼が全身に力を込めて僕から離れようとする。僕としては彼の両親が逃げるだけの時間を稼ぎたいだけで、後はなるべく距離を取ってけん制したい。

 しかし彼の両親の動きが遅い。腰が抜けたのか、立ち上がるのに数十秒を要するありさまだ。早くその辺の家に飛び込んでかくまってもらって、警察に通報してほしい。

 母親の方がまだ理性的なのか、「警察警察警察」と繰り返している。しかし父親の方が「そんなことしたら」と首を振る。第三者がナタを持った自分の息子を取り押さえようとしているのに、まだ世間体やら何やらを気にしているのだろうか。

 彼らに期待するのはあきらめた。竹島の腕を引っ張って、なるべく両親から引き離す。

 竹島もまた、満身の力を使って抵抗する。体格ではまだ僕の方が上だが、自身の体を顧みない――たとえ筋を違えようが骨が砕けようが気にしない――彼の力には敵いそうにない。そのうち抑えられなくなるだろう。

「ちょっと、どうしたの?」

 向かいの家の主婦が飛び出してくる。待ちに待った味方だ。

「刃物を持っています! 警察呼んでください!」

 大声を絞り出す。

「大変!」

 主婦が大慌てで家の中へと引っ込む。これで通報は問題ない。

近所の人たちが何事かと顔を出し始めた。股引姿のじいさんが、少し離れたところから「あんたけがしてるじゃないか! こっちこい!」と竹島父らに呼び掛けてくれている。冷静な人間が多くて助かった。

 相変わらず竹島父・母の動きはのろかったが、それでもだいぶ距離をとってくれた。これで闘いやすくなる。

 渾身の力を振り絞って、竹島の身体を自分から引き離した。ナタを持っていない方の手で目でもつぶされたらかなわない。

 二メートルほど離れた位置で竹島とにらみ合う。彼が走り去ろうとすれば、何とか捕らえられる距離だ。逆に、彼が迫ってきたとしても、こちらの防御が間に合うはずの距離だ。

 竹島が無表情のままナタをぶるんぶるんと振る。躊躇はなさそうだ。このままにらみ合ってくれるとありがたいが、そんなわけにもいかないだろう。退くのか、攻めてくるのか。

 竹島――というより竹島に入り込んだ『ミズカラ』は、後者を選んだらしい。ナタを構えなおしたと思うと、一気に駆け寄ってきた。身をかわし、空ぶった右腕を押さえる。洞窟でしたのと同じように、そのまま背中側へ腕をねじり上げようとした。

 しかしそこで、僕の右側頭部に衝撃が走った。視界に火花が散り、平衡感覚を失う。どろりとした何かが頭の右側を伝っていく。とっさに片手で、竹島の左腕を押さえる。そこには、金槌が握られていた――野郎、こんなものも持っていやがったのか。

 思うように力が入らず、竹島の両腕を押さえていられない。それを察したのか、竹島は僕の両手を振りほどき、凄まじい蹴りを繰り出した。それはみぞおちに命中し、息が詰まる。再び視界がチラつき、気が付くとアスファルトの上で仰向けになっていた。

 竹島がこちらを見下ろしている。逆光になってその姿は真っ黒だ。頭の大きさが違うだけで、『ミズカラ』そっくりだ。

 雨が降ってほしい、と朦朧とした頭で思う。しかし青空には雲一つなく、降水の気配はみじんもない。

 竹島がナタを振り上げる。きっと次の瞬間には、ここら一体に僕の脳味噌がまき散らされることになるのだろう。しかし、身体が動きそうにない。

 それは突然だった。

 バシャリ、と何かが僕にかけられた。冷たい――水だ。

 首をぐっと持ち上げると、群衆の前にバケツを持った大場スミがいる。彼女はそのまま振りかぶって、バケツを竹島に投げつけた。ごんっ、という間抜けな音を立てて、バケツは竹島の頭にぶつかり、跳ね返る。

 何はともあれ、助かった。

 側頭部からの出血が収まっていくのを感じる。頭のぐらつきも落ち着いてきた。呼吸ができる。

 上半身を起こし、竹島の腰をつかむ。親指の付け根から強く力を込めると、左側の股関節から、大腿骨の骨頭が外れた。ペンのキャップを外したような感覚だった。

 竹島はバランスを崩し、後方へ倒れ込んだ。痛みは感じなくとも、立ち上がることはできないだろう。

 入れ替わるように僕が立ち上がり、彼の右腕を蹴飛ばした。ナタがアスファルトを転がり、カラカラと音を立てた。竹島が左手の金槌を振ったが、それも同様に蹴りつける。竹島は金槌を離そうとしなかったが、三度ほど続けて蹴り続けると指の骨が折れたらしく、金槌も転がっていった。

 武器が竹島の手から離れたのを見て、近所の人たちも加勢に入ってくれた。竹島は屈強な男性陣に取り押さえられ、僕は後のことを彼らに任せた。

 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。警察の到着も時間の問題だろう。犠牲者を出さずに制圧できた、という達成感で胸が満たされる。

 野次馬たちに紛れるようにして、大場スミが微笑んでいる。

 僕は彼女に近付き、「ありがとう」と伝えた。

 彼女は嬉しそうに言った。

「やっぱり、桜庭さんは、私と同じなんですね」

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