第2話

「結局、あの子の言っていた『同じ』ってどういう意味なのよ」

 近藤さんがハイボールを片手に絡んでくる。ちなみに、この質問を近藤さんから受けるのはもう六度目だ。

 結局あの後、大場スミとの面談は特に何の進展もないまま終了した。大場スミを見送った古井教授は、前回と同じくフィードバックの中止を提案。その際、教授は僕に「君自身は、彼女の『同じ』が何を指していると思っているかね?」と尋ね、僕は「結局よく分かりませんでした。推測になりますが、僕が彼女と同じ不眠症にでも見えたのでしょう」とごまかした。今日の講義は三人ともこれで終了ということで少し早めの晩飯に繰り出し、質問攻めに遭っているというわけである。

「いや、だから僕も分からないんですって。たぶん、不眠症ですよ、不眠症。僕、隈ができやすいから」

「何言ってんのよ。そんなつやつやなお肌しやがって。そんな不眠症の患者見たことないわ」

 酔っぱらった近藤さんは、言動が外見(金髪)とよく似合っている。サバサバした女性が好きな人にはたまらないだろう。ただし、基本的に絡み酒なのには閉口する。

「私は彼女がシンパシーを感じたものには特に興味がないですね。それよりも、彼女が桜庭さんに対して突然歩み寄ったことに驚いています」

 遠藤さんがカルーアミルクをなめながら言う。普段なら近藤さんが僕に絡んでいると間に入ってくれるのだが、今日はどうやら期待できないようだ。もちろん遠藤さん自身は悪い人ではないのだが、なぜ同席を求められたのが自分ではないのか、クライアントの今までにない行動を引き出せたのが自分ではないのか、という嫉妬が渦巻いているのが見て取れる。今はきっと、その処理に力を尽くしているのだ。

「きっと男好きよ男好き。それか、古井先生の要領を得ない話に飽き飽きして、もっと話を分かってくれそうな人を見つけたかったのか」

 怪しい呂律で近藤さんが言う。

 僕は「男好きでも相手を選ぶでしょう」と話をそらしつつ、自分のグラスを見つめた。琥珀色の液に浸った氷が、涼しい音を立てて回る。

 実のところ、彼女が僕のことを「同じ」と表現した理由はある程度想像できている。キャンキャンと吠える近藤さんの声に被さって、あのチャイムの音がよみがえってくる。

 ――ポゥーーーーーン……。

 きっと、大場スミもあの音を聞いていたのだ。僕と同じように。

 不審がられないよう注意を払っていたとはいえ、とっさに身構えた僕を見て、疑う余地はなかっただろう。自分と同じ音が聞こえている、その意味で彼女は「先生は、もしかして私と同じですか」と尋ねたのだ。

 別に、音が聞こえることそのものはどうでもいいのだ。音を聞いた日の夜に起きることの方が問題だ。

 近藤さんが隣で派手ないびきをかき始めた。彼女の持っていたグラスはいつの間にか空になっている。運のよいことに明日は休日だ。彼女の家まで担いでいって、遠藤さんに介抱してもらう。今までにも何度かそんなことがあった。

 しかし、遠藤さんの方を見ると、彼女も不自然に頭を揺らしている。

「ちょっと遠藤さん、眠いんですか?」

「うーん、ちょっと、飲みすぎちゃったみたいれす」

 言うが早いか、彼女のおでこが机と出会った。ごちん、とかわいくない音がする。

 確かに、彼女は普段から「あまり飲めないので」と遠慮がちだったが、今日は珍しくピッチが速かった。

 ここは個室。だからこそ、事例について少し踏み込んだ話ができたわけだが、この事態は想定していなかった。部屋で目覚めているのは僕一人、あとは酔いつぶれて寝てしまった女性が二人。担ぐにしても無理がある。

「マジかよ……」

 つぶやいて頭をかく。腕時計を見ると、時刻は午後六時五十分。つぶれるには早くないか? さらに、予約の関係で七時には席を空けてほしいと入店時に言われている。あと十分で二人が復活するとは到底思えない。

 選択肢は二つ。

 一つ目は、店員を呼び無理を言って、しばらく二人を寝かせてもらう。どちらかが起きて、自力で歩けるまでに復活してくれたならどうにかなるだろう。しかし、こちらの案は望み薄だ。入店時に念を押されたことに逆らう勇気を僕は持ち合わせていない。

 二つ目は、タクシーでも呼んで、店員さんの力を借りつつ二人を移動させる。どこか介抱できるところへ――でもどこへ? 僕の家か、それとも近隣のホテルか、いずれにしてもいらぬ誤解が生まれそうだ。

 と、個室のドアをノックする音が聞こえた。

「は、はい」

 返事をしたが、どこか上ずった声になってしまった。初めての状況に焦っているのかもしれない。

「すみません、お席の方があと十分となりますが……」

 店員が固まった。机に突っ伏している女性が一名。寝転がっていびきをかいている女性が一名。その間に縮こまっている男性が一名。かける言葉に迷うのも無理はない。

 一方で、僕の方も口を開けたまま固まっていた。

 その店員が大場スミだったからだ。


 近藤さんのいびきが止まったので、吐瀉物を喉に詰まらせていないかと心配になり、ベッドに近づく。しかし、仰向けになった近藤さんの胸は静かに上下しており、僕はほっと息をついた。吐いたときのために横向きの姿勢を取らせていたのだが、すぐに寝がえりをうって仰向けに戻ってしまう。

 遠藤さんは、近藤さんの隣に寝かせておいたのだが――何せベッドはダブルベッドだ――先ほど目を覚ました。ここはどこ、などと疑問を口にする間もなくトイレに駆け込んで出てこない。たまにかわいそうな声が聞こえるから、倒れていることはないだろう。

 僕はため息をついて椅子に再び腰かけ、読みかけの本を開いた。

 大場スミがあの店でアルバイトをしていたのには驚いたが、それもそうだろう。高校を卒業した頃には彼女も施設を出て自立しなくてはならない。その時にある程度のたくわえが無ければ心もとないはずだ。

 結局、僕は彼女の助けを大いに借りることとなった。どうやら客が酔いつぶれたときのために、店長の知り合いの店とある種の提携を結んでいるようだ。なるべく汚さないように、との注意は受けたが、翌朝まで三人部屋を押さえてもらうことができた。

 タクシーまで僕が近藤さんを支え、半ば引きずるようにして乗車させた。遠藤さんは朦朧としながらも立って歩こうとする意思を見せたため、大場スミが肩を貸す形でタクシーまで連れてきてくれた。念のためビニール袋を用意していたが、タクシーの中でどちらも吐かなかったのは幸運と言える。

 ホテルに着いてからは、女性ドライバーだったことも幸いして、今度はタクシー運転手が彼女たちの誘導を手伝ってくれた。二人をダブルベッドに寝かせ、僕もやっと一息つけたのが午後八時前。我ながらよく頑張ったと思う。

 女性陣がダブルベッドを使う都合上、僕はソファベッドを使うしかない。背もたれを倒し、シーツを敷く。まだ夜十時だからすぐに眠るわけではないが――もうしばらくは、近藤さんと遠藤さんの生存確認もしなければならないだろう――、支度だけは整えておく。

 鏡台の上で、携帯が鳴った。僕のものだ。

 画面の通知を見ると、見知らぬ番号から電話が掛かってきている。

 僕には、それが誰からのものかすぐに分かった。

「はい」

 電話に出てみると、おずおずとした若い声が聞こえた。

「すみません、大場です」

「どうも、先ほどはありがとうございました。部屋に入ってひと段落です」

 居酒屋でとんだ迷惑をかけて世話になり、そのままあの場を去ることが僕にはどうしてもできなかった。

 タクシーに女性二人を担ぎ込んだ後、僕は大場スミに対して「今日のことだけど」と切り出した。そして、「僕で力になれるかは分からないけれど、何かあればここへ」と言い添えて、自分の番号をメモし、彼女に渡しておいたのだ。

「今は、おうち――というか、園の方からかけているんですか?」

 そう尋ねると、予想外の質問に彼女は面食らったようだった。

「はい。まだ自分の携帯を持っていないので、施設の固定電話から掛けています」

「それなら、電話代がかかってしまいますね。こちらから掛けなおすので、番号を教えてもらえますか?」

 大場スミから番号を聞き、改めて掛けなおす。近年の児童福祉施設の資金繰りについて、苦しい現状をよく耳にしていた。長電話になって、途方もない電話代で困らせるわけにはいかない。

 掛けなおすと、ワンコールで大場スミが出る。

「ごめんね、お待たせしました」

「すみません、ありがとうございます。普段あまり電話を使わないので、無頓着でした」

 面談時のきっぱりとした態度とは打って変わり、今の大場スミはどこか頼りなげで、僕は少なからず戸惑った。

 昼間に立てた仮説――彼女が僕と同じ音を聞いている――が正しいならば、彼女は今頃不安にさいなまれているはずだ。

 どのように切り出したらいいか、向こうも分からないのだろうと考え、僕は自ら本題を切り出すことにした。

「今日、僕のことを、自分と同じと言っていましたよね」

 僕が話を持ち出したことで、電話口から少し安心したような雰囲気が感じられる。やはり、大場スミもそのことをどう切り出そうかと迷っていたのだ。

「はい、そのことについて、ちょっとお聞きしたいと思って」

「単刀直入に言うと、僕はあの場で音を聞いたよ。君はどう?」

 隠し立てしても始まらない。まずは、お互いに共通認識を得るところから始めなければならない。

「私も聞きました。その時、先生が少し居心地悪そうにしたというか、何かに警戒し始めたように見えて――自分と同じ音が聞こえたんじゃないかと思って、ついあんなふうに聞いてしまいました。それで、音が聞こえたということは、やっぱり先生は――」

 彼女の洞察力は大したものだ。気付かれないように身構えたのにもかかわらず、それを察知していたのだと言う。

 大場スミがもどかしそうにするのも分かる。音がやはり僕にも聞こえていた、ということはやはり「自分と同じ」なのか、どうか。

「うん。あの音が鳴ったということは、きっと今晩、君は『呼ばれる』んだろう。僕も、昔『呼ばれ』ていた人間だよ」


 予兆は、あのポゥーンという音だ。それを聞いた者は、その日の夜になると『呼ばれる』。

 僕が初めて『呼ばれ』たのは、中学一年の冬だ。授業中に例の音を聞き、そのときは耳の具合でも悪いのかと思っていた。夜になり目を閉じると、いつの間にか見知らぬ場所へ『呼ばれ』ていた。

 と言っても、今の僕はもう『呼ばれる』ことはない。たまに音を聞くことはあるが、それはラジオが不要な周波数の音を何かの拍子に受信してしまうようなものだ。今回はおそらく、大場スミが近くにいたことで、僕も音を受け取ってしまったのだろう。

 『呼ばれる』対象となるのに規則性はない。実際、僕のときも、『呼ばれ』たのは僕一人ではなかった。中学生から高校生までの男女が、その場所へ集められていた。

 ――やあ、君は初めてかな。

 優しい声がよみがえる。初めて『呼ばれ』たときの記憶だ。

 ――怖がらなくてもいいよ、今からちゃんと説明するから。ここにいるみんな、君の先輩だ。

 『呼ばれ』た者たちは、新しい人間が『呼ばれ』てやって来ると、このように情報を受け継いでいく。そして、順番にいなくなっていく。いなくなるとは、ある条件をクリアし、晴れて『呼ばれ』なくなったということ――あるいは、やつらに捕まったということだ。

「私、怖いんです。いつ自分が捕まってしまうかって」

「そうだよね。僕も同じだった。音が聞こえたら、できるだけ寝ないようにしようって」

 音が聞こえたとしても、その日眠らなければ『呼ばれる』ことはない。僕が人から聞いたり自分で試したりしたところでは、朝日が出てから眠れば『呼ばれ』ない、というルールがあるようだった。

 しかし、音は一定の頻度で――およそ週に一、二度のペースだったと思う――鳴るし、そのたびに徹夜を完遂できるわけではない。結局、いつかは『呼ばれる』ときが来るのだ。眠らないという対策はその場しのぎでしかない。

「今日、私は眠ってしまおうと思うんです。もう音を聞くたびに起き続けるのも限界で……。すみません、桜庭さん。力を貸してもらえませんか」

「力を貸すと言っても……。僕なんかより、他の人の方が頼りになるだろう。たとえば、先輩とか」

「先輩、ですか?」

 ぎしり、と僕の胸のどこかが音を鳴らす。嫌な予感がしていた。

「先輩だよ。僕のときは、すでに何度も『呼ばれ』ている先輩がいて、その人たちにその場所のルールを教わりながら生き延びたものだよ」

 大場スミが息をのむのが分かった。僕は、嫌な予感が的中したことを確信した。

「私が初めて『呼ばれ』たとき、その場にいた全員が初参加だったんです」

 めまいがする。確かに、ありえない話ではない。順番にいなくなる、ということは、全員が条件をクリアする――あるいは、全員がやつらに捕まることもあるのではないか。運悪く、大場スミたちはそのタイミングで『呼ばれ』、先導者無き悪夢を過ごしているのだ。

 僕にはもう一つ、気になっていることがあった。それをぶつけてみる。

「最初の部屋があるだろう? 『呼ばれ』た全員が集まる、大きなテーブルのある部屋だよ。そこに、僕らはノートを残したはずだ。口伝いに受け継がれていく中で、収集したデータに抜けが生じるのを防ぐために。表紙がカーキ色、背表紙が黒のノートだ」

 大場スミはしばらく考えている様子だったが、「少なくとも私は見たこともなければ、誰かからノートについて聞いたこともありません」と返ってきた。

 だとすると、彼女たちは完全に情報のないまま過ごしてきたことになる。どう考えても危険だ。よくぞ今まで生き残ってきたものだと思う。

 力になりたい。このままでは、確実に彼女たちは全滅だ。

 僕は、『呼ばれ』ていなくてもその場所へ行く方法を知っている。僕より何代も前の先輩が、命と引き換えに見出した方法だ。

 立ち上がらねば、と思う。この椅子から立ち上がって、一刻も早くあの場所に向かうべきだ。そこで『呼ばれ』てくる大場スミらを待ち受け、必要な情報を全て与えなければならない。

 腰を上げたところで、足がかくんと折れ曲がり、僕は床に転がってしまった。衝撃は大したことなかったのだが、胸が苦しい。息がうまく吸えず、喉に何かが詰まっているかのようだ。

「もしもし? 桜庭さん?」

 大場スミの不安そうな声が聞こえるが、返事もできないまま、首を押さえてもがく。全身に震えが走った。

 こうなっている理由は、自分でもよく分かっている。

 ――怖い。

 恐怖以外の何ものでもない。僕は『呼ばれ』なくなるために、多くの代償を支払ってきた。クリアに失敗して、命を落とした人を何人も見てきた。おぞましい、やつらの姿を何度も見てきた。

 痙攣しているようにのたうつ四肢を何とかなだめ、息を鼻から大きく吸い、口から細く吐く。この分では、今日あの場へ行くのは無理だ。それならそれで、やれることを探すしかない。しかし、たとえば今大場スミにルールのすべてを伝授したところで、その膨大な情報が過不足なく届けられるとは思えない。

「悪いね。ちょっとアクシデントがあって」

「大丈夫ですか? 声が震えていますよ」

 一回り年下の女の子に心配されているのは何とも情けないが、それよりも今は伝えなければならないことがある。

「すまないが、今日のところは僕が直接的に力になるのは難しそうなんだ。だから、君に情報収集を頼みたい。簡単なことだよ、『呼ばれ』ている人たちと自己紹介でもしあって、全員のプロフィールを集めてほしいんだ」

「全員のプロフィール、ですか」

 どんな仲間がいるのかを把握することは重要だ。この先、自分一人ではどうにもならないことがいくらでも出てくる。

「もちろん、不信感を与えてはいけないから可能な範囲でいい。でも、名前や、それぞれの居住地はできるだけ具体的に聞き出してほしいんだ」

「名前、居住地ですね」

「うん。落ち着いたら、それを電話で教えてほしい。それまでには、僕も君たちを助けられるように準備を整えておくから」

 するべきことを考えて大場スミに伝えているうちに、僕の震えも落ち着いてきた。問題なく呼吸もできている。

「今日のところは、全員が集まっても部屋から出ない方がいい。自己紹介を済ませたら、そのまま朝を待つべきだ」

「分かりました。あの、部屋から出なくでも大丈夫なんですか?」

 彼女の心配はもっともだ。

「大丈夫。刺激しない限りは、外のやつらだって部屋まではやってこない。もちろん、『呼ばれ』た人の中に、言うことを聞かないやつだっているだろうけど――それはもうどうしようもないことだ」

 すべきことが分かり、大場スミはわずかではあるが安心したようだった。この後、もう少しだけ言葉を交わしてから、僕たちは通話を切った。

 椅子の背もたれに背中を預け、深い息をつく。彼女を助けたい気持ちはある。しかし、先ほどの状態を鑑みると、それが可能だとは到底思えない。

 結局のところ、赤の他人のために自分の命をかけることなど、僕にできるはずがないのだ。僕の考えはそのまま、いかにして大場スミの相談を次回からやり過ごすかにシフトし始める。

 近藤さんが寝返りを打ちながら不明瞭な言葉をつぶやき、トイレの中で遠藤さんがまたかわいそうな声を上げた。

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