第4話

 屈強な先輩が『ミズカラ』を押しのけ、「今だ、通れ通れ」と叫ぶ。

 僕をはじめ数人が、狭い洞窟を駆け抜ける。少し進んだところで振り向くと、屈強な先輩が僕らを追いかけてくるところだった。普段は高校でラガーマンをしているという。髪形をソフトモヒカンにして威圧的な雰囲気だったが、実のところ仲間思いで僕も信頼していた。

 先輩の脇から新たな『ミズカラ』が現れ、先輩の顎にアッパーを見舞った。

 先輩の顎がちぎれ、吹き飛ぶのが見えた。

 下顎を失った先輩は、舌をぶらぶらとさせながら「おごぅ」と言った。先輩の足取りが痙攣するようにふらつき始める。呆然としている僕らに、先輩はまた「おごぅ」と言って手を差し出した。人差し指が前方に向けられている。「行け」と言っているのだ、と思った。

「おごぅおごぅ」という声を聞きながら、僕らは走った。

 ――飛び起きた僕は、トイレに駆け込んで派手に嘔吐した。ひどい夢だ。動悸が収まらず、目の前がチカチカする。

 何より恐ろしいのは、それがただの夢ではなく、実際に起こったことであるということだ。

 ラガーマンの先輩はその後、現実世界で連続放火事件を引き起こし逮捕された。彼の下顎はちゃんとついていたが、原形をとどめないほど無残に砕かれていた。「十代の心の闇」と銘打たれたニュース番組の特集で、トンカチか何かを使い、自分で砕いたのだろうと報道されていた。

 ラガーマンの先輩だけではない。先輩や後輩たちがやつらに傷つけられるのを僕は何度も見てきた。やつらに捕まって終わりではないのだ。つい先日まで共に闘ってきた仲間が、おかしくなって凶行を起こすのを見るたび、僕は言葉にできない悲しみを感じた。

 トイレの壁にもたれ、荒く息をする。

 大場スミを助けなければならない。君野梨歩を見つけ出したい。

 大場スミには、また音を聞くことがあれば連絡してほしいと伝えてある。あの電話から三日、今のところはまだ電話もメッセージも来ていない。

 一方で、僕は恐怖に震えていた。今まで目にしてきたものを夜な夜な夢に見る。損壊した人体、『ミズカラ』のぬらりとした動き、連れ去られる人の絶叫、仲間の起こした凄惨な事件。

 あの場にもう一度行くのだ。そして、正しい情報を与えるのだ。

 分かってはいるが、身体が言うことを聞かない。

 僕の部屋のチャイムが鳴った。よろよろとトイレから這い出し、玄関へ向かう。この安アパートにインターホンのモニターなんて高尚なものはないため、ドアスコープから覗き込む。

「え?」

 ドアの向こうに、見知った顔を見て、まぬけな声が出た。

 鍵を開けると、ドアノブをつかまれ、ぐいと扉が開く。

「いつまで待たせるの。あと三十秒遅かったら蹴破ろうかと思った」

 近藤さんが金髪をかき上げて言う。

「こんにちは、桜庭さん。なんか痩せてません? 大丈夫?」

 近藤さんの後ろから、遠藤さんがひょっこりと顔を出す。

「最近、院の方にも顔出してないから、体調でも崩してんのかと思って。ほれ」

 近藤さんがコンビニの袋を差し出してくる。中には栄養ドリンクやら即席スープやらが詰め込まれていた。

「ああ、なんか、すんません」

「とりあえず上がらせてよ。シュークリームも買ってきたから、三人で食べましょ」

「あ、ああ、ちょっと待ってくださいね」

 大慌てで部屋を片付ける。脱ぎ散らかした服をクローゼットに押し込み、万年床の布団も押し入れに突っ込む。幸い洗い物は終わっているし、残飯やゴミは最近処理したばかりだったので、ミニテーブルを出すだけで事足りた。

「質素な部屋だねー。もっと、女の子に見せられないようなものとか置いてないの?」

 上がり込んできた近藤さんが、その辺をごそごそやっている。

「置いてませんよ。勝手に触らないでくださいね」

 遠藤さんがテーブルの上にシュークリームを並べ始めた。気が早いと言うかなんというか、あんたはシュークリームを早く食べたいだけなんじゃないのか、と突っ込みたくなる。

 とりあえずポットの湯で、三人分のコーヒーを作った。

「へえ、いい匂いのコーヒー。これなんていうやつ?」

「いや、市販の粉タイプのコーヒーですよ」

「ふうん、じゃあ淹れ方がうまいのかしら」

 三人でミニテーブルを囲みながらコーヒーをすする。少しずつ僕も冷静さを取り戻し、この状況は何なんだ、と脳内でツッコミを入れられるくらいにはなった。

「シュークリームも、ドリンクとかスープとかも、ありがとうございます。心配をかけてしまったみたいで、すみません」

 とりあえずお礼と謝罪をしてみる。院にはこの一週間顔を出していない。確かに同級生からしたら、心配になるものなのかもしれない。

「いや、うちらもこの前は迷惑かけちゃったしね。結局、お金もまだ返せてなかったし、それが今日の主目的かな。飲食代とホテル代、あとタクシー代だっけ」

 そう言えば、酔いつぶれた二人を介抱したのだった。大場スミとのやりとりで、すっかり頭から抜け落ちていた。

「正直それほどの金額でもなかったですし、お金はいいですよ」

 出費が痛くなかったと言えばうそになるが、ここで即座に金額を口走るようでは男が廃る。精一杯強がって見せた。

「何言ってるんですか。財布すっからかんですよ」

「あ、ちょっと」

 遠藤さんが僕の財布をプラプラと振っている。確かに、今中身はほとんどないはずだ。

「ま、気持ちはありがたいけど、けじめとしてちゃんと返しておくね」

 近藤さんが多すぎる札束を僕に押し付けるので、結局正確な値段を伝え、三人で割り勘することになった。

 勘定も済んだし、これで二人とも帰るのかと思いきや、そんな気配もない。近藤さんはカーペットにごろりと横になり始めるし、遠藤さんは僕の本棚から勝手に専門書を持ち出して読み始めている。

 別段、僕に都合があるわけでもなかったのでそのままにしておいた。もう少し若い大学生のころに戻ったような感覚だ。あの頃も、悪友たちとこうやって集っては、それぞれが好きなように過ごしていたものだ。

 携帯電話のバイブが鳴った。近藤さんと遠藤さんがちらりとこちらを見やる。

 発信元は大場スミだ。どういった内容の連絡なのか、僕にはすぐに分かった。なんとなく立ち上がってキッチンへ行き、通話ボタンを押す。

「桜庭さん、今お電話大丈夫ですか」

「うん、大丈夫」

「さっき、音が聞こえたんです。だからたぶん、今晩、『呼ばれ』ます」

「そうか」

 わずかな間、自問自答する。僕はどうするべきか。僕に何ができるか。

 結局、もう答えは分かっているのだ。

「今日は、僕もそちらに行くよ。『呼ばれ』たら、最初の部屋で待っていてほしいんだ。必ず行くから」

「来られるんですか? どうやって?」

「昔、その方法を見つけた人がいてね。それを使って僕も行くようにする」

 大場スミは弾んだ声でお礼を言ってきた。僕が行ったところで何の足しになるのかも分からないが、彼女にしてみれば、先の見えない悪夢を終わらせる活路を見出したようなものなのかもしれない。

 それでは、と言って、僕は電話を切った。極力何でもないふうを装って――実際のところ、動悸がすさまじかった――ミニテーブルの辺りに戻る。

「桜庭くん、大丈夫? 顔白いよ」

 近藤さんがぼりぼりと腰を掻きながら、直球を投げてくる。

「そうですか? 自分ではよく分かりませんが」

「ねえ、何かに巻き込まれてるんじゃないの?」

 女の勘というやつだろうか。すでに動悸でえらいことになっている僕の心臓が、さらにどきりとした。

 遠藤さんも専門書越しに、ちらちらとこちらを見ている。

 どうやら二人は、僕が厄介ごとに巻き込まれているのでは、という仮説を立ててきたらしい。困ったことに、二人の見立ては十分すぎるほど当たっている。外れぬ直感をもつ近藤さんと、頭の回転が速い遠藤さん。ごまかすことは難しそうだ。

「まあ、正直に言うと、かなり面倒なことにはなっています。でも、それで僕が被害を受けているとか、危害を加えられているというわけじゃありません。どちらかと言うと、第三者的な立場で力になろうとしている……というか」

「いや、それを巻き込まれてるって言うんだよ」

 近藤さんの切り返しにぐうの音も出ない。

「あんまり危ない橋を渡らないでくださいね。同期が困っているのを見るのは嫌です」

 遠藤さんもぼそりと言う。

「大丈夫です。安請け合いかもしれないですが、それでも今夜中にはなんとかできるはずです」

「たぶんうちらが口出すことではないんだろうけど、無理すんなよ」

 近藤さんが男前なことを言って、スマートフォンの画面を差し出した。そこには、居酒屋の予約画面が表示されている。すでに、次の週末に三名での予約が完了されていた。

「もう予約取っちゃったから。桜庭くんがいないと誰がうちらの介抱するのさ」

「介抱って」

 僕は苦笑いしつつ、その気遣いに感謝する。

「よし、遠藤、帰るか」

「あいあいさー。あ、桜庭さん、この本借りていきますね」

 遠藤さんが呼んでいた本をこちらの返事も待たずに鞄へ滑り込ませる。これも彼女なりの気遣いなのだろう――と思うが実際は分からない。

 二人はそのまま怒涛のように帰っていった。部屋には三人分のマグカップと、小皿と、そしてビニール袋いっぱいの栄養ドリンクやらスープやらが残された。

 一抹の寂しさを感じながら、僕は深く呼吸した。動悸はひとまず落ち着いている。


 時計が午前零時を指す。

 僕は古ぼけたアパートの中にいた。電灯は半分以上が切れていて、壁は落書きだらけ、排水溝にはお菓子の包み紙やら吸殻やらが転がっている。まだ入居者がいるのが信じられない。

 向こうの世界では、こちらとは違う時間が流れている。参加者の就寝時刻は全員バラバラなのにも関わらず、向こうでは全員が同時に覚醒する。

 しかし、『呼ばれ』ていないのにこちらから出向くときは別だ。これについては、多くの先輩たちが研究を重ねてきた。その成果として、こちらを午前零時十五分頃に出発すれば、向こうで全員が覚醒するタイミングと合致することが分かっている。

 僕らが『呼ばれ』るときは着の身着のままだ。何か道具を持って行くことはできない。たとえばノートなんかをポケットにねじ込んだり、あるいは抱きしめて眠ったり、服の中に忍ばせたりしたところで、向こうには持って行けない。

 だが、クリアした人間が向こうに出向く際には、有意の事物を持って行ける。僕らはそうして、後世のためにノートを残した――今は失われてしまったようだが。クリアした先輩たちは、よく金属バットを運び込んでくれた。現実世界で所持していても怪しまれず、かつ大量に入手できるものとして、金属バットは最適だったのだ。あれにどれだけ助けられたか分からない。

「そろそろ、かな」

 かすれた声でつぶやき、僕はエレベーターに乗り込む。ここが、向こう側への入口だ。

 エレベーターのボタンは、十二階まである。ここから、手順を間違えてはならない。

 まず、「閉」のボタンを押し、扉を閉める。この時点で、エレベーターは動かない。

 ポケットから、油性のマジックペンを取り出す。

 ボタンが「十二」から「一」まで、二段になって縦に並んでいる。そのうえに、僕はペンで「十三」と書き加え、四角く囲む。

 小学生のいたずらのようだが、これでエレベーターは向こう側へ通じるのだ。

 腕を伸ばし、「十三」のボタンを押す。ただの落書きであるはずのそれが、他のボタンと同じように点灯する。

 エレベーターがゆっくりと動き出す。十三階へ向かって。

 構造上、このエレベーターから外は見えない。ただ、異様な寒気を感じる。向こう側に行くときはいつもそうだ。

 ゴウン、という不気味な音を立ててエレベーターが止まり、扉が開く。風のようなものを感じる。

 目の前には、洞窟が広がっている。おそらく、大場スミらはここまで来たことがないに違いない。ホールのように開けていて、上方からは滝が流れ出し、深い地底へと続いている。僕の正面には岩が橋のように架かっていて、暗い洞窟の内部へと続いている。岩には苔が生えぬるぬると湿っているが、足を踏み外せば確実に助からないだろう。

 エレベーターから踏み出す。やはり動悸が激しいが、耐えられないほどではない。やるべきことは分かっている。

 ここがこの洞窟のゴールなのだ。このエレベーターに乗り現実世界へ戻った者は、もう二度と『呼ばれ』ることがない。

 僕がすべきことは、今から逆順をたどって最初の部屋へ向かうこと。そして、大場スミらに情報を与え、彼らがこのエレベーターまでたどり着くのを手助けすること。

 クリアした先輩たちが『呼ばれ』ている後輩たちを助けようとやってきて、『ミズカラ』たちの餌食になるケースも多かった。一度クリアしたという慢心が彼らの足元をすくったのだ。エレベーターと最初の部屋の往復。単純に考えれば、こちらのリスクは二倍なのだ。

 背負っていたゴルフバッグから、金属バットを一本取り出す。ここに持ってこられたのはこれを含め四本。それ以上になると機動力が下がって危険だと判断した。

 過呼吸や動悸で動けなくなることを最も心配していたが、今のところその気配はなさそうだ。直面してしまえば――それが命のかかった状況であるならばなおさら――どうにかなるものなのかもしれない。

 岩の橋を渡り終え、壁の窪みに身を隠す。昔発見した隠れ場所だ。

 頭だけを少し傾け、『ミズカラ』の位置を確認する。ここは毎回、二、三体がうろついている。

 しかし、今見る限り『ミズカラ』は一匹しかいなかった。ラッキーだ。

 久々に見る『ミズカラ』は、やはり禍々しく、生理的な嫌悪を抱かずにはいられなかった。僕は岩陰に隠れ、そいつをやり過ごす。運がいいと、しばらく待つうちに水の中に戻る場合がある。

 僕は隠密行動の世代だ。『呼ばれ』る人間にも、世代による特徴がある。『呼ばれ』る人間は、一定の期間で交代するわけではない。数か月以上新規の参加者がいないこともあれば、毎日2、3名ずつ増えることもある。ただし、僕の記憶によれば、全体の人数が十五名を超えたことはない。

 ともかくそんなわけだから、ここからここまでがこの世代、と明確に区切ることはできない。しかし、リーダーを張る人物の個性、あるいは集団の特徴として、やはり世代性というものは生まれてくる。

 僕らの一世代上、つまり君野先輩たちの代は、チームによる連携で重大局面を乗り切ることが多かった。メンバーにスポーツマンが多かったことも一因かもしれない。これは大人数での移動に有効で、歴代で最も多くの生き残りを生んだが、一方で前衛からは多くの犠牲を出した――ラガーマンの先輩などはそうだ。

 それを受け継いだ僕らの世代は、情報をひたすら収集した。『ミズカラ』の行動を観察し、計測する。そしてその結果から『ミズカラ』の行動傾向を導き出し、極力やつらと闘わずにやり過ごしながらゴールを目指した。そこでついた名前が「隠密行動の世代」だ。

 じゃぷん、と音がした。さきほどの『ミズカラ』が、水の中に帰ったらしい。

 十分に注意を払い、岩陰から身体を出す。

 じりじりと進む。やり過ごす。また進みだす。息をひそめる。

 そんなことを繰り返しながら、やっとの思いで最初の部屋にたどり着く。距離にすれば、スタートからゴールまで大したものではないのだ。高校生の男が全力で走り抜ければ、三分と掛からないのではないか。

 洞窟の中に、不自然に建てられた立方体が見える。のっぺりとした壁面に、不釣り合いなほど重厚な鉄の扉。中学生のころ、何度見た光景だろう。

 僕は扉を引いた。

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