呼ばれた者たち

葉島航

第1話

 少しもやのかかったようなガラスの向こうで、少女が一人座っている。

 彼女に対面しているのは、白髪の男性――古井教授だ。

 ここはカウンセリングルームの隣室で、マジックミラーを通してルームの様子を見学することができる。

 僕ら院生は古井教授のカウンセリングをその目で見て、ひたすらにペンを走らせる。臨床心理士の免許取得に必要な演習の真最中というわけだ。教授にとっては、カウンセリングを終えるとすでに記録が出来上がっているという寸法だ。

「どうだい、最近はよく眠れるかい?」

 教授が猫なで声を出す。その声はくぐもっていて聞き取りづらいが、書き漏らしがあると古井教授は烈火のごとく怒る。

 僕の右隣で、同じようにクリップボードを構えている遠藤さんが、ちらりとこちらを見る。「今の聞こえた?」の合図だ。僕は軽くうなずいて見せる。

 遠藤さんは学部生から大学院にストレートで上がってきた。二十三歳という若さゆえ経験では劣る面もあるが、知識量が半端ではない。眼鏡をかけた大人しそうな外見にそぐわず、歯に衣着せぬ物言いでも有名だ。

「初回の面談では怖い―――を――るとか言っていたけれど、それはどうかな」

 教授が椅子を引いたせいで、発言が聞き取れなかった。慌てて遠藤さんにアイコンタクトをとるが、彼女も首を振る。

 左隣の近藤さんに視線を送る。彼女は首を縦に振り、クリップボードを見せてよこした。そこには「怖い夢を見るとか言っていたけれど」と記載されている。

 近藤さんは二十九歳で、髪の毛はまさかの金髪だ。ずっと精神科のある病院で看護師をしていたが、一念発起してこちらの大学院を受験したと言っていた。久々に学生になるんだもの、楽しまなきゃね――これは本人の弁だ。

 僕ら三人は、こうして補完し合いながら記録を取り続けるのだ。カウンセリングは始まったばかり、終わる時間までたっぷり二十五分はある。この先の長い道のりを思い、僕は静かにため息をついた。

「最近は、特に大丈夫です」

 少女が口を開く。カウンセリングにやって来る少年少女は得てして声が小さいことが多く、その度に僕らは壁に耳を押し当てながら記録をとる羽目になる。しかし、今日のクライアントは物腰こそ穏やかだが声量は申し分なかった。

 少女は学校の制服と思しきブレザーを着て、背筋を伸ばして椅子に腰かけている。黒髪が椅子の背もたれにまで届きそうだ。利発そうな眼差しで、まっすぐ教授の方を向いている。

 ――名前は、大場スミといったっけ。

 カウンセリング前にちらりとだけ見せられたアセスメントシートを思い出す。

 大場スミ。十七歳、高校一年生。小学校低学年のときに両親を事故で亡くし、それ以降児童養護施設で暮らしている。目立った問題行動もなく他の子どもたちの面倒見もよい。高校でも品行方正は変わらず、友達も複数いる。しかし高校に上がってからというもの眠りが浅いようで、夜遅くまで部屋の電気が消えていないことが夜勤の職員から報告されていた。それは最近悪化の一途をたどり、眠れないまま食堂で一人本を読んで朝を迎えることもあるという。はじめ本人はカウンセリングを拒否していたが、幼いころから付き合いのある施設長が「心配している」と繰り返し伝えたところ、次第に態度が軟化した。そして、古井教授のところへ相談があったというわけだ。今日が二回目のセッションとなる。

「その、怖い夢、というのに個人的に少々興味があってね。もしよければ、今までどんな夢を見てきたのか教えてほしいんだけれど」

 古井教授は、院生の立場で言うのもなんだが、学生からも学会からも、芳しい評価を得ていない。変わり者だとか偏っているとか、そういう腫れ物扱いではない。どちらかとぃうと、運よく教授という職業につけているが、心理士としては実力が残念な人、という認識だ。

 だからカウンセリングも決してうまいわけではない。

 その証拠に、怖い夢について聞かれた大場スミは「覚えていません」とにべもない。

「まあ、言いたくなければ言わなくていいし、覚えていないなら覚えていなくてもいいんだよ」

 古井教授の物言いは、その辺の一般人でもできそうなものばかりだ。

 免許取得に必要とはいえ、このカウンセリングを記録する時間がもったいないような気分になる。どうせなら、もっとうまいカウンセリングを拝見したかった――しかし、うまいカウンセリングをするような教授あるいはカウンセラーは人権意識も厚く、こんなふうに見学などさせてもらえないのも事実だ。

 その後も古井教授は、最近困っていることは、とか、言いたいことはないか、とか、当たり障りのない――でもデリカシーに少し欠けた――質問を繰り返した。そして、それをスミがことごとくかわしていった。

 スミがカウンセリングルームを後にしてから、僕ら三人は古井教授と合流し、研究室へと向かう。この後、今日のカウンセリングについて一人ずつ感想を述べ、教授のありがたい話を聞かなければならない。

 しかし、この日の教授はどこか様子が違った。

「すまないが、この後のフィードバックは失礼してもいいかね?」

 僕ら三人としては何ら問題ないわけだが、突然の話に面食らう。教授は白髪をかき上げながら、何かに思いを巡らせているようだった。

「記録はパソコンに入力して、いつものパスワードをかけてデータを送ってくれると助かる。追加のレポート等もなし。ちょっとこの後、やることがあってね」

 遠藤さんと近藤さんは、これまで見たこともないような笑みを浮かべて研究室を後にした。僕も続こうとすると、教授が「桜庭くん」と呼び止める。

「はい」

「一つ、頼みがあるんだが」

 これは初めてのことだ。僕は古井教授のゼミ生ではない。ただ授業を一コマとっているだけだ。記録を書いて提出し、教授の自慢話に耳を傾ける以上の話をしたことがない。

「何でしょう?」

 面倒だという感情を悟られないよう、努めて落ち着いた声を出す。

 古井教授は少し迷っているようだったが、やがて覚悟を固めたように僕の目を見つめた。

「次回、あの大場スミくんのセッションに君も同席してくれないか?」


 翌週、僕はカウンセリングルームの前で大場スミの到着を待っていた。

 遠藤さんと近藤さんはすでにマジックミラーのある部屋に入っている。古井教授から同席を求められた旨を説明すると、二人とも怪訝な顔をしていた。そりゃそうだろう。

 廊下の奥から、古井教授の声が聞こえてくる。

「ほら、あそこに立っているのがさっき話したうちの学生だよ。悪いけど、同席を許してね」

「ええ、私は構いません」

 大場スミのきっぱりとした声が応えていた。

 事前に、施設と本人には学生が同席することを説明し、承諾を得ている。古井教授も、挨拶がてら改めて確認したというところだろう。

 体を二人の方に向け、軽く頭を下げる。大場スミは今日も制服姿で、こちらの姿を認めると軽い会釈を返してきた。やはり利発そうな子だ。

 横の古井先生はいつもどおりヨレたスーツを着て、いつもどおり頼りない。

 僕はと言えば、スーツだと威圧感を与えてしまうのでは、などと朝から考え込んでしまい、結局白シャツにベージュの綿パンという恰好に落ち着いている。表情が固くないといいのだが、そのように考える時点ですでにぎこちない顔になっているのだろう。

「それでは、こちらへ」

 古井教授がカウンセリングルームに入る。後に続く大場スミも慣れたもので、迷うそぶりもなくクライアント用の椅子に腰かけた。

 この相談室では、クライアントとカウンセラーは対面せず、机をはさんで九十度の位置に座る。古井教授が大場スミから見て左側の辺に座り、僕はさらにその隣に腰かけた。

「早速だけれど、前回の相談から今回までの間に何か変わったことはあったかな?」

「いえ、特には。夜は相変わらずですが」

 今日の記録は遠藤さんと近藤さんの二人に頼るしかない。クライアントの目の前でペンを走らせるのは、取り調べのような印象を与えてしまうので避けたいのだ。

 古井教授の様子から、僕自身はあくまで同席するだけで、特に話を振られることはなさそうだと分かってきた。大場スミという少女をそれとなく観察する。

 古井教授が話している間、基本的に目をそらさない。教授に質問されると、瞬きをして軽くうなずいてから答える。何かを思い出そうするときや、込み入ったことを説明しようとするときには眉間にしわ寄り、眼球がわずかに上を向く。癖なのか、時折胸を反らして肩甲骨を寄せる。セッションが始まってからすでに三回。

 彼女の動作に集中するあまり傾聴がおろそかになっていると気付き、二人に気付かれぬよう姿勢を整える。僕の悪い癖だ。人や物の動きをついつい数えたくなってしまう。

 古井教授は大場スミの学校生活について話をもっていったようだ。とはいえ、これまでにも話してきた内容だから目新しさは何もない。一週間で何か大きな展開があったわけでもなく、大場スミも少し話しづらそうだ。

 古井教授はなぜ僕をこの場に呼んだのだろう。ふとそんなことを考える。

 結局、理由はおろか僕に期待されている役回りさえ、事前に教えてもらうことができなかった。マジックミラーの向こう側ではなくこちら側に呼び寄せたということは、大場スミとのやり取りを期待されているのであろうが――しかし、カウンセリングというただでさえデリケートな場面で、二人の間にぐいぐいと入っていけるほど僕は強くなかった。

 ――ポゥーーーーーン……。

 突然耳の奥で何かが響いた。どこか遠くで鳴るチャイムのような、あるいは携帯電話のアラームのような、脳の中心へダイレクトに届く音。

 もちろん、実際にチャイムが鳴ったわけでも、マジックミラーの向こうで遠藤さんか近藤さんが携帯電話のアラームを鳴らしてしまったわけでもない。これは僕の頭の中で鳴っている音だ。

 ――ポゥーーーーーン……。

 もう一度、同じ音が鳴る。

 僕には聞き覚えがある。忘れたくても忘れられない。じっとりと汗がにじんでくる。

 不自然な動作にならないよう注意しながら、軽く身構える。

 不意に大場スミと目が合った。何かを確かめるように、こちらを見ている。

 僕は動揺を努めて隠しながら微笑んで見せた――ちゃんと笑えていたかどうかは分からないけれど。

 音はそれ以上続かなかった。少しだけ胸をなでおろす。隣では、古井教授が何も気づかない様子で「それで、君の不眠についてだが――」と話を本題に戻そうとしている。

 古井教授の話を遮るようにして、大場スミが「先生は」と言った。彼女の視線からして、この「先生」は古井教授のことではなく、どうやら僕のことらしい。学生ということは彼女も知っているはずだが、カウンセリングに同席している以上「先生」と呼称すべきだと判断したのかもしれなかった。

 大場スミは、教授の話を遮ってまで話を切り出したことに、自分でも戸惑っているようだった。ほんのわずかな時間、彼女の目が泳ぐ。左下に2回、右下に1回。

 それから、彼女は口を開いた。

「先生は、もしかして私と同じですか?」

 僕は何と答えていいものか分からない。大場スミは、じっとこちらを見ている。古井教授は困ったような顔で、僕と彼女を交互に見ることしかできない。

 結局、僕は肯定も否定もしなかった。「同じ、というのが何を指しているか分からないけれど」と前置きをし、それから「そうかもしれないね」と言った。

 大場スミがその答えに納得したのかどうかは分からない。それよりも、僕は別の事柄に考えを巡らせていた。

 先ほどの、チャイムのような音。そして大場スミの「私と同じですか」。

 アレが再び始まっているのだ。多くの人間を傷つけ、僕を今でも苦しめているアレが。


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